No.173777 After darkまめごさん 2010-09-20 21:52:44 投稿 / 全1ページ 総閲覧数:1007 閲覧ユーザー数:986 |
お疲れ、とねぎらう男たちにカグラは手を上げて、挨拶をすると宿に向かって歩き出した。
顔に冷たい水滴があたり、空をみると鉛色の雲からぱらぱらと雨が降りだした。足を速める。宿の部屋に入ると、まだ誰も帰ってきていなかった。
本日の賃金を机に置く。余りにも少なくて、もう一度懐を探ったが空だった。
妙に静かな部屋に雨音だけが響く。
こんな時間は、久しぶりだ。頭を拭きながら窓に近寄ると、向かいに安っぽい家の屋根が見えた。
例えば。
ふと思う。例えば目にうつるもの全てを壊してしまおうか。この安宿の薄い壁も、素朴な家具も、このチャチな作りの窓も、外に広がる貧しい家々もすべて。きっと、悲しいほどあっさりと消えるに違いない。
もしくは。
もしくは、目についた人間を次々と殺してみようか。宿の親父も、その妻も、通りすがりの罪のない人々も、行動を共にしているあいつらも。赤子の手を捻るようなものだ。あいつらに血はよく似合うだろう。特にマイム。白い肌をつたう赤い雫は、雪野に咲く赤花のように美しいことだろう。
ああ、一人厄介なのがいた。黒将軍だ。
一本しか取れなかった御前試合で、頬を傷つけられて嬉しそうに笑ったあの男。陰気な奴だと思っていたら、意外に面白くて馬が合う。その事に驚きつつも、一方で苛立つような感情も抱いていた。
まあ、さすがのシラギも不意打ちには弱いかもしれない。あの仏頂面がどのように歪むだろうか。
カグラは小さく笑った。
また来たか。
「やあ」なんて言いそうなほど気軽な感じでこいつはやってくる。この衝動を抑えて楽しんで、解放させたのが前回の騒ぎだった。
今、目の前にあるものをすべて壊し殺したら、その先にあるのは一体何なのだろう。
歓喜か。絶望か。後悔か。
突然扉がけたたましく開いた。
「カグラ。まだみんなは帰ってきていないのか」
リウヒだった。雨に濡れて湿気を含んでいる。
「ええ、まだ帰ってきていませんねぇ」
ふうん。少女はつまらなさそうに鼻を鳴らしたあと、今度は得意げな顔になって右手を上げた。
「みろ、これ」
「酒ではないですか。まさか盗ん…」
「ちがう!現物報酬だったんだ。これで今日の酒代は浮くだろう」
嬉しそうに話すリウヒを見ながら、その首に片手をかけた。少女はきょとんとしてカグラを見ている。
あるいは。
あるいは、みなが大切にしている王女の首を折ってしまったら、どんな反応を示すだろう。あの黒将軍が怒りと絶望で顔を歪ませて、おれをみるのか。あの時、元王子に対して見せた以上の激情がこちらに向くのか。
ちろり。
ああ、来た。ちろちろ動くそれは、快楽を伴って全身を巡り少女の首にかけている手に集中する。抑えられない。意識のどこかで止める声も無視した。ゆっくりと手に力を入れようとした刹那、リウヒが破顔一笑した。
「お前の手は冷たいな」
肩と顔と手でその冷たい手を包むと、酒を机上に置いて己の両手にとった。何をするのかと思いきや。高速でカグラの手を擦り始めた。ご丁寧にも息を吹きかけるそれは、まるで古代の火おこしである。
カグラは呆気にとられてしばらく凍りついていたが、その仕草とリウヒの必死な顔をみて、声を上げて笑いだした。
驚いたのは少女である。カグラの爆笑など初めて見たし、そもそもなぜ笑われたのか分からない。憮然とするリウヒを前に、カグラはしばらく笑いを止められなかった。
「ありがとうございます。手は、手は十分に温まりました」
「どうも礼を言われている気にならん」
ふいと横を向いて拗ねたようにいう少女だったが、体が冷えたのだろう、くしゃみを連発すると湯を浴びてくる、それはみんなで一本だからな、今飲むんじゃないぞと念を押して出て行った。
おれは今、何をしようとした。
王女を殺そうとした。その代償は。
背中を冷や汗が伝う。呆然として己の手を見つめた。危なかった。あの連中を失う事は、今の自分にとって絶対的な恐怖だった。
カグラは空を見上げて深い息を吐く。そしてリウヒの無邪気な能天気さに感謝した。
友人気どりの破壊願望は、すでにどこかへ消えていた。
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「Princess of Thiengran」番外編。
というより本編に入れられなかった短編。
時間軸は外の世界を旅していた頃の後半。
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