勇者が構えた伝家の宝剣は、すでに魔王の胸元に突きつけられていた。
聖なる龍を象った宝剣の鍔が吐き出す炎のような白刃が、魔王の最後の心臓を貫くのを待つのみだった。
それでようやく、この十年にも渡る魔族の恐怖から人類は解放されるのだ。
世界はその瞬間を迎えようとしていた。
満身創痍の勇者は肩で息を継ぎ、細腕が支える剣の切っ先は小刻みに震えていて、これまでの戦いの激しさを物語っていた。
魔王に顧みると、勇者が浮かべる苦悶の表情とは、うって変わっていた落ち着いたものだった。
この時までに魔王は七つ持つ心臓のうち、六つまでを失っていた。それ故、真の姿である邪龍の形を現実界に留められず、卑小なる人の似姿となっていた。
洞窟の石筍に身を預けながらも、その口元には微笑を浮かべてすらいるように見えた。
「何がおかしい」
勇者は搾り出すようにして、問いかける。
魔王は死の色に似た唇から、自らの血で汚れた牙を覗かせ、ため息とともに答えた。
「ワシを弑(しい)すのか?」
「この期に及んで、命が惜しくなったのか。災厄の王よ。人は安寧な世界を望んでいる」
息を切らせながらも、勇者は決然と答えた。
「ワシら魔族を除いた世界が貴様の言う安寧な世界とでも?」
「言うに及ばない」
「ワシに施すべきは、封印ではないのか?」
「私は聖なる龍の名において、汚れた龍を打ち倒すのみ。いつ破れるとも知れぬ封印など私は用いない。後の世の禍根となる」
勇者が左の掌底を剣の柄頭にあてがい、全体重を預けた刺突のための構えに移る。
魔王の最後の心臓を狙う、震えの止んだ剣尖には目もくれず、魔王が呟いた。
「封印とは貴様と、貴様の世界のためだ。かつて、貴様の先祖に語り、貴様の先祖は受け入れた」
「お前を殺さずにいたのは私の先祖の過ちだ。私が断つ」
「魔族を滅ぼせば、早晩大陸は己が欲に満ちた戦乱渦巻く事となろう。到底、勇者一人では解決することなどできぬ」
「聖賢なる王の下に忠実なる諸侯が集う、この大陸でそのような事が起きるはずもない」
「人間は浅ましい生き物だ。我ら魔族無しには結託することもできぬ。既に諸侯の間でワシ亡き後の裏取引が進められていることだろう」
魔王は鼻で笑うと、顎で勇者の鍔を指し、再び口を開いた。
「ワシは元来貴様らの崇める神龍の眷属である。この事の意味がわかるか。魔族を率いて人間どもの争い調停する者として、ワシは遣わされたのだ。この世の力が均衡し、あらゆる諍いが消えた時、ワシは再び天へと帰ることになる」
魔王は片眉をあげて、氷柱石の下がる天井、その先の暗がりを見つめながら言った。
「貴様とて、我ら魔族を滅ぼした後はどうする?」
「王に臣従する事を約している」
「人に過ぎた力は王の悩みの種となろう」
「馬鹿げたことを。私は力の何たるかを知っている」
「または、貴様を唆して王位簒奪を狙う者も現れよう。人々の尊崇は王ではなく、貴様に向いている」
「私が臣としての範となれば済むことだ」
「無論、貴様は命を狙われよう。魔族と結託して権勢を得たものや、貴様を妬むものからな」
「返り討ちにしてくれる」
「魔族とは勝手が違うぞ。子々孫々にわたって血で血を洗うことになる」
その魔王の言葉に勇者は答えなかった。
勇者は未だ、人を手にかけたことはなかったのだ。
「治世において、臣としての才は貴様にあるのか?」
「学べば良いこと」
「子孫はどうかな? 治世に於いて、いずれ厄介者となろう。過去の栄光に威をかる佞臣として」
魔王の冷たい視線が白刃を駆け上り、勇者を射すくめた。
「貴様の一族が王より得た援助は、ワシと貴様の先祖の計らいだ。真の勇者の血筋など存在しない」
「我が血統を愚弄するか!」
「封印の恩恵に過ぎぬ。破れた封印に対処出来るのは、自分の家系の者のみと王に吹聴したのだ」
勇者は一瞬狙いが逸れた剣尖を、慌てて戻しながら唾を飲んだ。
その音は魔王の耳にも、はっきりと届き、最後の問いを発した。
「もう一度言おう、ワシは貴様の先祖と取引をした。貴様の代までの富と、ワシの宿願のためにだ。そしてまた、貴様に問う」
言葉が鍾乳洞の奥底に飲まれるのを待って、魔王は問い直した。
「先祖と同じくワシを封印するつもりはないか?」
「断る!」
勇者の怒声が混沌とした闇に残響した。
数カ月後。
勇者一人が魔王の洞窟に挑み、行方が知れなくなったまま、時が過ぎた。
以前と比べ、劇的に数は減ったものの、魔族との遭遇は散発したため、人々は勇者が返り討ちにあったのではないかと噂し合っていた。
だが、人々の噂も徐々に落ち着きつつある世界の、不便で忙しない日々に紛れるようにして消えていた。
そんな日々の喧騒を辿った先、澄んだ青空の下に、とある城塞都市の広場があった。
ちょうど定期市が開かれ、街は祭りさながらに賑わっていた。行商人が地域の産物を並べ、訛りの強い客ともどかしい交渉をする隣の一角で、男女一組の旅芸人が劇を演じていた。
演目は『勇者、最後の戦い』。
行方知れずとなった選ばれし勇者と魔王との戦いを描いた、架空の仮面劇である。
勇者役の女は男装して真剣を用い、魔王役の男は魔法を用いる離れ技の演劇であった。
劇は訪れる街々で人気を博し、その観衆は勇者の武勇を慕い、魔族の恐ろしさに身震いした。そして、この劇に倣って、魔族の絶えた平和な世界が英雄的な誰かによって、もたらされることを願った。
ただ、そのような世界が訪れることのない事は、演者である二人には自明であった。
なぜなら、この二人の旅芸人こそが、まさに『勇者、最後の戦い』の登場人物の二人、勇者と魔王が身をやつした姿であったからである。
洞窟内での問答の末、勇者の至った結論であり取引だった。
勇者自身の将来、魔王の宿願のために、魔族との均衡状態、そして諸侯間の均衡状態を保ちながら、争いを減じていく事が必要だった。
敵対する人間と魔族の両方の筆頭の存在を曖昧にし、最後は演劇にまで通俗化した。勇者本人でありがながら自分の性を偽り、男としたのも、その為であった。
人間と魔族の敵対は、忘れてはならないが絶対のものではない事を民衆から権力者にまで知らしめようと考えたのだった。
二人は人間、魔族ともに均衡を脅かす者には時に牽制を加えたが、極まれなことだった。
その甲斐あってか、徐々に世界から剣戟の音は遠くなっていった。
勇者にとって最後の懸念が残されていた。
自分が人として命ある内に魔王の宿願を果たす事ができるのか。
魔王の魔力により不死を授かり、永遠の演じ手とならねばいけないのか、ということだった。
その不安を胸に、かつての女勇者は今日もまた広場にて架空の戦いを繰り広げる。
そして、今まさに演劇は最後の場面を迎える。
「勇者よ。力あるものよ。ワシと共に、この世界を統べようとは思わないか?」
「断る!」
仮面を付けた勇者の凛とした声が、雲ひとつ無い青空に響いていった。
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ドラゴンクエスト調の作品に見られる「魔王の封印」について、勇者個人の政治学的な観点から見直してみました。グノーシスっぽい要素も幾分か入っているかもしれません。こんな考えもあるのか、と楽しんでいただければ幸いです。