あどけなさが残る幼い顔立ち。お世辞にも上品とは言えない、ショートボブの癖毛(ムギのそれと比べれば良く分かる)は前髪の右側を黄色のヘアピンで止めている。無邪気の権化であり、純粋で一方通行気味の善意が得意。全身から滲み出る天然系のオーラはそれ自体が強烈な個性であり、先に挙げた外見的特長を内側から全力で後押しし、内面的特徴を本質から支えている。
平沢唯というのは、そんな少女だった。そんな少女であり、憎めない存在だった。
憎め無い存在だったが、もちろんそれだけでは無い。
「え、えへへへ…………。皆さん、おはようございますっ」
恐縮しきった様子で笑った後、いっそ苦し紛れに唯は言った。のんびりした普段の声よりも、やや芝居がかった太い声で言った。敬礼の様な、額部分にパーの形で水平に右手をやって、左手は地面に対して垂直だった。空気を読めていなかった。
「おはようございますっ…………じゃねーよまったく。一体今まで何処に居たんだよー」
「心配したんだぞ」
律と澪の声には、呆れが多分に含まれていた。
そう、彼女は周囲の人間を呆れさせる事に特化した少女でもあった。その原因は、常人とは異なる思考回路から導き出された行動原理に因るものだ。正に前述通り、空気が読めないと言い換えても良い。自分の気に入った分野に対しては異常な程の才能を発揮するため、天才肌なのは間違い無い。何せ、自力でウィンドミル奏法を完成させてしまう程だ。そして、それが嫌味にならずに、例え突飛な行動を取ったとしても許せてしまう。それもまた、才能か。その才能が、憎め無い存在、という部分に繋がってくるのだった。天才的に天然的な性質を保有している人間というのを体現しているのだ。
律もまた、そんな唯の人間性を好いていた。
だからと言って、今回の騒動が(それほど大それたものでも無かったが)許されるわけでは無いが。
それは分かっているのだが。
「ほ、ほんとにごめんね! 何か、凄い迷惑かけちゃったみたいだから、出て行き辛くって…………」
一生懸命に謝る唯を見ていると、どうしてか許す気分になってしまう。
だから、
「私は、唯が無事だったんなら別に良いけど」
「唯ちゃん、寒かったでしょ? お茶飲みましょ」
「ったくしょうがねーな。唯、後でデコピンな」
ムギは何時もの笑顔を。律と澪は、感じていただるさが吹き飛ばされた様な顔で笑った。
天才的に天然的であるという事は、悪意の無い純粋さを保有しているという事なのだろう。どうやっても自然体なのだから、何時でも真剣なのだ。これはもう、許さざるを得ないだろう。唯に対して、単純な怒りやストレスをぶつけるというのは、これは拍子抜けという言葉が、とても良く合う。のれんに腕押しどころでは無い。そもそも、のれんを押す前に、念が霧散してしまうのだ。
律はそう考えている。澪も、ムギもきっと近い考えだろう。
とはいえ。
「もう、唯先輩! 人の事を散々心配させておいて、ごめんなさいで許されると思ってるんですか!?」
おせっかいで人の良い後輩には、それも別の形で作用するらしい。席を立ち、2本のおさげを大きく揺らして、憤慨した様に早足で唯に近づいた。
「憂も凄い心配してたんですよ! 早く電話してあげてください!」
梓は真面目なのだ。それこそ、唯とは正反対な程に、物事に対する姿勢が違う。だから、唯に対して衝突する事も多い。それも全て、唯が好きだからだろう。律が、澪が、ムギが、唯を好きな様に。
だから、怒っている様に見えても、事実怒っていても、どんな反応をしようとも、もう許しているのは間違い無いのだった。
「ごめんね、あずにゃん。もう絶対しないから」
「当たり前です!」
腕を組んでそっぽを向いた梓。取り付く島も無い体だった。普通の人間なら恐縮する所だ。だが、唯は空気が読めない。もっと分かり易く単純な言語で書かれた空気ならば読めたのだろうが、この場合は読めない空気だった。
「あーっずにゃん!」
唯は梓に抱きついた。いや、抱き締めた。大きく強く腕を回して、その右手は梓の頭頂部で激しく動き、左手は腰をしっかりと押さえる。頬と頬を合わせて、すりすりと動かしていた。
「まーたやってるよ」
「唯も飽きないな…………」
律と澪が、半ば呆れて言う。最早見慣れた光景であるので、誰も驚かない。唯が飽きるはずも無い。
「でも、無事で良かったわ」
ムギが両手を合わせて言った。おだやかに微笑すら浮かべて、安堵を最大限に表現していた。
「このまま見つからなかったら、どうしようかと思ったもの」
「そうだな。…………まあ、私は見つからないとは思ってなかったけど」
澪の言葉に、律は心中で同意した。確かに心配してはいたし、見つかって安堵していないかと言われれば嘘になる。だが、見つからないと思っていたかと言われれば、そんな事は無い。近い将来には、少なくとも数時間も経たずに、唯を見つけられると思っていた。
「あ、ムギちゃん、お茶のおかわりちょうだい」
「あんたはもっと空気読めよ」
苦笑して、お茶のおかわりを要求したさわ子に、律のツッコミ。表面上でも見つかって安堵した風を装えよ、と。
「あら、私だって唯ちゃんが見つかって良かったと思ってるわよ。ていうかねー、私は貴女達よりも先に、唯ちゃんを見つけてるんだからね」
「ああそうか…………それは確かに」
納得して頷く。推測だが、どんな経緯を辿ったにしろ、さわ子は唯を探していない。たまたま唯と遭遇して部室に移動したか、あるいは部室に行った所、唯と遭遇したか、だ。探している間に感じる脱力感やら、色々な負の感情を体感していない以上、さわ子の安堵感というものは薄いものだろう。仮に、律並みの安堵感を持っていたとしても、発見から時間が経っている以上、最早それも薄れていると考えて間違いは無い。
「それにね、律っちゃん。それに澪ちゃん」
「な、なんだよ、さわちゃん。急に真面目な顔になって」
「な、なんですか?」
突然の教師モードに入って(常に教師だが)、律は若干驚いた。澪は若干引いて、律の腕の裾を握っていた。
「見つからないと思って無かったって…………甘いわよ?」
「甘いって…………?」
「大切な人が、突然居なくなる事だって有るの。長い人生、何があるか分からないもの」
話が大げさになっていないか? とは思ったものの。彼女はあくま真摯な様子で、その眼に説教臭い所は無かった。優しさや懸念が見えた様な気がして。
その眼に、律は…………、
「さわちゃん…………一昨年のクリスマスに、男に逃げられた事、未だに引きずってんの?」
「違うわよ! ていうか思い出させないでよ!」
勢い良く立ち上がって、さわ子は抗議した。デスメタルの迫力とは別の勢いで、しかし十分なそれだった。澪が半身を律の後ろに隠すくらいのそれだった。その熱を覚ましたのは、別の熱だった。端的に言えば、ムギのお茶だった。
「先生、おかわりですよ」
「あ、え、ええ、ありがとう、ムギちゃん」
ひと息付いて、さわ子は座りなおした。新しい紅茶に口を付けて、しかしいっそ投げやりに、
「全く、たまには教師らしい事、言わせてよね」
拗ねた様に言う彼女は、とても教師らしいとは言えなかった。だが、だからこそ胸に沁みた。
(もしかして、さわちゃんも寂しいのかな?)
ふと、律はそんな事を思った。今まで考えた事も無かったが、自分たちが卒業するという事は、あるいはこの教師にとって、それなりに寂しい事なのかもしれない、と。だからこそ出てきた、先ほどの言葉だったのだろうか。
律の胸が、少し締め付けられる様な感覚を帯びた。朝、この部室に来た時に感じた、あの空気の冷たさを、体感以上に背筋を刺激する冷たさを、再び感じた様な気がした。
たまらず、一歩下がろうとして、しかし下がれない事に気がついた。そこに在る温もりに気がついた。未だ、澪が律の後ろで、腕の裾を握り締めていた。
その偶然に、どうしてか笑いがこみ上げてきて、そしてほんの少しだけ口から漏れて、鼻で笑ったようになってしまって。それを見て、さわ子は何を勘違いしたか、律が見ていると思った方を…………位置的には彼女の真後ろなので、振り返った。
そこに居たのは唯と梓の2人だった。
梓が観念して、されるがままになっていた。これも見慣れた光景。梓を捕らえて離さない唯の執念は見事なものだと思う。
気持ちよさそうに、しかしそう感じたら負けだと思っているかのような、梓の表情。律としては、やや負けているような気がするが。
そして、何処までもその幸福を噛み締めながら梓に密着する唯。離したら負けだと、離さなければ勝ちだと。そう考えては居ないだろうが、律からすれば、どう見ても唯の圧勝だった。
それを見て、律は改めて笑う。
「さわちゃんの言いたい事は分かるけどさ。まあ…………大丈夫だろ」
さわ子は肩をすくめて、しかし微笑みながら、
「まあ、そうかもね」
まだ何か言いたそうだったが、それ以上何も言わないのであった。
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唯登場。