ユリウス帝国首都4区
γ0057年11月18日
8:25 A.M.
舞は正直のところ起きたくなかったが、眼を覚まさないわけにはいかなかった。
目覚まし時計は8時30分にセットしたが、寝過ごさないように時計自体が進めてある。彼女
が眼を覚ましたのは5分早かった。
睡眠不足なのは変わらなかった。体全体が奇妙な感覚だ。舞は眼を激しく擦りながらベッド
から体を起こし、何度も背伸びと深呼吸を繰り返したが、結局気分の問題だった。仕方無く彼
女はベッドから床に脚を降ろした。
舞がいるのは、彼女の住むマンションの部屋。殺風景な寝室だった。広い寝室に、大型のシ
ングルベットとテーブルだけが置いてある。部屋に備え付けられたクローゼットの扉は重厚で、
高級感のある作りだ。彼女は、白い色のナイトガウンを着たまま、寝ている間にボサボサにな
った茶色いショートヘアーを、少し乱暴に掻きとかしながら、その寝室を出た。
寝室と同じように殺風景な、しかし絨毯の敷かれた廊下を通り、舞は、フラフラしつつも洗面
所にまでやって来る。鏡を見ながら彼女は自分の顔を見て少しだけ驚いた。寝起きが苦手な
のは自分でも良く知っていたが、ひどい顔をしていた。目の下に見える隈が、40代に手が届こ
うという年代にしては美人と言われる、まだ若々しい顔を台無しにしてしまっていた。3日間寝
ていなかったから、何しろ無理も無いのだが。
しかし、冷たい水で何度も念入りに顔を洗うと精気が蘇ってきた。そして彼女はそのままシャ
ワーを浴びる。いつもよりぬるめの水温で水を浴びると、さらに活力が漲ってきた。頭から脚の
先までひんやりとし、精気が戻ってくる。
鏡に戻った時、何とか見ることのできる顔になっていて舞は安心した。さっきまでの顔では、
とても今日と言う一日を乗り切る事はできなかったが、今の顔ならば何とかなる。
体を念入りに拭いた後、舞は再び真っ白な、今度はバスローブを羽織って洗面所を出る。今
度はフラフラする事も無く、無事に広いリビングルームにまで辿り着いた。一人暮らしの女性の
住むマンションにしては、そこはあまりに広いリビングルームだった。趣味のいい、高級感の漂
う造りにもなっている。豪華なカーテンを、リビングの壁に備え付けられたスイッチを押す事で
彼女は開けた。
高層マンションの最上階のペントハウスに彼女は住んでいる。その高さ52階。《ユリウス帝
国首都》の街並みが眼下に望める高さだ。少し離れた所には、海岸沿いの工業地帯と、その
先の大洋を眺める事ができた。
今日の天気は雨、真っ黒な雲から酸性の雨が降り注いでいる。『ユリウス帝国』は砂漠型の
ステップ気候のはずだが、最近は異常気象で天候が狂っている。物憂げなまなざしで、その風
景を舞は眺めた。
彼女は『NK』の人種だった。正確に言うと、『ユリウス帝国』より遥か北、北半球の中でも極東
に位置する大陸や諸島に住む人種、イーストレッド系の人種だ。それは他の人種、特にユリウ
ス帝国系などに比べれば、身長は低く、女性に関してはかなり小柄なのだが、舞は、170セン
チを超える身長だったし、そのほっそりとしてスレンダーな体型はとても魅力的だった。
そして黒い瞳。これもイーストレッド系の特徴だ。彼女の目の形は少し吊り目ぎみだが、その
まなざしは鋭く、何か堅い決意のようなものを感じさせる。まつ毛の方は女性らしく長めだっ
た。
本来ならば黒いはずの髪の毛も、舞は茶色に染めている。こげ茶色の髪の毛は肩にやっと
届くほどだった。
舞は、発展した都市の光景から目を離し、つかつかとした足取りで、これまた豪華な造りのキ
ッチンにまで行くと、2枚の食パンをトースターにかけ、それを朝食にしようとした。
だがそこへ突然の電話の呼び出し音。鳴ったのは、彼女の仕事用の電話の方だ。舞はキッ
チンにあった仕事用電話の通話ボタンを押す。
「アサカ様、お早うございます。緊急の呼び出しで電話致しました」
丁寧な口調で電話の相手は言って来る。それは男の声、『ユリウス帝国』の言葉だ。
「呼び出しとは何でしょうか?」
舞は自分のローブでしかもノーメイクの姿を見られたくなかったから、空間に立体画面の現
れるテレビ機能は繋がなかった。別にスピーカーに向かって喋らなくても、キッチンの中ならば
相手に声は通じる。彼女は、電話の相手にも勝る程に丁寧な、大人の女性の口調と声だっ
た。目線はトースターの中で焼かれるパンの方に行っていたが。
「それは電話ではお話しできないとの事です」
舞はチラリと、壁に備えつけられたスピーカーの方を見た。
「誰からの呼び出しでしょうか?」
「フォード皇帝陛下です。大至急、《セントラルタワービル》のオフィスまでいらして欲しいとの事
です」
相手の声に少しだけ黙りこくる舞。
「…分かりました。一五分ほどで支度しますから、駐車場に車を用意しておいて下さい」
舞は相手よりも先に、スピーカー側にあるスイッチを押し、その通話を切った。同時に二枚の
パンがトースターから飛び出る。少し焦げすぎていた。
冷蔵庫は四人家族の食料で間に合いそうな位に大きい。おかげで一人暮らしの彼女の冷蔵
庫はガラガラだったが、その中からジャムの入ったビンと、ミルクの入った牛乳パックを取り出
し、トースターからパンを引き抜くと、彼女はリビングに向かう。そこにあるテーブルの脇に立
ち、手早く朝食を済ませようとした。
皇帝陛下からの呼び出し、一体何の用事だろう? 舞はジャムが塗られた、少し焦げたトー
ストを食べながら考察する。しかも電話では話す事のできない内容らしい。よほど機密を守る
必要があるという事だろう。
だが、今はそんな事を考えている暇も無いようだ。フォード皇帝は、現在の『ユリウス帝国』の
最高権力者だ。そんな人物が大至急の呼び出しを自分にしている、なるだけ早く《セントラルタ
ワービル》に向かった方がよさそうだ。
二枚のトーストを大急ぎで食べ、ミルクでそれを流し込むと、舞は空き皿をキッチンの流しに
置き、足早に洗面所まで行って、音波電動歯ブラシで手早く歯を磨き、ブラシで短い髪を整え、
さらに薄めに化粧をした。
彼女は寝室に戻り、バスローブを脱ぎ捨てると、クローゼットの扉を開き、その中に入ってい
た外行きの服装に素早く着替えた。
寝室から出てきた彼女は、所々に金色の装飾が入った純白のスーツとズボンにその身を包
み、ほっそりしたウエストを、スーツの上から金色のベルトでちょっときつめに締めていた。首
からは十字架型の、美しい金色のネックレス、耳にも全く同じものがついたイヤリングを付け、
その姿はさながら聖職者のようであり、とても清らかだった。
そして彼女の腰には、赤色に、これまた美しく輝き、ルビーのような装飾が施された刀が、赤
い鞘に収まって油断無く吊されていた。彼女が歩を進める度に、その剣は光を赤色に乱反射
した。
スーツと剣。異様な組み合わせだった。せめて軍服ならば、似合わない事も無いのだが。し
かし、赤い光沢を放つ鞘はあまりに目立つ。
舞は玄関に向かい、白い靴を履き、玄関の壁にかけられた鏡で身だしなみの最終チェックを
する。もう目の下の隈は目立たなかったし、十分見られる顔だった。
彼女は玄関の重い扉を開け、まるでホテルのようなマンションの玄関に出た。彼女が手を放
すと、その扉は音も無く閉まってオートロックで錠が下りた。
浅香舞。彼女はイーストレッド系の人間であり、『NK』の移民だったにもかかわらず、『ユリウ
ス帝国』の国防長官という役職に就いていた。若干39歳である。
ユリウス帝国首都12区
9:03 A.M.
激しい酸性雨が降っている。さっきまではそれほど激しく降ってはいなかったが、今はもう土
砂降りだ。住宅地の中にある通りを走る『帝国軍』のトラックや装甲車よりも、雨音のほうが大
きな音を立てている。遠くに見えるはずの《セントラルタワービル》や高層ビルの姿も、雨に阻
まれていてまるで見る事ができない。
雨音を除けば、ここは普段から静かな住宅街だ。《ユリウス帝国首都》に住む中流階級の家
が立ち並んではいるが、今は人通りがない。雨が降っているからというのではなく、都市のどこ
かにテロリストがいると、皆が思っているからだ。通りを行くのは『帝国兵』達だけである。
「雨が降って雲が出ると、何だか気分が重くなってくる。頭が締め付けられる感じがして、頭痛
でもしてきそう…」
住宅街の中の小さな公園。その中にある公衆トイレの、女子トイレの入り口の辺りに香奈が
一人で立っている。彼女は長い髪の毛から、ブーツの先までずぶ濡れになって、憂鬱で、心配
そうな表情で外の様子を眺めていた。彼女の目線は、通りを走り去っていく『帝国軍』のトラック
の方へと向いていた。
「おい、あんましキョロキョロしてたら見つかっちまうぜ、香奈ちゃんよォ。今すぐにこっから立ち
去らなきゃあいけないって時だぜ」
女子トイレの入り口に、荒々しい声を立てて浩が現れた。彼も、香奈と同じように全身ずぶ濡
れ。後ろから姿を見せた、一博と太一も全く同様の姿だ。
「大丈夫」
浩に香奈はそう言った。
「トイレ休憩は終わったかい?」
「うん、いつでも行ける」
一博の気遣った声に、香奈は好意的に答えた。
「オレ達は指名手配犯なんだぜ井原。昨日、姿を消した『ユリウス帝国』の野郎がオレの顔ま
で覚えて手配しやがったんだ。『帝国軍』のトラックとかパトカーとかがよォ、そこら中を走り回っ
ていやがる。昨日なんてもんじゃあねえぜ」
と、慌てている様子の浩だが、香奈はそんな彼を見つめたまま、
「ところで、浩君。あたし達の今の目的が何なのか、いい加減に教えてくれないかな? 君、原
長官から任務の事、聞いたんでしょ? 昨日からずっと一緒にいるのに、何で教えてくれない
の?」
そう言うのだった。
「お、おう、そうだったな。忘れていたぜ」
「な、何を呑気な事言ってるの?」
少し怒ったような香奈の声に、恥ずかしそうな様子で、その逆立った髪の毛を掻きながら、浩
は口を開いた。
「違う違う。安全を確認するまでは話せないって事だ。そんだけ重要な事ってわけよ。3人とも、
周りに誰もいないか確認してくれ」
浩以外の3人が、キョロキョロと周囲を見渡した。
「誰もいないぜ」
一博が一言うと、浩は太一と一博を女子トイレの中に入るよう催促し、自分もその中に入って
いく。公園にある公衆トイレは、大の男3人とあと1人が入っただけでとても窮屈になった。
「ここって女子トイレなんだけど…」
「誰も見てねえから関係ねえって」
聞き流すように浩は言い、彼にとっては不自然なほど用心深く、そのびしょ濡れになった上着
の内側から、手帳の切れ端らしき紙切れを取り出した。
「これはよォ、すげえ危険な話なんだ。そこら辺の喫茶店で話なんかしたら、間違いなく国際問
題とかになっちまう。だからこのオレも慎重なわけだ。しかも、とても重要な話だぜ」
「何の事だよ?」
一博が促した。
「香奈ちゃんと太一は5目前、原長官から任務の指令を受けてこっちに来たんだよなあ?要は
その任務と基本的には同じなんだが…、場所が変更になった…」
「あたし達が受けた任務って、…何の事?」
少し間を置いて、
「わ…、忘れちまったのかい? オレ達が今までこなしてきた仕事ん中で、トップクラスに重要
な話だぜ、これってよォ…」
驚いた様子で、しかも雨音の中でも響くほどの声で浩が言った。
「ほら、大声だしちゃあいけないんでしょ? あなたが言ったんだから。任務の事なら、ああ、あ
の事? 忘れるわけないでしょ。でも、あれはこのご時世ではどうしろって言うの? 《セントラ
ルタワービル》での不穏な動きを探るなんて…、こんな厳戒態勢じゃあ、あそこが一番警備が
厳しいし…」
「無理なんて言葉は、オレ達が使っちゃあいけないんだぜ。しかもオレが持ってきたのは、そん
な危険なんて、何回冒したって構わないほどの危険な任務だってな。命だって賭けたって構わ
ないと原長官は言っていたぜ。オレは嫌だが…。それに、《セントラルタワービル》行きはキャ
ンセルになった。新情報が入ったってな」
「本題に、入れよ」
浩の言葉を遮るように、一博は再び促した。
「じゃあ、単刀直入に言っちまうぜ…。オレ達は今日の夜七時に、この首都の郊外、100キロ
の所にある、《検疫隔離施設》に潜入する」
結局、浩は大きな声で言ってしまった。そんな彼を正面から見ていた香奈は、あっけに取ら
れた様子だったが、
「それって本気? そんな事、できると思っているの? 5日前ならまだしも、今はこの国全体に
非常態勢が張られているんだよ。《検疫隔離施設》だなんて、一番警備が厳しそうな場所じゃ
あない。それにそんな場所、名前も聞いた事もない」
と、彼を前にして強気な様子で指摘した。
「だがよぉ、任務は任務なんだぜ。原長官直々なんだから断るわけにもいかねえし、失敗もし
たくねえ。しかしオレが言った通り、それだけの危険を冒す価値のある任務らしいってな」
「どんな価値?」
「それはオレにも教えてくれなかった。だが、そんな施設、一般には知られていないんだ。何し
ろ軍の機密施設だそうだからな。でも、多分行けば分かるんじゃあねえのか? 長官も理由は
後で分かるって言っていたし」
「何だか信用できないなあ…。たとえ相手が原長官でも」
香奈は疑った。
「でも興味はあるな」
一博の方はというと、別の反応を見せた。
「重要な任務、重要な任務なのか…。でもいくら重要だって、こんな状況じゃあ無理があると思
うよ。17区を出て、ここまで来るのだって大変だったのに、首都を抜け出して、しかも軍事施設
に潜入だなんて…」
女子トイレの外の光景と合わせると、香奈にとってはとても心配だった。
「おい、だけどよ。お前達だって、ただ堂々と《セントラルタワービル》とかに侵入するつもりじゃ
あなかったんだろ? 原長官が言っていたぜ。何でも、部下想いなあの人は、こっちサイドの
協力者に、ある準備をさせておいたそうじゃあないか?」
浩が、再び手の中にある紙切れを、今度は香奈に見せて言った。
「ああ、これの事…」
「どんな方法だい?」
と、浩に尋ねるのは一博だ。
「どっちみち、危険を冒す必要はあるんだがな…」
「やっぱり危険なのは変わりないのね…」
香奈は深いため息をゆっくりとついた。
「仕方ねえだろうがよォ…。それにオレ達はここ数日の間に、何回危険な目に遭って来たん
だ? 今だってそうだ。もう慣れっこだろう?」
「だからこそ言っているの。それに誰も任務を放棄なんかしていないよ」
「ほらほらお2人さん。言い争っている間に、太一が行ってしまうよ」
一博が香奈と浩の間に割り込んで来る。いつの間にか、既にトイレの外、雨の中に出て、公
園の外へと向かって歩いて行く太一。彼の後ろ姿を、香奈は見るのだった。
「いつも黙っている割に行動の早い奴だ。早くも目的地に向かおうって気か?」
浩が言った。
「彼にごもっともだ。何事とも行動しなきゃあ始まらない、か」
太一の後に続くように、三人は公衆トイレを出た。そして彼らは、さらに勢いを増した
雨の中を、目的地の方向へと向かった。
セントラルタワービル
9:32 A.M.
舞は《セントラルタワービル》へとやって来ていた。首都内に非常線が張られており、道路が
空いていると思った彼女だが、検問を幾つも抜けてきたおかげで、予想よりも遥かに時間がか
かってしまった。
しかもその検問や非常線は、彼女自身の指示で動いているのだから文句は言えない。どっ
ちにしろ、約束の時間より早く《セントラルタワービル》に着く事ができたのだから問題はなかっ
た。
彼女はその建物の最上部へと向かっていた。150階。一般の人間が入って来られる場所で
はなかった。何しろそこには、『ユリウス帝国』全土を統治する『皇帝』、ロバート・フォードの執
務室があるのだ。そこへは1階からエレベーターで直接上って行く事はできず、途中で厳重な
警備のしかれたゲートを通過し、さらに奥のエレベーターに乗り換えなければならない。いくら
国防長官である舞も、顔パスなどは通用せず、身分証明書を見せ、指紋照合装置や銃火器
探知器を通らなければそこを通過できない。それはユリウス帝国議会の議員や、『皇帝』です
ら同様だ。舞も、持っていた武器は預けた。
しかもこのような非常時、警備はより一層強化されている。
そして彼女が今向かっている場所こそ、そのフォード皇帝のいる執務室だった。真紅の絨毯
の敷かれた、ホテルを思わせる豪華な作りのエレベーターに乗りながら、彼女は何だか落ち着
かない気分だった。
軽いコール音が鳴り、「150階」ですという声がエレベーター内に流れると、彼女の目の前に
あった扉が、音もなく左右に開いた。扉の先に広いホールが広がる。
ホールでは舞の足音がよく響いた。まるで大きな大聖堂のようなホール、大理石でできた柱
が、エレベーターから、先にある扉へ一直線に伸びる絨毯の両脇に等間隔で立てられ、高い
天井まで伸びている。天井には幾つかのシャンデリアがぶら下がっていた。ここが高層ビルの
上層階であるという事を、忘れさせられてしまう。
『皇帝』の執務室へと繋がるホールには、舞以外は誰もいなかった。だが、彼女がホールの
中央辺りに来ると、その先にある部屋の扉から一人の女性が現れる。
「浅香国防長官。お待ちしておりました」
紺色のスーツを着たその女性は、フォード皇帝の秘書だ。秘書は上品な声で舞に告げると、
彼女を扉の中に入るよう促す。
「皇帝陛下はいらっしゃいますか?」
「ええ、いらっしゃいます」
舞は丁寧な口調で尋ね、秘書が答えると、扉の中に入っていった。
扉の中は秘書室になっている。ホールと同じような造りで、一角には心を休ませるような熱帯
植物が飼育されていた。美しい色の、高級でデリケートな熱帯魚が泳ぐ水槽までが置かれ、反
対側には秘書の机がある。エレベーターから延びている赤い絨毯は、扉から秘書室の中をま
だ真っ直ぐに延び、さらに奥にある大きな両開き扉の前にまで達していた。
「フォード皇帝陛下。浅香国防長官がお見えになりました」
机にあるインターホンを押し、秘書が『皇帝』に舞の来訪を告げている。
「…はい、分かりました。どうぞ、中へ。皇帝陛下がお待ちです」
舞はゆっくりと奥の扉まで向かう。重い扉はセンサーで彼女の姿を確認し、自動的に開い
た。一見アンティークに見える扉でも、技術は最先端だったりする。
内部の空気が漏れて来た。
大きな部屋。『皇帝』の執務室だ。天井は高く、ここもホールや秘書室と基本的には同じ造
り。植物が置かれているのと、熱帯魚のいる水槽があるのも同じ。ただ、中に入った舞の右手
には大きな本棚、左手には見とれてしまうような、美術館にでも飾ってありそうな絵画がかけら
れ、『ユリウス帝国』の国旗も似たように大きく掲げてあった。
そして、部屋の奥。《ユリウス帝国首都》を一望し、その先にある広大な砂漠さえも、天気の
良い日には眺める事ができる大展望の窓。その前には重厚な机が置かれ、椅子には窓から
外の景色を眺める、一人の大柄な男が座っていた。
「浅香国防長官。よく来てくれた」
とても低い声。重々しい響きを持つ声を発しながら、『皇帝』は身を埋めた回転椅子を回し、
舞の方へと顔を向けた。
ロバート・フォードは55歳になる男だが、まだ顔は若かった。傍目には10歳くらいは若く見え
る。しかし、短い金髪のその男の眼光は鋭く、恐ろしげな顔をしていた。
真っ黒なスーツに身を包み、その分厚い服装の上からでも、頑丈そうな体が伺える。『皇帝』
という肩書きを知らなければ、何かの格闘家のようでもあった。そして彼は一国の統治者にし
ては珍しく、独身だった。
「少し遅くなってしまって申し訳ありません。検問を通ってこなくてはならなかったものですから
…」
舞の声は緊張していた。
「いや、いいのだ。別に急ぎの用事ではないのだからな。ただし、電話で話す事はできない。盗
聴などされると色々と面倒だからな。だから君を呼び出し、直接話したかったのだ」
フォード皇帝は椅子から立ち上がり、机越しに舞と見合う。
「どのような話でしょうか?」
「今日の、臨時議会の話…。まず言っておこう。あれの開会手続きは、私が申請した」
「ええ、知っています」
相手の顔を見たまま、舞は答えた。
「今回、ここ《ユリウス帝国首都》で起きた一連の事件については、君に責任があると議員達は
思っている。どう責任を取らせるか、野党側は徹底的に追及するという構えだな」
表情を変える様子の無い舞。彼女は重そうに口を開き、
「それについて、特に弁明する気はありません。もともとテロ活動やスパイ行為に対する不注
意と、対応の無さは私にあったわけですから…」
申し訳なさそうな声で言った。
「だがそれで、彼らが納得するとは思えんし、ますます追及されてしまう。弱気になってはいか
ん。実際のところ、党内からでさえ批判が出ているほどだ」
舞は口を閉じた。
「度重なる軍の作戦失敗に、テロ活動の破壊行為による損害、負傷、犠牲になった軍の兵士
達、警察。君が失脚する理由は幾らでもある」
舞は何も言わなかった。口から何も出てこない。
「神出鬼没なテロリスト達の予想外の力と、その数に、君が対処しきれなかったというのも良く
分かる。どうせ、他の人物が指揮をしていたら、もっと損害は酷かったであろうと私は思う」
「分かっています」
「私も、可能な限りは君をかばうつもりだ。しかしな、今の時代の『皇帝』の権限など、名ばかり
もいいところだ。絶対王政の時代に比べれば小さなもの、大統領や首相と何の変わりもない。
かばうというのにも限度があるな」
「いいえ、私が自分で何とかします」
舞は力を込めたつもりで言った。
「さあ…、そいつはどうだろうな。まあいい…、いくらテロ、テロとしつこく言われても、それは昔
からあった事だ。我々にとって今、一番重要な問題はそれではないのだ」
『皇帝』はそこで言葉を切り、少し考えた後、再び重い口調で話し出した。
「野党とか世論がどう言おうと、さらに差し迫った問題が私達にはある。だから君を呼んだのだ
し、今日の臨時議会を申請したのだ」
「もしかして、『ゼロ』の事ですか?」
舞は怖いものを口に出すかのように、その言葉を言った。
「そうだ。昨日からどうも様子がおかしいらしい。目覚めの兆候があるかもしれないと、コンドウ
が言っていた」
「そんな」
少しばかりうろたえる舞。だが、皇帝の方は気にせずに続ける。
「知らなかったか?」
「いえ、様子がおかしいという事は聞いていましたが…、昨日の事ですから」
「コンドウは至って冷静な様子だったが、事の深刻さは君にも分かっているだろう? 実際の
所、テロ対策以前に、もっとそちらの方に予算をつぎ込むべきだったかもしれない、もっと早く
からな」
「そんな事は無いはずです。目覚めるなんて事は、今までにもありませんでした…」
舞の様子は、冷静な『皇帝』とは対照的だった。
「その話はコンドウに会って直接聞いてくれ。奴にしか分からないという事も多いだろう。今も施
設にいるはずだ」
「…分かりました」
「では、今夜の議会で会おう。用件はそれだけだ」
「失礼します…」
舞は軽く会釈をすると、速やかに『皇帝』に背を向け、彼の執務室を退出して行った。
残されたフォード皇帝は、その恐ろしげなまなざしのまま、後ろから出て行く舞を見守ってい
るのだった。
舞は、《セントラルタワービル》を、エレベーターで最上階まで上がった。
「ヘリは用意できていますか? すぐに、向かいますよ」
携帯電話で話しながら、舞は歩く。
彼女が向かおうとしている先は、『帝国軍』が管理する《検疫隔離施設》だった。
屋上に辿り着くと、そこにはすでに『帝国軍』のヘリが待機している。エンジンもかかっており、
いつでもそこから飛び立てるという様子だ。
舞は、『皇帝』に言われる前から、《検疫隔離施設》へは向かうつもりだったのだ。だから車で
ここに来る間に、軍本部へ連絡させておいた。
「現在、首都上空に警戒態勢が敷かれています。護衛機を旋回させ、警戒しながら向かいます
ので…」
ヘリの前で待ち構えていた、舞の護衛が彼女に言った。
「分かりました」
そう彼女は答えると、ヘリに乗り込むのだった。
舞を乗せたヘリは、特に何のトラブルもなく、《検疫隔離施設》へと到着した。
隔離施設は、首都郊外の砂漠地帯の地下にある施設で、『帝国軍』の管理下にある。だから
舞も自由に出入りする事はできた。
砂漠の真ん中にある、二階建てほどの目立たない建物がその入り口。
ただ、今は警戒態勢が敷かれている。それは首都郊外のこの施設においても同様だ。
舞はヘリから降り立つと、一息も入れずに、施設へと向かう。
隔離施設の入り口へ、護衛官を連れて入っていく舞。玄関口で彼女はスロットにパスを通し、
カウンターで名前を告げた。カウンターにいた警傭員は彼女の姿を見慣れた様子だった。
入り口から中に入ってしまうと、そこは白衣を着た者違歩く、特殊隔離研究施設の廊下であ
った。
そこは殺風景で真っ白な、幅の広い廊下が広がっている。所々に白衣を着た人間と、銃火器
を持った警備員達が厳重に警戒していた。
舞は足早にその廊下を歩く。行くべき場所は分かっている。この施設の最深部に位置する研
究室、隔離施設のレベル7。『ユリウス帝国』国内で最も警備が厳しく、どんな場所よりも隔てら
れた場所だ。
舞が廊下で人とすれ違う時、必ず相手は丁寧に挨拶をしてくる。皆、彼女の事をよく知ってい
る。それに、この建物は所長が管理しているが、その所長は、国防長官の彼女の下にあるポ
ストなのである。しかも彼女は毎日のようにここに来ていたから、顔なじみの人物も多かった。
舞は廊下を一つ曲り、とても無機質な作りのエレベーターに乗った。それはとても重厚で頑丈
な造りになっており、強化金属製の二重扉だった。彼女は地下4階のスイッチを押した。
地下4階まで、幾人かの人物達が舞の乗るエレベーターに乗り、彼女に挨拶をして降りてい
った。地下に降りる頃には、中にいるのは舞と護衛官だけになっていた。
地下4階は通路と、幾つかの倉庫のある静かなフロアーだった。エレベーターの先にある、
窓の無い、照明も薄暗い通路を舞は進む。その先には、厚さが1メートルはある、大きく7と描
かれたシャッターが閉じていた。それは、廊下の突き当たりの壁でさえあるようだった。
舞はそこまで来ると、壁に備え付けてあったスロットに、これまた7と、目立つように書かれた
パスを挿入した。先ほどまで使っていたパスとは全く違うもの、ここでしか使わないものだった。
続いて脇のテンキーに暗証番号を入力すると、スロットの上部の空間に画面が現れ、一人の
警備員の顔が表示された。
「名前を言って下さい」
「浅香舞です」
「所属は?」
「国防総省幹部会です」
「パスワードをお願いします」
「『プロジェクト・ゼロ』…」
全て両者とも分かりきった事だ。大体、ここの人間が、しょっちゅう出入りしている国防長官
の名前と顔を知らない訳がない。画面の男は何かのスイッチを押し、それとほぼ同時に、舞の
前にあった、何重にもなる扉が開いた。
「どうぞお通り下さい」
「ここで待っていなさい」
舞は、付いてきた護衛官の者にそう言った。彼は、何も答えず、ただ直立不動の姿勢で、そ
れ以上付いてこなかった。
舞がそこを通ると、再び重厚な音を立てながら扉が閉まった。そこは狭い、閉ざされた空間
になった。圧迫感がある。扉が閉まると、空間は下に向かって動き始める。ここはエレベーター
になっていた。
エレベーターは長い時間をかけて下へと降りて行った。とにかく下へ。そう、最も安全な、核
兵器何百基としまっておいても大丈夫なくらいの地底へ、エレベーターは降りて行く。この『ユリ
ウス帝国』の、どんな地下施設よりも遥かに低い位置に、全世界でも最高レベルの隔離施設
はあった。
耳が痛くなって来るのではないか、と思えるほどの地下に達すると、エレベーターの重厚な扉
は開いた。
とてつもなく静かな廊下が先へと伸びている。ここならば、地上でどんな事があっても気付か
ないだろう、たとえ核兵器や隕石が落ちてきたとしても。
しかし舞は慣れたような足取りで廊下を先に進み、その突き当たりにあった、これまた頑丈
そうな扉の前まで来る。
今度はスロットに彼女のカードを入れるだけで扉は横に開く。するとそこには大きな部屋が広
がった。
部屋は、小形飛行機の格納庫ぐらいの広さがあり、そこは研究施設になっていた。民間の研
究所では目に掛からないような、大型の高性能実験器具がそこら中に設置され、その前に白
衣を着た人間達がいなければ、そこは工場のようにも見えた。
「浅香国防長官…、お待ちしておりました」
部屋に入った舞の小脇から、一人の男がぬっと現れて来る。おかげで彼女は少し驚かされ
たが、彼は、舞がよく知る人物だった。
「こんにちは近藤さん。『ゼロ』の件でお伺いに来ました」
舞の前に現れた男は、白衣を着て、口髭を生やし、眼鏡をかけた中年の男。不気味な目付
きをし、服装がよれよれのその姿は、世界でも著名な『NK』人の学者、近藤広政だった。
舞は『NK』の言葉で、彼に話しかけていた。彼女の場合、育ちが『ユリウス帝国』ゆえに少し
訛る。しかし母国語を話す事はできた。
「ご案内致します…」
近藤は、まるでいつも何かを企んでいるかのような喋り方をする男だった。舞を目的の場所
まで案内して行こうとする姿も、どことなく裏がある感じだ。でも舞は、彼とは良く会っていたか
ら、不気味がるような素振りは見せなかった。
舞と近藤は、大型の実験器具の間を通りながら、部屋の奥にまで進んでいく。所々に近藤と
同じ白衣を着た男達が、何かの装置を操作していた。舞は彼らもよく知っている。
近藤と同じような著名な学者や、その助手たちだ。中には裏の世界にいる人物もいるが、誰
もが『ユリウス帝国』と共同しているのは確かだ。
部屋の奥にまた一つ、重厚な扉があった。近藤はその前に立ち、スロットにカードを差し込ん
で、指紋照合装置に掌を載せる。
「昨日から以前にあったような兆候がありまして…、ただ今回は少し違います。この様子には
我々も驚いておりますよ。まあ、御覧になって下さい」
番号キーに長い数字を入力しながら近藤は言った。彼がその入力を終えると、重厚な扉は
重々しい音を立てながら、ゆっくりと左右にスライドした。
開けられた扉の内部からは、白く、肌寒い空気が漏れ出して来る。舞は、近藤よりも先にそ
の内部に入って行った。
扉の内部の空気は、温度調節がされていて、人間にとってはとても寒い。彼女の口から吐き
出される息は白くなっていた。照明は付けられておらず、至る所に置かれている何かのモニタ
ーや装置だげが、怪しく闇の中で光っていた。
そして部屋の中央部には、一つの、コンピュータや太いパイプが伸びた、青白く光るカプセル
が設置されていた。
「皮肉だとは思いませんか? 我々人類に、歴史上最も貢献している彼が、今では最も危険な
存在になろうとは…」
近藤の表情は、言葉と一致してはいない、少し微笑さえしている。
青白いカプセルの中には、一人の人間が保存されていた。
舞は部屋の中に進み、カプセルの目の前まで来る。そして、恐ろしいものを見るような顔で、
中にいる人間を覗き込んだ。
その人物は男で、裸のまま、様々な配線や、酸素マスクのようなものが体中に繋がってい
た。年齢は20代半ばくらいの大人だったが、ほとんど死んでいるようにさえ見えた。だが、舞
が少しの間覗き込んでいると、彼の目はゆっくりと開かれた。驚いて彼女は後方に後退りす
る。
「意識があるのですか?」
近藤はゆっくりと部屋の中央に来て、部屋の扉を閉めると、震える声の舞と同じ目線で彼女
と見合った。
「ええ、ありますとも。ただ、まだ目が覚めたばかりで意識朦朧としている様子でしてね。完全に
目覚めたという訳ではありません」
少しおどおどしている様子の舞とは違い、何か薄気味の悪い声で近藤は、カプセルに入れら
れた男の方を見る。舞はカプセルの中の男とは目線を外したが、近藤は彼と目線を合わし、な
ぜか不敵な表情をして見せる。そして彼は、
「前にもこのような事がありました…」
「はい、知っています」
舞は近藤の方を見ていったが、彼の目は男の方に行っている。
「何か、きっかけがあったのではないですか?」
「いえ、何も。前の時もそうです」
「彼は危険な状態にあるのでは?」
「ふふ…、いいえ、そんな事など絶対にありえない。今回も以前のように、何事も無かったかの
ように終息へ向かうでしょう。ただ万が一、本当に万が一ですが、完全に目覚めるような事が
あったとしても、ここは世界でも類を見ないほど厳重な隔離施設の最深部です。心配はありま
せん」
力を込めて言う近藤だったが、しかし、今度ばかりは、裏の考えがあるように見える彼の様
子。舞はとても納得できなかった。
「そんな事はあってはならないのです。万が一でもそんな事が起こる可能性があるのなら、
我々は何としてでも阻止しなければなりません」
そこで舞は、カプセルに入れられた男の方を振り向き、
「この『ゼロ』を永久に封印しておく事が、私達の使命なのです」
と、堂々と言った。
「ふふ…、確かに」
「では、彼の管理を怠らないで下さい。いつ復活しても不思議でないのなら、私達は厳戒態勢
でいる必要がありますから」
元の通りに冷静になった舞は、近藤にそう言うと、カプセルの中の男に背を向け、その部屋
から出て行こうとした。
「分かりました。では、予算請求の件、よろしくお願いしますよ…」
足を止める舞。
「議会の件をご存知で?」
「この『プロジェクト・ゼロ』に関する事ならば、全て私の耳に入りますよ…」
舞は不審そうに近藤の顔を見た。しかし、目の前にいる男の、顔の裏で言っている言葉は読
み取れない。
仕方無く彼女は頭を下げ、
「それでは、議会でお会いしましょう」
「…はい」
相手も同じ挨拶を返して来たのを確認し、彼女はその部屋を後にした。
セントラルタワービル133階
12:21 P.M.
正午が過ぎ、舞は《帝国首都》へと戻り、《セントラルタワービル》内にあるカフェテリアにい
た。
そこはユリウス帝国議会の議員達が主に利用するところで、舞の他にも、テレビで普段から
見かけるような人物が訪れる。高級感と清涼感が漂うカフェテリアであり、街中にあるカフェと
は一線を超えている。メニューの値段も相応に高いものばかりだが、ここに来る連中は値段の
事など気にしない身分の者達ばかりだ。
彼女は大画面の強化ガラスから、雨の降りしきる首都を一望できる窓側の席に座り、昼食を
とっていた。
彼女は物憂げな表情を浮かべていた。今夜の臨時議会で自分への責任が追及されると、フ
ォード皇帝は言っていたし、未だに『NK』の秘密諜報組織だとかいう、『SVO』に関しては何の
進展もない。ヘタをすれば、しなくてもかもしれないが、今の地位を失脚させられるだろう。いつ
も野党はやり手の議員を送り込み、追及してくる。それは舞もよく知っていた。
それがまずあった。
だが、それよりも重要なのは、隔離施設の最深部で見てきたプロジェクトの事。彼女にとって
は何に置いても、『SVO』のメンバーが何をしたとしても重要な事だ。これも舞はよく知ってい
た。
しかもこの事は、自分とフォード皇帝、近藤と他数名の人物しか知らない事だし、知られては
ならない事だった。
とはいえ、なぜ、こうも一度に何度も事件が起こるのか。いや、国内でのテロや暴動など、も
はや日常茶飯事だ。そこにたまたま、あの事が起こったのだろう。そう考えるのが自然だ。
とにかくあれは、『ユリウス帝国』、いや、世界の将来に関わる事だ。何しろあれは…。
舞は外を眺めていた顔を、気配を感じて自分の後ろに向けた。
「こんにちは、国防長官殿」
グリーンのフードを被った一人の女性が舞に挨拶をして来ていた。その女性は、舞の後ろ
に、コーヒーカップを持ったまま立っている。
「こんにちは、マーキュリー」
舞も挨拶を返す。するとマーキュリーは、
「ここ、いいですか?」
と彼女に尋ねた。
「ええ、構いません」
そう舞が答えると、マーキュリーは彼女の隣に座った。
マーキュリーは、緑色のさながらコートのような軍服を着ていて、それに付いているフードを脱
いだ。開け放たれた軍服の内側には、肌に張り付いているかのような、レザーの黒い服が見
える。たぶん、異性が彼女の姿を見ようものなら、その姿に誘惑されてしまうだろう。軍服のは
ずの上着も、それ本来の意味を持たないかのようだった。
彼女は、年齢は舞と同じくらいで、彼女は典型的な『ユリウス帝国』の人種だった。ウエットパ
ーマがかかった長いブロンドの髪、色白なほどに真っ白な肌に瞳は青色だった。唇は真っ赤で
目付きは冷たい感じだったが、とても美人である事に変わりはない。それでも背は舞の方が少
し高いが。
「憂欝そうな表情をしていましたが、大丈夫ですか?」
マーキュリーは舞を気遣うように言ってきた。
「別に、思い悩んでいたわけじゃあありません」
「それは、余計な事を聞いてしまいましたか…」
少し苦笑しながらマーキュリーは言った。だが、舞は相変わらずの毅然とした表情を見せた
まま、
「何の用事です?」
マーキュリーは笑うのを止めた。そして彼女の、仕事上の事務的な口調が始まる。
「首都を張っていた部隊は、厳戒態勢を利用して、大きな通りから狭い通りまで、そこら中をし
らみつぶしに探しました。しかし、残念ながら成果はありません。目撃者もありません。17区の
テロ組織対策に向かった者達が昨日彼らを目撃して以来、相手は姿をくらまして影も形もあり
ませんでした。すでにこの首都を脱出した可能性も考えて見ましたが…」
「それはありませんね、彼らは何か目的があってここまで来たんでしょう。そう簡単にそれを放
棄して、逃げるなんてことはしないはず、相手もプロですし、特に彼らのように自信を持ってい
そうな連中は特にです。
でも、彼らが首都にすでにいないのであれば、目的はこの都市の近くなのかもしれません。
計画を変更したって可能性もあります」
「彼らは荒っぽい事をするのが専門らしいですけど、逃げたり隠れたりするのも得意らしいです
ね。天下の『帝国軍』が、こうまでして探しても見つけられないんじゃあ…」
手に持ったコーヒーカップを弄びながら、マーキュリーは言った。
「でも私は、今日の議会でなぜ彼らを捕まえ、混乱を収められないのか、問われる事になって
いるんです。あなたを非難するつもりはありませんが」
と、舞。
「…そうですか。何でも、あなたを野党は徹底的に追及して、責任を取らせるつもりだそうじゃ
あないですか、大丈夫ですか? 聞いた話じゃあ、三日も徹夜で働き詰めだったそうじゃあな
いですか?」
「大丈夫です。そのくらい」
「全く、奴らも非情ですよね。どれだけ国防長官が頑張ったかも知らないんですから。奴らが自
分で軍を動かしたりしたら、テロリストの一人も捕らえられないですよ」
「…とはいえ、全ては結果なんです。いくら頑張ったという過程があったとしても、しっかりとした
結果が無ければ、誰も納得なんてしてくれませんよ。そのように言って認めてくれるのは、子供
の時だけ」
「随分と、ネガティブですね」
「それが、現実だからです」
と、その凍るような目で舞を見ていたマーキュリーは、コーヒーカップに入ったコーヒーを一気
に飲み干した。
「とにかく、引き続きあなたは彼らの捜索に全力を注いで下さい。何しろ、彼らは『NK』の防衛
庁と繋がりがあるそうで?」
「ええ、そうです。『NK』に潜入させた諜報員からの情報がありました。『SVO』と防衛庁との繋
がりです」
「つまり、この事件は、すでに国際問題になっています。早急に解決したほうがいいでしよう」
舞がそう言うと、マーキュリーは立ち上がった。彼女はそのまま立ち去ろうとしたが、ふと足を
止め舞の方を振り向く。
「国防長官、一つ聞いても?」
「答えられる事ならば、答えましょう」
「なぜ、今になって追加予算の申請の為の臨時議会などを? 今は『SVO』の問題が最優先な
のでは?」
「誰から聞いたんです?」
舞は少し冷たく言った。
「そこら中の新聞が噂していますよ」
「今日の臨時議会は私ではなく、皇帝陛下が申請したんです」
「ですが、なぜ防衛費の追加が必要なのですか? 何でも、天文学的数値の金額になるだと
か」
「それは言い過ぎですね…」
「何の為に…?」
「それはあなたに言う必要はありません。あなたにはただ、性急に『SVO』の指名手配犯を逮捕
してほしいのです」
舞がそうきっぱり言うと、マーキュリーは、
「了解しました…」
とだけ言ってその場を後にした。
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巨大大国の裏で行われている、陰謀を追い詰める、ある諜報組織の物語です。
今回はそんな大国側の国防長官、舞が主人公の様な話の展開です。