【第十四章 空虚】
「――後はこの道を真っ直ぐ行けば、労なく益州へ抜けれるはずです」
益州まで続く一本道の入口に着いたところで、案内役を務めていた琴里は劉備たちにぺこりと頭を下げた。
「では、自分たちはこれにて。あまり長く付き添っても皆さんのご迷惑になるでしょうから」
「そっそんな! ここまで案内してくれて、ありがとうございます!」
「桃香の言う通りだよ。俺もみんなも、本当に感謝してる。それから……徐庶、さん。できればでいいんだけど、旭日さんに伝えてほしいんだ。俺はいつの日か必ず、あなたに勝ってみせる――って」
「………………っ」
堂々と、迷いなくそう言ってのけた光天の御遣いに、目を瞠る琴里。
彼はこんなにも、強い光を帯びていただろうか。
旭日と対をなす存在だ、別に侮っているつもりはなかったが――初めて会った先ほどと今では別人だ。
核が違う。
芯が違う。
彼の全てはまるで変わっていないのに、彼の全てがまるきり違う。
変化ではなく、成長でもなく、おそらくこれは――目覚め。
彼の中で眠っていた、もしくは彼が中に眠らせていた、あの眩い日色に匹敵する何かが目を覚ましたのだ。こんな短い間でこんなにもはっきりと、否が応でも誰でも気付くくらい見事に目が覚めてしまったのならば――それはきっと。
「(……手強い敵を起こしになられましたね、旭日さん)」
「徐庶、さん?」
「ふぇ? あっ……い、いえ、なんでもありません。預かりし言伝、確かに旭日さんへとお渡しいたします」
言って再度ぺこりと頭を下げ、彼らに背を向けようとした、その刹那。
「――待ってください!」
突然と、あるいは予想通り背中へかけられた声。
特に驚きもせずゆっくり琴里が振り返れば、昔の面影をそっくり残した二人の少女――朱里と雛里が泣きそうな顔で見つめていて。
「待ってくださいっ。えと、えっと……」
「徐庶……ううん………………琴里、ちゃん」
「へ? ちょっ雛里? 今のって徐庶さんの真名なんじゃ……」
「……構いません。自分たちは、水鏡女学院で共に勉学に励んだ友ですから」
慌てふためく光天の御遣いへ苦笑を返し、次いで彼女たちへ「ただ……」と溜め息を返す。
「我らが敵となりし時は真名を口にすることを禁じる、と。そう告げていたつもりなのですけれど……まあ、貴女たちが今まで堪えていただけでも十全でしょう」
「琴里ちゃん……っ」
「自分が院を出て以来ですね、朱里。そして雛里、貴女も」
「あ、あわわっ。おっお久しぶりでしゅ!」
「ふふっ、緊張癖は相変わらずみたいですね。ですが二人とも、元気そうで何よりです」
溜め息でも、苦笑でもなく、ちゃんとした笑顔を浮かべる。
それに二人はほっとした表情になって――ふっと視線を迷わせ出して。
「あっあのっ、琴里ちゃん!」
「わたしたちは……あなたとは、そのっ」
二人が自分に何を言わんとしているのか、わかっていた。
自分が二人に何を言うべきなのかもまた、わかっていた。
だから。
「朱里、雛里。貴女たちは光を仰いだのでしょう?」
女学院で当然に笑い合っていた頃、慕ってくれるのが嬉しかった。二人の才に憧れてもいた。嫉妬などという、汚らしい感情を抱いたこともあった。しかしそれ以上に、心優しい彼女たちのことが――大好きだった。好きで、今も変わらず好きで。
けれど、二人のことが好きだからこそ、言わなければいけないことがある。
「いい加減に覚悟を決めなさい。貴女たちが光を仰いだように、自分は日を仰いだのです」
「………………っ」
「過去には戻れず、互いに歩みを止めることもできません。なれば前に進むのみ。日と光と覇道と大徳と……己が信じた道を、自分も貴女たちも、進んでいかなければならないのです」
「琴里、ちゃん……」
「貴女たちなら自分より遥かに上手く、真っ直ぐ進めるはずです。…………さようなら、朱里、雛里。会って話すことができて――本当によかった」
「っ……琴里ちゃん!」
「それでは諸葛亮、鳳統。どうか道中、お気をつけて」
再々度ぺこりと頭を下げて、琴里は彼女たちに背を向け歩き出した。
日を仰いだその時に、覚悟は決めていた。
だからもう、涙で濡れた声が聞こえようと振り返りはしない。
帰ろう。
自分がいたい、自分のいるべき――自分の居場所へ。
後に官渡の戦いと呼ばれる袁紹袁術との対決は、琴里ら益州への案内組が戻ってきてすぐに火蓋を切った。
無論、劉備軍を追ってわざわざやってきた袁紹軍が彼女たちの逃亡を放置するはずもなく、劉備らが領地の通行許可を得た夜に追撃をかけてきたのだが――結果は袁紹の完敗。桂花の先を読みに読み尽くした策により、文醜と顔良率いる袁紹軍は誘導され、翻弄され、撹乱され、ほとんど何もできないままに撤退を余儀なくされた。
けれど、それはあくまで前哨戦。
これから始まる――始まった本軍と本軍の戦こそが、曹操と袁紹と袁術、そして孫策の命運を決定する、官渡の戦い。
そう、命運を決定する戦いだったのだけれど……その命運は既に、決定してしまったと言っていい。
「(うぅ……どうしてこうなっちゃったんだろう…………)」
袁紹軍の武将、顔良――斗詩は薄っすら目に涙を滲ませながら走る。
それも敵軍に背を向けての全力疾走、身も蓋もない言い方をすれば逃走である。
戦闘が開始して、しばらく時が経過して、前哨戦と合わせて二度目になる撤退をもう余議なくされていた。
どうしてこうなっちゃったのか。
答え――もしくは敗因は、山ほどに積まれている。
まず挙げられるのが、袁紹軍と袁術軍で二面作戦を仕掛けるはずだった予定を変更し、集結して全軍でぶつかる作戦にしてしまったこと。兵力は倍になったものの、連携が全く取れず指揮の困難さは更に倍。足の引っ張り合いもいいとこだ。
また、秘密兵器として導入した移動櫓も戦局を有利にしてくれるとばかり思っていたのに、曹操軍が持ち出した投石機によって効力は打ち消し――むしろ大きな的になっている分、有利どころか不利に働いていて。
引き算に引き算を重ねた挙句、軍を見事に分断されて、兵の練度も向こうが上となれば……今の状況は当たり前だろう。
「(こうなるなら、怒られても麗羽さまを止めとけばよかったかなぁ……)」
二面作戦を変更した時か。
あの曹操に戦いを挑むと決めた時か。
今となっては――何を言っても後の祭りだけど。
「――斗詩っ!」
「え、あ、文ちゃん!? どっどうしたの? そんな、ボロボロになって」
後方から自分と並走するように追いついてきた文醜――猪々子の、土や砂埃で全身くまなく汚れきった姿に斗詩は声をあげた。そのひどい有様は敗残兵とまさしく同じで、わざわざ訊くかずとも誰かに負けてきたのだとわかったが、それでも。
訊かずにはいられなかった。
どうしても。
「一体……誰に、やられたの? 夏侯惇さん?」
「いや、あのねーちゃんは孫策んとこの部隊を相手にしてる。あたいが負けたのは、んー……えっと、その、まずはごめんっ。斗詩の敵討ち、できなかった」
「敵討ち? って、まさか……」
「……うん。さっき斗詩を負かした、あのにーちゃん」
そして――敗因の一つがやってきた。
大兵力を誇るこちらの軍がこうも綺麗に分断され、各個撃破されてしまったのには勿論、理由がある。
今回の戦が単純なぶつかり合いならば、張遼の部隊の機動性が理由になって然るべきだが――櫓の矢や投石機の岩が場を乱す今回では機動性は上手く活きない。
だから、機動性ではなく多様性。
どんな局面にも対応できるということは、どんな局面でも変わらず戦えるということ。
矢と岩の妨害があっても普段の動きを乱さない、攻撃より防御より支援より、適応力を重視した部隊が曹操軍にいたことが現在を作り出している。
作り出している、が――おかしいのだ。
適応を重視したら当然、部隊を率いる者はどっしり構えて的確に指揮を取る必要があるのに。
自分達を追いつめているのはその、部隊を率いる者、なのだから。
「――鬼ごっこは初めての経験だよ」
彼の呟きが聞こえた刹那、斗詩の目の前に兵が一人――落ちてきた。
並んで走っていた猪々子と共にぴたりと足を止め、振り返ってようやく、兵は蹴られてここに落ちてきたのだと知る。
自分達だって人一人を蹴り上げるくらい、できるだろうけれど――まるで暴風雨だ。
もっとも、それは風でも雨でもなく。
爛々と燃え盛った。
それは、一人の男。
朝焼け色の髪と瞳に夕焼け色の服。
左手に携えた細い剣は日色の輝きを放ち。
思わず目を細めてしまう――目が焼けてしまう、熱を滲ませる男。
「家族とはよく遊んだが、鬼ごっこで遊んだ覚えだけはねえ。……まあ、当然っちゃ当然か。俺たちは鬼じゃなく――人になりたかったんだから、さ」
何が人だと、斗詩は思った。
自分を退けて、猪々子を退けて、追いつめて。まだ日の化身と言ってくれたほうが信憑性がある。
名前は確か――九曜旭日。
日色の請負人で。
日天の御遣いで。
噂によればあの天下無双の呂布と互いに笑い合い、互角に渡り合った者。(ちなみにこれは表面のみを見た情報であり、蓋を開ければ旭日の圧倒的な負けだったのだけれど、事実を知らない彼女には噂こそが現実だ)
彼とかつて敵だった者たちは、悪い冗談のような男だとも評していた。
「それにしても……サポートがあるだけでこうも戦いやすいってのは驚きだぜ。後でちゃんと、琴里に礼を言っておかなきゃな」
皮肉な笑顔を浮かべ、異様に凍える声を吐き出す彼。
というか。
なんというか。
「……ねえ、文ちゃん」
「あ、斗詩も気付いた? なんなんだか知んないけど日天のにーちゃん、さっきからやたら機嫌悪いんだよなぁ」
ご機嫌ななめなのはこっちだっての、と、肩に担いだ大剣を構えなおした猪々子に自分も激しく同意だ。
反董卓連合の際に会った時はもっと温和な印象を覚えたのに、これでもかと苛立ちを振り撒いてばら撒く今はただ、恐怖ばかりを覚える。
「(うぅ…………何もこんな時に不機嫌じゃなくたって……)」
自分達のあまりの不運ぶりに心の中で嘆く斗詩ではあるも、しかしそんな不機嫌の原因はもう一人の御遣いとの悶着にあって、彼女ら袁紹軍が劉備の領土を侵したせいでその悶着が起きたことを考えると、ほとんど自業自得の不運である。
だがもはや、不運も自業自得も関係ない。
ここは戦場で。
目の前には敵がいて。
逃げ切ることは困難で。
だからと倒されたくもなくて。
残された選択肢は――戦うことのみ。
「……主はうんざりするほどやかましいのに、嬢ちゃんたちは随分と静かだな」
「お喋りしてる余裕は、なさそうですから」
「へんっ。大体、麗羽さまと比べりゃ誰だって静かだろーよ」
猪々子の若干失礼な本当のことに少し頷きながら、斗詩も彼女と同じように大槌『金光鉄槌』を構える。
「御託は抜き……ってか。まあ、俺も馬鹿が持ち込んだ馬鹿な戦に、これ以上は付き合えねえ。鬼ごっこを終いにしようぜ、嬢ちゃんたち」
彼もまた、日色の剣をかちゃりと鳴らした。
二人で同時に挑んだって――勝つのは不可能だろう、おそらく。
ならば狙うのは僅かな隙。
自分達の逃亡を可能にする一瞬の隙を生むことだけに、集中しよう。
さて、どうする?
どう動く?
距離はおよそ二十歩。
武器から判断して身軽さは向こうが、力は微妙なところだけど多分こちらが上。
分の悪い賭けになるが、ここはあえて彼が焦れて先手を打つのを待ち、身軽さを力で捩じ伏せるべきか?
しかし。
しかし、そんな斗詩の思惑は先手でも後手でもなく、逆手にとられることになる。
先に動いたのは――旭日、だった。
けれどそれは動いたと言えるほど積極的なものじゃない、呆れた様子を匂わせて――ちゃきんと、ただ剣を鞘に納めただけの、馬鹿にした風の笑顔を浮かべただけの、焦れた為ではない焦らす為の僅かな動き。
「………………っ!」
挑発だ。
敵が目の前にいるのに武器をしまうなんて、隠すどころかわかりやすくこちらが先に動くのを誘っている。
当然といえば、当然。
彼の望みは手柄というよりも、この戦を即座に終わらせることに尽きている気がする。なら下手にこちらに付き合って時を浪費させず、すぐさま決着のつく舞台を整えたほうが具合はいい。
まあ、だからといって挑発に乗ってやるほど、斗詩は短気な性格をしていない。
そう――あくまで、斗詩、はだ。
「っ舐めんなああぁぁぁぁぁぁああああ――――――――――っ!」
「あっ――文ちゃん!?」
しまったと思う頃には既に遅かった。
咆哮で空気を揺るがし、巨大すぎる剣『斬山刀』を振り被りながら彼へと駆け出す猪々子。
そこでやっと――しまっただ。
自分と違い、直情的な彼女が挑発されて我慢できるわけ、なかったのに。
ひたすらに真っ直ぐ、どこまでも真っ直ぐ猪々子は突貫していく。
そんな彼女に対し彼は微塵も怯まず、くるりと踊るように回転して。
「――――――っが、はぁっ!」
九つの日色が眩く煌めいた――瞬きにも満たない、まさに一瞬の出来事だ。
彼がいつの間にか剣を抜き放っていて、猪々子がいつの間にか吹き飛ばされていて、彼女の大剣がいつの間にか弾かれていて。
一体何が起きたのかはわからなかったけれど、だけど、彼女がこんなにも簡単に負けたことだけは、その冷たい事実だけは、わかってしまった。
「文ちゃんっ!」
「……流石は袁紹軍二大看板の一人だな。武器を弾けただけ、か。しかしこれ、あっちの世界じゃ必殺技だったのに、こっちの世界じゃまともに決まった試しがねえな。ろーがふーふーけんじゃあるまいし、っとに……」
やれやれだ、と。
猪々子を負かしたにも関わらず、嘆息して肩を竦めた彼に。
斗詩は。
「――――――っ!」
今度こそ――我慢、ならなかった。
胸の中でぐちゃぐちゃに混じり合った様々な感情に急かされ、先の猪々子と全く同じように、大槌を振り被って真っ直ぐ突貫していく。
残り十歩に距離が縮まる。
彼は動かない。
残り五歩に距離が縮まる。
彼は動かない。
「(な、なんで…………………………)」
自分は間合いに入ってるはず。
剣だって抜き身のままだ。
なのにどうして――動かない?
回避に徹し、反撃を狙っているのだろうか?
それとも他に何か、別の思惑が?
考えが脳内を巡るも……時間切れだ、接近しすぎてしまった。
もう、振り下ろすしかない。
背筋に冷や汗が流れるのを感じながら、斗詩は振り被っていた大槌を彼へ――振り下ろした!
結論として。
「う、そ………………」
彼は斗詩の攻撃を避けなかった。反撃もしなかった。別の思惑もなかった。
ただ――受け止めたのだ。
剣の峰の部分に右手を添えて、真っ直ぐな自分の攻撃を――日色の刃で、真っ向から。
「(ありえない、こんなの…………っ!)」
こんなの、力がどうとかの問題じゃない。
こちらの武器は巨大すぎる槌で、あちらの武器は細すぎる剣。受け流せることはできても、受け止めれば確実に折れるはず、なのに。
「っ……武器ってのは、すべからく何かを傷つける為に存在しているものだ」
ぎしりと歯を鳴らしながら、彼はまるで自分の疑問へ答えるように言う。
「防御を兼ねた武器はあっても、防御を主眼に置いた武器はねえ。だがこいつは――慈日刀『天照』は命を傷つける為じゃねえ、命を守護する為に存在している刀だ。無茶ばかりやる俺の身を守ってくれる、武器であり防具なんだよ。だからこそこいつはどこまでも頑丈に、どこまでも頑強に、けして折れることなく、けして曲がることなく、命に害なす悉くを――――――断つ」
ぎしり!
響いたのは、噛みしめた歯が鳴る音のみ。
だから、仕方ないことだと思う。例え武器を真っ二つに斬られていたことにすぐ気付けなくても、仕方ないことだって。
一刀両断。
文字通りの一刀両断だ。
それも技術うんぬんというよりは――暴力での。
「はぁっ……鬼ごっこも終いだ、嬢ちゃん」
少し乱れた息を整えつつ、刃を向けてくる彼。
悪い冗談のような男。
誰が最初にそう言ったのかは不明だが、なんとも絶妙に言い得て妙。
本当に、悪い冗談でしかない。
「……俺は、あいつみたく甘ちゃんじゃねえ。優しくもねえ。どんなに嫌でも、後味が悪くても――目を背けたりは、しねえ」
それはまるで、他の誰でもなく彼自身に言い聞かせるような呟きだった。
ちらりと猪々子のほうを見やる。結構な距離を吹き飛ばされていたようだけれど、どうやら無事そうだ。あれなら逃げ切ることだって、きっとできる。ならばもう――大丈夫だろう。
刃が、振り上げられた。
「――ごめんね、文ちゃん、麗羽さま」
「――――――っ!」
しかし――刃が振り下ろされることは、なかった。
振り上げられたままの状態で刃はぴたりと止まっていて、彼はただ驚いた表情を浮かべるだけで。
「斗詩っ!」
猪々子の声にはっと意識を復活させ、半分になった大槌を彼に投げつける形で捨てて、斗詩は彼女と一緒に全速力で逃げ出した。
追っては、こない。
振り返りはしなかったので推測になるが、おそらくはあそこから動いてない。
何がなんだかよくわからなかったものの――これだけは言える。
彼と戦うのは二度とごめんだ。
あんなに怖くて苦しくて悲しくて――どこか空っぽで。
行き場のないような、帰る場所のないような強さとはもう、二度と。
「はぁ? ばっかじゃないの、あんた。わかってたけど」
「……すまねえとは思ってるよ」
敵将の逃亡を許し、乱れた戦線をリセットする為に本陣へと戻った旭日は、あまりにもあんまりな桂花の罵倒を拒まずに受け取る。
「貴方が文醜と顔良を取り逃がした……か。らしくない失態ね」
「今は凪達が追っかけとるけど、まず追いつきはできんやろうなぁ。えーと、なんやったっけ、あくしでんと? でもあったん?」
「……さあ。どうだったかな」
華琳の訝しむ視線と霞の問いに、濁った答えを返す旭日。
事実、アクシデントらしいアクシデントはなかった。
重畳とはいかないまでも順調に事は運べていたし、袁紹軍二大看板を少ない犠牲で退けることもできた。顔良の攻撃を受け止めたことだって、自分なりの策だ。あえて動きを見せないことで不安を煽り、疑念を抱かせ、迷いを生んで――結果、相手の攻撃は軽くなる。後は威力の死んだ受け止め虚を突くだけの幼稚な策だが、これも見事に成功した。だから結局、あの二人を最後の最後で取り逃がしたのは自分の失態以外のなんでもなく――最初に桂花に言われた通り、自分が馬鹿だったせいに尽きる。
それだけで――それだけだ。
「馬鹿ってことは認めるし、らしくねえのも失態なのも否定しねえ。言い訳だってする気はねえ。だが、ヘマを人に押し付けて良しとできるほど、俺は軽い性格してないんでな。……華琳、何か命令を寄越せよ。相手がなんだろうと誰だろうと請け負ってやる。だから――」
「――……んー」
しかし、華琳は何も言ってはくれず。
代わりに場に落ちたのは霞の、呆れたような唸り声。難しい顔で頭を掻いていた彼女は、不意に、てくてくと、こちらへ近寄ってきて――
「えいっ」
――むにり、と。
結構な強さで、旭日の頬を抓って、笑った。
「……にゃにひゅんはよ、ひあ」
「あかんよ、旭日。あんたは、あんただけは、そない風に戦ったらあかん」
絶対にあかん――頬から手を放して霞は言う。
「ウチらはよくても――あんただけは、あかん」
「………………」
「なんで旭日が苛立っとるんか、ウチも流石にわかってる。せやけど、あんたはそない風に戦う奴ちゃうやろ? 悲しゅうなるくらい《自分の為》や言うとるくせに、誰かを原因にして戦ってどうするん? ……旭日は、旭日の為に戦えばええ。相手がなんやろうと誰やろうと請け負う前に、旭日自身を請け負えばええねん」
「霞……」
「男やったら女に心配かけんよう、いつもみたくへらりと笑って格好良く余裕ぶっとき。それがウチの知っとる――九曜旭日や」
「……はっ、やれやれだ」
霞の言葉に旭日は。
噴き出すように失笑して――零すように、へらりと笑った。
本当、どうしてこんなにもどうかしていたんだろう。苛立って、引き摺って、八つ当たりまでして。そんな風に請け負っても――請け負われたほうは迷惑なだけなのに、省みもせず、馬鹿の一つ覚えに、馬鹿をやって。
だけど、彼女のおかげでわかった。
わかりきっていることを――わかれた。
誰かのせいでも、誰かの為でもない。
いつだって、自分は。
誰かを守りたいと思う自分自身の為に――戦うのだと。
「……ふぅ。どうやら私が何か言う必要はもう、ないようね」
「華琳」
「わかったのならばそれで良しとしておきましょう。次は私が直々に説教してあげるから、覚悟しておきなさい。……霞、貴女は南皮まで進撃する準備をお願い。旭日はこのまま本陣で待機。いいわね?」
「おっ! ようやっと働けるんやな、了解や!」
「この流れで待機かよ……」
「あら、その腕で満足に戦えて?」
「腕?」
指摘され、そこで自分の左腕が小刻みに震えていることに気付く。
一息の休みもなく攻め続け、袁紹軍二大看板を退け、いくら威力が軽減していたとはいえ顔良の巨大すぎる槌での一撃を受け止めれば、こうなっても不思議ではないのだが……それに今まで気付かなかったということは、自分は本当の本当にどうかしていたのだろう。
最後の最後、刃を振り下ろすことができなかったのも、衝撃が響いていたせいかもしれない。
そう思う。
そう思い込む。
そう思い込ませて、やれやれだ――と、誰に言うでもなく、呟いた。
「………………ふぅ」
戦いはこちらの勝ちで終わった。
けれどまだ、終わるどころか始まってもいないことを思い、華琳は溜め息を吐く。
「……いい加減、あれをどうにかしなければね」
「あれ、とはー?」
「わかっていることを訊くのは趣味が悪いわよ、風」
進撃の準備をしに行った霞と、焚火の準備(もっともこれの本当の意味を知っているのは華琳だけだが)をしに行った旭日が消えた方向を見やり、また溜め息。勿論、あれとは霞のことではない。今回らしくもなく苛立って、らしくもなくヘマをやった旭日のことだ。
らしくない――しかし、実際はどうなのだろう。
自分たちは彼のらしさを語れるほど、九曜旭日について、深く知ってはいないのだから。
「黄巾の乱での逆落とし。反董卓連合での呂布との一騎討ち。そして今回。以前から思っていたことだけれど……旭日にはどこか危うい面があるわ。今回は特に顕著ね」
「……ただ単に、馬鹿なだけではないでしょうか」
「あら、本当にそうかしら?」
「うっ……ま、まあ、確かにあれの強さはなんとなく、捨て鉢の印象を受けますけど」
「ふふっ、よく見てるじゃない」
ひねた桂花の答えに笑みを返す華琳。
流石に捨て鉢はひねくれすぎだけれど――彼女の言葉を否定する気はない。
旭日から感じる危うさは、まさにそれなのだ。
己を優先しない。
己を大事にしない。
劉備や、もう一人の天の御遣いも似たようなものだが――彼女たちの場合は他人を優先して他人を大事にするがゆえのものだ。それに比べ旭日は他人を優先して他人を大事にするのと同じくらい、己を優先しないし己を大事にしない。
生きて帰ることを――考えない。
まるで死に場所を求めている迷子のごとく、自分自身をあっさりと危険に晒す。
「(あいつの強さが時折空っぽに感じられるのはきっと、そのせいね。いえ、空っぽではなく……)」
ひび。
九曜旭日という器に、ひびが入っているのだろう。
それも決定的な、致命的な、生を雑に扱えるほどのひびが。
もしくは――壊れているのかも、しれない。
壊れて、新しく作った器が今の彼ならば――生きて帰ることを考えないのも頷ける。
今の旭日の強さに理由はなく。
今の旭日の強さに動機はない。
かつて九曜旭日を満たしていた何かの、余波〈なごり〉が今の旭日の強さだとしたら?
「(……だとしたら、そんなものは強さでもなんでもないわ)」
彼の振るう強さは死兵のそれだ。
生きて帰ることを考えないからこその――己の命を度外視した強さ。
だけど。
だけど旭日は変わりつつある。
自惚れになるし、向こうはおそらく自覚してないし、仮に自覚しても絶対に違うと認めはしないだろうけれど、あいつは――旭日は、徐々に自分たちを帰る場所だと思ってくれるようになってきている。
「(ただの…………弱さよ)」
帰る場所があるのに帰ろうとしないことの、どこが強さなものか。
『……日の眩さに目を細め、彼の者の弱きを見落とさぬようなされよ、曹孟徳殿』
頭の中に響いたのは、いつかの許子将の言葉。
言われずともわかってる。
見落としている気だってない――けれど。
「(……仕方、ないじゃない。ああもはっきりと線引きして、近付くことを頑なに拒んでる馬鹿に……一体どうすれば、踏み込めるっていうのよ…………っ)」
しかしこの時、華琳は本当の意味でわからずにいた。
踏み込めないのではなく、拒絶を恐れて踏み込もうとしてなかったことに。
そしてそのまま――手遅れになる可能性だって、あることに。
今は、まだ。
【第十四章 空に浮かびし日の奥、虚しきは彼の者の強さ】………………了
あとがき、っぽいもの
どうも、リバーと名乗る者です。
今回は官渡の戦い……というより、まあ、ほとんど旭日のぷっつんで消化してしまいましたね……麗羽さま、出してやれなかったのが心残りです。あの方、自分程度のレベルじゃシリアスの時はものっそい出しにくいので仕方ないっちゃ仕方ないんですけど……うーん、文才がほしいです。
文ちゃんととっしー、そして旭日の対決がほぼメインでしたが、しかしあの二人って実際はどのくらいの強さなんでしょう? 少なくとも季衣や流琉よりは若干弱いぐらいだろうなと思ってそのように強さを設定しました。正史でも確か、関羽に一撃でやられてましたし。
ええと、あと逆に旭日の強さですが、強すぎるというほどではないです。旭日も言っていたよう、策や小細工を弄して、相手を弱くさせての勝利なのです(しかしこれ、主人公としてあるまじき戦い方ですね……)
まあ正確には、今はまだそういう強さ、ということになるのですが……これ以上はネタばれになるので伏せておきましょう。
次回は拠点。
おそらく予想外(?)な人物の拠点になります。
そして、応援してくださった皆様、本当にありがとうございます!
これを励みに否定的なコメントにも負けず頑張っていきますので、どうかこれからも『日天の御遣い』に広い心でお付き合いください!
では、誤字脱字その他諸々がありましたら、どうか指摘をお願いします。
感想も心よりお待ちしています。
前回のコメントへの返信
サラダさま>
応援ありがとうございます!これからも頑張ります!
旭日の強さは、今回で華琳が少し触れています。
吹風さま>
コメントありがとうございます。原作では一番最初に桃香に「あれ?」って思う場面ですよね。
ピキュルーさま>
コメントありがとうございます。やはり、腑に落ちませんよね。当然のことだから、尚更に。
スターダストさま>
自分は魏ルートから始めたので蜀と呉ではどうしても桃香に対して厳しく見てしまいました…
熱いアニメは自分も大好きです!グレラガとかもうどストライクでした!
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真・恋姫無双の魏ルートです。 ちなみに我らが一刀君は登場しますが、主人公ではありません。オリキャラが主人公になっています。
今回は第十四章。
袁紹との対決、官渡の戦いです。