僕は自分が植物状態になったかのような気持ちでベッドに横になり、そしてそのままどうやら眠
りにつこうとしているらしい。
眠りにつこうとすると言う事は、何も考えないでいられるからいい。むしろ何かを考えようとする
と眠りにつけなくなってしまう。
眠りは、何も考えずに済ませてくれるから、今の僕にとっては眠りにつこうとする時間が最も好
きだった。何もかもから逃げることができる。
もし夢の中から目覚めることが無かったら、僕は夢の中の世界を現実だと錯覚し、それに気が
つく事も無いだろう。
今まで僕の現実の世界で起こっていた事も、車にはねられて車椅子生活をしていると言う事
も、夢の中の事だったとしたならば、僕は夢と現実が間逆になってしまうのも悪くは無いと思っ
た。
気がついた時、僕は暖かく、気持の良いぬくもりの中にいた。今までに感じたことが無いほど居
心地の良いどこかだ。
それは僕が普段眠っているベッドの中の布団などでは、実現することができないほど気持ちが
良く、居心地も良い。
そこにいるだけで、今日感じてきた、様々な嫌な思い、出来事さえも全て消え去ってしまいそう
なくらい気持ちの良い場所に僕はいた。
最初はその気持ちよさの真っただ中にいるだけで、僕はそこに声が聞こえてきている事に気が
付かなかったが、やがて僕はどこからか聞こえてくる声を聞いていた。
「…思っていたよりも…、可愛いのね…」
まず初めにその声が女の人の声だと言う事が分かった。それも大人の女の人の声がどこから
か聞こえてくる。
「まるで、自分に何が起こっているのか、知らないみたいに気持ちよく眠っている…」
どうやら声の主は、目を覚ましつつあることに気が付いていないようだ。声はかなり近くから聞こ
えてきている。顔を間近に近づけて独り言のように呟いているのだ。
一体、誰なのか、最初は僕には分からなかったが、どこかで聞いたことがあるような声である気
がした。
「そんなに気持ちが良いのかしら…?」
この声の響き方、僕が良く知っている声の主にそっくりだった。離し方はとても優しげで、まるで
僕の事を、赤ん坊か何かであるかのように接してきているようだった。
「…、お母さん…?」
僕はそのように言い、目を覚ました。
「きゃ」
するとそのような声が上がり、僕の眼の中に飛び込んできた人影が、さっと身を引くのが見えて
きた。
声はお母さんのような声をしていたが、どうやら僕のそばにいたのは別人だったようである。そ
れはすぐに分かった。眠っていた僕のすぐ傍にいたのは、金髪で青い瞳、そして緑色の服を着た
女の人だったからである。
お母さんとは似ても似つかない。全くの別人だった。
僕が目を覚ましたことで驚いたらしいその女の人は、すぐに体勢を立てなおし、僕の元へと近付
いてくる。
「だ…、大丈夫だった。ごめんなさいね、驚かせちゃって…」
と、僕のお母さんに似た声の女の人は言ってくる。声は似ていると思ったが、僕のお母さんに比
べれば相当に若く、僕に姉がいたとしたら、そのくらいの年頃の女の人だった。
背はそれほど高くは無く、中学生である僕よりも少し高いくらいだ。とても優しげな顔をしており、
僕の事を気遣ってきてくれている。
突然現れた彼女に、僕は驚かされたが、驚いたのは僕だけではない、女の人の方もそうだ。
「いえ、大丈夫…」
僕は気遣って来た女の人に対してそう答えた。
「あら、良かった」
と女の人は言い、僕に対してにっこりと微笑んでくれた。その微笑みだけでも僕を安心させてく
れるかのような顔立ちをしている。
だが、彼女は一体何者なのか、僕には分からなかった。
僕は周囲を見回してみた。気がついた僕は見知らぬ場所へとやってきていた。視界の中には
目の前にいる女の人と、木が沢山ある事に気がつく。地面は芝生になっていた。そこにある木で
できたベンチの上に僕は横たわり、女の人は僕のすぐ傍にしゃがんでいた。周囲に立ち並んでい
る木は多く、どうやら森の中に僕らはいるらしい。
他に人の姿は無い。僕と女の人がたった二人だけで森の中にいる。
森には木々だけではなく、霧が広がっていた。それはまるで白いカーテンであるかのように木々
の間に立ちこめており、ここは屋外であると言う事だけは分かったが、太陽の光も差し込まない
ほどに霧は濃く広がっているようだ。
何故、こんな場所に、僕と女の人が2人でいるかは分からない。ただ突然、僕の目の前に突き
つけられた現実だ。
だが、思い出していた。僕はここ数日の間、眠りについて目が覚めると見知らぬ世界へとやっ
てきてしまっていて、そこで不思議な人達と出会い、奇妙な怪物に襲われたりした。
それが、一体何なのかは分からなかった。現実ではありえないような出来事が次々と僕の目の
前にやってきていたわけだけれども、それは所詮夢でしか無かったのだ。
ただ、今までに僕が見てきた数多くの夢の中でも、あまりにもそれらは現実感のある夢だった。
真に迫った迫力があり、確かな現実として体に焼き付いてしまいそうなぐらい確かなものとして感
じられた。
今、僕の眼の周りに広がっているこの世界も、ただリアルなだけの夢なのかもしれない。
そう。所詮これはただの夢にしか過ぎない。
だが、僕はこの世界に興味を持った。
「あの…、あなた、大丈夫?」
僕の目の前にいる女の人は、僕に向かってそう言って来た。どうやら心配してくれているようで
ある。
だが、僕はその質問には答えずに尋ねた。
「ねえ。これは夢なんでしょ?」
これが僕の夢の世界にしかすぎないのならば、周りで起こっている事は、僕の想像によって生
み出されたものでしかないはずだ。
僕の想像で生み出されたものと言う事は、何でも全てが、僕の思い通りの答えをしてきてくれる
に違いない。
だが、僕の目の前にいる女の人は、困惑したような表情をして見せた。
「その…、何と言ったら、良いのやらで…」
その困惑ぶりは演技などでは無い。本当に僕の質問に対して答えを見つけられないようだっ
た。
「じゃあ、この世界は一体何なの?そして、あなたは一体誰?」
僕は木でできたベンチから立ち上がり、身ぶり手ぶりをしてみせながら女の人に尋ねた。しゃが
んでいた女の人も僕の前で立ち上がる。彼女は緑色のロングコートのようなものを着ていて、そ
の金髪を肩辺りの長さにしていた。
僕が出会った事もないような女の人だ。そんな、出会った事も無いような女の人が、はっきりと
実感のあるものとして、僕の目の前に立っている。
「まず、ここがどんな世界がを説明するのは難しいけれども、少なくともわたしの名前は、パレネ」
パレネ?聞いた事も無い名前だったし、言葉の響きも僕の知っている言葉からはとてもかけ離
れているような気がする。
そんな、聞いた事も無いような響きの名前を持つ人物が、どうして僕の目の前に現れたのか、
さっぱりわからない。僕の目の前に広がっている世界が夢だったとしても、これはあまりにも異様
だった。
僕は、自分より少しだけ背の高い、そのパレネという女性の顔を見上げて口を開いた。彼女
は、いつも相手に対して好感を得ようと努めているのか、決してその穏やかな表情を絶やそうと
はしなかった。
「じゃあ、パレネさん。ゆっくりと、時間をかけてもいいから、ここが何の世界なのかを教えて?」
霧に包まれた森の中にいる僕ら。パレネと自分の名前を名乗った女性は、そんな僕の顔を見
つめつつも周囲を伺った。
周囲を伺う表情になると彼女はその穏やかな表情のなりを潜ませ、突然、周囲に対して警戒心
を払うような目つきになった。
何だろう。また、僕の夢の中に変な怪物でも現れようとしているのだろうか?
今の僕には周囲の霧の向こう側からは何も感じることができなかったし、なにかが迫ってきてい
るようにも思えなかった。
「もしかして、何か近付いてきている…、とか…?」
僕は顔を上げて尋ねた。最近の夢の中に出てきているパターンと同じかもしれない。僕は夢の
中で見知らぬ場所で、見知らぬ人と出会い、そこで、怪物に襲われるのだ。
「そう。でも、安心して。わたしについてくれば大丈夫だから」
と、パレネと僕に名乗った女の人は言うのだった。
最初に眼を開いた時は、とても優しげな印象を持ったものだったが、今、彼女が僕に向けてい
る表情は、引き締まっており、頼りがいがありそうだった。彼女が発した言葉にも強い説得力が
ある。
「こっちに、来て。さあ立って」
と、彼女に言われると、僕は少しはためらったが、何とか立ち上がることができた。
脚元がふらつくが立つことができるし、そのまま、歩いて行く事もできそうだ。そうだ。ここは夢の
中なんだから、僕は歩く事ができるし、車椅子なんていらないのだ。
僕は木でできたベンチから立ち上がると、パレネと名乗った女の人についていく事にした。
彼女に言われた通り、付いてくれば安全という言葉は確かだった。僕らは、木のベンチがあっ
た場所からしばらくの間歩いたが、そこでは前の僕の夢で現れたような怪物は現れなかったし、
その気配を感じる事も出来なかった。
どうやらこの夢は、僕がここ最近見ている奇妙な夢の続きのようだぞ。と僕は思うのだった。
だがこの夢は、僕が思っているように、パレネという女の人が言うように、夢ではないのだろう
か?
そんなものが果たしてあるのか、僕には分からなかったが、今は、僕はそのままパレネという女
の人に付いていった方が良さそうだった。
ここが例え夢の中であったとしても、あの黒い煙の怪物と出会ってしまうのは嫌だったし、そん
な悪夢になるくらいだったら、見知らぬ人と会話している方が面白そうだった。
まず、この目の前にいるパレネという人が、何者かを知りたかった。
僕と、パレネは、霧に辺りを包まれた森の中を進んでいった。霧は深く、僕達がいる森がどのく
らいの規模があるのか分からなかった。だが、先ほどから10分ほど(それは僕が感じている時
間だ)歩いても、森の木の高さや木の密度が変わっていない事からして、森の規模は結構広いよ
うだ。
「ねえ、あの、ちょっと」
僕は、どんどん歩いていこうとするパレネの背中に尋ねた。
彼女は森の中にある道をどんどん進んでいこうとしていた。僕が遅れてしまったら、霧の向こう
に彼女が行ってしまい、二度と出会うことができないかもしれない。それだけ、周囲の霧は奥深い
ものだ。
「あら、どうかしたかしら?大丈夫?」
背中を向けて歩いてきたパレネは、僕の方を振り向いて気遣う。さっきは、僕の事をしっかりと
気遣ってくれる人のように思えたが、僕を連れて歩いて行く彼女のペースは思ったより早い。
僕は、いつもは車椅子で生活しているのだから、例えここが夢の中であったとしても、歩くと言う
感覚自体が慣れていないのだ。普通の人の歩き方であったとしても、僕はその感覚に付いていく
事自体がやっとなのだ。
「ごめんなさい…。でも、僕は、本当は歩けないんだ。だから…、もう少し、ゆっくりとして欲しい…」
夢の中だと言うのに、僕は随分情けない声を出してしまったものだと思った。僕が、歩くのを止
め、森の道の真ん中で立ち止まっていると、前を歩いていたパレネは、僕の方へと駆け寄って来
た。
「えっ。そうだったの。ごめんなさい。わたし、そんな事なんて知らなくて。もしかして、病気か何か
とかで…」
彼女は僕の体をまっすぐと立たせるように手を貸してくれ、僕はそれに従って、ふらつく体を立
ち上がらせた。
「いや、交通事故で、ちょっとね…。本当は車椅子に乗っていなきゃあいけないんだ。本当はね
…」
僕は作り笑いをしてそのように答えた。
「交通事故で…?じゃあ、辛かったでしょう。例え、この世界にいてもね…。肩を貸してあげましょ
うか…」
僕の言葉を再確認するかのようにパレネは言う。そして、僕に肩を貸して歩かせてくれそうだっ
たけれども、どうやら今の僕は脚元がふらつくものの、何とか歩く事ができそうだったから、彼女
の申し出は断った。
見知らぬ女の人に肩を貸してもらって歩かせてもらうのは、例え夢の中であっても僕にとっては
恥ずかしい事だった。
「ところで一体、あなたは、僕をどこに連れて行こうとしているの?」
ふらつきながらも自分の脚で立った僕は、パレネにそのように尋ねた。すると彼女はすぐに僕
に向かって答えてきてくれた。
「それは、あなたがいても安全な所よ。あなたも知っているでしょう?真っ黒で、とても不気味な音
を出す、あれ」
パレネは僕の顔を見つめ、そう言ってくる。彼女が言わんとしている事は僕にはすぐに分かっ
た。
「あの黒い煙のような怪物に、僕が襲われないような場所に連れて行ってくれるって言うの?」
と、僕は尋ねる。
「そう。それが、わたしのあなたに対しての務めでもあるのよ」
僕の目の前にいる女の人、パレネは、僕の言葉に、まるで付け加えるかのようにしてそう答え
るのだった。
「務め?務めって、何?そもそも、あなたは一体何者で、ここは一体、どこなの?僕にはそれが、
さっぱり分かりやしない。僕は、ここ最近、同じような夢をずっと見続けているけれども、今いるこ
こも、やっぱり、その夢の世界なの?」
僕はパレネに尋ねた。前に出会った二人からはそれを聞く暇も無かったし、気弱な僕には、強
気そうに見えた二人には、とても尋ねられそうな人には見えなかった。
だが、パレネに対しては初めて出会った時から、どことなく親近感が感じられたし、答えてくれる
ような気がしたのだ。
だから僕は思い切ってパレネに尋ねた。
「何と言ってよいのか…、あなたが、理解することができるかしら?」
突然、パレネは僕の顔を伺うかのような表情になる。彼女は僕がした質問を、じっくりと吟味す
るかのように少し時間をかけて、僕の姿を、頭から脚まで見定めた。
優しげな彼女の表情も、まるで僕を疑っているかのようなものになる。そんな彼女の表情に戸
惑った僕は、彼女から目線を離して言った。
「とりあえず、分かりやすい言葉で言ってくれれば…」
僕が発したその言葉には、その言葉の意味通りのものもあったし、彼女の疑うような視線から
僕自身を守るという意味もあった。
だが、彼女の表情はその言葉だけで元に戻るわけでもなかったし、より一層、真剣な表情で僕
に迫ってくるかのようだった。
「そう…。どうしても聞きたいのね。じゃあ、歩きながら話していきましょう」
と、パレネは僕に言い、僕達は再び霧深い森の中を共に歩き始めた。
先ほどまでは、パレネが先を歩き、僕がそれに従ってついていくという形だった。今度は違い、
彼女が僕のすぐ横を歩いている。僕達は並んで歩きだした。
霧はだんだんと濃くなってきているような気がした。森の木々はその霧の向こうからも次々と姿
を見せ、僕達が歩いている森は、まるでその終わりが無いかのようである。
こんな森の中に一人ぼっちで放り出されてしまったら、きっと僕だったら、パニックに陥り、何も
できないだろう。そう思っていた。
そんな霧深い森の中を歩きながら、パレネは話し始めた。
「あなたは、この世界を“夢”だと思っているようだけれども…、“夢”は、わたし達の世界の入り口
でしかないの。あなたの意識が、わたし達の世界に入ってくる入り口でしかない…。だから、あな
たは、確かにこの世界に実在しているし、形もしっかりと存在しているのよ」
それは意外な言葉だった。僕にとってはすぐには信じられない。冗談か、まやかしかもしれな
い。夢の中に出てきた人間が、“ここは夢ではなく現実の世界だ”と言ったところで、それはまや
かしでしか無い。
パレネも、そんな夢の中のまやかしの存在なんじゃあないだろうか?僕の想像が勝手に作り上
げた、まやかしの存在なんじゃあないだろうか?
「ちょっと…、それって、じゃあ、僕は別の世界に迷い込んでしまったとか、そう言う事なの?」
そういう童話を昔読んだ事があるような気がした。だけれども僕にとってみれば、突然、そんな
話をされてしまっても、突飛な話すぎて理解する事なんてできない。
まさかそんな事が現実に起こるわけがないだろう。僕はそう思っていた。
「それで…、あなたは、その別の世界の住人というわけ…?」
僕は確認を取るかのように、パレネという女の人に尋ねる。今度の僕は疑いの目を持って、し
っかりと相手を見据えた。
すると、パレネは僕に対して答えてくる。その答え方は、真剣そのものだった。
「いえ…、住人というのは不適切な言い方ね…。そもそも、この世界の中には、今、あなたしかい
ない事になっている…」
不適切な言い方、とは何とも曖昧な言葉だろう。僕はそんな言葉づかいをする人を、後にも先
にも知らなかった。
「はあ?それじゃあ、あなたは一体、何者…」
と、僕は言いかけて尋ねる。すると、パレネは僕に対して即座に応えてきた。
「この世界自体が、わたし自身なの。でも、あなたの世界では、きちんとした“人”の形をしていな
いと、話しかけられるのは不気味でしょう?だから、わたしはきちんと“人”の姿をして、あなたの
目の前に現れているだけ」
彼女の答え方は、あらかじめその答えを用意していたかのようにはっきりとした答え方だった。
言葉をつっかえてしまうような事も無く、しっかりと明瞭な口調で僕に対して答えてくる。
僕は彼女の言葉をすぐに理解する事は出来なかった。何しろ言っている意味が分からない。僕
らの常識を超えている。
「そ、それって、どういう…」
「こういう事よ」
と、彼女が言ったかと思うと、僕の見ている目の前で、パレネの姿が突然消え去ってしまった。
何をしたのか分からない。突然、彼女の姿が消え去ってしまったのだ。まるで、霧が消え去って
しまうかのような消え方だった。あまりにも非現実的な光景に僕はとにかく戸惑ってしまう。
僕の目の前にいた、確かな姿を持った人間が、霧が消え去るかのように掻き消えてしまったの
だ。僕らのいる森を包んでいる霧が途端に濃くなって、彼女の姿を消しさってしまったのだろう
か?
いや、そんな事は無かった。
「ねえ、どこにいってしまったの?ねえ?」
僕は霧深い森の中にたった一人残されてしまい、戸惑う。
だが、僕の目の前にいた女の人、パレネはどこにも行っていなかったし、実は消えてさえいなか
ったのだ。
(心配いらない…)
突然、霧深い森の中に響き渡ってくる声。それは、確かにパレネの声だった。しかし、人が発し
たものとは思えないような響きを持っている。それは森の中の木々に幾度も反復して、とても大き
な音となって僕の頭上から降り注いできていた。
僕は思わず自分の頭上を仰ぎ見てしまう。そこに彼女がいるかと思ったからだ。だが、案の定
そこには彼女はいなかった。
霧深い森の中に背の高い木が立っているだけだ。
「ど、どこに…?」
「安心して」
僕が戸惑っていると、突然、響き渡っていたパレネの声が集中して、僕の背後に聞こえるように
なった。
僕がすぐに振り向くと、僕の背後には、何も変わらない姿のパレネがいた。金髪の彼女は緑色
のコートのような服を着たままだし、僕を安心させるためか、にっこりとほほ笑んできた。
「今、一体、何をしたの?あなたの姿が、突然…」
と、僕は自分の慌てぶりを隠す事も出来ずに言う。
「霧みたいに消え去ってしまった?って言うんでしょう?」
パレネが言うと僕は頷いた。
「…、不思議よね。感覚がそもそも違うっていうのかしら?“あなたの世界”では、今、私がいる状
態が普通の姿なんでしょうけれども、“わたし達の世界”ではそれが違うのよ。
今も言ったけれども、わたしの意識は、今、ここに集中させる事ができているけれども、わたし
自身はこの世界全てよ」
「世界全てが、あなた自身…?」
僕はそのように呟いて、周囲を見回してみる。そこには森があり、人が通れるほどの道があり、
霧に覆われていた。さっきの場所には木でできたベンチがあったし、広場もあった。
パレネの言う言葉をそのまま受け取るならば、さっきのベンチも、木も、僕が今立っている地面
も、彼女自身と言う事になる。
「“世界”は幾つもあってね。でも、世界同士は決して遠い所同士にあるわけじゃあない。あなた達
の世界の普通の感覚では、“わたしの世界”を認識する事は出来ないけれども、すぐ隣同士と言
って良いくらい近くにあるものなの。そして、あなたはそんな世界に意識だけ入りこんできてしまっ
た迷子さんというわけ」
パレネは僕を安心させるかのような口調で言ってくる。僕はまだ、彼女の言ってくる言葉を信じ
ることができないでいたけれども、とにかく安心する事は出来た。
「意識。今、この僕の体は、意識でできているっていう事?」
「だから、何分か経つと、ばらばらになって、あなたは意識も魂も何もかも消え去ってしまう…。何
て言う事は無いから安心してね。あなたの体は、あなたの元いた世界にちゃんとあるし、あなた
の意識をそこに帰してあげる方法も、わたしはちゃんと心得ているから」
と言って、パレネは僕の両肩に手を乗せて、僕を安心させてくれた。
「もしかして、僕が、前に出会った2人も、あなたと同じような人達なの?」
と、僕は尋ねた。“人”という言葉は、パレネが言ったように、彼女達が、僕が今、いるこの世界
のような存在そのものだとしたら、不適切な発言なのかもしれない。
だが、パレネはあえてか、その“人”と言う言葉は訂正せずに言って来た。
「わたしの姉、弟と、あなたが会っていた事はすでに知っているわ。だから、あなたがわたしの世
界にもやってくるだろうという事は予想がついたの」
パレネは自分達が世界そのものであると説明したばかりなのに、自分達の存在を、まるで人間
であるかのように言ってくる。
姉と弟とは、僕がすでに別の世界で出会った、あの二人だ。自分達が“世界”そのものと言って
いる割には、まるで生き物の、そして人間であるかのような言い方。そもそも彼女達は、生きた存
在であるのは間違いない。
僕がそんな疑問を持ちつつも、パレネは続いて僕に説明してきてくれた。
「姉、弟と言うのは、あなたの世界では、血縁関係を指す時に言うのよね?ただ、わたし達の間
では、ごく近い世界同士の事を言うのよ。だからあなたも、続けざまにわたし達、姉弟の世界に入
り込んできた…」
そこで、僕は一つの疑問をパレネという世界に尋ねてみた。
「何故、なの?僕は、何故、あなた達の世界に迷い込んでしまったの?
こう言う事もできる。やっぱりここは僕がただ見ている夢の中か、幻覚とかいう奴で、本当はあ
なたなんて存在しない。あなたがこの世界そのものの存在で、人の姿をして僕とお話をしている
のも、それは僕自身が勝手に作り上げた空想だって言う事も言える」
するとパレネは僕に向かって再び、安心させるかのようににっこりとほほ笑んだ。
「そうね…。そう考えてしまうのも無理は無いわ。だから、わたしはあなた達、迷い人に対しては強
制はしない。また、現実の世界で目が覚めても、結局はわたし達のいる世界が所詮は夢だったと
思う人もいるでしょう。
但し、わたしはあなた達、迷い人に対しては責任を持つ。もし、わたしの世界に人が迷い込んで
きてしまったら、それをきちんと送り返すと言う責任は持っている。それだけは…、そうね。きちん
と覚えておいて頂戴」
パレネははっきりとした口調で僕に言って来た。彼女の言って来た、元の世界に送り返す責任
という言葉に僕は動揺する。
「元の世界に戻れない事なんて、あるの?このまま、僕があなたの世界をさまよい続けるなんて
言う事が?」
僕はまだそれを実感として感じてはいなかったが、もし僕が元の世界に戻ることができないとし
たら、それは恐ろしいことだ。
「ええ、あなたは自分の意志で、自分の世界へと戻る事はできないわ。わたし達が、出口を見つ
けない限りは、あなたの精神はずっとこの世界にいる事になってしまう」
パレネはそのように説明してきた。
だが僕は、彼女の言葉を聞いてふと思う事があった。
「それも、いいかも…。僕が元の世界に戻ることができなくても、それはそれで構わないかもしれ
ない…」
そう。元の世界に僕が戻ったからと言って、そこで一体、何を得ることができるのだろうか?僕
は、元の世界では車いすや、他の人の助けが無ければ生きていく事は出来ない人間なのだ。
しかし、この世界では僕は一人で歩く事ができている。例え僕がいるこの世界が夢の中だった
としても、元にいた世界よりはずっとましだ。僕は一人で歩く事ができ、過去に車ではねられたと
言う出来事が、そっくり消え去ってしまったかのようである。
だが、そんな風に答えた僕に対し、パレネは今までの優しい表情も一切消して、言って来た。
「やはり、あなたも、そう思うのね…?」
彼女は、そんな言葉を言った僕に対して、怒りを感じているのか、それとも疑問を感じているの
か分からないが、とにかくそう言って来た。彼女の言葉からは、まるで何の感情も感じられないか
のようである。
「ぼ、僕…、何か、言ってはならないことを言ってしまったの?」
そんな彼女に対して、僕は恐る恐る尋ねてしまった。
パレネはまったく表情を変えないまま、次の言葉を言ってくる。
「そう、なのよ。あなたと同じように、わたし達の世界に迷い込んできてしまった人達は、皆、そう
言うの。“元の世界になんか戻れなくたって良い”ってね。その意識こそが、あなた達を元の世界
から切り離し、この世界へと迷い込ませてしまう原因…」
僕はパレネからじっと見つめられる視線を感じていた。彼女は僕の目の前にただ立っている一
人の女性、それ以上の存在感を放ちながら僕を見下ろしているかのようだった。
周囲に立つ木、立ちこめている霧。僕の周りにある全てのものが、僕自身を見下ろしているか
のように感じられる。僕ははっきりと感じ取った。僕が目の前にしているパレネという女性は、僕
の目の前に立っている人だけではなく、この僕が立っている世界そのものが彼女であるという事
を。
僕とパレネはほんの数秒だけ見合った。いや、僕は、目の前の人としての姿の彼女と見合って
いただけで、パレネはこの世界そのものから僕を見つめていた。
「それって、もしかして僕が、“現実逃避”をしているって、そう言いたいの?」
と、尋ねたら、パレネは再びにっこりとほほ笑んで僕を見つめ返してきた。
「良い言葉を知っているわね…。でも、あなたに悪いからそれは言わないでおいてあげる。ただ
…」
パレネは言葉を切り、まるで僕の反応を伺うかのようにして次の言葉を重ねてきた。
「ただ…、何なの?」
「ただ…。あなた達は絶望したり、悩んだりすると、その精神状態は限りなくゼロに近くなる。外部
からの刺激からも打たれ弱くなってしまった精神は、自分自身が壊れてしまわないように守るた
めに、本能的に肉体と精神を切り離す…。きっかけは、気絶したり、眠っていたりと、精神が無防
備になった時最も現れやすくなる。
あなたも、何かが原因で、肉体と精神が切り離された状態にいるの」
絶望したり、悩んだりする。正に今の現実世界での僕そのものじゃあないか。僕は自分自身が
原因で車椅子生活を余儀なくされ、学校にも満脚に通う事ができないでいる。両親ともロクに口を
聞かず、自分自身の殻の中に閉じこもっている。
僕は、自分自身が壊れてしまわないため、元にいた世界から自分の精神だけを切り離してしま
ったというのか。
なるほど、筋は通っていそうだ。しかもそれは、僕自身が密かに望んでいることかもしれない。
歩く事ができない現実にいるくらいだったら、精神だけでも、この別の世界にいた方がずっと良
い。
「もし、僕がこの世界にずっといたいって言ったら、それは叶うの?それとも、どんな夢とも同じよ
うに、やはりいつかは元の世界に戻らなきゃあいけなかったりするの?」
僕の発した言葉は、何とも甘い願望だと、自分自身でも思っていた。だが、可能ならばそうした
い。
僕の発した言葉、現実逃避を本当にすることができるのならば、僕のように大きな悩みを抱え
ている人間にとっては、逃げ道になってくれるだろう。
「本当に…。このわたしの世界にいたいの…?」
だが、パレネはそんな甘い願望ともとれる言葉を発した僕を、戒める事も、否定する事も無く、
そう尋ねてきた。
僕は首を縦に振った。できる事ならばそうしたい。元の世界で僕の精神が壊れてしまうくらいだ
ったら、この世界にいる方がずっといい。
この世界では僕は歩く事ができているし、何よりも話し相手がいた。
目の前にいるパレネという女性は、自分をこの世界そのものだと言ったが、それでも、僕の事
を気遣い、話しかけてきてくれている。そして僕を安心させてくれていた。
ここには、木があり、森がある。立ちこめている霧も慣れてしまえばそれほど不気味なものとは
感じられなさそうだ。パレネが僕と一緒にいてくれるのならば、僕は安心して暮らせそうだった。
「黒い煙」
と、突然、パレネは言葉を発した。その言葉は唐突に放たれ、何の事やら、僕には初め、理解
することができない。
「黒い煙、それが?」
僕がパレネの言った言葉を繰り返した時、突然、森の中に金属同士がこすり合うような耳障り
な音が響き渡った。
その音は、僕の頭の中身をこすり合わせているかのように不快な音で、僕は思わず耳を塞いで
しまった。パレネはその音に対してそこまで不快に感じる事は無かったようだが、急に表情を変
え、警戒の姿勢を見せた。
「また!あの怪物が迫ってきているの?」
と、僕は頭を抑えながらパレネに尋ねた。
あの怪物は、黒い煙の姿をしていて、まるで生きているかのように僕に迫ってくる。まるであの
黒い煙は車の排ガスのような色と匂いをしている。
「怪物…、怪物ね…。あなた達の言い方で言ったら、それが一番適切な言葉なのかしら…?わた
しから離れないでいて…」
と、パレネは僕に言い、僕の体を引き寄せた。
彼女は一見したところ、中学生である僕よりも少し背が高いくらいの女の人でしかない。年齢だ
って、僕より少し高いくらいの女の人でしかないだろう。
だが、僕が今、見上げている彼女の姿は、不思議と頼りがいがあった。彼女は僕を庇うかのよ
うな姿勢で周囲にその警戒を張っている。
もしかしたら、この霧に覆われた世界にも、僕が、別の世界で出会ったと言う、あの黒い煙のよ
うな怪物が現れようとしているのかもしれない。
だとしたら、僕はどうしたら良いのだろうか?このままこの世界にいる事は出来ないのだろう
か?
「僕は、どうしたら?」
僕はパレネの顔を見上げて尋ねた。すると、彼女は僕の顔を見下ろしてきて、まるで安心させ
るかのように言ってくる。
「大丈夫。安心して。わたしの言う通りについてくれば、必ずここから逃がしてあげることができる
から?」
逃がしてあげることができる。その言葉を僕は繰り返して言ってしまいそうになった。
駄目だ。そんな事をしてしまっては、そんな事をしてしまえば、僕はまた元の世界に戻らなけれ
ばならなくなる。元の世界に戻らなければならないと言う事は、あの車椅子に乗らなければならな
い。そして、皆から特別な目で見られなければならなくなってしまう。
そんな世界にいるのは僕にとっては嫌だった。
あの黒い煙のような怪物だって、パレネが僕から守ってくれるだろう。僕は勝手にそう信じてい
た。
パレネは僕の腕を引っ張ると、森の中を進み始めた。森は一本道だった。どこにも横道は無
く、ただまっすぐ進んでいる。
霧は深く、白いカーテンのようになっていて、黒い煙がどこから迫ってきているのかも僕には分
からなかった。黒い煙の姿は見えなかったが、とにかく近くに迫ってきていると言う事は分かっ
た。
「ねえ?どこから、あれが迫ってきているか?分かる?」
突然、パレネが僕に尋ねてきた。
何でパレネがそんな事を尋ねてくるか分からない。だって、この世界は彼女そのものなのだろ
う?だったら、黒い煙がどこから迫ってきているのかを知っているのは、彼女自身のはずなの
だ。
だが、彼女は僕に向かって尋ねてくる。
「どこからって…?」
パレネは真剣な目で僕に向かって尋ねてくる。だが、そんな目で見つめられてしまっても、僕は
一体どうしたら良いのかが分からない。
「そんな、分からない。前だって、突然やってきて、僕の腕を掴んだ。それしか分からないんだも
の!」
と、僕はただ慌てて答えるだけだった。
「そう。でも、良く思い出してみて。あの存在は、あなた自身が良く知っているはず。あなた自身が
最も感じられるはずなの」
パレネは言ってくる。しかしながらどう考えて見ても僕には見当もつくはずが無かった。そう。あ
の黒い煙は僕が初めて出会ったものだし、僕は全く知る事も無いものだ。
僕が戸惑っていると、再びあの音が、更に巨大な音となって響き渡って来た。その響き渡り方
は、幾度も森の木々に反発し合って増幅し、まるで僕らの周りを取り囲みながら接近してきている
かのようだった。
火の周りが早い火災のように、あの黒い煙は僕達を取り囲むかのようにして接近してきている
のだろう。
「こっちに来て!」
パレネは僕の腕を引っ張って森の中を更に進んだ。道になっている場所から離れ、木の根が
張った道を歩いて行く。
「あなたが帰ることのできる場所は分かる。ここはわたし自身の世界だから場所を知ることができ
る…。ただ、あの存在の居場所は分からない」
「はあ?何を言っているの?」
パレネと僕は言い合いながら、森の中に開いたある場所へとたどり着いた。
そこは沼だった。
沼自体は水たまりほどの大きさのものしか無いが、黒く淀み、底を見ることができない。森の木
の中に囲まれるようにしてその沼があり、黒い淀みは辺りに立ちこめている白い霧とは真反対の
色をしている。
「もしかして、ここが、僕が元の世界に戻ることができる場所なの?」
僕は沼の淀みを見下ろして尋ねた。沼は非常に深い。それははっきりと分かる。そこには木の
枝やら泥やらが浮かんでいるが、ほとんど泥といって良い。もし、この中に脚を踏み入れるような
事があるならば、底なし沼の中に引きずり込まれてしまうだろう。
「可愛そうね…。あなたの心は深く淀んでしまっている…。その淀みや深さは、あなた自身が想像
しているよりもずっと深く浸食し、心をこの世界へと繋げてしまっているのね…」
まるで詩でも語るかのように、パレネは沼を見下ろしてそのように言って来た。何故、彼女がそ
のような詩のような事を口に出したのかは分からない。
だが、沼を見下ろす彼女の表情は、非常に物悲しいものであり、まるで誰かを憐れんでいるか
のようでもある。
「さあ、この沼の中に飛び込んでみて」
と、唐突に彼女は僕に向かって言ってくる。
「な、何を?この沼の中に?ここは、底なし沼みたいな所じゃあないか?もし中に入ったりしたら
…」
僕はそのように反論するのだが、パレネは言って来た。
「ここが底なし沼のように見える?ええ、わたしにもそのように見える。でも、これはあなた自身の
心の中に開いた穴なの。あなたの意識はこの沼の中を通ってこっちの世界へとやってきた。だか
ら、戻るには、この穴の中に入らないと…」
しかし僕は首を振る。
「そ、そんな事できっこない。そんな沼の中に飛び込むくらいだったら、僕は元の世界に戻る事な
んてしたくない。こっちの世界にいた方が…」
そんな僕の言葉を戒めるかのように、森の中には大きな金属同士をこすり合わせるような音が
響き渡った。
「ほら、黒い煙よ…」
パレネは僕に言ってくる。
「あの黒い煙は何なの?教えてよ!」
僕は声を上げるが、声を上げる必要など無かったと言った方が良いかもしれない。パレネの背
後から黒い煙のようなものが現れ、それが僕の方へと迫ってこようとしていた。
黒い煙は白い霧をだんだんと覆い隠していき、僕の方へと迫る。その黒い煙はまるで意志を持
つかのように僕の方へと迫ってきていた。
黒い煙には目のようなものは無かったが、僕には煙に目が存在しているように感じられた。そし
て、何かを僕に対して言っているような気さえもした。金属同士をこすり合わせるような音が、黒
い煙が、僕に何かを話しかけているかのように思わせているのだ。
「この沼の中に、飛び込めばいいんだね?そうすれば、元の世界に戻ることができる…」
僕は、その黒い煙に恐れをなし、ゆっくりと脚を沼の中へと入れ込んだ。沼はじっとりとした感触
がし、まるでそれ自体が生きているかのように感じられる。
沼も、何かの生物、例えば蛭とか蛞蝓のような生き物として、僕を包み込んでいくかのようだっ
た。
「あなたは、来ない?」
沼へと引きずり込まれていく前に、僕はパレネに向かって尋ねた。だが彼女は、沼の中に沈ん
でいく僕を見ているだけで、こっちにはやって来ようとしない。
彼女は優しげな目で僕を見つめているだけだ。そんな彼女にも黒い煙は取り囲み、まるで彼女
に襲いかかろうとしているかのようにも見える。
だがパレネは何も抵抗しようとしていなかったし、黒い煙自体に触れてしまっていても、どうやら
平気なようだった。
あの黒い煙は一体何者なのか、沼の中へと沈み込みながら僕は思った。
沼は、確かに底なし沼だった。僕の体をどんどんと覆っていき、やがては首の上、そして、顔に
まで達した。
僕は目をつぶり、成すがままにされるしか無かった。
パレネが、この沼が、僕の元いる世界に戻ることができる場所だと言うのならば、それは確か
な事なのだろう。彼女が嘘を言っているようには思えなかったし、僕らは、あの黒い煙に取り囲ま
れてしまい、逃げるためには、この底なし沼の中へと飛び込んでいく以外方法は無かったのだ。
沼の中へと呑み込まれていきつつ、僕は不思議な感覚を感じていた。
僕達は、普通、自分の頭の中で思考し、物を考えたりするものだ。どんな思い出だって頭の中
にしまいこんである。何かの刺激によって物事を思い出そうとするときも、結局は頭の中の引き
出しを開けて、その中のものを思い出すものだ。
だが、今、僕が感じているものは違っていた。
僕の頭の中には、今まで、僕が見たり聞いたりして来た事が、まるで染み込んでくるかのように
伝わってきていた。
まるで、沼の中にあるどろどろとしたものが、直接僕の頭の中、そして脳内へと染み込んでくる
ような感覚だ。沼、そのものがまるで生きているかのようで、それが、僕の頭の中に染み込んでく
る。
染み込んでくるものは、何かの音のようでもあったり、映像としても僕は認識していた。それはと
ても奇妙な感覚だった。
夢を見ているかのような感覚だ。しかし、伝わってくる音や映像は、僕が今まで経験したことの
あるものばかり。
中学時代の思い出、小学生の時代の思い出、そして、車椅子生活になるようになってからの思
い出が、僕の頭の中に一気に染み込んでくるのだ。
不思議と、その染み込んでくる思い出の中には良い思い出が無い。
恥ずかしかった思い出、失敗をしてしまった思い出があった。小学生ならば、誰でもしてしまうよ
うな失敗や思い出ばかりだったが、それだけが全てでは無い。
沼のじめじめとした感覚が僕の頭の中へとどんどん浸食していき、それが限界にまで達しようと
した時、僕の目の前には、何やら、巨大なものが迫ってきていた。僕は、それを感覚として感じ
た。
僕は、どんどん沼の中に引きずり込まれていっているわけだから、目の前に何が現れると言う
のだろう?あの黒い煙のようなものが、沼の中にまで迫ってきていると言うのだろうか。
そうではなかった。僕は沼の中で目を開く。すでに僕は沼の中にいるのではなかった。ぽっかり
と開いた暗い空間にただ漂うだけの存在になっていた。
そして、僕の目の前に現れてきていた巨大なものは、あの黒い煙などではなかった。
それは最初、僕の何十倍もの大きさをもつ、まるで建物か何かのようにも見えた。だが、実際
のところ、それは建物などではなく、巨大な機械音を立てつつ、僕の目の前に迫ってきていた。
初めは、それは巨大な戦車のようにさえ見えた。そのくらい圧倒的に大きなもので、僕はその
巨大なものに圧倒されてしまいそうだった。
だが、それは戦車などでは無かった。僕が良く知っている形のもの。そして、誰よりも、僕が良く
知っているものだった。それは、巨大な車だった。
黒い乗用車だが、僕が知っている普通の車の大きさよりも何倍も大きな大きさのものとして、僕
の頭上から迫ってきていた。
何故、こんな巨大なものが僕の目の前に迫ってきているのか、分からない。だが、僕ははっきり
と恐怖を感じていた。僕の目の前に迫ってきている、この巨大な乗用車は、僕を車椅子生活まで
追いやった、恐怖の象徴なのであり、僕が最も恐れているものなのだ。
その戦車のような姿として現れた車は、まるで僕を押しつぶそうかと言うくらいの迫力で迫ってく
る。
あまりに巨大なものだった。僕の体はこの空間では全く動かすことができず、その迫ってくる巨
大な戦車のようなものからは逃れることができなかった。
しかし、車が僕の体を、まるで呑み込もうとするその瞬間、僕の体は目を覚ますことができた。
僕の体は決してどこかへ行ってしまっていたのではなく、確かに僕の部屋にそのままあったの
だ。
僕はベッドの上で横になっているだけ、部屋はいつもと変わらない。どこも変わっている様子は
無い。外からはすでに朝日が差し込んできており、どうやら僕はいつもより早く目を覚ましてしまっ
ていたようだ。
今の僕は、ベッドから身を起こしたばかりだが、はっきりと意識はある。しかし、今までも僕はは
っきりとした意識を持っていた。その実感がある。
あれは、とても夢の中だとは思えない。僕の体は確かにこのベッドの上にあった。しかし、精神
は別の場所にいってしまっていたのだ。
夢の中に現れたあの女の人が言う通りならば、僕の精神は沼のようなトンネルを通って、別の
世界に行ってしまっていたのか。
僕の体は、沼の中に飛び込んだようにどこか汚れているような様子は全くないし、疲労感のよう
なものも全く感じる事は無かった。
しかし、精神でははっきりと記憶している。僕は確かに別の場所に精神だけが行っており、それ
は肉体的な疲労や感覚などではなく、記憶として僕の精神の中に残っているのだ。
あまりにも唐突な出来事ではあったが、どうやら僕は夢という入り口を介して、別の世界へと行
く事ができるようになってしまったらしい。
それは僕が日ごろ生活している常識の世界では、あまりに非現実的な出来事ではあったけれ
ども、僕は不思議とそれを受け入れることができていた。
それは、僕が、そのような出来事になる事を、心のどこかで望んでいたからかもしれない。
何故僕が、そのような事ができるようになってしまったのか?それについてもあまり考えなかっ
た。夢を通じて別の世界を行き来することができるようになったのも、恐らく、自分が望んでいた
事であって、自分が選ばれた者であるとか、そういった風にも思わなかった。
何も、特別な事では無い。僕はなるべくしてそうなったのだと思った。
それに、悪くない事でもあった。
僕には新しい居場所ができたのだ。
交通事故に遭ってからというもの、他人との関わりを拒絶し続けてきた僕だったけれども、夢の
先にある世界では、僕の話し相手がいたし、いつしか、夢の先にある世界にいる人々は、僕の友
達となっていた。
僕が、夜、眠りについて、そこから僕は特別な手順を踏むことなく、トンネルを通る。
初めは僕自身も分からなかったけれども、そのトンネルは、僕の夢の中に存在していた。い
や、夢の中と言うよりも、むしろ意識の中に存在していたと言っても良いかもしれない。
僕自身が、無意識の内に、心の中に開けておいたトンネルだ。それは、僕達が普段住んでいる
世界の常識では考えられないようなものとなっており、その先には、僕達の常識では考えられな
いような世界へと繋がっている。
理由も、原理も分からない。だが、僕はその夢の中に開いたトンネルを通じて、別の世界へと
行く事ができる。
やり方は簡単だ。ただ、眠りにつけばいい。そうすれば、僕はまるで水の中を漂うかのようにし
て、別の世界へと漂っていく事ができる。
その間に、僕は車椅子などを使う必要もない。しかも、脚で立って歩いて行く必要さえもない。た
だ、まるで空気のような存在となって向かえば良いだけだ。
それはまるで夢の中にいるかのよう。と言っても良いかもしれないが、その時の僕には自分自
身にはっきりとした存在感を感じている。
夢というものは非常に曖昧で、本当に自分がそこにいるのかどうかと言う事さえ、不確かなもの
に感じられる。
だが、僕が通って行く世界はそうではなかった。
夢の中に出来上がったトンネルを通って行く際に、僕はそこに確かな自分自身としての感覚を
感じることができる。それは夢ではなく、現実のものなのだ。
僕は、夢の先にある世界で3人の人々に出会った。彼女らは、自分で説明してくれたが、僕達、
つまりは人間と呼ばれる存在とは、また異なるものであるという。
生きてはいる。つまり生物であると言う事なのだろうけれども、僕らとは根本的に存在が違うの
だと言う。
「姉ちゃんから聞かなかったのか?おれ達は、この世界そのものなんだよ。この学校の廊下みた
いな世界そのものが、おれそのものなんだ。この廊下のタイルから、蛍光灯まで全部おれなんだ
よ。でも、蛍光灯のままだとお前と話ができないだろ?だからこうして人の姿で出てきてやってい
るんだ」
僕が、一番初めに出会ったフェンリルという少年が現れ、僕に再度説明してきた。
どうやらフェンリルという彼は、ユミールを一番上とする姉弟の中で、最も下の年で、(世界その
ものが彼ら自身という存在で、年齢などというものがあるのかは疑問だが)学校の廊下のような
世界であるという。
学校の廊下のような世界。別の世界と言う割には、それは、あまりにも現実的すぎて、親近感
のある世界だ。
僕らの世界での感覚で言うなら、別の世界というものは、宇宙の果てのどんな星よりも遠い存
在であるはずだったからだ。
世界そのものが、彼らという説明に付いても少し疑問を持ってしまう僕だった。
その事については、再びフェンリルという少年と出会った時、彼が説明してくれた。
「やれやれ。面倒臭いから、こんな事をおれは言いたくないんだけれどもな。姉ちゃんが、ちゃん
と説明しろって言ったから、説明してやるよ…」
フェンリルという少年は、いつも僕が質問を繰り返す事に、どうやら面倒臭がっているようだった
が、僕はそんな彼に質問するのが好きだった。
彼の、嫌々ながらも僕の質問に答えてくれる姿に、どこか僕に対しての心遣いを感じるからだ。
「おれの世界を、学校の廊下、見たいに見せているのはお前自身なんだよ。
おれは、もともと“子供時代に見た光景を反映しやすい世界”なんだよ。だから、お前は子供時
代に見た学校の廊下を見ているんだろうな。見る人によっては、おれの世界はもっと変わって見
えたりするんだ」
と、フェンリルは僕に説明してきた。
どうも彼の説明は分からない事ばかりだったが、どうやら、彼らの世界というものは、見る人に
よってそれは大きく異なる物になる。ということらしかった。
世界が見る人によって姿が違う?一体、どういう事だろう。
「君が、この世界がどこかの洋館のように見えるのならば、それは、君がどこかで見たことがある
世界なんだろうな。それとも、君が何かから影響を受けて、このような世界を望んでいたのか…、
それは私には分からない。むしろ、君自身の方が知っている事だろう…」
僕が次に、世界そのものであるという存在の、姉弟の一番上であるユミールに会った時、彼女
はそう答えた。
彼女は、前に会った時と同じ、無限に続く廊下、そしてそこにあるたった一つの部屋の中にい
た。
ユミールは姉弟の中でも無口な方で、表情も少なく、僕がいても何だかまるで気にしていないか
のような姿をしていたけれども、僕が質問をすれば答えをくれた。
フェンリルに比べれば、僕にとっては質問しにくい相手。フェンリルは僕よりも年下だったけれど
も、ユミールは僕よりもずっと年上の女の人だったから、どことなく僕にとっても質問がしにくい相
手ではあった。
僕らは、あの黒い煙の怪物が現れるまでは、会話をする事ができた。
僕が夢の中にできたトンネルを通って、奇妙な世界へとやってくる時、必ずあの黒い煙も同じ場
所へとやって来た。
黒い煙は、まるで僕達の存在に何かの執念を持っているかのように迫って来たが、その存在は
一体何なのかは分からない。
「何故、黒い煙が君の居場所をかぎつけ、いつも襲い掛かってくるか、分からない?」
僕はその疑問をユミールに尋ねて見た。少し尋ねるのに抵抗があったけれども、彼女ならば何
か知っているに違いないと思っていたのだ。
「分からないのではない。君は分かろうとしていない。あの黒い煙のような存在は、君の事を良く
知っている。言わば、負の存在の一つだ」
と、ユミールに言われても、僕にとっては何の事やら分からない。負の存在?僕がその言葉か
ら分かるのは、言葉通り、負、そしてマイナスの意味だ。
「僕を…、知っている…?」
僕は言葉を反芻して尋ねた。
「ああ、知っているさ。あんたが、私達に出会うよりも、ずっと前からお前を知っている存在なんだ
よ。ただ、私達の世界に迷い込んできたのは、お前が初めてじゃあないから、似たような存在は
前々から知っている」
と、ユミールが答えた時、再びあの黒い煙の呼び声が聞こえてきた。
あの黒い煙は、今の僕にとっては恐怖の対象でもあれば、大切な友達との会話を邪魔してしま
う邪魔者でもあった。
「さあ行こう。それと君が、この世界に迷い込んでしまわないような方法を、考えなければな…。そ
この所は、私達の役割だからな…」
ユミールはそのように言い、再び僕を連れて黒い煙から逃れようとするのだった。
「あなた達の世界には、食べ物があるでしょう?リンゴ?みかん?それとも、お肉?どれも、生き
た物ばかり…。もしかしたら、あなたの肉体を食べるものも現れるかもしれない…。
精神もそれと同じ、精神を食べようとするものも現れるの…。
怖い夢を見たことがある?そこにはどんなものが現れた?」
パレネは僕の瞳を見つめて尋ねてきた。
突然そんな事を尋ねられてしまっても、僕には理解することができない。
「さあ…、僕は、いちいち夢の事なんて覚えていないし…」
そう。僕はいちいち自分が見た夢の事なんて覚えていやしない。思い出そうとしても思い出せる
わけがない。
「あの黒い煙は、あなた自身の精神を食べようと現れた存在…。もしかしたら、この世界に迷い
込んできてしまったのも、あの黒い煙みたいに見える存在が原因なのかもしれない…」
夢の先にある世界そのものであるという姉妹の次女、ユミールの妹で、フェンリルの姉に当たる
と言うパレネは、僕からしてみれば最も歳が近く、話しやすい相手だった。
いや、歳が近いと言うのは不適切な表現かもしれない。彼女自身は、僕が今見ている、霧に包
まれた世界そのものであり、人ではない。僕よりもずっと長生きしているのかもしれないし、もしか
したら生まれてそれほど経っていないのかもしれない。
僕がようやく分かりかけてきた事は、彼女達は、僕の理解を超えた世界にいて、(その世界そ
のものと言った方が良いかもしれないが)その世界それ自体が、僕に何かを理解させるため、話
しやすい姿になっているだけなのだという事だ。
「じゃあ、僕はどうしたら良いの?あの黒い煙から逃げているだけしかできないの?」
僕はパレネに向かって尋ねた。
彼女と僕は並んで歩くと、ほとんど背も変わらず、しかも歳も近く見える。例え彼女が人知を超
えたような存在であっても、僕にとっては悪くない気分だ。
僕はパレネの事をどう思っているのだろうか。自分でも良く分からなかった。
「そうね…。本当は、今、あなたがこの世界に入ってきているっていう事は、あっちゃあいけないっ
ていう事は教えておくわ…」
僕は、彼女が見せる話し方の仕草、そして表情、全てをじっと見つめていた。それには不思議
な魅力があり、そして吸い寄せられるかのようにも思える。
僕がじっと彼女を見つめてしまっている間にも、パレネは説明を続けた。
「あの、黒い煙があなたをこの世界へと引きずり込んでしまっている原因だとしたら、あの黒い煙
を何とかしないと、あなたは、何度でも私達の世界に迷い込んできてしまう…。それは、とてもい
けない事なの」
パレネの見せる女の子らしい仕草。それは僕が、今まで学校の同級生の異性を見ても、ちっと
も感じなかった何かだった。僕はパレネを見てはっきりと感じ取ることができた。僕は、パレネに
対して魅力を感じてきてしまっている。それは、思春期の僕にいつの間にか湧いてきた、異性へ
の魅力と言うものだ。
だが、僕は首を振った。正確には僕の体ではなく、夢のトンネルを通ってパレネの世界へと迷
い込んでしまった僕の精神が、首を振ったと言った方が良いかもしれない。
僕は何を考えているんだ。彼女は人間じゃあないんだ。動物ですらない。彼女は、今、僕が入り
こんでしまっている世界という、箱そのものなんだ。
僕が見ているのは、その世界が、上手く僕と話ができるように見せている幻影のようなもの。そ
う。僕に勝手に恋心を抱かせようとしている幻でしかないというのに。
「ねえ?あなた、大丈夫?」
僕が、勝手に思考を巡らせてしまっていると、そこへパレネの声が割り込んできた。彼女は心
配そうな目になって僕を見つめてきた。
嫌だ。そんな目で僕を見ないでくれ。どうせ、あなたはただの幻でしか無い。
「…、駄目ね。やっぱり。わたしが出て来ちゃあいけないのかしら…」
僕がパレネから目線を反らしていると、パレネは何かを悟ったかのように僕に向かってその言
葉を言って来た。
「どういう…、事?」
と、僕は尋ねる。ちらりとパレネの方を向いたが、パレネの方も僕に対して、何か気まずい思い
でもあるのか、目線を外してしまっている。
「わたしの世界はね…。“その人が最も心安らぐ世界”。あなたは、こういった他の人に見られな
いような霧に覆われた森のような世界に心の安らぎを感じ、わたしのような女性から心の安らぎ
を得ることができるのよ。心の安らぎを得ることができる異性の姿。それは、つまり、わたしの今
している姿は、あなたにとっての…」
パレネはそこまで言ったが、
「止めて、それ以上言わないで。恥ずかしい」
僕はそのようにきっぱりと言ってしまい、パレネの言葉をそこで終わらせた。
なるほど僕は、パレネのような姿の女性に対して恋心を抱きやすいわけだ。それははっきりと
理解できた。彼女自身が僕の目の前に現れてはっきりと証明してくれた。
「“子供の頃の思い出を世界”として具現化するフェンリル。“迷いの世界とそれを断ち切る存在”
を具現化するユミール。そして、“最も安らぐことができる場所と人を与える世界”を与えるパレ
ネ。それがわたし達。全員、あなたが望む事によって、その姿を現している。
精神とは、最も無防備な状態。そんな精神だけのあなたが迷い込んでくるのだから、はっきりと
世界はあなたが望む姿となって、あなたの精神に覆いかぶさる事になる…」
そう言って、パレネは僕の背後から僕の肩に手を乗せて、そのまま抱きしめてきた。
何という感覚だろうか。こんなに温かく、心地よく、僕の気が安らいだことなど無かった。
パレネの手は確かに僕の体の上にあり、確かな感覚がある。これが幻覚だと思う事が果たして
できるだろうか。
パレネは確かに実在している。この世界自体が彼女だったとしても、彼女は確かに人の姿とし
ても実在しているのだ。
僕は触れてくるパレネの手の上に更に自分の手を乗せた。そこにある彼女の手は確かに体温
があり、人の体、それも年頃も近い人間の女性の手であることが分かる。
これは、本当に僕が精神だけで感じているものなのだろうか。確かに現実にそこに人の手があ
るとしか思えない。
「あなたが何であろうと…。僕はあなた達と離れたくはない。これからも、友達でいて欲しい…」
僕は呟くような声でそう言った。パレネは僕の耳に向かって囁いて来る。
「友達でいるのは構わないわ。わたし達は、迷い人が現れるまでは、ずっと孤独でしか無い。
様々な迷い人がここを訪れる事によって、わたし達もその人達の姿を取り入れ、満たされた気持
ちになることができる…」
パレネはとても優しい声で僕にそう言って来た。
僕の精神は心地よく、安らぐ気持ちに包まれ、いつ果てるかも分からない世界の中に存在して
いた。
「真一は?どうも最近顔を見ないんだが…?」
部屋の扉の向こう側で誰かが話している。僕の良く知っている声。そう言えば、僕も最近あまり
顔を見ていない人の声。それは僕の父の声だ。
僕の父が仕事から帰って帰宅するのは夜も8時を過ぎたころ。僕と同じ年頃の普通の中学生な
らば起きている時間だろうし、顔だって合わせるだろう。
だが、僕は最近、父と顔を合わせることが無かった。
「それがね…、最近、真一は早寝なのよ。夕飯を食べるとすぐ部屋にこもって何をしているのかと
思えば、すぐベッドに入って眠っているの」
続いて聞こえてきたのは僕の母の声だ。どうやら僕の事を心配しているようだぞと、今日も早め
にベッドの中にもぐりこんだ僕は声を聞いていた。
「かといって、早起きというわけでもないんだろう?そんなに眠っているのか?真一は?」
そう。父の声が言うように、僕だってそんなに眠れるわけではない。だが、夜、床につくと、僕は
数時間としない内に眠りに入る。そこに夢があるわけではない。僕は夢という曖昧な世界では無
く、確かに存在する世界へと訪問しに行くのだ。
もちろん、そんな事を誰に話したって信じてくれないだろう。僕は、周りから見れば、“良く眠る
人”にしか思われていない。
「それが、私も心配で…。前も病院の先生と話して、カウンセリングを受けるように勧められたん
だけれども、車椅子生活になった事が、精神的にも大きな負担になっているんじゃあないかって
…」
参った事にお母さんが僕の事を心配してしまっている。
僕はストレスで参っているんじゃあない。この世界にはいない友達に会いに行くために、そして、
友達と長く一緒にいたいために早く眠っているんだ。
僕は、今、ベッドの横に置いてある車椅子なんて使わずに、病院にも行かず、リハビリもせず、
別の世界では立って歩く事ができるんだ。それは夢や幻などではなく、確かに存在する世界なの
であり、僕はそこに、確かに存在する友達を持っているんだ。
誰かに話したいような気持に駆られる。でもどうせ信じてくれっこない。僕は、あくまで、この事を
秘密にしておこうとした。
誰も知らない僕の夢の中だけにあるゲート。そして、その先にいる秘密の友達。悪くない。
そちらも、確かに実在するような世界だと言うのなら、僕はいっそ、この世界を捨てて別の世界
へと旅立ってしまっても良かった。
そこには僕を助けてくれる友達がいるんだ。あの黒い煙も何も恐ろしい事じゃあない。あんなの
は、小学校の時、僕にちょっかいを出してきたような連中と同じ、ただの邪魔者なだけだ。
そんな気持ちと共に、僕は再び夢の中に潜り込んでいた。
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とても長くなってしまいました。もはや短編ではありませんが、この回で完結します。