No.170329

四百年間の願い事・慶長編(2)

小市民さん

長谷川等伯は、陽菜を鶴婆さんに預けます。
陽菜はたちまち浅草界隈で評判になりますが、どこか不思議ところがあります。
小市民の時代ファンタジー第2回です。

2010-09-04 15:00:43 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:478   閲覧ユーザー数:463

 翌朝、鶴が使い古した、役者にちなむ歌舞伎柄の三井格子の小袖を解き、陽菜用にと仕立て直し、着せてみると、色白の陽菜は更に見栄えがし、裏店の井戸端どころか、浅草寺界隈でも噂の的となった。

 裏長屋の話題をさらった陽菜も、たちまち住人たちの中にとけこみ、親しまれた。

 陽菜を罵り、殴る、蹴るなどしていた近所の子供たちも陽菜には一目置きながら表通りと裏通りを走り回り、鬼ごっこで遊んでいたときだった。

 子供たちの一人が、毛が殆ど抜けた浅草界隈でも札付きの野犬の尾を踏んでしまい、狂ったように吠え立てられ、今にも襲われそうになった。

 犬のあまりの勢いに近くにいた大人たちも手をこまねいていると、陽菜はまるで怖がったり、警戒する素振りも見せず、野犬に近づいていったのだった。

「あんた、駄目だよ!」

「おい、何か投げるもの、持ってこい!」

 周囲の大人たちは口々に叫んだ。野犬は身を伏せ、牙をむき、しきりに吠え立てたが、陽菜に何を感じ取ったのか、やがて嬉しそうに尾を振り始めた。陽菜は野犬の頭をなでながら、

「お友だちがしっぽを踏んじゃって、ごめんなさいね」

 誤ると、野犬は気持ちよさそうに目を細め、間もなく満足したのか、小走りに走り去っていった。

 一部始終を見ていた裏店の住人たちは、思わず陽菜に駆け寄り、喝采を浴びせたのだった。

 翌日の昼下がり、鶴が陽菜に本を読んで聞かせようと、貸本屋から『竹取物語』を借りてきた。裏店の三坪ほどの座敷で鶴は陽菜を膝に座らせ、すり切れた貸本を読み上げた。

「世界の男(をのこ)、あてなるも、賤(いや)しきも、いかで、このかぐや姫を得てしがな見てしがなと、音に聞きめでて惑(まど)ふ」

 鶴が、成長して美しくなったかぐや姫が近在近郷の男たちから注目の的となった件を読み上げると、陽菜も貸本をのぞき込み、

「そのあたりの垣にも、家の門にも、をる人だにたはやすく、見るまじきものを、夜は安きいも寝ず、闇の夜にいでても、穴をくじり、垣間見、惑(まど)ひあへり、さる時よりなむ、『よはひ』とはいひける。

 『よはひ』って、何?」

 すらすらと音読し、解らない語句を尋ねた。

 鶴は聡明な陽菜に、

「『お歳を教えて下さい、とお願いしました』という意味だよ」

 驚嘆しながら答えた。

 同じ頃、伝法院の書院の一間で、等伯は浅草寺本堂の天井画として描く龍の絵の構想を練っていた。

 安価な和紙にあれこれと猛る龍の姿を描いてみても、祈りの場の天井画としてふさわしいはずがない。しかし、金龍山という山号をもつ浅草寺側の依頼とあれば、主題を変更するわけにはいかない。等伯は、下絵を何枚も描いては破り、破いては描いた。

 不意に書院の中が騒がしくなった。

 そう言えば、京の仁和寺から二十歳そこそこの若い親王が、昼八ツ(午後二時)には到着するとのことであったから、その賓客が着いたのだろう、自分には関係のないことだ、と等伯が天井画の構想に戻ったそのときだった。

 回遊式庭園に面した廊下の一角で、一見して高貴な身分であることが解る若い僧が、陽菜の足許に跪(ひざまず)き、何事か真摯に教えを乞うている。

 仁和寺に止住(しじゅう)する天皇の子が、一体、町人の娘と思われる陽菜に何を尋ねているのか、等伯は耳をそばだてたが、二人の声は小さく、聞き取れない。

 やがて親王は声を上げて泣き、床に手をつき、陽菜にひれ伏した。陽菜は一体、何者なのか、等伯は鶴と同じように言葉を失った。

 陽菜を保護し、迷子として番屋に届け出、既に六日が過ぎていたが、親なり保護者なりからの申し出は何もない。

 陽菜は迷子などではなく、何か別の目的をもって、浅草に現れたことになる。等伯が考えたとき、自分の足許で自分が描き散らした龍の下絵が、音もなく風に揺れた。

 

 

 裏長屋で鶴と暮らす陽菜の素性がささやかれるようになったある朝、隣の裏長屋でカマドの火の不始末からか、火の手が上がった。

 ぱちぱちと火のはぜる音ともうもうと白い煙が辺りに流れ、一帯は騒然となった。

 煙はたちまち深さを増し、半間先も見えなくなり、その向こうから火元となった裏店から這うようにして逃げ出してきた住人たちと、付近から駆けつけてきた野次馬とが表通りでぶつかり合い、喧嘩まで始まっている。

 長屋全ての責任を負う、和紙屋を営む家主は、開放された木戸の前でがちがちと歯を鳴らしながら、

「やっちまった、俺の長屋で火を出しちまった……もう、おしまいだ!」

 へたり込んだとき、伝法院から等伯が駆けつけ、鶴を見つけるなり、

「陽菜は、あの娘はどうした! 無事なのだろうな!」

 自分自身でも思いもかけず、真っ先に陽菜の身を案じていた。鶴は目に涙を浮かべながら、

「それが……それが、絵描き先生、あの子、大工の五平のところの末っ子が病で寝込んでいると聞くなり……」

 もうもうと周囲に煙を吹き出す長屋を震える指で指した。

「火元に赤ん坊を助けに入った、というのか……」

 等伯の脳裏に、炎と煙に巻かれる陽菜の姿が、京の小路で斬り殺された久蔵の面影と重なり、言葉をなくした。

 このとき、火消しの一団が駆けつけ、

「邪魔だ、邪魔だ! てめえら、すっこんでろ!」

 纏(まとい)をもった男が和紙屋の屋根に駆け上ると、際立って筋骨たくましい大男が防火用水を溜めた大タライを軽々と持ち上げ、頭から水を浴び、

「逃げ遅れたのは、六つぐらいの女の子と赤ん坊だな!」

 住人に確かめると、和紙屋の家主と火元に住む五平が大男に土下座を繰り返し、

「頼む、坊を助けてくれ! 頼む!」

「火を消してくれ! 死人でも出した日にゃ、もう、ここにはいられなくなる!」

 口々に頼むと、以前は力士をやっていた大男は、じろりと煙を吹き出す木戸をにらみつけ、視界が全く利かない火元へ突っ込んでいった。

 大男が火元と思しき大工一家が住む裏店までたどり着いたそのとき、煙で見え隠れしながら、足許で巨大な動物の尾がゆらりと翻ったことに気付いた。

「な……なんだい、こりゃ」

 大男が巨大な尾をつかもうと手を伸ばしたそのとき、長屋の屋根よりもはるかに高い位置の煙の中に、どう猛な光を放つ一対の大きな瞳が、自分をじっと見つめていた。その巨大な目のすぐ傍らで、やはり巨大な動物の前肢が赤ん坊を抱いている。

 大男は凄まじい悲鳴を上げると、その場に無様に座り込んだ。

 表通りでは、江戸の町に怖い物なしと吹聴してはばからない火消しの大男の無様な悲鳴が聞こえてくると、誰もが顔を見合わせ、身を硬くした。

 間もなく、陽菜が赤子を抱いて煙の中から現れた。その背後では、煙が空へ吸い込まれるように渦を巻き、みるみる薄くなった。同時に火も鎮火していった。

 木戸口で五平が陽菜と末っ子に飛びつき、無事を確かめると、男泣きした。家主も長屋は殆ど無事で、五平一家が住む裏店の壁を焼いた程度であったことが解ると、 陽菜を抱きしめ、泣いた。和紙屋の屋根の上では、纏持ちが突然の鎮火にぽかんと口を開けている。

「火消しは? あの大男はどうした?」

 等伯が陽菜に聞くと、陽菜は、

「あのおじちゃん、腰を抜かしちゃって、動けなくなっちゃって。陽菜一人じゃ二人は運べないよ」

 煙の中に置き去りにしてきたことを伝えた。大人たちが顔を見合わせたとき、

「おい、仙吉の野郎、あんな所で腰抜かしていやがる、引きずり出してこい!」

 纏持ちが五平の裏店の玄関先でへたり込んだ大男を指さして言うと、火消しが数人、裏路地から仙吉と呼ばれた大男を木戸口に引きずり出してきた。

 火消しの棟梁は、がたがたと震えの止まらない大男の頬を叩くと、

「やい、何があった! はっきり言ってみろい!」

 後々の消火活動に役立てようと、火事場での出来事を確かめると、大男は近隣住民から讃えられている陽菜を遠目に指さし、

「あの娘……人間じゃねぇ。火を、空気の動きを自由に操っているんだ……あの娘の本性は……」

 すっかり錯乱し、うわごとのように繰り返した。


 
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