フローリングの床に敷いた絨毯に、丹念に掃除機をかけていると、足許に何か落ちた。
神崎悟子はやかましい掃除機を止め、落ちたものを拾い上げてみると、家族同士の伝言や備忘のため、リビングの壁に掛けた小さなホワイトボードに磁石で留めておいた次女が開いている個展の案内ハガキであった。
ハガキの裏面には、次女が丹誠込めて創り上げた可憐なビスクドールが写され、表面には、開催期間や日時、会場、地図などが印刷されている。
悟子はアメ横で夫と小さな住居も兼ねた惣菜店を営んでいたが、その夫も五年前に亡くし、長女夫婦と共に店は続けながら、御徒町に近い3LDKのマンションに移り、三年が過ぎていた。
長女のゆいなは公立高校を出て、両親が営む惣菜店を手伝い、二十二歳のときに婿を迎えた。
この婿は、よく働く若者で、聞くところ父親が赤坂では名の通った料亭を営んでおり、長兄と次兄が既に板場に入っていたことから、末弟まで雇う必要はなく、自分で働き口を見つけなければならなかった。
こうした婿にとっても、調理師の資格を取る際に出会ったゆいなと結婚したいのなら、惣菜店を継ぐことを条件とされたが、願ってもないことと、身を粉にして働いている。
アメ横は、御徒町と上野間の山手線の高架西側と高架下に沿って伸びる四百メートルの商店街で、四百軒以上の店舗がひしめいている。
元々は、民家や長屋が連なる下町で、戦災で一面、焦土と化し、戦後はバラック建の住居と店舗、そして屋台や露店が並び、闇市と呼ばれ、愚連隊や暴力団が白昼に発砲事件を起こすなど、無法地帯となっていた。
そうした町も地域の有力者と警察の働きかけで正常化へ進んでいった。悟子がアメ横に嫁いできたのも丁度、こうした時期だった。
ゆいなも婿も表裏なく働き、近所からの評判もよく、悟子を喜ばせたが、次女ののえるは、公立中学へ通ううちから将来は彫刻に関連した仕事に就きたい、と言い出した。
夫は、のえるまで縛りつけることはない、本人の好きにさせろ、と言い、美術短大を出した後、画材店や画廊、美術館などでアルバイトを続ける間、ビスクドールを創り続け、今では銀座中央通りに面した西洋人形を扱う高級店で店員として働きながら、毎年、秋に即売も行う個展を開き、実質的に店長の立場にあった。
まるで対照的な人生を歩む姉妹であったが、性格も正反対だった。
最初の子ということで、悟子が神経質に育てたことから、やはり神経質な子に育ってしまうだろうと思っていたゆいなは、明朗な子になり、商店街という土地柄、近所での評判もよかったが、自由に育てた次女ののえるは無口で、両親が気を遣い、話しかけなければ、何を考えているのか解らない娘になった。
のえるは何も言わない分、姉のゆいなと同様に惣菜店を継いでくれるものとばかり思っていた悟子にとっては、人形師の道を選んだことは、いまだに大きな衝撃で、次女が開いた過去二回の個展も、店が忙しいから、と訪れることはなかった。
三回目はどうしたものか、と悟子が考えているうちに、既に三日が過ぎている。
無口なのえるであったが、一度だけ母親を熱心にかき口説いたことがあった。
それは、のえるが本格的に進路を決めなければならない高校二年の秋のことで、銀座四丁目の交差点に面した五越百貨店の七階にある五越美術館で開催されている「薬師寺写真展」を悟子と行きたい、と言い出し、譲らなかった出来事だった。
悟子も、古都の文化財には興味があるものの生活に追われ、とても現地に足を運べないことから、こうした特別展には惹かれており、次女と訪ねることにしたのだった。
薬師寺は、奈良市西ノ京町に法相宗の大本山として、飛鳥時代まで遡る歴史をもち、平成十年に世界遺産の登録を受けている寺院である。
「薬師寺写真展」を主催したのは、薬師寺や竹橋にある全日新聞社の他、肝心の写真の管理を行っている郡司良(ぐんじりょう)記念事業団だった。
郡司良は、正に「昭和を撮った写真家」として著名で、昭和元年に生まれ、平成元年に亡くなっている。その間、古寺の他、財界人や庶民の暮らしを撮り続けた。良の亡き後、一人息子の正(ただし)が父親の作品の散逸を防ぎ、管理、運営する目的で財団法人を立ち上げ、理事長に就任している。
写真展の会場の中で、際立って来場者の目を引いたのは、薬師寺の境内から一キロメートル以上も離れた池の畔から、超望遠レンズを用い、若草山を背景に伽藍を写した組写真であった。
金堂が再建された昭和五十一年以前は、東塔しかなく、五十六年には西塔が再建され、五十九年には中門が、と名物管首の勧進活動によって寺観が整えられていった過程が理解出来る。
今や、こうした組写真は記録として貴重なものになっているし、伽藍を池にくっきりと映し出した美しい薬師寺を内外に語る上で欠かせない写真芸術としても注視されている。
こうした復興造営の足跡を回顧させる組写真を十七歳だったのえるは目を輝かせ、
「ほら、きれい」
と、珍しく熱っぽく話したのだった。
悟子は、このときは展覧会を企画した郡司正が、父親の遺作を管理するために立ち上げた財団法人に重ね、家業を継がぬのえるの両親への贖罪だとばかり捉えていた。
それをきちんと言葉にして伝えないのえるに、悟子の心に更なるわだかまりとして残っている。
次女の個展を開いている銀座の西洋人形店は、十一時開店であったから、訪ねるとしたら、今少し時間がある。
悟子は、ふと、昨夜、ハードディスクを搭載したハイビジョンテレビに録画しておいた「薬師寺・東塔復興」という教養番組を見てしまおうと、スイッチを入れ、腰を下ろした。
薬師寺は、当初、飛鳥に建てられたが、現在の西ノ京町に移った奈良時代から伝えられる東塔は、屋根の出が六か所にあり、一見、六重塔に見えるが、下から一、三、五番目の屋根は裳階(もこし)と呼ばれるもので、構造的には三重塔であった。
また、その極めて優美な外観から、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝え、「凍える音楽」という評語が頻繁に用いられている。
番組は、東塔の傷みを調査するために、足場と覆いが組まれた二〇〇九年秋から二〇一〇年三月までと、足場と覆いが外された二〇一〇年四月から同年秋までの途中経過を伝えるものであった。
番組中では、ナレーションの他、主に百二十八代管首宝田翔胤が熱弁を振るっている。
宝田はまず、名物管首と呼ばれ、昭和復興の祖と言える百二十四代管首の面影を偲び、
「まあ、とてつもない人でしたね。伽藍を復興させたい、その一念だけで、写経勧進の他、日本中で連日連夜、講演会を行っていました。法衣を汗まみれにして、文字通りに寝食を忘れ果て、まだ、走り回っていた人でした。
当時の修学旅行生は、管首直々の講話が聞ける、と目を輝かせ、観光バスから飛び出して、東塔の軒下で出来るだけ前に陣取ろうとしていた姿が、まぶたに焼き付いています」
昭和五十年前後のことを懐かしそうに語ると、
「私も名物管首に惚れ込んで薬師寺にやってきた一人でした。私の父は、高野山の門跡の僧侶でした。当然、兄も京都の門跡に入ったし、次男の私の行き先も探してくれていましたが、私は奈良市外にある平城大学で文学を学び、大学院で修士課程を終えると、父に、
『堅苦しい門跡などごめんだ。現に、修学旅行生など一人もこないじゃないか。俺は薬師寺で名物管首の役に立ちたいんだ』
と、言いました。今にして思えば、格式のある寺院に頭を下げて歩いてくれた父に、随分と寂しい思いをさせてしまっただろうな、と反省しています」
自分の出自を語った。
門跡とは、皇族や貴族が住職を務める寺院や住職そのものの尊称であり、鎌倉時代以降は、高い寺格を指す語として用いられている。
悟子は、やはり、子は親の希望に添って生きることが正道、という自分の信念を確信した。
番組は進み、東塔修理の経過がコンピュータグラフィックを交えて解りやすく説明され、東と西の塔が揃った景観について、宝田は、悟子にとって、思いもかけなかったことを言った。
悟子は宝田が何を言ったのか理解出来ず、録画された番組を一度、二度と早戻しして聞き直した。宝田がアップとなり、
「東塔は建って、もう、千五百年が経とうとしています。これを、修理することは、当然、我々の責務です。
また、西塔が全く東塔と同一のものになっていないと、指摘する人が多いことも知っています。
東と西の塔は、人間に例えれば、兄弟や姉妹と言えるでしょう。しかし、兄弟姉妹であっても、辿る道筋は全く違うのです。親の庇護を受けている間は、似たような生活を送りますが、社会に出れば、いつまでも一緒、というわけにはいきません。
それぞれに時代に沿った、社会に役立つ生き方をしていくものなのです。これを、理解出来ず、独善的に親の希望ばかりを押しつけ、その通りにならない、とまた子を責めていても自分自身がつらく、切なく、苦しいだけです。
親の希望は希望として、子のしあわせを願い、陰ながら見守る。それが自分自身の幸福だと、気付いてほしい。私は、無言で建ち並ぶ薬師寺の伽藍から、社会の最小単位である家庭の在り方、家族のそれぞれの役割、といったものを学びました。今度は、私がその大恩に報いたいのです」
画面は、宝田の言葉に東塔、西塔をオーバーラップさせた。その一カットが、悟子にとって、圧倒的な存在となって迫った。
次女ののえるが、高校二年の秋、銀座で開かれた「薬師寺写真展」に悟子を連れて行き、
「ほら、きれい」
と言った、ただ一言の陰には、姉妹であっても進むべき道は全く異って当然であることを、母が理解して、救われてほしい、という大きな願いが込められていたのだった。そして、その願いは、個展の案内ハガキとなって、今も自分に送り続けられている。
のえるは、十七歳の時に薬師寺の管首に就いた人と既に同じ考えをもっていたのだった。この不思議な娘に、自分は、親として、人として、何と罪深い心を持ち続けていたのか……
悟子の俯いた瞳から涙があふれた。それは、のえるの個展開催を知らせる案内ハガキに滴り落ちた。悟子は、
「ごめんね……ごめんね……」
繰り返し呟きながら、急き立てられる思いで、のえるの個展を訪ねようと、身支度を調え始めた。(完)
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次女ののえるにわだかまりを感じ続けている母・神崎悟子が、奈良市西ノ京町に続く薬師寺の東塔修理を伝える教養番組から得たものは……
皆さん、お久しぶりです。小市民の短編小説をお届けします。今作も登場人物のモデルが誰か解っても気付かないふりをして、創作としてお楽しみ下さい