No.166171

ソロモンの青い鍵・5

MHKさん

これで本来の1話はラスト。普通に換算したら5話分なのか…我ながら凄すぎてどうぱみんがほとばしるぜ。なおこちらもややエグそうな表現があるので苦手な方はすまんことです。

実は本として発売予定だからこれだけ長ったらしかったりしました。1話だけ晒すのはサンプルみたいなものとお思いねえ。実は2話以降は18禁なので気が変わったとしてもここでは晒しようがないのです。1話だけはそういう色が無かったので晒してみました。でも一部15禁に該当しそうなところは人畜無害そうに変えてみたりしました。

この小説が気に入ってくれたらまた未来によろしくしてやってください。多分完成して販売始めたらそっと告知すると思います。

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2010-08-16 23:21:32 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:557   閲覧ユーザー数:519

 そうこうしているうちに奴は俺に飛び掛ってきた。辛うじて避けたが、扉から話されてしまった。奴は軽やかに方向転換すると再びこっちに向かってくる。

 それにしてもカサカサと不愉快な音だ。あのつぶらな目が無表情に見えてかえって不気味さを増している。早く力尽きてくれと思うのだが、焼け死ぬどころか焼け石に水状態だ。俺がピンチになってどうするんだよ。

 

 体内のカビは俺の心を代弁するように随分悲観的な声を上げた。

 

『なんてことだ…まだ奴の体内に水分が残っていたのか! それが油の吸収を妨げて周りを燃やすだけに留まってしまっているのだろう。このままでは逆にこちらが危ない!』

 

 いちいち言われなくても分かってるよ危ない事くらい! 俺は内心毒づきながら辺りに視線をやる。すぐ側とはいいがたいが、セールスウーマンの鞄が床に転がっている。アタッシュケースのような感じで頑丈そうだ。これを使おう。俺は再び飛び掛ってきたヤツを辛くも避けると、鞄を手に取った。

 

 中型の獣のようなサイズというのが曲者で、大きさに加えて妙な動きとその素早さが災いしてこっちから殴りかかれそうもない。直線的に突っ込んでくるからそこを狙って鞄を叩き付けてみたが、どうも効いているのか分かりかねる。何しろ鞄で押し返されるように殴られ床に叩き付けられても、何事も無かったように起き上がってくるからだ。それでもやりつづければ効果が出るだろうと鞄を構えると、体内のカビが無駄であると指摘した。

 

『我々はどんな姿に変化しようと菌糸の塊に過ぎない。カビは殴ったところで駆除できない。変化は鉄を使う。自らの養分を使っているから、長時間あの姿を保てばあれも無事ではすまないが、それまでお前は持ちこたえられないだろう…私の麻酔はそこまで長時間持たない』

 

 手のように器用に蠢く足は方向転換に役立っているのか、随分早く体勢を立て直して俺に向かってくる。だが、さすがに一直線では効果が無いと悟ったのか、鞄にしがみ付いてきた。驚いて鞄を放り投げると、奴はすぐ鞄から離れてふわりと着地しやがった。

 キモ虫はすぐさま体制を立て直すと俺に向かってくる。避けきれずに腕で奴をなぎ払ったものの、腕の袖がツメによって酷く損傷を受けて穴が開いてしまった。

 

 奴はツメを立てて飛んできてるのか…痛みは感じないが、恐らく毒による麻痺が原因だろう。体内のカビは麻酔といったか。痛くは無いが、気持ち悪い。高いだけあって頑丈だったようで、血が出なかっただけマシだ。だが、まるで外にある看板の端で激しく打ち付け引っかいたような傷がついている。麻酔が切れればきっと痛いんだろう。

 

 悪化した事態に俺の体内から悲鳴が聞こえる。俺の使用とすることに反対していたのだからもっと非難されると思ったが、コイツは人がいいのか再び助け舟をだしてくれた。

 

『お前のジャケットは革のジャケットだろう、羽織っていないでしっかり着込め! 熱からお前を守ってくれるはずだ! 諦めてもう一度あの部屋に逃げろ!』

 

 これじゃ何のために出てきたか分からないが、逃げる元気も無い俺が唯一出来ることはもう本当にそれしかなさそうだ。あの人を火がついた化け物と一緒にさせるのは忍びないが、奴の意識が完全に俺に向いていて、尚且つあまり頭の回転がよくなさそうというのが唯一の救いだ。

 俺はジャケットのファスナーを首元までしっかり閉めると、奴の動きに注意しながらもう一度検問所に逃げようとした。

 

 だが、俺は弱気になりすぎた。打つ手が無いと分かったからか、とにかくその場から逃げ出したくて焦って駆け出した。奴は俺が逃げることに意識を傾け背を向けるのを狙っていたのかもしれない。カサカサという嫌な音が、ハトのつぶらな瞳が俺に迫る。

 

 半開きの扉のドアノブに手をかけようとした途端、熱気と光が視界をさえぎった。身軽な奴は俺の顔の高さまでジャンプして踊りかかってきたのだ。払いのけることも出来ず、俺は敵に対し背を向けた姿勢のまま壁にたたきつけられた。奴のツメは白い壁に食い込み、俺は燃え盛る不気味な物体に上半身を抱えられるように壁に押さえ込まれた。

 

 熱い! 熱いが、死ぬほどと言うわけじゃないから腹立たしい。しかし、確かに何かが焦げる臭いがする。焦げているのは俺の服なのか、髪なのか、体なのか。体の痛覚が麻痺している今、どれなのか分からない。致命傷を受けているはずなのに痛みが無い事が逆に恐怖を煽り、俺はもはや言葉になっていない悲鳴を上げることしかできなかった。

 巨大の指のような足に羽交い絞めされたように腕を押さえつけられ…押さえつけられ、俺は一体何をされているんだ? 頭が、顔が壁に押しつけられていてよく分からない! ただ、視線だけ泳がせると赤いものが見える。細長いストローのようなものが見えるが、見えるが…見たくない…見たくないが、奴の奇妙な顔が俺の首に近づけられている時点で何となく想像できてしまう。

奴は俺の首に何かを差し込み血を吸っているのだ。痛みが無いのは感覚が麻痺しているからだろうが、こんな目に合うくらいならいっそ激痛に悶えてショック死したほうがいい。

 

 俺は燃え盛る不気味な物体に押さえつけられたまま不気味な口元からのびる奇妙な口吻を突き刺され、生血を吸われて枯れ果ててしまうのか。暴れて振りほどこうにも、横から押さえ込まれていてうまく振りほどけない。

 助けを呼ぶにしても、一体誰に助けを求めればいいんだ? 何より俺は突如起こった恐怖に声が出ない。出ても情けない悲鳴だ。しかもその悲鳴は喉の奥で燻っていて、他人の耳に届くような激しさはない。

 

 何より体内から声が聞こえないのが余計怖さを増した。大丈夫なのか? 俺の体内の奴は無事なのか? 血を吸われてるから奴も無事じゃないだろう。しかも奴は弱体株だ。生命力が弱まっているって言ってたが、血を横取りされて大丈夫なのだろうか?

 俺はいつまでこうしてなきゃいけないんだ。抵抗しようにも力が入らない。力が入ったとしても、少しでも動いたら喉を貫かれそうで、助けを呼ぶことも動くことも出来ない。

 

 恐怖と大量の血を吸われる事で体が悲鳴を上げているのか、体が自分ではもはや制御できない程震えている。その震えは吸血に差支えがあるほどなのか、俺は奴の脚で頭を壁にたたきつけられた。その振動で全身の汗が滴り落ちた。俺はいつのまにこんなに汗をかいていたんだ。汗が目に入ってしみた。とっさにぬぐおうと我に返り最後の力を振り絞って抵抗したが、前にも増して強く押さえつけられていてどうとようもない。いや、俺の力が弱まっているのかもしれない。せめてこいつがもう少し大きい化け物なら蹴り飛ばせてどうにか逃げ出すことが出来ただろうに…足をばたつかせても空を切るだけで何の役にも立たない。

 

 体内のカビがかけてくれた麻酔が切れてきたのか、次第に首が痛くなってきた。肩が突っ張るように痛い。首は痛いというか、何か異物感を感じて息苦しくなってきた。動いたら喉を貫かれそうだ。今の俺は喘ぐように燃えるよどんだ空気を吸う事しかできない。

 

 もう俺は駄目だ…でも、せめてあのもちだけは逃げて欲しかった。だって奴はいい事が一つも無かったじゃないか。俺たちに関わったことで何度も死ぬ目にあっていた。でも本当に死ぬ必要はないだろう。こんな所で俺と共倒れしたら浮かばれない。アブラメリンに関わってしまったばかりに体を滅茶苦茶にされた挙句殺されるなんてあんまりだ。どうせなら俺の代わりに平凡に生きてくれ…

 俺はそれだけが気がかりで、自分の体が自分のものではないと思えるほど重くなる事にはもう何の恐怖も感じなかった。

 

 それはいつまで続いたか分からない。長かったのか短かったのか。それでも吸血のせいか気持ち悪さと疲労が限界に達して、俺の意識はあるようでなかった。この気持ち悪い物体に支えられている有様だった。不気味な沈黙が突如破られたのは、いつだったのか。

 

 ドアが乱暴に開けられる音が突如響くと、耳を劈く爆音と物凄い衝撃が俺を貫いた。同時に俺の血を吸っていた奴はもろりと床に落っこちた。が、奴は生きていた。だが、俺ではないどこかへと走っていった。俺は特に何も無いようだ。何も無いと思う。俺はもう何が起こったのか把握できる状態じゃない。キモ虫みたいな奴から解放された俺はそのまま床に突っ伏した。起き上がる元気もない。

 

 カサカサという音が遠ざかる。何かが降りかけられる音が聞こえると同時に、耳障りな音と喉が焼けるようなすさまじい臭いが充満する。カサカサという音はまだ聞こえるが、先ほどの爆音が何回か響くとばたばたと言う床を叩く音に変わり、同時にまた耳障りな音が響く。何だろうか、何かが煮え爆ぜるような音だ。

 

 その音が聞こえなくなると、急に部屋があわただしくなった。ばたばたと人の足音が聞こえる。頭だけどうにかもたげて辺りを見ると、数人の人間の足と…こちらに歩み寄る黒い服を着た男がうつった。やっと来てくれたのか…遅すぎるだろ…俺は生まれて初めて心の底から錬金術師の行動の遅さを呪った。

 黒服は俺を見て酷く狼狽しているようだった。奴は酷く懐かしい声でこう呟いた。

 

「錬金術師って報告を受けたのに…何故ザドックが? どうして…」

 

 その声を聞いて遅かった理由が分かった。事務所側は親父がじきじきに来なきゃいけないほどヤバイ事件だと察して、隣の市まで出ていた親父を急遽呼び戻したのか。

 親父は俺の首の傷を押さえながら軽く覆いかぶさるようにして抱いた。「なんてことだ」と繰り返し呟き嘆きながら、俺の顔をなで頬ずりをした。首の傷を気にして下手に体を動かせないが、酷い有様の俺を抱かずにはいられなかったらしい。今まで焼けるほど熱い環境でいたのに、親父の頬がとても暖かく感じた。自分の体がとても冷たく感じた。

 寒いよ…助けて父さん。俺は声でそう甘えようとしたが、喉が痙攣を起こしたように変なため息が2回程出ただけだった。どうして声が出てくれないんだ。俺はまるで声の出し方を忘れたかのようにただ口を動かすことしか出来なかった。

 

 親父には色々聞きたいこともあるし、色々伝えたいこともあった。女性が無事救われたのか、アパートを無事洗浄してくれたのか。色々知りたいこともある。だが、俺の意識はそこで途絶えた。

 俺は不思議な夢を見ていた。俺はあの白いもち…フェ・ラジカと対面していた。キモいカサカサいうアレじゃなくて、俺を守ってくれたあの魚を食ってた奴だ。ソロモンに酷い目に合わされたってのに、恨み言一つ吐かないあの丸いフェ・ラジカ。奴は俺の前にいた。俺は丸いもちみたいな奴の前に座っていた。

 

『お前が死にかけたのは、お前に慎重さが足りなかったからだ。自分の身を守れないなら他人の事を気にするな。無謀な優しさは愛ではなく小心だ。人を見捨てることが恐ろしくて出来ないから、身を挺して人を助けようとする。それは勇気でもなんでもない。ただの無謀だ』

 

 もちはそう言った。だが、こうとも言った。

 

『しかし、最初に私が君を扇動して危ないことに足を突っ込ませたことが全ての元凶なのかもしれない』

 

 もちはそう言うと少し黙った。俺は何も言わなかった。暫く静かにもちと対面していたが、意を決したようにもちが再び語り始めた。この夢は何なのだろう? 悪夢ではなさそうだが、懺悔の夢ってのも何だか不思議だ。

 

『君を呼び寄せたのは他でもない、君が一番使えそうだったからだ。お前は私を優しいと評していたが…私は優しいのではない。単に利用できそうなものに甘い声をかけただけだ。

 私はソロモンを信じちゃいない。こんな体にしたあいつが憎たらしいからお前にたれこんだだけだ。信じていると言ったのは、いいツラしていればお前は私を悪いようにはしないだろうと思っただけだ。

 私が事件に関わろうとしたのは、錬金術師達に恩を売って大手を振って逃がしてもらうつもりだったからだ。君はその為の道具に過ぎなかった。改造株がまさかあんなに危険な存在だとは思っていなかったから、軽い気持ちで唆した』

 

 元いた場所ってのはあのつつじの木の下って事だろうか。それとも本来のフェ・ラジカの生息地なのだろうか。フェ・ラジカの生態はいまいちよく分からないから詳しい事は分からないが、コイツはどうも俺に媚を売りながら逃げる機会を窺っていたらしい。

 とてもそうとは思えない部分もあった気がするが、それも俺の気をよくするためのおべっかだったのだろうか?

 

『私は所詮そこらで繁殖する人に寄生して苦しめる野生種やあの気持ち悪い改良株と変わらない、姑息なフェ・ラジカだ。人を救うという使命の元人に寄生し、本当に命がけでその使命を果たしたアモスこそが善良な株と呼べるのだろう。私はただの殺人カビだ』

 

 何もそこまで卑屈になる必要は無いと思うのだが…だってアモスに第二の侵入者がいる事を伝えたのはコイツだ。そうしなければアモスは行動に移せなかったはず。

 錬金術師達に先んじて手柄を上げることで自然に帰ろうとしていたから、危険な株の存在を教えたり俺の手助けをしてくれたりしていたのかもしれないが、それは恥ずかしいことじゃない思うし悪いことでもないと思う。

 

『それでも…お前はあんな状態になっても私を心配してくれたな。私はお前を見捨てて逃げるべきか否か迷っていたというのに』

 

 あんな状態…そういえば吸血された時妙にコイツの事が気がかりだったのを思い出した。何であんなに心配したんだろう。普通パニックを起こしてそれどころじゃないだろうに。

 自分で自分の思考回路の不思議さに首を傾げるが、考えてみたら寄生されている間色々な恩恵に預かっていた事だし、先に死なれたらその恩恵がなくなってしまうかもしれないと思ったのかもしれない。

 ただ、その説だと逃げろというのが説明できないな。切羽詰ってる時の思考なんて自分でもよく分からん。自分が駄目ならコイツだけでもという現実逃避だったんだろうか?

 

 もちは少し考えてから、こう発言した。

 

『私は所詮そんな程度の株だ。それでも私は…ここにいてもいいだろうか?』

 

 コイツは今までの行動を悔いた上で俺の側にいたいと申し出た。そんな事しなくても好きにすればいいのに、堅気なカビだ。

 どんな仲にも損得の感情はあるし、むしろそれが殆ど無い関係ほど薄っぺらいものはない。世界で最も美しき愛と称されるアガペーとやらも結局は【尽くしたい】というエゴが生み出してるんだ。

 

「逃げようか迷ってたけど、結局逃げなかったんだろ? だったら別に引け目を感じることは無いんじゃないか?」

 

 俺はそう答えた。

 

「それにあんな酷い事されれば怒ったって誰も責めやしないさ」

 

 そうとも言った。

 

「別にいたければいればいいんじゃないの? 俺は別にどっちでもいい。好きにしなよ。

 俺は首を突っ込んで確かに酷い目にあったとは思うけど、別にお前の為に動いたわけじゃない。自分の意志でキャリアを何とかしようと思っただけだ。それにあの事件で得られたものはたくさんある。

 俺は別にお前を恨んじゃいない。でも大事な存在とも思ってない。心配したのは…きっとお前が死んだら俺の中の胞子が芽生える可能性があるからだ。本当は理由なんて分からないんだけどな」

 

 俺は正直に答えた。俺は別にカビの為に動いてたんじゃない。俺は俺の為に動いていただけだ。目の前のもちは情報をくれた奴ってだけで、別に特別な存在とは思ってない。いやまあ、存在そのものは特別ではあったかもしれないが…だって初めて出会ったフェ・ラジカだもんな。

 

 もちは俺の話を静かに聴いていたが、『お互い利害が一致していただけだったのだな』と呟いた。全くその通りだ。だから、何を思っていたからとか特に気にすることは無いと思う。

 

「そういうことだ。俺も別に裏切られたと思っちゃいない。あんまし柵に縛られる必要は無いと思うぞ。好きにしな」

 

 俺がそう答えると、もちはちょっとひきしまった…ように見えた。

 

『ではこれからは少し信頼関係を築いてみたいと思う』

 

 そういうと、じわじわとこっちに近づいてきた…ように見えた。 

 

『いつまでも体内のカビ呼ばわりじゃお前も何かと大変だろう。…名前をつけても構わんぞ』

 

 名前をつけても構わんって…随分えらそうな言い方だ。だが、この一件でもちが何を言いたかったのか何となく分かって気がする。今まではたまたま顔見知りなだけの赤の他人同士だったが、これからはそういう冷淡な関係じゃなくてちゃんとした友好関係みたいなものを築きたいと言っているのだろう。

 

 そんなもんいちいち儀式めいたことしなくても自然とやってけるだろうに…でも俺の友達は同じ人間しかいない。カビの友達なんていない。多分もちもそれを分かってるだろうし、もち自身こうして確認しないと信用できないのかもしれない。

 だって俺は気が変わればもちを簡単に殺すことが出来る。コイツは殺人カビだと錬金術師に渡してしまえば、コイツはなす術もなく焼き殺されて処分されてしまうんだ。人間に対して臆病な位が丁度いいのだろう。

 

 確かにもちだのカビだのじゃ呼びづらいし、この先長く顔を合わせるなら名前をつけたほうがいいだろう。出来れば普遍的で、うっかり誰かの耳に入っても変な顔されないような名前がいいな。雌株っぽいし、つけるなら女の名前だろうか…そういう感じの名前が浮かんで、俺はもちに提案した。

 

「マリアというのはどうだろうか」

 

 堅苦しい響きだが、有史以来ずっと人気のあった名前だ。もちは『立派な名前だな。カビにはもったいない気がするが』と遠慮がちに答えたが、気に入らないわけではないようだ。でも、そう言われると恥ずかしくなってくる。

 

「だって凝った名前にすると変だし、マリアさんなんて古めかしい名前今時おばさんとか婆さんくらいしかいねえし。…別にマリアって名前に恨みがあるわけじゃないぞ。ただカビの名前でもまあ悪くないんじゃないかと」

 

 俺があわててそう付け加えると、もちはふふと笑った。カビの癖に上品な笑い方だ。

 

『マリアか…素敵な名前だ。呼んでみてくれ』

 

 そう言うともちは俺の脚にそっとくっついてきた。顔も無いし手足も無い。ただの丸い物体でしかないのに、妙に可憐な仕草だ。カビの癖に可愛い奴だ。

触っても大丈夫そうな気がして、俺はそっと手にとってみた。相変わらず掌サイズで小さい。ずっと俺の血を吸ってるんだから大きくなってもいいだろうに…でもあの凶暴な株みたいにやたら大きくなられても気持ち悪いけど。

 

 しかし、呼べと言われてもな…何か恥ずかしいから「何だよカビの癖に人様に命令するなよ…マリア」と呟いた。何か普通に呼ぶよりこっちのほうがよほど恥ずかしい発言じゃないか? 俺は後悔した。

 随分高圧的で捻くれた呼び方になっちまったが、それでももちは嬉しそうに『ありがとう』と言った。掌でもそもそしているが、すべすべしていて気持ちがいいからくすぐったい。軽く握ってみると、指の間から盛り上がるように出てきた。何か面白い。

 

 奴は手の間から滑り落ちるようにひざの上に落ちた。ひざの上で白いもち…マリアは、俺に力強くこう宣言した。

 

『今度こそ…今度こそ、お前への恩を返す。必ず助けてやる。だから、もう少し辛抱していてくれ。…負けないでくれ』

 不思議な夢だった…マリアと名づけたフェ・ラジカが俺のひざで跳ねたり体にくっ付いたり遊ぶ夢だった。あの時の恐怖とは無縁の、静かで暖かい夢だった。あの悪夢のような事件の後に見た夢なのかと疑うほど、穏やかな夢だった。 しかし、その夢はずっと続くわけではなかった。マリアは不意に俺から離れた。

 

『いつまでもこうしていても仕方ない。夢は所詮夢なのだ。夢は覚めるもの。…私は先に行くから、お前も来るのだ。ちゃんとついて来るんだぞ』

 

 マリアはそう言うとにじにじと這って行った。コイツ等は少し動けるという話だったが、随分動きが早い。ぜんぜん少しじゃないじゃないか。俺は立ち上がり地を這うもちを追うために歩み始めると、後ろから酷く切羽詰ったような緊張した声がかかる。振り返ると、そちらにももちがいた。

 

『どこへ行くのだザドック…そちらに行ってはいけない! そいつに付いていけばお前は地獄に落ちるぞ』

 

 何故マリアが2匹もいるんだ? 俺は地を這うもちにもう一度視線を投げるが、この異常事態に気づいていないのかずいぶん向こうまで行ってしまった。辺りが真っ暗だから白いもちは随分目立つ。どんなに離れても見失うことはなさそうだが…

 俺は戸惑いつつもう一度呼び止めたもちを見る。真っ白で小さいフェ・ラジカだ。こいつはマリアだろう。だが何故マリアが2体いるんだ? 

 マリアは焦っているのか、いつもより早口にまくし立てている。こんなに取り乱すマリアは見た事が無い。ただ、言葉の節々から俺を心配していることが分かる。

 

『そのフェ・ラジカは死の誘惑だ! 従えばお前はすべての者に嘆きをもたらすことになる。行くな! 戻って来い!』

 

 死の誘惑? 聞き慣れない言葉に俺は面食らったが、そういえば俺は死ぬ目にあったんだっけと他人事のように思い出した。いまいち自覚が無い俺に痺れを切らしたのか、マリアは『周りをよく見ろ!』と喚起した。

 真っ暗な空間をよくよく見てみると、何かが流れているようなちらちらとした光が見える。さっきマリアが這って行った方向だ。水のような反射光だが、水溜りではなさそうだ。目を凝らす俺に、足元までにじりよったマリアが川の正体を俺に伝えた。

 

『三途の川を渡って目覚めるなんておかしい話じゃないか。こっちが現実なのだ。あちらに行ってはいけない』

 

 三途の川…生と死の境にあるという川のことか? 確かに状況的にあってもおかしくなさそうだ。この足元のマリアは俺を助けてくれたのだろうか? でも何故か俺は腑に落ちなかった。

 

「でも俺と遊んでたのはあっちだ。マリアと名づけて、喜んでたのは川へ行ったマリアだ」

 

 そうだ、それは紛れも無い事実だ。ソロモンに対するちょっとした報復を兼ねて俺を利用して利益を得ようとしていたことを懺悔して、仲良くなろうと寄り添ってきたあの丸いもちみたいな物体は、川に入っていったマリアだ。俺が名づけた名前を喜んでいたフェ・ラジカは、三途の川を渡っていったほうだ。

 

『それは所詮夢だ! お前の未練を断ち切って死へ誘おうとしているのだ! そんな幻に惑わされるな!』

 

 足元のマリアは川に行ったマリアの事を幻と称した。そして、幻によって崩された自分の潔白を訂正した。

 

『私はお前を裏切ろうとした覚えなど無い! ソロモンに恩を感じているのは今も変わらない! どうしてそんな卑劣な嘘を信じるのだ? 私を信じてくれないのだ? 私は一度もお前を裏切ってなどいない!』

 

 本当ならこのマリアを信じるべきなのかもしれないが、あのマリアが俺を軽んじていたことを語るときの真剣な様子がどうしても嘘に思えなかった。いい顔はいつでもできる。いつだってできる。いつまでもできる。だが、裏の顔を見せるのは勇気がいる。誠意と言うのはきれいごとを言って取り繕う事じゃない。信じてもらえる様に苦心し努力することだ。

 このマリアはあのマリアの勇気を卑劣な嘘と真っ向から否定した。本当にあっちが偽者であったとしても、俺はこいつを信じられない。だってこいつはいい顔しかしない。普通ならあるはずの負の部分が見えてこない。裏が見えなければ、何を考えて俺に親切にしてくるのか分からない。分からないから、俺は信じることが出来ない。

 

 俺はソロモンを信じるというマリアにはどうしても共感できなかった。本当は根に持っていて、俺におべっかを使う為に信じるといっていたあのマリアの言い分があまりにもしっくりしていて、それは嘘だと否定するこのマリアがどうしても信じられない。理解できない。死ぬ目にあわせた錬金術師をどうして無心に信じられるんだ。

 

 共感できない、理解できないものが偽者というわけではないだろうが、俺はこの足元のもちをどうしても信じられなかった。だからすがるもちに俺は言った。

 

「三途の川なんて馬鹿げたもの…あるものか! 俺はマリアを信じる!」

 

 あのマリアはついて来いと言っていた。だから俺はあのマリアの言うとおり、川に行かなければいけない。俺は足元にいるフェ・ラジカを無視して再び川へ歩みだした。だが足元のフェ・ラジカは何かに弾かれるように俺の脚に縋りつくとわめいた。

 

『ザドック! やめてくれ、いかないでくれ! 私を信じなくてもいい、だが頼むから行かないでくれ!』

 

 何て悲哀に満ちた声だろう。マリアはこんな声も出せるのか。…いや、マリアはこんな声は出さない。悲鳴も上げない。あの気持ち悪い化け物に襲われて俺が死にかけていた時だってこんな情けない声は出さなかった。マリアは気丈な奴だ。そして身を挺して強制なんてしない。注意や警告はするが、基本的に俺任せだ。

 

 こんな女々しくて鬱陶しい奴、俺は知らない。

 

「俺はお前なんて知らない!」

 

 俺は脚を降ってもちを振るい落とそうとした。しかし、コイツはしぶとく足に張り付いたままだ。ひっしとコレの足首にまとわりついたもちは『私は…私には名前をつけてくれないのか…』と悲しそうに訴えた。

 

『幻には名前をつけて心を開いても、私には何もくれないのか…ザドック…ザドック』

 

 足にまとわりついたフェ・ラジカは今にも泣き出しそうに、同時に怯えたように震えた声で俺の名を呼び続ける。こいつがマリアであろうとなかろうと、必死な様子で俺を止めようとするコイツは見ていて哀れだった。よっぽど妥協して話を聞いてやろうとも思ったが、そんな悠長なことをしていたらマリアを見失ってしまいそうだ。

 

 何よりコイツはマリアの懺悔を卑劣と言った。それだけはどうしても許せなかった。そんな事を言うなら、命を脅かした錬金術師を信じる気持ちの根本を聞かせてほしい。俺が納得する理由を聞かせて欲しい。何故自分の命を犠牲にしてフェ・ラジカのグリモアが出来上がる事が嬉しいんだ? 種族が繁栄するからっていったって、何故そこまで自己犠牲の精神が働くんだ。ただ拾われただけで自分の命を投げ出すほどの使命感が働くなんておかしいじゃないか。そこに至るまでの何かを教えてくれなければ俺は納得できない。

 

 俺はコイツが必死に止めれば止めるほどイラついた。足を振るだけでは落ちてくれないのを悟った俺は、足にしがみ付くもちを引っ張るように引き剥がすと「うるさい! 黙れ! お前にくれてやる名前なんてない!」と怒りを浴びせかけながら思い切り地にたたきつけた。

 

 白いもち状の物体はぎゃっと悲鳴を上げてびたっと地に張り付いた。潰れたようにほんのり伸びている。そのまま動かないし、何も言わない。まるで小動物を虐待してしまったような酷い罪悪感が心に渦巻いたが、邪魔しないから丁度いいじゃないかと邪悪な心がささやいた。

 普通ならこの心は力なきものを虐げることを肯定する邪心なのだろうが、今は前に進む為のアクセルとして歓迎したほうがよさそうだ。俺は邪心の赴くままに後ずさると、そのまま駆け出した。

 

 よっぽど見失わないだろうと思っていた白いもち状のものが見えない。だが、確かに川のほうに行ったんだ。見渡す限りどこにも橋らしいものもないし、水が流れていないところが無い。俺は意を決して足を踏み入れた。もっと冷たいものかと思っていたが、案外生ぬるい。結構深いらしく、進むごとに足が水に漬かっていく。

 

 深さがひざあたりまで来たところだったか、急に背後から悲鳴が聞こえた。今まで以上に何か緊迫した感じだ。俺は思わず振り向いてしまった。さっきまで俺がいた岸辺には、黒い服と黒いキャスケットを被った…俺がいる。いや、あれは俺じゃない。あれは…ソロモンだ。ソロモンの手にはさっきのもちが握られている。

 

 ソロモンはもちを軽くこちらに掲げて見せた。そして口元を歪ませて俺に言った。

 

「お前もこいつを捨てるんだな。そうだろう、こいつはゴミ以下だ。一般人にも価値は分かるんだな。偉い偉い」

 

 何故ソロモンが…というか、今までどこにいたんだ。どれだけ人が心配したと思ってるんだ。だが奴はそんな事お構い無しに話を進めた。

 

「このままフェ・ラジカを放置するわけにもいかないから、マリアはこの俺が責任持って処分してやろう。問題ないな、ザドック?」

 

 そう言うとソロモンは腰にかけてた鞄から瓶を取り出した。何だろう、あれは。奴は瓶の蓋を開けると、再びこちらを見た。目が合ってどきりとした。アイツがこんな風に顔を直接見てくることは無かったから、目があった事なんて生まれて事かた数えられるんじゃないかと思うほど程少ない。

 目が合っても何にも気にしていないらしいソロモンは浮ついた笑みを浮かべたまま俺を見ていたが、ふと手に持っていたものに視線をやりながら「何、その未練がましそうな顔。嫌なら取りに来いよ」と誘った。

 

 そうか、ソロモンも俺を引き止めるつもりなのか…コイツがマリアみたいに泣いて止めるなんて事、夢でもしないだろうしな。でも心配しているってことなのか? 何故ソロモンが現れたのか知らないが、俺を引き止めるためにフェ・ラジカを使うつもりらしい。

 俺は首をひねると冷たく「そいつはマリアじゃない。お前の好きにすればいいさ」と言い放った。俺は足にまとわりつく水に少し苦戦しながら体を再びマリアに向けると、ソロモンは鼻で笑いながら俺に言った。

 

「おや、どう違うんだろうね…こいつはマリアだろう? お前がさっきそう名づけたじゃないか。薄情な奴だ」

 

 違う。断じて違う。マリアは川に行ったほうだ。だから俺は行かなければ。俺はソロモンを無視して再び川の奥へ足を踏み入れた。いきなり腰までがくんと深まったから、俺は転びそうになった。次第に流れも強くなってきているし、気をつけないと流されてしまう。

 背後からフェ・ラジカの声が聞こえる。コイツも結局はマリアと同じなのか、それとも俺の気を引くための演技なのか。演技なら悪趣味だ。そんなに必死そうな声を張り上げないでくれ…まるで俺が悪人みたいじゃないか。

 

『そんな…もう嫌だ、私はもう錬金術師にいたぶられるのは嫌だ! 助けてくれザドック!』

 

 この川おかしい。何故横断するのに流れが前からなんだ? まるで川そのものも俺に進むことを妨害しているかのようだ。ふんばって進まないと流されてしまいそうだ。

 

「はは、いらないってさ。俺もいらないから処分しましょう。もうお前は用済みなんだ」

 

 ソロモンが非情な宣告をフェ・ラジカにする。やめてくれ…ソロモンはそんな酷い奴じゃないはずなんだ。奴は何か特別な事がないと風呂に入らないし部屋汚いから、しょっちゅう虫にたかられてた。でも奴はどんな虫も追い払ったり叩き殺したりはしなかった。汚いのは虫を引き寄せる為なのかと思うくらいだ。体に虫をくっつけて居間のソファで寝てる様な奴だった。変な奴だったし、俺はどうしても気に入らなかったが…雲を食って生きてるって言われても納得できるくらい、自然に対しては温厚な奴だった。

 変わり者ではあったけど、人に対しては突飛な言動をしたりいまいちつかみどころが無い変人だったけど、誰かに向かっていらないとか用済みとか傷つけるような事を言う様な非情な人間じゃない。感情の起伏が読めなくて理解されづらい性格してるだけで、割と優しい奴なんだ。

 

 流れに逆らうのに必死で振り向くことも出来ない。俺はフェ・ラジカたちを無視して前に進むと、筆舌しがたいすさまじい悲鳴と共に何かが煮え爆ぜるような激しい音が聞こえた。この音は聞いたことがある…そうだ、俺が化け物から解放された後に聞こえた音だ。何かがじゅうじゅうと溶けるような音。

 

思わず振り返ると、ソロモンがフェ・ラジカを瓶の中に突っ込んでいるところだった。瓶の中の液体が、フェ・ラジカを飲み込むごとに激しくあわ立ち耳障りな音を立てている。その音に混じってフェ・ラジカの絶叫が聞こえる。

 

『助けて! やだ、やだーっ! 痛い、痛いーっ! 助けてー! 助けてえー! いやー! ああーっ!』

 

 すさまじい悲鳴が俺を呼ぶ。『助けてザドック! 助けて! 痛いよ痛いよおー』と獣のような悲鳴に混じって俺の名前が聞こえてくる。マリアの声で俺に涙ながらに必死に懇願する。「クソ、このデブ溶けるの遅えな」と不機嫌そうなソロモンの声が聞こえたが、俺の声にあまりに似ていて身の毛がよだつ思いがした。

 

 まるで俺がマリアを殺しているみたいだ。実際はソロモンがフェ・ラジカを駆除しているだけなのに…マリアと同じ姿かたちをしたフェ・ラジカが、俺と同じ姿をした錬金術師に殺されようとしているだけなのに。

 

 溶けるのが遅いのなら、引き返して助け出せばまだ大丈夫かもしれない。でも引き返したら、再びこの押し寄せる流れに逆らってここまで進めるか自信がない。何より怖い。あそこに戻ったら、もう二度とこちらのマリアを追えなくなりそうで怖い。…何故怖いんだろう。それすら分からない。

 俺は立ち往生してどうするか悩んでいた。悩むというより混乱していただけかもしれない。不意にあの時遊んだマリアを思い出して一歩進むが、足元の砂利が俺を滑らせて押し戻す。

 

 慌てて体勢を立て直して水面から顔を出すと、再びあの耳障りな煮える音とマリアの悲鳴が聞こえる。あの声はごまかしようも無くマリアのものだ。俺がどんなに違うと否定しても、あれはマリアの声だ。俺を引き止めていたあのフェ・ラジカは本当にマリアなのかもしれない。だとしたら俺はマリアを見殺しにしているんだ。

 

 再びあの爆ぜる音が激しくなる。ぎゃあーっというすさまじい悲鳴が響く。俺がどんなに耳をふさいでも、まるですぐ側で行われているように耳の中に響いてくる。もうやめてくれ。どうしたらやめてくれるんだ。俺が戻って取りに行けばやめてくれるのか?

 

「やっと芯まで浸透したか。無駄にしぶといゴキブリめ」と憎しみが混じった俺の声が聞こえる。やめろ、その声でマリアを辱めないでくれ。俺はそんなつもりはなかったんだ。俺は違うんだ。

 脳裏に憎悪に歪ませた顔をした黒服の俺と、その手にある瓶の中には体内に蓄積されていた血まで溶かされ始めたのか、気味の悪い赤い液体が激しくあわ立つ姿が映る。瓶には何か糸のようなものがこびりついていて汚く、中身がよく見えない。だが何か赤黒いものが蠢いている。あれがフェ・ラジカなのか。あれがあの掌サイズの丸っこい可愛いもちだったものなのか。あれがマリアだったのか。

 

 どうすればいいんだ。俺はどちらに行けばいいんだ。川の向こうには何も見えない。あのマリアは本当に幻だったんだろうか? 俺は幻に騙されてマリアを見殺したのか? だとしたら引き返さなければ。でも、嫌な予感がして引き返せない。俺はどうしていいかわからなくて、耳を塞ぎながら闇雲に虚空に向かって力の限り叫んでいた。

 

「助けてくれ! マリア、マリアーッ!」

 

 俺の声に対しマリアは『ザドック、早く来て、早く助けて』という悲鳴をあげる。だが、それを打ち消すように全く別の方向からかすかに声が聞こえた。細い声だが、どこか芯の通った声。ぼろぼろになってただ俺の名を呼ぶだけのマリアとは別の力強い声が、確かに俺の向かう方向から聞こえてきた。 

 

『こっちだ、ザドック! ここまで来るんだ!』

 

 マリアだ…本物のマリアだ。マリアは俺の行こうとする方向に確かにいるんだ。俺は水浸しになった顔をぬぐうと再び川の流れに逆らった。川はさらに深くなり、胸元まで水位がきた。踏ん張っても前に進むのは苦しい。すごく息苦しい。俺は泡を食うように口で、肩で息をしながら必死に前に進む。あれほど生暖かかった川の水が酷く冷たい。体がきしむように痛む。寒い。水の中にいるのに全身で汗をかいているのが分かる。

 

 進みたいが進めない。何故? 確かに川の勢いは強くなってきたが、何故進めないんだ。何故足が重いんだ。苛立ち、同時に諦めの思いもよぎる。戻るのは簡単だ、この流れに乗ってしまえばいい。

 

『マリアは…君がマリアと名づけたもちはここにいるぞ! 早くこっちへ来い!』

 

 悲鳴と爆ぜる音をかき消すように向こう岸から確かに呼ぶ声が聞こえる。早く行きたい。でも次第に疲れてきた。そんな俺の背後からはソロモンが笑いながら俺にささやく。

 

「何か随分心残りが多いようだが、本当に処分してもいいのか? 今ならまだ間に合うけど、どうするよ?」

 

 マリアは何故あんな遠くにいるんだ。やっぱりただの幻影なんだろうか。ソロモンはまだ大丈夫って言ってるし、一旦戻ってアイツからマリアを助けて、休憩して再開してもいい気がしてきた。引き返すのは楽なんだ。同じ姿勢をするのに疲れた俺が振り返ろうとしたその時、急に背中をぐっと力強く押された。

 無意識だった俺が再び正気に返って改めてしっかりと振り返ると、そこには黒服の俺がいた。帽子で目元が隠れて表情がいまいちよく分からないが、向こう側にいるマリアをいびるソロモンとは違い口元を一文字にしっかり閉じて俺の肩を支えていた。

 

 俺はひゃっと変な悲鳴を上げて、わなないた。でも流されなかったのは彼がしっかり支えてくれていたからだ。俺はいまだ落ち着かない気持ちを何とか抑えながら「ソロモン…何でここにいるんだ?」と震えた声で尋ねた。

 するとソロモンは「それは後で聞けるだろ、早く足を動かせ!」と怒鳴った。そうだ、ソロモンはこういう奴だ。あんな下品な笑みを浮かべて生物をいたぶり殺すような奴じゃない。

 

 俺はソロモンに押されるようにして一歩進めた。何故ソロモンが2人いるんだろう。でも、あっちのソロモンはよくよく考えたら何か似てないな。どちらかというと俺に似てる気がする。

 背中を押すソロモンは俺の考えている事を知ってか知らずか、静かに語り始めた。

 

「あれはお前の怠惰の心が生み出した幻影だ。全てを投げ出し逃げだそうとする諦めと及び腰の象徴…あいつ等の言う事を聞く必要なんて無い。あいつ等の言う事を聞いて残るものといえば、要は負けたってことだけだぜ」

 

 幻影? あれらは幻なのか…じゃあやっぱり向こう岸のマリアが本物? 嫌な予感はそういうことだったのか…幻が俺が帰ろうとするのを拒んでいたんだな。俺を帰すまいとする幻の罠に引っかかるなって勘が働いていたんだ。でもどこに帰るんだろう。というか、ここはどこなんだろう。夢…にしては嫌に疲労感がたまる夢だ。夢なら早く覚めたい。

 

 俺が状況を飲んで意識がハッキリしてくると、幻たちが悪態をつき始めた。「はっ、何に負けるってんだ? 全てはお前が悪いのに何を今更かっこつけてんだ。バカじゃねえの?」とソロモンが言うと、瓶の中でもがき苦しむマリアは『ソロモンのいう事は聞いてはいけない、ザドック…こっちへ…』とさもアドバイスのように語り掛ける。

 もうやめてくれ。俺は帰りたいんだ。邪魔しないでくれ。俺が耳を塞ぐと、俺を支えるソロモンが静かに語った。耳を塞いでいても、何故かよく聞こえた。でも幻たちのささやきのように心を蝕むものではなかった。ソロモンはこんなに力強くて優しい奴だったのか…

 

「同時にあれらはお前自身だ。俺を恨んでるのは分かる。でも今はかっこつけさせてくれ」

 

 あの幻のソロモンは、俺のソロモンに対する悪意の具現化なのかもしれない。だとしたらこの助けてくれるソロモンは誰なんだろう? もしかしたらソロモンを多少なりとも信じる心の具現化って奴のかもしれない。でもえらくリアルな幻だ…

 

 そうこうしているうちに徐々に向こう側が見えてくる。白いものが見えてきた。マリアだ。マリアが待っててくれているんだ。早く行かなければ。早く行って、一休みしたい。あの悪夢のような幻から逃げたい。奴等は相変わらず俺を唆し、川は俺に進むことを拒む。でもソロモンが支えてくれるおかげで俺は確実に進めている。

 

『ザドック、マリアはこっちだ! 大丈夫だ、私からもお前が見えてきたぞ! もう少しだ、頑張れ!』

 

 白いものが見える。それは俺の名を呼んで誘導してくれる。でも川は何故かさらに深さを増している。俺は多分一人だったらもう確実に無理だったろう。俺は首だけ外に出してる状態だった。全身に水圧を感じる。でも進むスピードが変わらないのは、ソロモンが支えてくれているからだ。

 

 あともう少し、あと一歩。そういうところで、さらに底が深くなった。これじゃ進みようが無い。溺れちまうよ。するとソロモンは俺を担いで何とか肩まで水面に押し出した。ソロモンは大丈夫なのか? 何か震えてて危ない。…初めて間近でソロモンの事心配したな。

 全身水中に潜っている状態なのに、ソロモンの声が聞こえた。これは幻のソロモンじゃない。俺を助けてくれてるソロモンだ。

 

「俺がやれるのはここまでだ。あとは頼んだぞ、マリア!」

 

 その声と共に俺はぐっと水面に押し出された。まるで投げられたように無造作に宙にとんだ。同時に何か白いものが見える。そうだ、あれは手だ。俺の前に手が差し伸べられている。俺はそれにすがるように握った。再び川に沈みこんだ俺は、それでも手を離さなかった。白い手も俺をしっかりと握っている。

 それは俺を川から力強く引きずり出してくれた。俺は随分水を飲んで咽た。咽る俺を包むように白い腕は俺を抱き寄せた。この上なく優しいそれは、俺を暖めた。もう幻の悲鳴や痛々しく爆ぜる音は聞こえなかった。体内の川の水が全て出た後、俺はぐったりと白い腕に身を任せていた。

 

 それは白いもちではなかった。白い人だ。まるで大理石の像がそのまま動き出したような、つるりとした吸い付きそうな白い肌。上品で鼻筋が整った顔立ち。この闇の中で輝くような存在感だった。全てが白く、肩を伝う長い髪もどこか濡れそぼっていてぬらりと妖しい輝きを放っている。髪の毛というより…そうだ、あの時見た糸の様だ。マリアは菌糸と言っていたか。目はまるで血のように赤く、白目が無い。不気味だが、上品で美しくもあった。

 思わず見入ってしまうような、だが明らかに人間ではない人だ。官能を絵にしたような艶かしさだが、どこか聖性すら感じさせる凛とした気高さもあった。

 

 紅を引いたように赤い唇が、優しく弧を書いた。

 

『お前は勝者だ。誰も勝つことが出来ないものに勝ったのだ。誇るがいい』

 

 この声はマリアだ。もちみたいなのじゃなかったのか。よくよく見ると彼女は裸体を絹のような菌糸で隠しているだけだった。昔の人の服ってこんな感じじゃなかったっけか。昔の絵画でこういうのをよく見かけたけど。マリアの衣は髪の毛らしい菌糸と同じで体から出ている糸の集合体だ。結局はカビなのだが、一層聖性を際立たせている。

 一体何故こんな姿になっているのだろうか。マリアがカビ人間になっているなんて… いまいちよく分からないが、その時の俺はその腕の温かさ以外には関心がまるで無かった。

 

 しかし何に勝ったのだろう。ソロモンも負けるとか言ってたっけ。「勝った? 何にだ?」と喉の奥から声を絞り出すと、彼女は『死の誘惑にだ』と答えた。

 

『あの幻たち…川もそうだな、奴等はお前を苦しみから救うために現れた。彼らを責めてはいけない。彼らはお前を長く続く苦しみから救う…緩慢な死に導く為に現れた優しい死神たちなのだ。本来は彼等に打ち勝つことは出来ない。しかし、お前は今勝利した。お前は生きることが出来る…ただし地獄のような苦しみを伴ってな』

 

 マリアは少し遠慮がちにそう説明した。そうか、俺は死にかけていた。この夢で彼等の言うとおりに戻っていたら…負けていたら、俺は死んでいたんだな。だからソロモンは負けしか残らないと言っていたのか。つまりマリアは俺を生かすために助けてくれたんだな。助けてくれたソロモンは結局何だったのか分からない。あれも幻なのだろうか。

 

 白い女は俺を覗き込むようにして、少しいたずらっぽく笑いながら『ようこそ地獄の一丁目へ』と言った。

 

 同時に真っ暗な世界が血の色に染まっていく。血肉色に染まった空間には無数の血管が走る。マリアも白い体がおぞましく赤く染まり、消えた。俺自身も血肉色に染まり、確認できなくなった。

 最初は本当に地獄かどこかに来てしまったのかと思ったが、この景色に見覚えがある事に気がついた。そうだ、これ目をつぶってるとたまに見れる瞼の裏側だ。あまりの疲れに目の開け方を忘れてしまいそうだったが、どうにか目を開けた。震える瞼をこじあけて、ピントの合わない目で見る。そこには白い天井があった。

 

 地獄は地獄でも、生き地獄だった。夢から覚めた現実だった。現実の俺は機械的に生かされている、生死をさ迷う瀕死の人間だった。

 

 死の誘惑とは、きっと最も記憶に残る気がかりな者の姿をとってささやくのだろう。それが愛する者の姿をとっていれば、打ち勝つことは出来ない。生憎俺にはそれに該当する者がいなかったことが幸いしたのかもな。

 

 俺を心配し、無心に懇願し、現実という地獄に行かせない様にしていたあの健気なカビ。特にマリアと親しくしていなければ、俺はあちらを信用していただろう。しかし、あちらが俺を殺す本当の意味の殺人カビだったと分かっても、あの今にも張り裂けそうな悲痛な呼び声が頭から離れない。可哀想な事をしたとさえ思う。

 本物のマリアはあんなふうに心配してくれるのだろうか。…してくれない気がする。現実にありえない、希望の存在。まさに甘美な妄想、誘惑だ。

 本物のマリアはあんなふうに取り乱さない代わりに、黙って最良の案を練るだろう。多分、俺の知らないところであの優しい死神から俺を奪い返す為に知恵を絞ったのだ。

 

 マリア…アイツの名前が、俺と現実を繋ぐ命綱になっていたのかもしれない。

 

 最も普遍的で、最も神聖で、最も愛されるマリアという名前が俺を救ったのか…何気なくつけた名前だったが、何か神がかり的なものを感じた。

 目を覚ました時、俺は病室で寝かされていた。何だか随分物々しい。俺は息さえ自力で出来ず、人工呼吸器をつけられていた。

 視線の端に赤いものが見えて背筋が凍ったが、その赤いものはあの時の首筋に刺さったものとは違い俺の中に入り俺を助けてくれるものだという事はすぐに分かった。いや、最初から分かっているけど…暫くは輸血用のチューブを見るだけで取り乱しそうだ。嫌なトラウマが出来ちまったよ。

 

 ベッドの側でお袋が座って俺を心配そうに見ていた。仕事とか大丈夫なんだろうか。お袋は医者だから、俺だけを見ているわけにもいかないだろうに。

 お袋は俺が目を覚ましたことを知ると、俺の名前を呼びながら涙目で頭をなでた。そういえば俺は酷い目にあって死に掛けたのか…というか、よく生きていたもんだ。

 

 連絡を受けて部屋に飛んできた親父は、同じように俺が目覚めたことを喜んでいた。錬金術師の真似事をして危険に身を晒したことは今のところは怒らないようだ。

 

 果たして本当にマリアの言ったとおり親父は俺に暗示をかけていたんだろうか? 俺の未来の為を思ってのようだが…一体どうやって? 訊きたいが、今はやめておこう。そもそも俺は何かを話す元気も無い。話すことが出来ない。呼吸器が全てを拒む。

 自力で息が出来ない程衰弱した今呼吸器を拒絶する事は、それだけで死に繋がる。暗示の話は命と交換に得るべき情報ではないだろう。

 

 親父は俺に話しかけた。俺があの事件とは何の関係もない別ごとを考えてるなんて思わないだろうな…

 

「お前は胞子の毒と大量出血で死にかけていたんだ。あれからもう一週間たってしまった…一体何故錬金術師でも躊躇するような事件に首を突っ込んだのかは今は聞かないでおく。でも大まかな状況はお前の体内にいたフェ・ラジカから聞いた」

 

 俺が意識が無い間マリアと親父で会話が為されていたらしい。という事は、親父も交信術が使えるのか。アブラメリンの赤毛は強い交信術のセンスを持ってるってのはどうやら本当みたいだ。

 だとしたらソロモンは…どっちなんだろうか。異例の赤毛で本当に何も聞こえないのか? それとも苦しむ声が聞こえてて酷い事をしたのか? …もう何度目だろう。どっちだっていいってのが結論なのに、気がつくと俺はこの自問自答ばかりだ。

 

 ソロモンといえば…あの夢の中で助けてくれたソロモンが妙に気になる。マリアを嬲り殺してた方のソロモンは俺の妄想の具現化なのは分かるが、あのやけにリアルなソロモンは一体何だったんだろう…

 アイツはマリアという名前を知っていた。何故知ってるんだろう。あれも俺の妄想なのか? でも妙にリアルだった。俺が思い描いていたソロモンがマリアをいたぶっていた奴なんだから、じゃああのソロモンは誰の妄想の産物なんだろう?

 

 マリアのソロモン…にしちゃ随分いい奴だったしな。マリアもあまりいい感情を抱いてなかったらしいから、あんないい奴を作り出すなんて変だ。俺が生んだもう一人のソロモンだったにしても、あそこまで具体的な形になるかな…だって本当にそこにいるような感じだったんだぞ。うーん。よく分からん。

 

 それにしても俺は一週間も昏睡していたのか。自分は単に寝てただけだから自覚が無いが、親父たちはこの一週間随分長く感じたことだろうか。お袋が随分やつれて見えたのはこの為か。

 

「体外に付着した分は簡単に洗浄出来たが、体内にも大量の胞子が残っている。それを取り除くためにはそのフェ・ラジカの力を借りるしか手立てが無かった。フェ・ラジカの毒素で胞子の成長を妨害し、その間に出来るだけ早く取り除いていく…危険だし地味だが、今の我々にはそれしか方法がない。しかし、それも安全とはいえない。手をこまねいていればいるほど、毒がお前の体を蝕む。胞子の毒と、フェ・ラジカの毒がな。毒をもって毒を制する…にも限度がある。

 だが最も深刻な肺は既に胞子が細胞に張り付いていて洗浄しても取れそうも無い。かといってわざと根付かせ移動させて駆除する方法も衰弱したお前じゃ耐え切れずに死んでしまう。胞子が体内にある限りお前は胞子の毒で自力で息することも出来ないし、かなり長期戦になると覚悟はしてたんだが…」

 

 俺がソロモンの事を考えている間も親父は話を続ける。どうも俺は本来なら当分の間寝たきりになるところだったようだ。寝たきりですめばまだ良い方なのかもしれない。いまいち実感がないが…その理由は親父が知っているようだ。

 

「予想に反して時を追うごとに肺の胞子が減っているんだ。我々は何もできないのに。…フェ・ラジカが取り除いてくれていたんだ。こんなに献身的に人を生かそうとしてくれる株は見た事が無い。猛毒に冒され殆ど仮死状態に近い生物に寄生するメリットは全く無いのに」

 

 体内にいるアイツか…アイツは無事だったのか。でも何となくアイツが助けてくれるような気はしていた。だから寝たきりになるとはにわかには信じられなかったんだろう。

 

 親父は「お前は今フェ・ラジカに生かされているんだ。殺人カビと共存するとは恐れ入ったよ」と俺の容態の事を手短に話すと、ゆっくり休むように言ってお袋と共に部屋から出て行った。お袋は酷く取り乱してずっと泣いていた。普段はクールなお袋があんなふうに泣くなんて…最後まで悲しませたわけじゃないことだけが救いだ。心配かけてごめんよ。

 

 一人になったところでまたあの夢を思い出す。俺は死の瀬戸際にいて、マリアに導かれてどうにか死なずに済んだってことだよな。それで、…マリアはどうなってんだ? マリアが人型になってたけど、ありゃ一体なんだったんだ。

 まさか最後の力を振り絞って系じゃなかろうな…と何か不穏な者を感じていると、体内から『こら勝手に殺すな』とツッコミが入った。あ、無事でした。すごい死亡フラグ臭がすると思ったのに。

 

 マリアは毒に晒されている割に変わりなく結構元気そうで、俺の体内で警備員をやってくれているようだ。大量の胞子の毒は弱体株のマリアにはきついだろうに…人の医学ではどうしようも出来ない肺に付着した胞子をこそぎとって体外に輩出してくれているらしい。

 痰の中に含まれているそうだから間違っても飲み込むなということらしいが、呼吸器頼みで痰なんて自力で吐き出せないんだが。意識がない状態でも痰が詰まらず無事だから多分定期的に吸引機で取ってるんだろう。

 

 これなら復帰も楽だろうとほっとしたら体内から『ただ、まだ元に戻るには時間がかかるぞ』と忠告を受けた。それもそうだな…あれだけ血を抜き取られて、毒を吸い込んだんだ。生きてるだけでもご立派なのに。

 

 火傷は特に激しいものではなかったようで、腕や肩の一部の皮がめくれて腫れた程度だったらしい。俺の着ていたものが頑丈なジャケットであった事、丁度顔や首に密接した部分は油がかかっていなくて燃えていなかったのが不幸中の幸いだったようだ。

 

 ところでセールスレディは大丈夫だったんだろうか。アモスは無事だったのかな。それと、あのキモいのはどうなったんだ? あのアパートは無事なのか? その答えはマリアが教えてくれた。

 

『あの女性は貧血で危篤状態にはなっていたが、お前よりは救いがあったようだぞ。頭を打ちつけたから脳の検査をして、結果特に問題ないと判断された。頭の傷は深いものではないから数日で引いたようだ。

 口内の傷は薬を飲んだり塗ったりするだけで回復した。株のキャリアだったからか逆に胞子は検出されなかったようだ。あの女性は今は貧血も治療されて、もう少ししたら退院できるだろう。よかったな。

 アモスは何故かあれから行方知らずだ。いや、行方知らずというか…少々複雑だからそれはまた元気になったら話そう。

 あのアパートはあの後きちんと消毒されたようだ。念のため周辺も消毒していったそうだから、お前の友達は安全だろう。もしかすると携帯にメールや電話が入っているかもしれないな。確認できるのはもっと先の話になるだろうが…

 危険な株はお父上によって跡形もなく溶かされたようだ。もうあれに追われることはないだろう…そうそう、外の鳥の死骸も清掃巡回を多めにして出来る限り手は尽くすそうだ』

 

 どうやら事件は無事解決したようだ。最初は手出ししなかったほうが何事もなく終わったのかもしれないなと思ったが、仮に俺が今回動かなかったらあの女性はアパートの住人に胞子を撒き散らして、あの辺一体を危険地帯にしてしまったかもしれない。

 あそこで何も起こらなくても、誰も知らない場所で今回と同じようなことを引き起こして誰にも看取られないまま死んでいたかもしれない。そして放出された胞子はあちこちに散布し、別の誰かの体内で成長を始める。そう考えれば、無駄でもなかった…のかな。

 

 アモスの件は酷くぼかされていていまいちよく分からないが、死んだわけではなさそうだ。でも何があったんだ? アモスがいなければ俺は何も手出しできずにあの人を見殺すしか出来なかったんだ。この事件の本当の貢献者だと思うんだが…何か悪いことが起きていなければいいんだが。

 

 あのアパートも無事何事もなく浄化されて危険地帯になる事はなかったようだ。ジュディスは凶悪なフェ・ラジカの脅威から守られたって事だよな…よかった。しかしセールスレディを上手い事引き止めていた住人は結局誰だったんだろう? あそこはジュディスの部屋ではなかったはずだが。

 

 あのカビってレベルじゃない化け物は無事討伐されたようだ。しかし溶かすって随分えぐい方法だな。あの何かが煮え爆ぜる音はあの化け物が溶かされる音だったのかな。

 奴の本当の弱点は炎じゃなくて何か別の液体だったのだろうか…でも親父は錬金術師だし、既に凶暴なフェ・ラジカと対峙した事があったのかもしれない。同じような局面に立たされたこともあったのかもな。そうして効率のいい撃退方法を考えたのだろう。

 

 それにしても酷い目にあったもんだ。蚊くらい謙虚な吸血なら別に問題ないのに…あんなんじゃ身がいくつあっても足りない。親父は…錬金術師たちはあんなの相手にやりあってるのか。錬金術師って部屋にこもってフラスコとにらめっこしてる連中だと思ってたのに…随分アクティブな世界になったもんだ。

 

 淡々と後日談を聞かされながらぼんやりとそんなことを考えていると、マリアはふと間を置いて『ところでソロモンの事なんだが…』と話を切り出した。そうだ、この妙なフェ・ラジカの事件にソロモンが関わっているらしい事は親父に伝えたんだろうか。

 マリアの話ではどうやらちゃんと伝えられたようなのだが、どうも予想していた

反応とは違うものを示されて腑に落ちないようだった。

 

『ソロモンが裏切った話をしたんだが、どうもお父上の反応が鈍いというか、悪いというか…元々分かっていたような感じだ。だが共犯という雰囲気でもなかったし…どういうことだろう』

 

 ソロモンが事件に関わっていることを知っていた? いや、知っていたとしてもおかしくないかもしれない。むしろ兄弟が行方不明になっていた事に気づかなかった俺がおかしいのだろう。

 でも知っていたのなら教えてくれたっていいじゃないか…隠したい理由があったんだろうか? でもそれならお袋はどうなんだろうか。こればかりはお袋に聞いてみないと分からないが…知っていたなら俺だけ知らなかったってことになる。

 

 そりゃあ俺はアイツと仲が悪かった。それでも一応血の繋がった兄弟だぞ。何で家族の一大事をいちいち隠す必要があるんだ?

 

 マリアが言う共犯がどうのこうのってのは、親父もこの事件に一枚かんでいる可能性だろう。どうやらその可能性は低いようだ。それは結構だが、ソロモンがいなくなった事が事件にならないってどういうことだ?

 色々知りたいのに、今の俺は何も出来ない。本当に生き地獄だ。俺の気持ちを察してか、マリアは『焦るな』と宥めた。だが、マリアはさらに俺の心をかき乱す情報を寄越した。

 

 マリアは不意に『右手を見てみろ』と言い出した。右手? 動かないわけじゃないが酷く重い。それに何か妙に突っ張ったような…力を入れすぎて麻痺してるような妙な感覚がある。それでも言われたとおり布団から手を出して掌を広げようと力を緩めると、何かが俺の皮膚に食い込んでいるような感触を初めて感じた。

 

 何だ? 俺は何かを握ってたのか? 俺は自分の手じゃないように言う事をきかない手を時間をかけて広げてみた。そるとやっと血が通って赤くなった掌から何かが転がり落ちる。それは俺の胸にぽとりと落ちた。

 摘み上げてよく見ると、それは親指サイズの小さな鍵だった。可愛げのない青い紐が申し訳なさそうについている。何の鍵だろう…扉の鍵ではなさそうだけど、何かの容器の鍵か?

 

 俺が鍵をまじまじと見ていると、マリアが鍵の出所を説明しだした。それは俺にはにわかに信じられない事だった。多分、親父達は知らないだろう。

 

『2日前の事か…お前が危篤状態で面会謝絶の時にソロモンが現れたのだ。その時にそれをお前に握らせて以来、医者達がどんなに手を広げようとしても握ったまま離さなかった』

 

 これはソロモンが残した置き土産だったのか。というか、ソロモンがここに来たってのか? そんな馬鹿な。そんなことが… 俺がどんなに否定しても、実際置き土産がある以上マリアのいう事は本当なのだろう。でも一体どうして? この鍵は一体何の鍵なんだ? 何故死にかけの俺に預けたんだろう。

 

『私が体内にいる事を知ってよくも弟を事件に引きずり込んだなって相当恨まれたよ。だから言葉をそっくりそのままお返しした。よくも私を半殺しにしたなってな。…私の復讐はもう終わった。だからお前も私が改造された事は忘れろ。私は私で片をつけた。だからお前が必要以上に気に病む必要は無い』

 

 マリアはそう言うとふんと鼻で笑った。そういえばマリアは本当は俺に悪意を持って近づいていたんだっけか。結局俺は終始その事に無自覚なまま当人同士で決着がついてしまったようだ。

 でも、本当は俺に事件を円滑に解決させてその手柄で逃がしてもらうってのが目的だったんだ。俺を半殺しにするのは彼女にとっても不本意な事だった。何より、単に利用しようとして近づいただけだったはずが、お互い馬が合うのか仲良くなった。だから今の今までずっと俺を助けてくれたんだろう。だからか、俺はマリアに敵意を抱けなかった。過去の話になったのならそれはそれでいいじゃないか。

 

 だが、よく考えたら…ソロモンはマリアと会話出来るって事か? つまり分かってて酷い実験を行ったのか。ソロモンはやっぱり酷い奴だったんだな。マリアに申し訳ない気持ちが心を支配すると、当のマリア本人が『だから、その件はもう終わったと言ってる』とさえぎった。

 マリアの中ではもうソロモンへの確執は当の昔に終わった事のようだ。というより、次々に新しい事実が発覚して恨むに恨めなくなってきたのかもしれない。

 

 何故か事件にならない消息不明者。そして、心変わり。マリアは一番その事が気になっているようだった。

 

『不思議なことにあの時の邪心を感じなかった。いなくなってから一体何があったのか私には分からないが…その時はお前が死にかけている事を知ってお忍びでやって来たようだった。お前を心配しているようだったぞ』

 

 金と名誉に惑わされた恐ろしい錬金術師だと思っていたのに、再会したら悪い人じゃなくなっていた。マリアはそう言いたいのだろう。俺も話を聞いて驚いた。でも、何かほっとした。

 マリアを実験台にして、凶暴な改造株を作り出して…作ったグリモアを私利私欲の為に悪用したってのは間違いなさそうだが、何かのっぴきならない事情があったのかもしれない。この鍵が封じるものの中にその答えがあるのだろうか?

 

 ソロモンはここに来たのか…だったらあの妙にリアルなソロモンの正体が何となく見えてきた。多分あれは誰の妄想でもない、本物のソロモンだったんだ。一体どうやって俺の夢の中に入ってきたのかは知らないが…そうとしか思えない。そうだよな、とマリアに相槌を求めると、マリアは不思議な事を言い出した。

 

『私にはお前の生み出した邪心達は見えていたが、ソロモンがお前を助けたのは見えなかった。そうか、ソロモンがお前の臨終の夢に介入して助けてくれたんだな。錬金術師には死者の夢に介入する力なんてないが、双子だから何かそういった不思議な力があるのかもしれんな。人体の不思議というか何というか』

 

 マリアにはソロモンが見えなかった? あの場にいたもののうちマリア以外は俺の生み出したものだとするなら、全くの第三者であるソロモンが見えなかったってのもまあ、何となく分からなくも無い。

 

 それにしても…臨終の夢? そんな大げさな…と思っていると、マリアはしれっと『お前は2日前に心不全で死ぬところだったんだぞ。というか、かなりの確率で死ぬといわれていた』と恐ろしいことを言い出した。えっマジですか。つまり最高潮にやばい時にソロモンが駆けつけて間一髪で助けてくれたってのか。やばいぜ…惚れそう。嘘だけど。でも双子の不思議ってのは何となく俺も感じた。

 

 ソロモンの身に何があったんだろう。今の俺では何も分からないし、何も探ることが出来ない。でも、全く手がかりが無いわけじゃない。この青い鍵…ソロモンの鍵で封じられたものが全ての真相を暴くような気がする。

 どこかに置いたら誰かにとられてしまいそうな気がして再び鍵を握ると、マリアは俺に休むように言った。

 

『その鍵は何を開けるものなのかは私にも分からない。元気になったら探してみようじゃないか。ソロモンの秘密が何か分かるかもしれない。…でも、今はゆっくり休め』

 

 そうだな。今は弱り果てた体を少しでも早く回復させるのが先決だ。俺はマリアの勧めるとおりに目を瞑った。今度の夢は嫌な夢じゃなければいいな…とのん気な願掛けをしながら、俺は安らかな眠りが俺の元に訪れるのを待った。

心配しなくてもそれはそう時を置かずに訪れたが。

 

 

 …以上が俺の見聞きし、体験した話だ。そして、それによって引き出された新たな問題の事は分かっていただけただろうか? 俺はあの事件に関わった事で俺は知りたいことが山積みになってしまった。

だが今は何も聞くことが出来ない。探ることも出来ない。何故なら俺は、病院の集中治療室で生死を彷徨っているのだから。

 

 ソロモンはどうなっちまったんだ? ソロモンはどこに行っちまったんだ? アイツは何か事情があって姿を現せないのかもしれない。何か悪いことに巻き込まれているのだろうか? でも、だったら親父は何故アイツを助けてやらないんだ? 何故分かってて何もしないんだ。それとももう何かしてるのか? 分からない。分からないから、ソロモンが哀れに思えてくる。何故何も教えてくれないんだ。何故俺に行方不明だったことすら教えてくれなかったんだ。

 

 俺はこの先どうすればいいんだろう…この質問に対してきっと皆してこう答えるだろう。何もしなくてもいいってな。だって俺は錬金術師じゃないんだ。誰か信用できる人に鍵の事を話して真相を解明してもらえばそれでいいはずだ。そのほうがずっと早く解決できるかもしれない。

 

 でも、何も知らないまま事件に背をそむけて元の生活に戻る事は出来そうにない。俺の掌の中にある小さい鍵を俺に託したソロモンを放置してはおけない。

 

 だってこの鍵がソロモンの「助けて」なのかもしれないんだ。


 
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