何も見えないくらい、濃い霧が立ちこめていた。北郷一刀は周囲を見回し、用心しながら歩き始める。
「ここは、どこだ?」
薄暗く、何の気配も感じられない。溢れる嫌な予感を振り払うように、一刀は歩く速度を上げた。すると、ぼんやりとした二つの人影が見えて来た。一刀は足を止め、人影に向かって声を掛けてみる。
「そこにいるのは、誰ですか?」
「私よ、ご主人様」
「何だ、貂蝉か……」
「儂もいるぞ」
どうやら二つの人影は、貂蝉と卑弥呼のようだ。一刀は今の状況を説明してもらおうと口を開きかけたが、それよりも先に貂蝉が真剣な声で語り始めた。
「常々、考えていたことがあるの……」
「えっ?」
「ご主人様、どうして男がおっぱいに魅せられるのか知ってるかしら?」
「へっ? おっぱい?」
「そう。私、ようやく気づいたの」
貂蝉の雰囲気に嫌なものを感じた一刀は、思わず後退る。
「それは、あの弾力! ふにふにとした、柔らかさ! それが男の心を鷲掴みにするのよ!」
「はあ……」
「だから卑弥呼と二人で考えたわ。女たちに毒されていない男たちを、おっぱいから解き放つ秘術! それは――!」
そう言った直後、貂蝉と卑弥呼は素早い動きで一刀を両側から挟み込み、がっちりとその腕を掴んだのだ。
「なっ!」
身動きが取れなくなる一刀だが、それよりももっと気になることがあった。自分の腕を両側から掴んでいるのは、貂蝉と卑弥呼だ。それなのに、腕に押しつけられる感触は柔らかく心地の良いものだったのだ。
それはまさに、おっぱい。
「こ、これは!?」
「驚いたかしら? これこそ、男の胸を女のように柔らかく心地よいものにする秘術のたまもの!」
一刀は腕に押しつけられる感触に、胸の高鳴りを覚えた。しかし、すぐにそれが貂蝉と卑弥呼だということに気づき、一気に気分が悪くなったのだ。
「秘術の無駄遣いだ!」
「失礼ね~。いい? 男の胸が女と同じように柔らかければ、おっぱいごときに惑わされる心配はなくなるのよ! だっていつでも自分の胸を触れば、気持ちがいいんだもの」
「や、やめろ! 押しつけるなー!」
「むふふふふ……」
頭ではわかっているのに、どうしても腕の感触が一刀の心を捉えて離さない。
「嫌だ……嫌だぁ…………はっ!」
パチッと目を開けた一刀は、視界に飛び込んできた天井に息を吐き出した。
「夢、かあ……」
そう呟いてみるが、腕にある柔らかな感触はなおも感じられる。おそるおそる横を見ると、一刀の寝台にもぐり込んだ霞と恋の姿があった。両側からがっちりと、一刀の腕を掴んでいる。現実の感触は、この二人のものだったのだ。
「はあ……よかった」
そう安堵してから、それほど良い状況ではないことに気づく。誰かに見られたら、誤解を受けかねない状況だ。一刀が二人を起こそうと思ったその時、部屋の扉が乱暴に開かれた。
「いつまで寝てるのですかー! いい加減に起きるのですぞ!」
叫びながら入って来たのは、音々音だった。
元気よくやってきた音々音は、目の前の光景に凍りつく。あろうことか、変態主人(一刀)が大切な恋殿の胸をいやらしい手つきでモンでいるのだ。実際は起こそうと肩を揺すっているだけなのだが、そんな事は頭に血が上った音々音にはわからない。すっかり思い込んで、怒りが頂点まで達していた。
「こんの……変態ちん――!」
言葉には出来ない罵詈雑言を叫びながら、音々音は大きく跳躍する。そしてベッドの一刀に向かって、飛び込んだ。いわゆる、フライングボディアタックだった。
「たりゃあー!」
「ちょ、ま、待て――ぐぇ!」
恋や霞にはぶつからないように計算された攻撃は、見事、一刀にだけ命中する。音々音の小さな体でも、お腹当たりに勢いよく飛び乗れば破壊力はあった。カエルがつぶれるような声を漏らした一刀は、体をくの字に曲げて布団の上でもだえた。
「あ、暴れてはダメなのです!」
「そんな……こと……いわ……れても……」
こうなると、さすがに恋や霞も目を覚ます。
「ん……一刀、どうしたの?」
「んん~、なんや……かじゅと?」
何が起きたのかわからず目を丸くする二人に、音々音は怒られるかも知れない恐怖で小さく震えた。そして出した答えが……。
「お、お前に用事があるらしい使いの者が、許昌から来ているのです! 伝えたのですよ!」
用件を言い、音々音は大急ぎで部屋を出て行った。残された一刀は、それからしばらく恋と霞が見守る中、もだえていた。
顔を洗い、着替えた一刀は恋と霞を従えて、使いの者が待つという応接室にやって来た。部屋には呼びに来た音々音の他に、月や詠、風、稟も揃っている。その彼女たちの前に、汚れた服で疲れを顔に滲ませた男が、膝を付いていた。
「遅くなってごめん」
「何やってるのよ、もう!」
詠に怒られながら、一刀は男の前に立った。そして目線を合わせるように、しゃがみ込む。
「初めまして。俺が北郷一刀です。許昌から来たそうですが……」
「はい。この手紙を荀彧様より預かり、直接、北郷様に手渡すよう言いつかりました」
男はそう言うと、服の継ぎ接ぎをはがし、隠してあった手紙を取り出す。その様子からただ事ではないと察し、全員に緊張が走った。手紙を受け取った一刀は、達筆の文字をゆっくりと確かめるように読み始める。
「……そんな、まさか」
「何よ? 何て書いてあるの?」
顔を苦しげにしかめた一刀は、覗き込んでくる詠に手紙を渡す。他の者たちも、詠の周りに集まった。
「曹操が何進に敗北! 公開処刑って!?」
手紙の内容は、一同に衝撃を与えた。曹操軍と何進軍が激突した事は、ほんの数日前に知ったのだ。偵察を放ち、情報収集をしている領主たちならともかく、一般の人々に知れるのはやや時間差がある。それでもまさか、これほど短期間で決着が付くとは思わなかったのだ。
「戦上手の曹操が、どうして?」
詠の疑問に、使いの男が答える。
「曹操様は許昌を守るため、あえて自ら時間稼ぎの囮になられたのです。部下たちを許緒様、典韋様に託して逃がすと、後は夏侯惇様、夏侯淵様のたった三人だけで……」
男は声を詰まらせ、唇を噛んだ。それに少しだけ微笑んだ一刀は、その顔から表情を消して立ち上がる。
「みんな!」
そして全員を見渡して、声を掛けた。皆の顔には、諦めと決意の色が浮かんでいる。言葉にしなくとも、北郷一刀が何を思っているのか、皆にはわかっていたのだ。代表するように、詠が頷いて言った。
「出発の準備をしましょう!」
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
楽しんでもらえれば、幸いです。