不気味なまでに、心は凪いでいた。
とうに花弁を散らせ、青々と茂る葉桜の凛としたさざめき。
間断なく行き交う自動車、そのマフラーから吐き出されるけたたましい排気音。
青緑色のダイオードを灯す、歩行者用信号のチープなメロディ。
その全てが、漂う静寂をより際立たせていた。
私立図書館3階、読書テラス。
五月晴れの柔らかな陽光の下、並ぶ影が二つ。
柵に両肘を着いて指を軽く噛ませ、自嘲めいた苦笑で眼下を見下ろす一刀。
柵に背を凭れるように体重を預け、冷淡とすら思わせるような無表情で空を仰ぐ及川。
「ホンマなんか」
「あぁ」
包み隠さず、全てを明かした。
迫られた選択肢。
迫る刻限。
記憶を犠牲に扉を開くか。
記憶を残して扉を閉ざすか。
選べるのは一つだけ。
「後、どんだけや」
「もって、明後日の午前零時、だそうだ」
「そか……」
以降、交わす言葉は一切ない。
その必要がない。
長い沈黙。
しかし、不満や不自然さはない。
停雲落月、とでも言うのだろうか。
「……及川」
「あん?」
「館内は禁煙だぞ?」
「ええやんけ。殆ど外なんやし」
まぁ、無駄だとは解っていたが。
シルバーのファイヤーパターンが目立つ、ガンメタルのジッポライター。
風を遮る左手の中で紅が揺らめき、立ち昇る冥い紫が風に溶けてゆく。
話を聞き逃さない、しかし匂いも不快に感じない程度に保たれた距離。
最初から密かに風下を陣取っていた辺りも、彼らしいと思う。
恐らく俺のテンションから、話の内容があまり芳しくないのだと予想していたのだろう。
吸い始めた学生時代から、コイツが煙草を吹かすのは決まって虫の居所が悪い時だった。
そして多分、今のコイツが不機嫌な理由は―――――
ブゥン ブゥン
「ん?」
ふいに懐から感じる定期的な振動。
取り出せば、真新しい白のプラスチックと明滅するライトグリーンのランプ。
「お客さんやろ。行って来ぃや。……今日はワイも、これ吸ったら戻るさかい」
「……あぁ、解った」
踵を返す瞬間、僅かに傍らを見やる。
視線はレンズに反射する陽光でよく窺えず、
有害物質塗れの毒々しい煙を吐き出しながら、携帯を耳に当てていた。
「じゃあな」
「ん」
軽く手を挙げて答える及川を背に、俺はテラスを後にした。
「……すまん。頼むわ、あっきー」
会話を打ち切り、携帯を折り畳んでポケットに突っ込む。
紫煙を吐き出しながら仰いだ先、晴天の空に反して心中にはどす黒い靄が立ち込めていた。
「……なんでやねん」
奥歯が軋む。
短くなる煙草に反比例するように、肺腑と鳩尾周辺に屯する靄はどんどん色濃く蓄積されていく。
「なんっでやねんっ!!」
咆えると同時、爪が食い込む程に握り、柵を殴った。
コンクリートの鈍い音。
痛みで麻痺する拳で、何度も、何度も。
それでも、不快感は増す一方だった。
「ふっざっけんやないでっ!なんでかずピーばっか、こんな目に会わなアカンねん!」
自覚出来る程に、声は震えていた。
無論、憤怒で。
破壊衝動に駆られるが、器物破損なので辛うじて堪える。
苛立ちは加速の一途を辿っていた。
が、
「……ちゃうな。そんだけやない」
超過の熱が急速に冷め、俯き力無く肩を落とす。
剥き出しだった犬歯は真一文字の唇に遮られ、般若の如き形相はやがて沈痛のそれへと変わる。
焼けた石に水をかぶせたように、ぶすぶすと。
「はぁ……」
煙混じりの盛大な溜息。
同時、掌で視界を遮って、
それは何処か躊躇のような、諦観のような、何かを孕んでいるようで、
「ワイも、決めなアカンな……」
呟くと同時、携帯灰皿に吸殻を押し込んで、
及川は、テラスを去っていった。
同刻、某社内営業課にて。
ふむ……課長。
―――――ん?なんだ、早坂。
今、及川から連絡がありまして、体調不良なので早退させて欲しいそうです。
―――――及川がか?珍しい事もあるもんだな、無遅刻無欠勤のアイツが。
はい。今日アイツが行く予定だった営業先には俺が行きますから。
―――――そうか……なら、まぁいいだろう。
それじゃ、行ってきますんで。
―――――あぁ。
……一つ貸しだぞ、及川。
「それでは、一週間後までにもう一度お越しください。延長も出来ますので」
「はい」
貸出手続きを終えた本を差し出しながら、笑顔の仮面でテンプレ通りの決まり文句だけを告げ、
「はぁ……」
本を受け取った客が返っていったのを見計らい、椅子に深く腰を落としながら、今日何度目かも忘れた溜息を吐く。
脳裏に、鼓膜に、焼き付いて離れない、あまりに苦渋の二者択一。
「どうして……」
全てを忘れ、全てを失くして、一体俺に何が残るのだろう。
不明確で明確な恐怖。
不明瞭で明瞭な畏怖。
身が竦み、怖気が奔り、脳内から全ての負の感情を排斥したくなる。
淀みなく流れる時間。
巻き戻しなど出来はしない。
セーブ、リセット、そんな都合のいいシステムもない。
その中でありもしない第三の選択肢を模索し、渇望し、逃避する。
浪費した分だけ、自責と苛立ちが募っていく。
忘れたくない。
誰一人として。
何一つとして。
あの世界へ戻る為ならば、何も厭わない。
また会えると信じて、我武者羅に。
そう思っていたのに。
「また、会えたとしても……」
やっと見つかった術、その対価。
あの世界へと戻る条件。
記憶を、思い出を、全て消し去る事。
俺が『俺』でなくなる事。
次に彼女達に相見える時の俺は『俺』ではないという事。
しかしそれを断れば、俺は二度とあの世界へ戻る事は出来ない。
それはつまり、
どちらを選んだとしても、『俺』はもう二度と彼女達には会えないという事ではないだろうか。
「…………」
強く握る拳。
堅く結ぶ唇。
自然と俯いてしまう視線と共に、一層の落胆が胸中を埋め尽くす。
落ちる影と、落とす影。
それは視界に映る物理的なそれだけではなく。
「俺は、どうすれば……」
どちらが正解なのか。
そもそも正解などあるのだろうか。
貂蝉は言っていた。
『願わくば、後悔のないように』と。
「後悔のない選択肢なんて、あるのかよ……」
苦虫を噛み潰すように食いしばった歯の間からぎり、と嫌な音がこぼれ落ちた。
7年間、その為だけに生きて来た。
記憶があったからこそ、
思い出があったからこそ、
こんな世界でも生きて来れたのだ。
俺の大切な人達を否定した。
俺の愛した人達を消し去ろうとした。
こんな世界に、今更思い残す事など――――――
―――――かずピー、嘘吐いとるように見えんからな。
―――――いいじゃろう、儂の全てを叩き込んでくれるわい!!
「…………」
そう、あるのだ。
出来てしまったのだ。
こちらにも、忘れたくない思い出が。
こんな自分なんかを、本気で信じてくれる人が。
こんな自分なんかに、強さを教えてくれた人が。
それは、苦しいほどにあり得ない事で、
悔しいほどに有難い事で、
辛いほどに嬉しい事だった。
「俺は、どうすれば……」
呟いた、次の瞬間だった。
ブゥン ブゥン
再び感じる、定期的な振動。
今度は懐ではなく、ポケットから。
直ぐにおさまったそれは着信ではなく受信の証。
開け、開いたその文面は、この7年間で嫌という程見て来た男のもので、
『今夜、空けとき。久々に飲もうや』
無機質な黒文字が、ただそうとだけ記していた。
(続)
後書きです、ハイ。
ホントお久しぶりですね……TINAMI学園祭の作品を除けば、実に1ヶ月振りの投稿です。
最近は後期日程の中間試験だったり、本格化しだした就職活動だったり、締め切りの迫ったサークルの原稿だったり、ポケモン対人戦用の鋼パーティ育成だったり(おっと)、まぁ長々と言い訳しましたが、要はあんまし書けてないんです。御免なさい。
ただでさえ家に帰っても日課の筋トレ以外は疲労で何もする気が起きなくて……いや、ホントすいません。折角お待ちいただいてるのに。
なるだけ時間を見つけて更新します。絶対に打ち切りにはしないので、どうか生温かい目で末永く見守ってやって下さい。
で、
『蒼穹』もいよいよ一つ目の佳境です。
名前だけ出てきた彼は、知ってる人もいるのではないでしょうか?
そして、刻一刻と迫る決断の時。
記憶と思い出、彼はどちらを選ぶのか。
及川の思惑とは。
まぁ察しの良い方はなんとなく展開が読めてしまうかもしれませんが、彼等の結末をどうぞ見届けてやって下さい。
……あ、そうそう。一個だけ皆さんに質問を。
1、間も無く折り返し地点を迎える『蒼穹』
2、現在、MIDNIGHT in 汜水関な『盲目』
どっちの続きが読みたいですか?
基本的には俺のプロットの纏まり加減で選びますが、参考にはさせていただきたいので。
是非にご協力お願いします。
閑話休題。
すっかり鍋の美味い季節になりましたね。
先日、資格試験の為に帰郷していた友人の打ち上げで久々に4人で鍋を囲みました。(TINAMIに俺が将軍でした)
いやぁ、人の家の台所で料理というのも中々に新鮮ですな。
大人数で食うとより美味い。
……しかし、俺の部屋より遥かに広いし綺麗だしシステムキッチンだしで、ちょっぴり妬ましい。
今の部屋に不満がある訳ではありませんが、複雑です。
『定期的に家事しに来てくれ』と言われたアレは冗談だと思いたい。
……まぁ、掃除しには行きますけど。
では、次の更新でお会いしましょう。
でわでわノシ
…………MHP3rd マダァ-? (・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
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投稿44作品目になりました。
拙い文章ですが、少しでも楽しんでいただけだら、これ幸い。
いつもの様に、どんな些細な事でも、例え一言だけでもコメントしてくれると尚嬉しいです。
では、どうぞ。