第二章 「六ノ二は語らない」
1
「トミーさん。……トミーさ~ん」
煩雑したデスクが連なった室内で、守井陽二(もりい・ようじ)は女性に声をかけていた。
ただ、その女性は守井の声に反応しようともせず、黙々と机に向かいペンを走らせていた。
肩が触れ合うほどに近付いている守井の声が聞こえていないはずはない。
わざと無視しているということは、守井も承知していた。
「トミー姉さ~ん」
守井は飽きもせず、女性の耳元で囁くように呼びかけを繰り返す。
遂に堪忍袋の緒がブチ切れたのだろう、女性の整えられた眉が動き、眉間に深い皺を寄せた。
「……なんなのよ、もう! 用がないならあっち行ってよ。それに『姉さん』はやめてって、いっつも言ってるでしょ」
トミーと呼ばれた女性は、守井を邪険に扱うようにまくし立てる。
守井はその反応を予想していたのだろう。驚きもせず、やっと自らの呼びかけに応えた女性に向け、口元を綻(ほころ)ばしていた。
「なんか、つれないですよねぇ。食事、誘いに来たのに」
その言葉に女性はペンを置き、守井に向き直った。女性の顔には、疲れの色が浮かぶ。
昨日の容疑者確保を仕損じたミスは既に皆が知るところで、
その当事者たる彼女の機嫌が悪いのは、守井も当然承知しているはずだった。
「食事たって、どうせ食堂でしょ。私に構わないでよ。さっさと一人で寂しく食べてきなさい」
「え~。同期なんだから、仲良くしましょうよぉ」
トミーと呼ばれた女性には、無論のこと富竹朋美(とみたけ・ともみ)という極々普通の名前がある。
それを守井が「刑事なんだから、ニックネームで呼び合いましょうよ」と勝手に名付けたのが『トミー』という名だった。
それを富竹は「古くさい刑事ドラマの見すぎじゃないの」と切って捨てる。
もちろん、守井は自分自身にもニックネームを付けているのだが、その名で呼ぶ者は一人もいない。
富竹ですら彼がどんなニックネームだったのか全く思い出せないほどだ。
守井陽二と富竹朋美は警察学校の同期だった。
同期といっても警察官に採用された年齢が若いので、守井は年上の富竹を「トミー姉さん」と呼んでいるのである。
二人は卒配で別の所轄に配属され、顔を合わせることもなくなったが、大阪府警本部・刑事部への転属で偶然再会を果たしたのだ。
配備員数が多い大阪府警でも同じ部署に同期の人間が配属されるのは希なことだ。
同じ部署に配属されたのが嬉しいのか、富竹が適当にあしらうにも関わらず、守井はよく富竹に絡んで来るのである。
「見て分かるでしょ? 私は報告書作ってるのよ。ご飯ならその辺の先輩と行けばいいでしょ?」
「残念、グティさんは外回りだそうです。いない人は誘えません。
それにしても、トミー姉さんは男性からの食事のお誘いを断る、極悪非道な人なんですか?
トミー姉さん可愛い後輩のピュアな想いを踏みにじる人なんですか?」
「はいはい、極悪でもなんでもいいから、私の邪魔しない。
それに、あんたは後輩じゃなくて同期。学生じゃないんだから年齢は関係ないの。
もういい歳なんだから、そういう『年下なんです』みたいなこと、やめなさい」
全く、顔は悪くなんだから、そんな軽いノリをどうにかすればいいのに。
童顔な守井の顔を横目に富竹はそんな感想を抱く。
気合いの入ったディナーのお誘いでもないのだから、昼食の誘いぐらい普通に誘われれば、富竹だって断らない社交性を持ち合わせている。
しかし、どうにも守井という男の警察官に似合わぬ軽々しい雰囲気が、富竹の感性を逆撫でするのであった。
ただ、それは富竹の生真面目な性格も原因らしく、他の者には守井の明るい笑顔は好評だという。
つまり守井を前にすれば、どんな人間でも庇護欲をくすぐられるわけだ。
問題なのは守井が天然ではなく、それをわざと演じている節があるのが一番気にくわない点だった。
「私なんか誘ったってなんにもならないわよ。女性を誘うなら交通部でも行って来たら?」
「そうですね。交通部は可愛い娘、多いですもんね」
守井もそれには賛同らしい。嫌味ったらしく言った富竹の言葉は簡単に流されてしまう。
「お二人共、それは偏見っすよ。刑事部も交通部も女性は女性っす。女性はことごとく平等にお誘いしなくちゃダメっすよ」
二人のやり取りに横から口を挟んだのは、鑑識課の白髪有助(しらが・ありすけ)だった。
白髪は女好きで有名な男だ。白髪も守井とは違う意味で軽い口調の男であったが、警察官として正式な場に出るときは、礼儀正しい言葉使いは心得ていた。
だからこそ、気心の知れた仲間内では、砕けた言葉使いをするのだ。
年がら年中、気を張っていれば、警察官といえども息が詰まるというもの。
「珍しいね。白髪が捜査課に来るなんて」
富竹は素直な感想を言う。
鑑識課はどの部署とも密接に繋がっている現代警察組織の要といえる部署だ。
しかし、女性を誘う目的以外で白髪という男が捜査課のフロアにいることは、明らかに違和感があった。
捜査課にも富竹の他に女性はいるが、彼女たちが出払っているのはフロアを見渡せば一目瞭然だった。
「二人とも、課長さんが呼んでるっすよ」
そんな白髪から急に用件を切り出され、富竹の表情に曇りの色が出る。
「課長? うちの清水課長?」
「そうっす」
「私と守井、二人とも?」
「そうっす」
白髪は軽い口ぶりで肯定する。
「さっき鑑識の報告書持って行ったら、二人を呼んで来いって。……多分、あの『リフティング事件』っすよ」
「あれって、事故なんですよね?」
守井の言葉に富竹も頷く。
『リフティング事件』。つい三日前に発生した案件で、テレビのワイドショーでも報じられたので世間的にも話題となった事件だ。
しかし、事故の可能性が高いと知るやいなや、マスコミは蜘蛛の子を散らすように取材に来なくなったらしい。
「清水課長は何かあると見てるっすね。鑑識課も動いてるっすよ」
「とりあえず課長の所に行きます?」
守井の言葉に「どうして疑問系なのよ」と富竹は心中で突っ込んだ。
「呼ばれたら、行かないといけないでしょ」
どうせ、ろくでもないことでしょうけどね。と富竹は独り心地で思う。
「それじゃあ、自分はこれで」
白髪はそう言うと、さっさと捜査課フロアを去っていった。
「……アレって、交通部の方ですよね?」
白髪の去っていた方を指差して守井が呟いた。
「別にいいでしょ、白髪君が交通部の女性を引っかけに行くのは、いつものことよ」
呆れ顔の富竹は報告書を手早くまとめ、清水課長のデスクに置いた。
しかし、その席に座っているはずの者はいない。
富竹は踵(きびす)を返し、守井を連れて喫煙室に赴(おもむ)いた。
そこにはいつもの如く清水課長の姿があった。
清水が席にいなければ十中八九、喫煙室だということは、刑事部の常識であった。
「課長。何かありましたか?」
喫煙室に入るなり、守井が間を置かずに切り出す。そういう中途半端な躊躇をしない辺りが、守井の長所といえた。
行動力はあるが、どうすればいいか先に色々悩んでしまう富竹には真似出来ないことだった。
清水は二人に一度、目をやると、何事もなかったかのように短くなった煙草を灰皿で押し潰し、次の一本に火を点けた。
ジッポライターを閉める音が虚しく喫煙室に響く。
「……会社員の転落死事件を知っているな?」
清水は意味ありげに間を空けて言った。その雰囲気に新米刑事の二人は息を飲む。
「通称『リフティング事件』ですね」
「守井、そんなテレビみたいなことを刑事(デカ)が言うな。まだ捜査中の案件(ヤマ)だ」
そう言うと、清水は紫煙を吐き捨てる。
「事件、なんですか?」
富竹が素朴な疑問を口にする。
事件ではなく事故ではないのか、という意味だった。
「だから捜査中だ。……正直、事故の方がありがたいんだがな」
清水課長は苦々しい表情をする。明らかに裏に何かあると言わんばかり。
事件か事故か不明の案件に課長が何をかんじているのか、二人には見当も付かなかった。
「公式発表はしていませんが、事故という見方で所轄は捜査していたらしいですからね。
これが他殺だったとすると、マスコミが五月蝿そうです」
守井の考えは聡い。それも清水にとって頭痛の種の一つだった。
「正直わからん。状況証拠は完全な事故だったそうだ。
目撃者もゼロ。事故として処理するのが一番手っ取り早かったんだがな。
……これを見ろ」
清水は写真付きの書類を二人の前に置いた。死体検案調書、いわゆる検死結果という奴だった。
墜落死体ということで、頭部の損壊が激しい写真付き。
警察官としてある程度の慣れはあるものの、お昼の食事時に見たくはない惨状だった。
「オマエ等、これ見てどう思う?」
「検案を、ですか?」
清水課長に促されるまま、富竹は検案調書に目を通していった。
検案所見など、専門用語の小難しい言い回しの文章が羅列されている。
職務上だいぶ慣れたものの、どうにもこういう形式張ったものは読みづらくて仕方がない。
監察医の所見は頭蓋損傷により即死。
どうやら頭から地面に墜落したらしい。それ以外には特に不審な記述は見当たらない。
清水課長がわざわざ見せたのである、何か重要なものを見落としたのかと、富竹は段々心配になってくる。
そして、最後に書かれていた「死亡前後の状況及び検案所見に対する考察」という項目には
『本屍は前記発生場所に隣接するビルより墜落したと考えられる。
検案、解剖の結果、死因は墜落による頭蓋損傷であり、全身に見られる打撲痕は同墜落時に地面との衝突よるものだと推定される』
と書かれていた。
何度読み返しても不審な点は見当たらない。
ということは、何かが書かれているのではなく、この内容から何かを読みとれということだ。
「なんだか普通ですね」
横から覗き見るように検案調書を見ていた守井がぽつりと漏らした。
確かに証拠になるようなことは何も書かれていない。
「そう思うか守井?」
そう言う清水課長の口ぶりは、暗に普通の遺体ではないと言っていた。
「守井。人が高所より墜落した場合、三パターンに分けられるのは解るよな?」
「え~。三パターン……。
自ら飛び降りた自殺、誤って落ちてしまった事故、誰かに殺意を持って突き落とされた他殺の三つですか?」
課長の問いに、守井は自信なさげに答えたが、富竹も恐らくそれが正解であると考えた。
清水課長は守井の答えにさしたる反応を示さず、手に持っていた煙草を灰皿の端に置き、自らの顎(あご)の先を何度も撫で回す。
その態度に、回答が間違っているのかと心配になるが、次に清水の口から出たのは肯定の言葉だった。
「そう、その三つだ。その三つにはそれぞれ特徴がある。
自殺は飛び降りた場所に靴を揃えたり遺書がどこかにある。自殺する奴は、なぜか自分が自殺したと教えたがるものだ。
事故は足を滑らしたような跡が落ちた場所に残る場合が多い。
突き落としなら争ったような跡がな」
「でも今回は、そのどの痕跡もなかったんですよね?」
「そう、現場にそういう類の物証はなかった。
しかしだ。死体自体にもその三つには差が出てくる。
飛び降りは足か、体全面から地面に墜ちる。
自殺で頭からダイブしたり、後ろ向きに飛び降りる奴はまずいない。
足を滑らした場合は反射的に落ちないようにしがみついたり、手で掴まろうとしたりして、手を打ったり擦ったり、傷つくものだ」
清水課長の言葉は、長年の刑事人生から得られた自信に満ちあふれるものだった。
「……つまり、頭からまともに落ちているこの人は突き落とされた可能性があるということですか?」
富竹はそう言うと、もう一度検案調書に目を走らせる。
確かに、死亡した会社員はまるで頭から真っ直ぐ落ちたかのような死に様だった。
「そう、あくまで可能性だ。
自殺で頭から落ちる奴もいるし、盛大に足を滑らせて、問答無用で落ちる奴もいる。
だが、今回の事件では屋上のフェンスが押し倒されていた。
これが誰かに落とされた他殺だったなら、死体に争った痕がないのは不自然だ」
ぎゅっと気が引き締まる思いだった。
まだ新人とはいえ、検案調書を見ても何も読みとることが出来なかったのは恥ずべきだと富竹は思った。
「確かにそうですね……」
富竹は粛然とした態度になる。ところが、横にいる守井はそんな素振りは見せずに
「睡眠薬で眠らせて落としたとか?」
とか言い出す始末だ。
「守井、何言ってるのよ。司法解剖でも薬の類は検出されてないじゃない」
「念の為、科捜研に血液サンプルを送って再検査してもらっている」
さすがに捜査課長の手は早い。
まだリフティング事件が起こって三日しか経っていないというのに、段取りの良さに二人は仰天した。
先ほど灰皿に置いた吸いかけの煙草を口元に戻し、清水課長は一服をする。
その間に富竹は事件の状況を頭の中で整理した。しかしどうにも納得がいかないものがある。
「課長。課長の仰ったことを踏まえても、私には他殺は可能性だけで、単なる事故に思えるんですが……」
その言葉に、清水課長は頭を軽く掻きむしり、何か思案してからゆっくりと答えた。
「富竹。そりゃあ、お前がまだ一般常識とかそういうものを持った一般市民だってことだろうな。
長年、刑事なんて因果な商売をやってると、疑り深く仕様がなくなる……。
でもな、オレの刑事の勘がな、囁くんだよ。裏に何かあるってな」
「何か、ですか?」
「でだ、鑑識からこれが上がってきやがった」
それが本題だったのだろう。テーブルに叩きつけるように差し出された一枚のフィルム。
「いやはや、他殺(コロシ)と決まったわけじゃねえからな、人手裂けねえから苦労したそうだ。鑑識に借り一つ作っちまった」
「ゲソコンなんて取ってたんですか?」
守井が驚きの声を上げる。『ゲソコン』とは、漢字で書くなら『下足痕』。
つまり、指紋と同じように、足跡の痕跡を取ったものだ。
「事件と決まっていないのに、わざわざゲソコンまで取るなんて、課長もよくやりますね」
「ああ、オレの独断で本部の鑑識、送り込んでやった」
富竹の言葉に、とんでもない答えが返ってきた。
課長もよくやると呆れてしまう。
しかし、それで普段は捜査課にほとんど顔を見せない白髪が現れたことに合点がいった。
このゲソコンの報告書を持ってきたのだ。
「またそんな所轄の逆鱗に触れるようなことを……」
「そんなこと、オレには関係ねえな。
所轄に根回ししてたら時間がなかったからよ。鑑識は出来るだけ早い方がいいのは当然。
ここ最近屋上に出入りした社員の靴も提出願って比較するんだ。
それこそ、いくら時間があっても足りねえんだよ。所轄の鑑識じゃあ、これを二日では出来なかっただろうよ」
「何も二日でやらさなくても……」
どうやら本部鑑識課の余剰人員は総動員されたのだろう。
可哀想な鑑識課の連中が清水課長のお願いに不眠不休で駆り出される様が容易に想像出来た。
やっと強制労働から解放されたので、鑑識課の白髪有助は女性を求め交通課に引き寄せられていったのだと気付き、富竹は失笑を漏らしそうになった。
しかしならが、それほど迅速強引に事を進めたということは、それだけ清水課長がこのリフティング事件を焦臭く感じている証拠だろう。
「この靴痕。やっと出た唯一の物証かもしれねえ。
こりゃあ部外者の靴痕だ。付いたのはごく最近。
恐らく事件当日かその前後。男物のスニーカーだ。
しかもかなり靴底がすり減っている。
あのお上品な会社ビルだ、そんな会社の社員にこんな物を履いて出社する奴はいないそうだ」
「はぁ」
課長の熱弁に、富竹はどこか冷めた相づちを打つ。
「というわけでだ。お前等、これ調べて来い」
「私たち」
「二人でですか?」
まるで申し合わせていたかのように、富竹と守井の声は掛け合った。
それに気付き、二人は思わず目を見合わせた。富竹が嫌そうに口元を歪ませた。
通常、刑事の捜査は一人で行うことはない。
二人一組のペアを基本として、二人以上の捜査態勢を必ずとるのだ。
そのペアも通常はベテラン刑事を軸とする。富竹と守井のように、この間まで交番勤務をしていた新米刑事をペアにするなど、慣例上あり得ないことだった。
「別件で皆、手が空いていない。お前等二人で、なんとかしろ」
そうは言われても、と富竹は口に出しそうになったのを押しとどめた。
課長が口に出したことだ。富竹と守井の二人一組(ツーマンセル)、それが決定事項なのだ。
それこそ新米の富竹が口を挟み得る問題ではない。
「所轄に嫌味を言われて来いってことですか」
富竹は溜息をつく。
ただでさえ所轄の捜査に本部の刑事が参加をして、いい顔をされないのは身をもって知っていた。
それなのに課長が強引に事を進めてるとなると所轄の反発は容易に想像が付く。
「なぁに、管轄は所轄が譲らんだろうから、お前たちは形だけ参加すればいい。
ただ、『事件』が『事故』とならないようにだけは気を付けろ」
事件が事故。
警察の不祥事となると昨今の風潮でいけば、半端なバッシングじゃ済まないだろう。
マスコミとは自らを正義と盲信する厄介な存在だ。敵に回すのは得策ではない。
しかしそれならば所轄に任せ、本部は関与しない方が本部の課長である清水には都合がいいはずである。
ならばなぜ、わざわざ本部の刑事を捜査にやるのか。
上からの指示なのか、それとも他に特別な理由でもあるのか。
清水課長の態度に、どうも富竹は腑に落ちないものを感じた。
「トミー姉さん、頑張りましょうね」
富竹の不安を余所に、守井は気の抜けるような笑顔を向ける。
頼りになるんだか、ならないんだか、困ったパートナーに富竹は苦笑で答えるしかない。
こうして、富竹守井ペアによる『リフティング事件』捜査が始まる。
それが後に警察庁広域重要指定事件『6-2事件』と呼ばれる物の発端であることを知っている者は、まだ誰もいなかった。
(「六ノ二」第2章の2へつづく)
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とある方からの依頼で書いた作品です。
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