燃えていた……
少年の前で何もかもが燃えていた。
住み慣れた家も、かつて知ったるとなりの家も、友達とよく林檎泥棒をして何度も大目玉を食らった、大きな林檎の木のある村長の家も、お母さんにお使いを頼まれた際に優しくて器量良しのお姉さんに褒められるのが好きだったパン屋も、安息日の礼拝が面倒くさくて仕方なかった礼拝堂も……少年のいた村の何もかもが燃えていた。
その炎は赤々と、漆黒の夜空を照らしていて、そしてその夜空には地上のことなど我々には関係のない些事だとばかりに星々と月の銀の光が無情なまでに美しく煌き、瞬いている。
「何で、こんなことに……」
呆然と少年は立ち尽くし、力無く呟く。
「逃げるんだ、ゴズリング!」
家に伝来伝わるという、しかしすっかり錆付いて武器としての役割を果たさない剣を手に取り、自分と母親を裏の勝手口から逃がそうとする際の父親の言葉が頭の中に思い出される。
「逃げろ!。そして母さんと二人で生き延びるんだ!。母さんを頼んだぞ!」
……父さん
少年はそう口にしようとするが、震えた唇はその言葉を声に出来ない。
それは少年が父との約束を守れなかったからだった。
「ゴズリング、貴方は逃げなさい!」
少年を庇う為に背中に深々と矢を食い込ませたまま、倒れこんだ母親がやっとの力を振り絞って顔を上げて言った言葉が思い出される。
「貴方は生きて!……私たちの分まで生きて!」
突然の出来事にどうしていいのか困惑したまま動けないで、その場に座り込んでいる少年の頬を優しく両手で包み込むようにして言った、母親の言葉が思い出される。
その顔は少年に向けて優しく微笑んでしたが、その口の端からは血の混じった泡が漏れていた。
もう助からないことが、医術には詳しくない少年の目にも分った。
……母さん
やはり少年はそれを声にすることが出来ない。
少年が覚えている自分のとった次の行動、それは逃げ出すことだったからだ。
怖かったのだ、目の前の出来事を信じたくなかったのだ。
その一心で彼は逃げた……必死になって逃げた……そして、運良く落ちた村外れの枯れ井戸に、村人達も忘れていた、子供が一人通れる程度の大きさの隠し通路があって、その通路を必死になって這うようにして進んだ結果、彼はこの場所、村外れの誰からも存在を忘れられていた、すっかり蔦が張って原型すら留めていない祠の裏にあった隠し通路へと出たのだった。
……僕は……誰も守れなかった……逃げることしか出来なかった。
ただ、その無念さだけが少年の胸を刺すように苛んだ。
少年は力なく、辺りを見回すが、村から離れた森の中に忘れられるようにあった古い祠の周りには、やはり人影はない。
「僕だけ生き延びた……どうして僕だけ生き延びたんだ?……何で、どうして……何があったっていうんだ?」
少年は燃える村を呆然と見ながら言う。
少年の村は敵国の軍隊に焼き討ちにあったのだった。
しかし、それがその敵国というのがどの国の軍隊であるかは、少年には分らなかった。なぜなら少年の村は、リクシャマー帝国とロズゴール王国という二つの大国の国境に位置し、毎年のように「政治的な交渉」によってある年はリクシャマー帝国に、またある年はロズゴール王国に編入されていたからだ。定期的、と言っても誰もが存在を忘れた頃にくる治安維持の役人や、毎年の収穫月にやって来る徴税の役人(普段の徴税の仕事は村長が代行して行っており、収穫月に徴税役人が年間の徴税の収支の報告を受けて、村長から税を回収していくのがこの時代の村落社会の決まりだった)の顔が年毎に変わるのなど珍しいことではなかったし、そのように自分達の所属する国が変わることにみんな慣れ切っていた。自分がどの国の人間であるのかなど、意識したこともなかった。
「まぁ、血なまぐさい戦をしてどちらかの領土に無理矢理されるわけじゃないから良いさ」
父親を初めとする、大人達はその事に対してそう言っていた。
この村には国もないが戦もない。それが村人達の不文律だった。
しかし、その不文律はある日あっさりと覆された。
少年の村に黒ずくめの鎧の軍隊がやって来て、何の前触れもなく彼らは村に火をつけ、そして村人達を殺戮し始めたのだった。
彼らは何の躊躇もなく、黙々と、そして淡々とそれが自分の仕事だとでも言うようにその暴力を行使して全てを破壊したのだ。
「僕は……僕は!……僕は?……」
少年は言葉を正しく紡げない。自分が何を言いたいのか、自分でも自分の心と考えを整理できないからだ。
「あぁ、こりゃあ、全滅だな」
そんな少年の背後から、緊張感の無い野太い声で誰かが言った。
あまりにそれが唐突だったので、少年は思わず自分の体が硬直してしまうのを感じた。
声のした方向を見なければならない、自分の安全を確保するために状況を判断しなければならない、それが出来ないのならば一目散にこの場を逃げなければならない……のは分っていたが、少年にはそうすることができない。
恐怖の感情に心臓をつかまれ、指一本、目線一つ動かすことが出来ず、息一つするのに難儀して、口を、まるで水から陸に急に上げた魚のようにパクパクとさせる始末だった。硬直して動かすことのできない指先からは冷や汗が垂れて地面へと落ちて行く。
「うん、全滅だ。もう何も他に表現が思いつかないぐらいに、完璧に全滅だ」
しかし、そんな少年の様子など全くお構いなし、とばかりにその声の主は言葉を続けた。
恐る恐る振り向いた視線の先の漆黒の闇の中、少年は一輪の純白の花を見た。すらりとした華奢な身体を清楚で真っ白な旅装束に包んだ、きめ細かい白い肌と艶のある黒い髪が印象的な美しい女性。どこか凛とした、そして一目みただけで貴人とはこのような人を言うのだろう、と人生経験に乏しい少年にすら分かる気品を漂わせたその姿に少年は花の薫りを嗅いだ気がした。その姿は正に暗闇に咲いた一輪の白百合の花のようだった。
でも、そんな彼女のどこから、あんな野太い声と、あんな言葉が出てくるんだろう?、と少年が不思議に思っていると……
「腹も減ったし、そろそろ野宿も飽きたから街道を外れてみたんだが、こりゃ失敗だったな」
と、女の横からあの声が聞こえてきた。あわてて、その声がした方向に視線を動かすと、暗闇に紛れるように黒い旅装束に身を包み、やはり暗闇を溶かして染めたような外套に身を包んだ背の高い筋肉質の男がいた。長旅のせいなのだろうか、すっかり薄汚れてボロボロの身なりと、赤銅色に日焼けした逞しい腕を組んだその姿は、女とはすっかり正反対で、例えるなら……
「誰だか知らんが、随分と良い仕事をしやがるな。手際も良い」
無精髭以外の何物でもない顎鬚を撫でながら、少年の気持ちを逆なでするように口にしたその言葉に思わずムッとして、「誰なんですか、貴方は?」と少し声を荒げて少年は聞いた。
「あ、俺か?」
ようやく少年の存在に気付いた、とばかりに男は燃える集落の方に向けていた目を彼の方に向けた。思わずゾッとしてしまうようなギラギラとしたその瞳と下卑たその笑みに、少年は思わず竦みあがり、そして思い出した。この男が自分の集落を焼き討ちした集団の仲間でないという保証など何も無いのだ。
迂闊だった!と自分の行動に後悔する少年に、男は言った。
「俺の名はデフォン……デフォン・ダゥ・デカールだ。だが、相手に名前を聞く前に自分から名乗るのが礼儀なんだがな。小僧、お前親からそう教えられなかったのか?」
少年は両親からそのぐらいの礼儀は教わっていた。
けれど……この男に自分の名前を名乗るべきものだろうか?
そう迷っていると、男は、「名前を名乗りたくないなら、俺が勝手に付けるぞ?」と言って来た。
少年はその言葉の意味を理解しかねて暫く呆然としたが、やがてその言葉の意味を理解して、驚きのあまりに慌てて答えた。
「ゴズリング……ゴズリング・ヅゥ・バスバルです」
「ゴズリングか。いい名前だ。ヅゥ、ということは農民だな。お前は農家の息子なわけだ」
この時代、名前の姓と名の間には間名と呼ばれる名前を入れることになっていた。それは身分を示すためのもので、身分階級毎に決まった名前があった。ちなみに、ヅゥ、というのは農民階級の間名で、ダゥというのが魔術師や研究者の間名である。
「で、ゴズリング、お前、あの集落の生き残りか?」
男、デフォンはそう聞いてきた。
「……はい」
それを明らかにするのは危険かもしれない、という考えは依然として少年の頭に残っていたが、男の雰囲気に気圧されて彼は思わずそう答えてしまっていた。それだけの凄みが彼にはあったのだ。
「なるほどな、お前はあの集落の唯一の生き残りというわけだ」
「唯一って……」
少年は抗議しようと身を乗り出すが、視界の端に移った、漆黒の空を焦がすように赤々と燃える村を焼く炎が、男が言う言葉の正しさを裏付けていた。
あの有様では、確かに男の言うとおり、生き残りは自分だけなのだろう。
がっくりと肩を落とし、抗議の声を引っ込めた少年に「お前の選択肢は二つある」と男はどこか淡々とした口調で話を切り出してきた。
「一つはここに残って、あの村を襲った連中に見つかることだ」
「……」
「それも悪くないぞ。捕まって奴隷として売り飛ばされて、運良くいい主人に買われるかもしれない。さらに運が良ければいい教育を受けさせてもらって、『少女宰相』ロズリア・ヴュ・ガウリンに仕えた奴隷のアヴュー・アー・ゴズマのように歴史に名を残すことになるかもしれん」
そんな期待を持たせるような事を言っておきながら、「ま、十中八九村を襲った連中にその場でなぶり殺しだろうけどな」と恐ろしい未来予想をあっさりと口にする。
「さて、二つ目だが」少年が一つ目の選択肢について何かを言う間も与えず、一つ目の選択肢のときとは打って変わって熱意のある口調で言った。「俺に着いてきてここから逃げる事だ。そうすれば、今なら漏れなく後世に名を残す魔術師の二番弟子になれる」
そう言われて少年は今更ながら彼が魔術師の間名である「ダゥ」を名乗っていたことに気付いて、「貴方は魔術師、なんですか?」と聞いた。
「見て分らないか?」
男の言葉に、少年はもう一度彼の姿を上から下まで眺め回した。だが、その姿はどう見ても少年が思い抱く魔術師のイメージとはかけていた。元々は銀色らしい髭と髪は野放図に伸び放題で、あまりに手入れされていないせいで黒髪かと紛うほどに垢で汚れていた。その顔もまた、もともとは肌が白いのだろうが、すっかり旅の垢にまみれている上に、その腕と同様に赤銅色に日焼けしていて、一見すれば亜大陸かどこかの異人と見間違うばかりだった。背が高く外套を羽織っている点では魔術師らしいと言えば魔術師らしいが、その外套も長旅ですっかり汚れてボロボロになっていた。それに、少年の思い描く魔術師は背が高くてもこんなに筋肉質ではないはずだ。いや、何より……
「いや、そんな剣なんて持たれちゃ……」
男が手にしているのは、少年の思い描いた魔術師が手にしているような杖ではなく、よほどの腕力でもなければ振り回せそうに無いぐらいに重そうな剣だった。それを男は軽々と、まるで旅の杖がわりとばかりにその手に持って立っていたのだった。その姿を見て、少年は男に対して、先程、初めて会った時に感じた印象を改めて思った。
……魔術師というより蛮族だ……これで魔術師と言い張るなら、もう完全に詐欺師だ……
つまりのとどは少年は男に対して、心の底からいかがわしいと思ったわけだった。
「それでお前の選択はどちらだ?。死ぬのか?、生きるのか?」
しかも、いつの間にかそんな二択に話は刷りかえられていた。
いくら世間知らずとは言え、余程のことがなければ、少年は間違えても男についていくという選択肢は選ばなかっただろう。だが、目の前の事態は余程のことであり、のっぴきならない状態に他ならなかった。
確かにこの男は見るからに如何わしい……だが、確かにこの場に止まっていれば死は免れえぬ結末であるに違いない。
「……付いていきます」
少年はそう決心、いや率直にいえば妥協した。
第三の選択肢が思いつかない、いや思いついたとしても現実的ではない以上、より生き延びる可能性の高い方を選んだ……例えるならば煮え立つ溶岩の火口に飛び込むよりは、荒波で泡立つ海原に岩壁から飛び込んだ方がまだ生き延びる可能性があるからそちらを選んだにしか過ぎなかった。
「よし、決まりだ。それじゃ行くか、ゴズリングに……」
そう言って、男はゴスリングと、そして旅の共なのだろう女の方を見て唐突に黙り込んだ。どうしたのだろう?、と不思議そうな顔をする少年の前で、男は女の顔をしげしげと眺めるようにして見つめ、暫く頭を捻った後で言った。
「……お前、名前何だっけ?」
「え?え、えええっ?」
男の言葉に、少年は驚きのあまりに思わずすっとんきょうな声を上げていた。
「何を驚く?」
「いや、あの……あなた方は一緒に旅をしているんじゃ……」
少年の問いに「いや、違うぞ」と男はいつもの緊張感のない声で応える。
「こいつもお前と同じでさっき拾ったんだ。まぁ、格好から考えて、この集落の住人とも思えないから、どこかの旅の令嬢が、お供からはぐれて、道も間違えて街道外れの集落にまで迷い込んだようだがな。しかし、厄介な事に、どうやら喋れないらしくてな……」
言われてみて少年は先ほどから女性が一言も発していないのに気付いた。それどころか、耳も聞こえないのか、二人のどこかちぐはぐで頓珍漢なやりとりに対しても全く反応するそぶりすら見せず、ただじっと無表情に燃える集落を眺め続けている。それは、まるで精巧で美しい人形をそこに立たせたようにも見えた。
「アンリエッタだな」
「は?」
「アンリエッタ・ヒュー・マグノリア、それがこいつの名前だ。いい名前だろ?」
男は女を指差してうんうんと満足げに頷きながら言う。指差された女は相変わらず燃える集落の方を無表情なまま眺めているままだ。そして、少年は一度は場の雰囲気に流されて「はぁ……」と答えたものの……
「……って、え!、ええ!?、そ、それはまずいって!!」
慌てて男の案に口を挟んだ。「ヒュー」というのは王族の間名である。当然ながら王族以外の者が名前に使って良い名前ではない。いずれの国でも間名の概念がある国では、異なる身分の間名を名乗っただけで身分詐称の厳罰が下されることになっている。そのぐらいは、こんな辺境の集落に住む少年でも知っていることだ。ましてや王族の間名を王族以外の人間が名乗ったとあれば、間違いなく公開処刑、どこか街の広場で火炙りの刑である。彼女は確かに見るからにどこか良家の、もしかしたら貴族の令嬢なのかもしれないが、こんな街道外れの、おまけに国境沿いの地域にあるこんな寂れた場所に王族の人間が来ることなどないだろう。さらには……
「だいたいマグノリアって、『呪われた王家』の姓じゃないですか!。駄目です、そんなこと看過できません!」
邪悪な力を持つ王妃により呪われた王国とその王国を治めたマグノリア一族。かつて、地平の全てを統べて全てを恣にした挙句に神に戦いを挑んだメクセトという魔人の伝説と並ぶ忌まわしい伝説だ。その王家の名前を名乗るなど、神への冒涜以外の何物でもない。
「駄目か?。アンリエッタ、いい名前だと思うんだけどな」
「いや、そこじゃなくて……それに、犬や猫じゃないんだから、勝手に名前を付けちゃ駄目なんじゃないかと……」
「名前がないと今後不便で仕方ないぞ。犬や猫じゃないのなら、それらしい名前が必要じゃないのか?」
「そうですけど、でも……」
結局、少年は渋る男を説得して彼女の名前を暫定的に「アンリエッタ」として間名と姓は後で付けることにさせた。男は未だ納得しないようではあったが、女の方を向いて言った。
「と、いうわけでお前の名前はアンリエッタに決定した。良い名前だろ?」
少なくとも、女は喋れないらしかったが、耳が聞こえないわけではなかったらしい。そういう男の言葉を聞いて、彼らに先程までの無表情が嘘のような柔和で優しい笑みを浮かべた。それは少年の心の緊張を解き解してくれるには十分に柔らかい、そして包み込んでくれるような暖かい笑顔だった。
「よし、それじゃ改めて逃げるぞ、ゴズリングにアンリエッタ」
呆けた少年が、その言葉に我に返って男の方を見ると、彼は既に「脱兎のごとく」という表現が相応しい速さでさっさとその場から走り去っており、今にも少年の視界からその姿を消そうとしていた。
「ちょ、ちょっと!!」
慌てて後を追う少年の背後から、見た目よりも健脚なのか、女が男にも負けず劣らずの速さで少年を追い抜いていった。それはまるで少年の迷いを払拭させるかのような美しい、神聖な獣の疾走を思わせる走り方だった。
少年は女のその姿に見とれ、気付いた時には夢中になってその背中を追っていた。後ろを振り向くのを止めていた。目の前に待ち受けているのは苦難なのかもしれなかったが、その場に止まって終末を待つよりもそれは正しいことのように思えたし、何より彼女の背中をずっと追っていたいと考えていたからだ。
だから、その足取りは、少年自身も気付いてはいなかったが、いつもよりもずっと素早いものになっていた。
そしてそのことが、少年の背中で赤々と燃え続ける自分の生まれ育った集落という現実をその時だけ忘却させ、結果として彼を生きながらえさせたのだったが、それが彼の受難の日々の始まりでもあった。
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これは一人の少年の話であり、また一つの家族の物語である
少年ゴズリングは生まれ育った村を焼き討ちにされ、たった一人生き延びてしまう。
しかし、悲嘆にくれた少年はそこで「魔術師」を名乗る男と、白百合の花を思わせる美しい女性と出会うのだが……