No.166123

ソロモンの青い鍵・3

MHKさん

その3。やたらペースが速いから何こいつって思われそうで怖いですが、元々1つの話を都合上分散して掲載せざるを得ないからこうなってるんです。あるものを出し惜しみ出来ない性格なのですが、連続投稿ってのもアレかと思うので、できるだけ時間置いて発表していきたいでございます。

2010-08-16 20:12:31 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:353   閲覧ユーザー数:343

 進んでは止まって、進んでは止まる。自分自身のスタミナのなさに俺の血管が切れそうだ。でも今は切れる血管すらないからこんな状態なんだろう。今の俺はフェ・ラジカの胞子を拾う事はないが、その代償に次第に弱っていく。でもそれは当然だ。

 

 だって毒は毒を持って制する…比較的安全なフェ・ラジカの株をわざと寄生させて、ヤツの出す毒によって外に散漫している危険な株の胞子を拾っても体内に根付かないようにしている。だから致死量が高い株を拾う事は無いが、このままでは俺は貧血状態になって動けなくなるどころか血液内に回った毒のせいで死んでしまう。

 今のまま死んだら俺はつつじの木の下にいた魚と同じく惨めな死に様を晒す事になっちまう。だから早くしないといけない。

 

 それにあのアパートから逃げられたら探せそうもない…あの辺は住宅地が多すぎて俺は把握しきってないし、無関係の人間が入り込めるような場所じゃない。危険な株のキャリアも時間をかければかけるほど死亡する確率が上がるはずだ。咳をしているっていうから、胞子を撒き散らしている状態だし…

 

 緊張からなのか、それとも度重なるめまいで体が参っているのか。俺は胸の置くから何かこみ上げてくるようなものを感じた。喉の奥に手を突っ込まれたような気持ち悪さを感じる。はしたない事だと思うんだが、理性はそう思う一方で体は待ってくれない。

 俺は自転車にもたれかかりながら咽つつえずく。咽るといってもその力も無いのか、強く喘いでいるような感じだった。口からやたらねばついた唾液が滴った。口の中が妙に苦く感じる。いや、味が無い事に強い不快感を感じているような…

 

 俺は何をしてるんだろう…俺は錬金術師でもなんでもないんだぞ。親父に連絡して、俺は安全なところに非難するのが一番いい方法だ。でもどう説明すればいいんだ? ソロモンが血迷って町を壊そうとしてるってか? 大体それも本当かどうか分からない。このカビが嘘ついて俺を体よく食おうとしているだけなのかもしれない。でもだったら、蚊の情報は一体何なんだ? 危険な株についての話と、コイツの言う事があまりにも接点がありすぎて、俺はどうしてもソロモンがやった事にしか思えない。信じたくないが、今は心情的なことで迷ってる場合じゃない。

 

 それに友達が危ない目にあってるんだぞ。逃げてどうする。でも、本当にこれでいいのか? 俺が出て行って何になる? かっこつけてアピールってか?

 

 俺は震える体と葛藤する役立たずな脳みそを抱えてどうにかペダルに足をかけた。重い…自転車はこんなに重いものなのか。もう何度目だろう。脳みそじゃ同じ事ばかり繰り返して、外ツラじゃ同じように立ち止まっては吐いて、これじゃ俺が隔離されるべきキャリアそのものじゃないか。くそったれが。

 

 悪態をついて自転車を走らせると、今まで沈黙を貫いていたフェ・ラジカが不意に話しかけてきた。

 

『ところでザドックは女が好きなのか?』

 

 いきなり何を言い出すんだ。でも俺は言い返さなかった。言い返す元気も無い。だからなのか、フェ・ラジカは意地悪く語り続けた。

 

『ただの女友達を命がけで助けに行くなんて何かしら下心がなきゃやれない事だ。ジュディスだったか、その女はお前の好みなのか? 記憶の中の彼女は金髪蒼眼、ただ少々肌荒れが気になるな。そして少々現実的な体系だ。高望みしなければなかなか具合はよさそうだな。性格に関しては気立ては優しいが少々愚痴っぽいのが玉に瑕か…』

 

 奴等は記憶の中も覗けるのか。気持ち悪い連中。俺の脳みそまでカビてるってことじゃないか。俺は嫌悪感をあらわにして「やめてくれ、俺はそんな気持ちなんざ持った事ねえよ」と吐き捨てた。だがフェ・ラジカはやめてはくれなかった。

 

『毛深い男は欲深いというではないか。女友達しか出来ないのは女たちはお前の下心を見抜いているのかもしれんぞ。それでも友達として付き合ってくれるのなら人徳があるということだろうが』

 

 人の気にしている事をずけずけと…一体何様のつもりなんだこいつは。いきなりの暴言に俺は気持ち悪さよりも怒りがこみ上げてきた。いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるってもんだろう。

 

『案外利用しているだけかもな。女とはしたたかで残酷なもの。全てに利用価値を見出す。自分の役に立つものを身近に置いておきたくなる生き物だ。大人しく傅いて騎士様ごっこをしていれば、身も心も下劣なお前も気まぐれに夜伽にお呼ばれされることもあるかもしれん』

 

 その言葉を聞いて俺は堪忍袋の緒が切れた。見ず知らずのヤツに自分だけじゃなくて友達を侮辱されれば誰だって怒るだろう。しかもカビに言われたんだ。重い体を引きずる苦しみにストレスを感じていた中で精神的な苛立ちを加えられた事で俺ははじけたように叫んだ。

 

「黙れ、そういう話はうんざりだ! 俺はただ心配だから助けたいだけだ! 彼女は親元から離れて1年ずっと一人でやってんだ、それを心配して何が悪い?! 何でもかんでも男女関係と結びつけるな、このあばずれ!」

 

 俺の激情とは裏腹にフェ・ラジカは笑いながら『答えが出たじゃないか』と切り替えした。

 

『お前は二つの事で悩んでいた。自分が助ける必要があるのか? もしかすると、ジュディスに対しいい格好をしたいだけなのかもしれない。もしかすると、ソロモンの仕業である事を親に言う事がためらわれるからかもしれない。後者は私にもどうする事もできない。慰めの言葉をかけるしかできない。だがもう一つの問題に対しては決着をつけさせることができる』

 

 体内のカビはそう説明すると一呼吸置いてこうとも言った。 

 

『私はこれでも相当セーブしている。それこそ私が生命の危機に晒されるほどな。お前を脅かすものは私ではなく自身の葛藤と私に対する過度な恐怖心、そして極度の緊張感だ。でももう答えが出たから、お前をやきもきさせる足かせは無くなったはずだ。さあ、さっさと進もう』

 

 フェ・ラジカはわざと煽って決心を決めかねていた俺を立ち直らせたのか。種明かしをされたら気が抜けちまった。気が抜けたら普通は力が抜けるはずだが、何故か俺は凄く楽になったことに気がついた。

 俺の中のフェ・ラジカは俺に気遣ってくれているらしい。だからといってタイムリミットがなくなったわけではないだろうが、普通のフェ・ラジカよりもかなり長く耐えられるはずだ。フェ・ラジカは俺を優先して命を顧みないほどセーブしてくれているらしいから、俺もここで逃げるわけにはいかない。

 

 そうだ、俺は別にかっこいい事したいわけじゃない。ただ故郷から離れて一人で頑張ってる友達を心配してるから助けようと思ったんだ。俺には出来なかったことを女の身でありながらやってる事が尊敬できるから、俺は親しくなりたいと思ったんだ。

 助ける手段が俺にもあるのなら、誰かに頼って逃げるより何とかしてやりたいだろう?

 

 俺は何故か家元から離れて生活する事が怖くて近所の大学に行くことにした。ソロモンと顔合わせしたくないから家から出て行きたいという気持ちもあるし、アブラメリンの名前からいい加減離れたいと思う独立心も無いわけじゃない。むしろ大いにある。あるけど、生まれ育った家から離れる勇気がなかった。近くにそれなりの大学があるのならそこに通ったほうがいいんじゃないかとそっちを選んだ。

 たかが大学の進路を選ぶときすらこんなんじゃ、俺は一体どんな社会人になるのやら…人相占いでは100パーセントの確率で意志が強いと出る割に優柔不断で意志が弱い。でも別に嫌々入った学校でもないのだから文句は無いのだが、それでも何か変わりたいと思って大学のサイクリングクラブに入った時に出会ったのがジュディスだ。

 

 自分のやれない事をやってる人を見るとすげえなって思うじゃないか。クラブに入って彼女だけに限らず色々なやつと知り合うことが出来た。その事は俺にとっては大事な事だ。

 

 今度はジュディスが出来ない事を俺がやる番なんだ。

 

 そう決意を新たにすると、ソロモンの事はまあどうでもよくなった。錬金術師に丸投げしても解決にはなるだろうけど、時間がかかるだろうし。俺が解決すれば時間短縮になるかどうかは分からないが、まあなるようになるさ。俺もアブラメリンの一族なんだし。

 

 重い自転車がいつもの自転車に変わったことを実感すると、フェ・ラジカが『あと毛深い男は欲深いというのは私の創作だ。あまり根に持つな』と付け足した。

 

 苦しかったのは真理的なものが大きかったってのが発覚して気が抜けたのか、俺は暢気にそんな事を思い出しながら進んでいた。が、あることを思い出してしまった。それはとても重大な事だ。

 

 さっきの俺は一見したらいきなり独り言で騒ぎ出したキチガイだよな…しかもついかっとなってあばずれとか言っちまったし…でも自転車だし、案外携帯電話で喋りながらとかそんな感じで見てくれてるかな。でもそういうの見たことあるけど、電話って分かるまで何こいつってドン引くよな…

 

 周りには誰もいないのだから別に気にする事はないんだろうが、俺は妙に恥ずかしくなって自転車のペダルをいつもより倍強くこいだ気がする。

 そんなに遠いはずじゃないのにえらく長い時間かかったような気分だ…だが気持ちに折り合いをつけられたから多少のロスは大目に見ようじゃないか。体感時間だから本当に時間がかかったかどうかは分からんが。

 女性専用という割にえらく地味なつくりだ。アパートだから小さいが、ただ入り口に検問所みたいなのがある。検問とは名ばかりできっと大家か雇われのガードが見張ってるんだろう。ざっと説明すると小さい高級マンションみたいな感じだ。アパートの周りを低木が覆っているが、その間に同じくらい低くて小さい電灯が数個あるようだ。夜になったら街灯が綺麗そうだな。

 

 検問所みたいなとこからマスクをつけた…誰なんだろう? よく分からんが普段見張ってる人なんだろう、そいつが小さな窓を開けてこっちに喋りかけてきた。髪の毛縛ってて随分洒落っけのないヤツだ。年配の方…なのかな。服が古臭いわけでもないんだが色が落ち着いてるからかえって何歳か分からん。マスクかけてていまいちよく分からんが、声からして女か? しかし検問に女って意味あるのかね? 女でもすげえ怖いのいるからそれは愚問か。

 

「あんたが錬金術師? マスクもかけないでよくも出歩けるね」

 

 あれ、マスクでも防げるのか? と思ったら俺の中から『フェ・ラジカに限らずカビの胞子は高性能の防塵マスクでないと防げないぞ。そういう特殊なマスクはほいそれと手に入るものではないし、高い。特に今は品薄になっていて手に入りにくいのではないだろうか? しかも苦労して付けたところで100パーセント防げるわけではない』とツッコミが入った。

 てことはこの人大丈夫なのか? 何か普通の花粉症とかその辺のマスクしてるようだけど。…大丈夫ってことにしておこう。無駄に心配事を増やす必要も無かろう。きっとあのマスクはカビの胞子が防げるのだろう。

 

 にしてもジュディスは何を聞いていたんだ…俺は錬金術師じゃないってば。でも一応話はつけてくれてるようだ。

 

 しかしここにきて俺はどうも色々勘違いしていた事にここで漸く気がついた。何も俺が家に電話する必要は無いじゃないか。この人に事務所に電話してもらっておけば万が一何かが起きても大丈夫じゃないの。携帯電話を持ち歩くようになった時、もし何か奇怪な事に巻き込まれた時は家じゃなくてこっちに連絡しろと親から事務所の連絡先を教えてもらった。奇怪な事ってなんだよと軽い気持ちで連絡先を携帯に登録したもんだが、今がその時なんだろう。俺は携帯に覚えさせたその事務所の電話番号をマスクの女に見せながら言った。

 

「話を聞いてるなら早い。ついでにここに連絡してくれないか?」

 

 そういえば番号は入れておいたけど名前は入れてなかった。説明いるかなと思ったが、マスクの女は番号を一目見て「アブラメリン家の総合事務所じゃないか。そんなたいそれた事件なの?」と言った。

 

 番号だけで分かるのか…アブラメリン家の事務所の電話番号って覚えやすいのかな? 語呂合わせもしづらい不親切な番号だと思ってたけど。ともかく今は電話してもらいたいから「たいそれた事件なのよ」と適当にあわせておくことにした。するとマスクの女は受話器をとって随分慣れた手つきでダイヤルをプッシュしながら「じゃあ警察にも連絡しておいたほうがいい?」と俺に尋ねた。

 

 錬金術師と警察は癒着しているようで若干折り合いが悪い。大したことでもない事件に過敏に反応したり、逆に大事件に無関心だったりとそれぞれの反応が違いすぎてやりづらいんだそうだ。警察を呼んでもなんとも出来ない事件にまで警察を呼んで、事件そっちのけでもめてる探偵副業のカルト研究者たちは結構いるようだ。探偵は事実を追及する存在なんだからカルトかじってたらダメなんじゃないのか? と思うんだが、実はカルトがらみの話は結構多いらしいから古くからの錬金術師でも探偵家業を受け持つ家系はいるそうだ。確かこの辺で有名な探偵をやってる錬金術師の家柄は…確か南のマグヌス家だったような。

 多分この件は警察が立ち入るべき事だろうが、それでもできるだけ周りに人がいてほしくないから「それはちょっと様子見てからにしてくれよ」と若干否定的に答えておいた。

 

 そういえば大事な事を聞き忘れてた。俺はいったんアパートの中に入ろうとしたが振り返って検問所の窓に向かって尋ねた。マスク女は電話のコール音を聞いてるのかあさってのほうを向いている。

 

「そういえば誰かここから出て行かなかったよな?」

 

「一応家に滞在してる人には連絡したから出て行ってはいないようだよ。誰もね」

 

 マスクの女は簡単にそういうと、事務所に繋がったのかやたら余所行きの声で喋りだした。という事はセールスレディはアパートから離れてないってことか…良かったんだが、心のどこかで舌打ちする俺もいた。覚悟を決めたってやっぱりどこかに一線を踏み越えられない自分もいるようだ。

 

 俺は入り口のドアを開けて見かけだけのやたら狭いエントランスを抜け階段を上がった。エントランスは待合室というにもちょっとお粗末な狭さだ。ジュディスの家は二階の奥ばったところにある。俺の到着は若干遅れてるだろうから多分そこにいるはずだ。

 

 変哲の無い階段だが確かに綺麗だ。でも何か圧迫感があるのは日を入れる窓が天井付近にしかないからか。がっちりガードされてて住人は外から見えないが、その代償として景色が見えない。外気に触れていないのはフィルターがしっかりしているから必要ないのだろう。これが胞子から守られてる秘訣らしい。これなら体に付着したごくわずかな胞子以外持ち込まれないもんな。

 本来ここは女性専用とは知らされていないし、公表もしていない。公表してたら逆に変質者が寄ってくるからだろう。俺はたまたまジュディスと知り合いだったから知っているというだけで、普通だったら衝撃の事実だ。だからできる限り誰が住んでいるってのを把握されたくなくてこうした閉鎖的なつくりなんだろうが、俺はこんなところに住みたくないなあ。確かに綺麗なんだが生活感が無いっていうか…この白い漆喰、新しい今はすげえ綺麗だけど時がたって黄ばんだりひび割れたりしてきたらさぞかしきたねえだろうなあ。さほど綺麗でもない平凡な家は薄汚れても案外そのほうが味が出るもんだけど、デザイナーズマンションとかは老朽化すると悲惨だろうなーと思う。

 

 俺が階段を上りきってすぐに目に入ったのは、木目調の落ち着いた廊下に黒いスーツを着た人だった。パンツスーツだから年齢的に若そうだ。蚊の言っていた通りマフラーをしている。服装的にあれだろう。それでも話しかけず用心深く物陰で様子を伺うと、彼女はインターホンごしに話し合っているようだ。ドアに向かって…でもなさそうだが、何か壁に向かって商品を見せている。カメラ内臓のインターホンなのか?

 扉開けずに時間を稼げと無茶を言ったと思ったが、なるほどこれならかなりの時間張り付かせる事ができる。確かに対面せずに長時間足止めできるが、よほどの話術がないと相手も商売にならないから打ち切りそうなものだが…ジュディスはそんなに口がうまかったかな?

 

 確かにセールスレディは咳をしているが、一見するとただの風邪引きにしか見えない。あれが本当にヤバイ株のキャリアなのか? ためらいつつ様子を見ていると、体内のカビが確認するように言った。

 

『あれの中から我々と同じ異質な意思を感じる…相当じれてるのかイライラしてるな。あの女は別にイライラしてはいなさそうだ。いつも冷たくされているからか話を聞いてくれる事が嬉しいといった様子だが…彼女の感情に対してもささくれたっているようだ』

 

 セールス関係は面倒だし元々興味があったとかじゃない限りすげなく追い払われちまうからな。俺も鬱陶しいのが来た時わざとガラ悪そうに乱暴に接して追い返しちゃうけどさ。だって普通に接してるとなかなか帰ってくれないし…

 そういや俺がまだ純情無垢な青年だった頃たちの悪いセールスマンに居つかれちまった事があったな。結構ですって言ってもまあまあとか言って色々見せてくるし…どう断ろうかと困ってたら、たまたま帰宅して鉢合わせたソロモンがチンピラみてえにすごんで一言二言で追い返してくれた。多分あれは俺のためじゃなくて本当に邪魔だったからだろうな。だって俺まで睨まれたし。いい年して留守番すらできねえのかって。でもその時はアイツがあんなふうにがなりたてるの初めて見たからちょっとびびった。セールスマンよりソロモンのほうが怖い。普段は割と無口なほうだし物静かだと思ってたんだけど。

 

 あんな怖いのと戦いながらごく稀に釣れる魚のためにせっせと頑張る営業って大変だ。きっと彼女もそんなもんなんだろう。だから例えカメラ越しでも話を聞いてくれる事を喜んでいるんだろうな。それを利用して足止めするように言った俺も相当悪いやつだとは思うが、今回ばかりは仕方ない。

 

 しかしどうやって声をかければいいものか…いきなりちょっとこっちに来いって引っ張っていったら不審者だし。事実を言っても信用してくれるかどうか…言ったところでじゃああんたは誰だって話になるだろうし。信じてくれたとしてもパニックを起こすかもしれない。そうなったら俺は抑えておけるのだろうか。

 

 そう考えてためらっていると、体内からとんでもない助言が飛び出した。

 

『こうなったら何か言い出す前に黙らせてみては? 嘘も方便というだろう。正直にアブラメリン縁の者といってもきっとぴんと来ないし下手したら変質者扱いされて逆に警察を呼ばれかねないが、アブラメリンの錬金術師だと言えば恐らく彼女は信用するだろう。お前の今の姿なら恐らくごまかせるはずだ』

 

 そういえば錬金術師は基本的に黒い服装をしている。まるで喪服みたいで気持ち悪い連中だと思ってたけど、体に何も付着していない事を確認する為と、多少汚れても気にしないで済むように黒い服を着るんだそうだ。でも最近は俺みたいに喪服や宗教服っぽいと考える人が多いらしくてその伝統は薄れつつある。全身黒という錬金術師は大分減ったらしいが、それでも基本的にモノトーンで統一しているらしい。

 

 俺は今日の格好は白いレザージャケットに黒いシャツだ。よく考えたら今風のかけだし錬金術師に見えないことも無いから検問所で錬金術師に間違えられたのかもしれない。これで黒いズボンなら完璧なんだが生憎普通のGパンだ。まあその辺は大目に見てもらおう。

 

 この白いレザージャケットは何でか一目ぼれして買っちまったんだよ…高かった分物凄く丈夫だ。あったかいし。昔から何故か白い服に惚れることが多くてつい買っちまうんで、これを初めて着て行った時着あわせが大変なものばかり買うねとエステルからつっこまれた。仕方ないだろ、服屋では妙に惚れっぽいんだよ。

 だって普通の革ジャン着るとおっさん臭いし…黒いの着るとガラ悪く見えるし…気がつくと白い服ばかり買ってるんで、ソロモンとは正反対だとよく言われたもんだ。ヤツは錬金術師だからか見た目なんて気にせずに普通に真っ黒だし。でも家ではよれよれのジャージで移動するのを見かけたもんだ。しかもスミレ色の。いま考えてもすごい色のジャージだ…どこで買ったんだろう。

 俺は上着どころか白いズボンも白いブーツもあるから白いギターでも買ったらどうだと親父から言われたが、俺は生憎音楽には興味が無い。ちなみにフォークもロックもクラシックも自己主張が強すぎてやかましいから嫌いだ。俺は環境音楽が好きなんだ。変だといわれても好きなんだ。あまりに変といわれるから言い換えてアンビエントが好きって言うと何故かかっこいいといわれる。お前等の価値観のほうがよほど変だよ。

 

 それはいいとして、俺は今の姿を利用してハッタリをかけてセールスウーマンを補導しようと考えた。そっちの方が安全そうだし。嘘はよくないと思うが、親父達が来るまで辛抱だ。「俺錬金術師に見える?」と体内のカビにそっと尋ねてみると、『錬金術師かどうかは分からんが、お前は白いソロモンみたいだ』と返って来た。

 

 ソロモンは典型的な錬金術師像をしていると親戚が言っていた。錬金術師は昔から丸いフラスコと本を持ち全身真っ黒の服に身を包み鋭い目に鉤鼻の胡散臭い顔の男がテンプレなんだそうだ。女錬金術師は不思議とあまりいないらしい。でも何となくテンプレ錬金術師の特徴がテンプレ魔女に似てるといえば似てるよな…魔女と呼ばれた者達の薬草の知識は錬金術師達の最も原始的な研究材料らしいし、昔は似たようなものだったらしいから相互互換性があったのかもしれない。魔女の男性版が錬金術師だったのかもな。

 

 何でもアブラメリンの始祖である初代ソロモンは偉大な錬金術師として知られているけど、よくよく調べていくと当時は女好きで口がうまいが喧嘩っ早い、やや粗暴なペテン師として知られていたそうだ。見かけは強面で平たく言えば悪人顔だったそうで、でも「もし自分が穏やかな顔をしていたら、この顔じゃなかったら誰も話を聞いてくれなかった」と記述されてる資料があるらしいから嫌がってはいなかったみたいだ。

 そんなにごついって程でもない親父とお袋から生まれた割に妙に記述どおりの子供が2匹も生まれてきたんで、親戚一同から先祖返りしたんじゃないかといわれてたそうだ。

 

 ペテン師が財を築けたのは、弟の存在が大きいそうだ。どうもソロモンには双子の弟がいたらしい。彼は兄に似ず真面目で誠実な性格で、錬金術師ではなく革屋で働きながら堅実に生活していたそうだ。それでもその弟は兄貴の言う事を信じていたそうで、ソロモンの一見すると眉唾な予言を信じて実践して、それが真実の英知であった事を人々に知らしめたらしい。要は宣伝員みたいな感じで、ソロモンの活躍を陰で支えた優しい弟さんだったみたいだ。

 あとまだペテン師と呼ばれてた頃金に困ったソロモンに大金を貸したり、小屋や材料をソロモンに与えて錬金術師としての生活がちゃんとできるようにしてあげたそうな。ただ誠実ながらも計算高かったらしくて、極度の面倒くさがりだったソロモンを随時見張って、兄貴が遊んでると「ノルマを達成できなければ貸し与えたものを倍にして返してもらう」と脅して働かせていたんだと。

 

 ソロモンの最大の理解者にして最初のパトロンだった弟は信心深くて魔術の類をかなり嫌っていたらしいから、アブラメリン家は魔術に関わる研究はご法度ってのが伝統になっている。だから錬金術師にしては珍しく魔術が絡んだグリモアが一つも残ってない。

 錬金術と魔術とは違うものというのは今日では当然だが、魔女と若干の互換があるだけに他の家に伝わる最初期のグリモアには胡散臭いおまじないが科学の一つとして当たり前のように書かれているそうだ。でもアブラメリンのグリモアはおまじないの類は無くて専門書に近いものばかりだそうな。

 それはそれで貴重だけど、おまじないも当時の文化が分かる重要な手がかりだから現代の観点で考えると記録が全く無いってのは若干不利みたいだ。弟の魔術嫌いはアブラメリンの錬金術師達の足かせになったのかもしれない。

 

 でも彼がパトロンになって尻を叩かなければ、ソロモンはきっとペテン師のまま歴史に名を残す事もなかったんだろう。それはソロモンも分かってたらしくて、財を築いた後は弟とその家族に昔借りた金額をはるかに上回る莫大な謝礼金と動けない弟への全面的なサポートをし続けたそうだ。

 

 親にすら呆れられて勘当寸前だった放蕩者のソロモンを信じて大出世させた、人を見る目が確かなしっかり者の弟の名前はザドック。彼等は仲が良かったそうで、ザドックがリウマチで動けなくなった後死んでしまった際は、今まで何があっても笑い続けてる豪快なソロモンも三日三晩泣きはらしたそうだ。リウマチって死ぬほどの病気なのか? もしかすると俺の知ってるリウマチじゃなくてよく似た別の病気だったのかもな。三世紀前とはいええらく若死にしてるようだし。

 自然科学しか興味のなかったソロモンが医学にも携わるようになったのは、錬金術師でありながらザドックを救えなかった後悔の念もあったらしい。だからアブラメリンのグリモアには魔術に関わるものは無いが、医学に関するグリモアはかなり古いものが残されている。

 財産は持てて有名にはなったが相変わらず女好きでだらしの無かったソロモンは、弟が死んだ事で自分の身のあり方を振り返ったらしい。その頃は研究と開発で一山当てた成金の化学者でしなかったけど、本格的に錬金術師としてやってこうと決意して財産や名誉ではなく自分を信じて好いてくれたとある女性と結婚して、ちゃんとした家を築いて、今日のアブラメリン一族の基を作ったそうだ。

 

 先祖返りしたと言われるような風貌と、たまたま双子だったこと、先祖と同じく2人で仲良くやっていってほしいという親の願いから、始祖アブラメリン兄弟にちなんで俺たちはソロモンとザドックって名前になったんだとさ。ザドックが病気で早死にした事はこの際無視したんだろうな。

 ソロモンの名を持つ祖先は意外とたくさんいる。だからソロモンの本当の名前はソロモン・アブラメリン4世。親父の名前もソロモンだからか、ソロモンはよく4世まで名乗るようだ。歴代当主にザドックという人物はいないようだし、俺はいちいち2世なんてつけるまでもないし、ザドックが本家を世襲したわけではないから厳密に言っても2世じゃない。小さい頃はちょっと羨ましかったが、大きくなったらつくづく仰々しい名前じゃなくて良かったと思うようになった。

 

 ご先祖様も双子らしいが、瓜二つの一卵性だったかは分からない。初代ザドックの記述は本当にごくわずかな資料でしか確認できないし、ザドックは結婚はしたが一人娘を作ってじきに死んでしまったそうだし、ザドックの分家は当の昔に潰えちまってアブラメリンの実家にある資料以外は絶望的だろうってことだ。

 

 名前の意図に反して仲が悪いのは先祖にもちょっと申し訳ないし、両親も悩んでいたようだから自分の事ながら少し悪いことをした気分になる。それでも嫌なものはいやなんだから仕方ないんだけど。だって自分を見てるような気分になって薄気味悪い。

 

 でも今はそっくりでよかったと思うよ。姿なんてどうでもよさそうだけど、典型的錬金術師の風貌といわれるヤツと瓜二つの姿というだけで俺は錬金術師になれる気がするんだ。ロールプレイはまず形からっていうだろ?

 見た目は完璧…とはいえないが、腹をくくったことだし行くしかない。しかし、見た目だけで信用してくれるだろうか? 信用させるにはもうちょっと手の込んだハッタリをきかせないといけないような… だって元々錬金術師って存在そのものが胡散臭い存在なんだ。せめて連合協会由来の持ち物があれば信用されやすいんだが…

 

 以前言ったとおり錬金術師には明確な免許がない。ないから、近年は詐欺師みたいなのが錬金術師を語って問題を起こす事が多くなってきた。近年は学力や財力が総合的に上がって一般人も高価なものを買えたり賢くなってきた。悪知恵の働く一般人の中には色々特殊な法律で守られている錬金術師の肩書きを使うことが多くなってきたんだとさ。

 

 以前は強い力を持つ大きな錬金術師の家が独自でそれぞれ会社を構えて各地の錬金術師達を管理していたらしいけど、悪質な詐欺師が増えてきたことを受けて近年国が錬金術師を選定・管理する事になったそうな。

 その組織は国立錬金術師連合協会。規定された条件以上の実績と財力を持ちえたものが試験を受けることが許され、合格したものには協会から発行されるナンバーが発行されるけど、その後も定期的に更新しないと無効になる。その後の実績があまり芳しくなければナンバーが剥奪されてしまう。取得も維持もかなり難しくて厳しいが、その分この協会に所属できる錬金術師は安心して任せられる。

 最近は協会に所属できることが駆け出しの新米錬金術師やカルト研究者の第一目標とされている。教会発足前は名を上げて人々から錬金術師と呼ばれるようになるまでが下積みという曖昧で分かりづらいものだったから、最近は随分と分かりやすくなったみたいだ。

 

 免許ではないけど、免許に近いものだ。このナンバーを持っているかいないかで貰えるギャラの額も評判もがらっと変わる。持っていると結構大きな額を提示してもまず客に渋られないようだ。何より客の質も変わってくる。信用できる錬金術師には信用できる客が付く。要は難癖をつけたり滞納したり買い叩くような迷惑かつ品のない低俗な客は寄り付いてこない。何故って、協会が提示する規約をクリアした客しか所属する錬金術師を使うことは出来ないからさ。

 

 うちの事務所もそうした国の動きによって国の管轄になった。会社が丸ごと国が運営する公共施設になったんで、親父は社長から公務員の所長になった。偉くなったのか偉くなくなったのかよく分からないが、国の援助を受けてさらに大きくなったので親父は喜んでいたよ。

 

 体内のフェ・ラジカは『名刺とか持っていないのか?』と俺に尋ねた。協会の錬金術師の名刺は親父のしか持ってない…親父の名刺は所長と書いてあるから一発でバレてしまう。それどころか名刺を悪用しようとした罪で俺は警察にご厄介になる可能性もある。国の管理する錬金術師は名刺もガッチリ守られているんだ。

 でも信用させるには名刺を使うしか手立てはなさそうだ。こうなったら会社名がそれっぽい名刺を使ってしまうか…以前気になったから行って来た会社説明会で貰った名刺なら数枚持ってるし。中には銀行の名前が付いてない名刺もあるかもしれない。

 

 俺はまだインターホンに向かって話し続けているセールスレディをちらりと確認すると、財布を取り出して急いで名刺が入っているポケットを探った。どれも銀行ってのが丸分かりのものばかりだ…ただの様子見のつもりだったし、もっと別の職種も見ておけばよかった。

 ため息をつきながら片付けようと財布を持ち直すと、札入れの中に硬い紙がちらりと見えた。形的に名刺サイズだ。もしかして整頓するの忘れてた名刺がまだあるかもしれない。俺は今持っている名刺を片付けてから札入れの紙を取り出した。角が汚く丸くなっているから、かなり放置されていたようだ。いつもは見向きもせずに放置してたが、放置しすぎて何だったか忘れてしまった。

 

 取り出してみて、俺の血が逆流した。これは…ソロモンの名刺だ!

 

 これは2年位前にソロモンが協会に所属した正規の錬金術師になった時に作ったものだ。親父が「何かあったときには父さんじゃなくてこっちに連絡しなさい」って渡してきたんだ。親父は所長だから滅多なことでは呼んではいけない事になってるし、急ぎの用の時は事務所を通すと面倒なこともあるからって。事務所はなじみの錬金術師がいない人がヘルプをかけたり相談するための所だから、特定の誰かを呼び出すっては時間がかかるんだそうだ。

 でもソロモンというか、錬金術師そのものに用がある程金に有り余ってるわけじゃないし、危機的環境にいるわけじゃない。錬金術師は基本的に誰に頼んでいいのか分からない不可解な物事が起きた際に出番があるようなものだからな。だから財布の肥やしになっていたんだ。捨てなくてよかった。

 

 兄貴のほうのソロモンの名刺ならまずバレないはずだ。別に悪用するわけじゃないし、バレなきゃ警察にご厄介にはならないさ。第一アブラメリンの一族なのは嘘じゃない。よし、こいつを使おう。でもまさかこんな形で使うことになるとは夢にも思わなかった…恩に切るぜ、ソロモン。

 

 俺は財布を片付け、やや汚くなったソロモンの名刺を改めて手の中に収めて一呼吸置いた。覚悟も、切り札も出来た。あとはやってみるしかない。腹をくくった俺は背筋を伸ばして、セールスレディのいる廊下に一歩踏み出した。

 

 彼女は俺の足音を聞いてこちらを振り向いた。女性専用のアパートに厳つい顔した男がのしのし歩いてきたら誰だってびびるだろう。普段はびびられるのは割とショックだが、今は出来るだけ威圧しておきたかった。人間は大きくて強いほうの言うことを聞くからだ。

 目が合ったが、明らかに何コイツ的な視線だった。酷い。でもここでひるんではいけない。俺はセールスウーマンより少し離れたところで足をそろえて止まると、「お仕事中失礼します」と軽く礼をした。

 

「私、錬金術師連合協会マサース事務所のソロモンと申します」

 

 案の定物凄く胡散臭そうにこっちを見てる…でも名刺を突きつければ信じるしか無いはずだ。地元の人じゃなさそうだし、こういう偏見の目で見るって事はこの人錬金術師に縁がないんだろう。昔からそうだが、錬金術師の悪口を言う奴程錬金術師の世話になったことがない。敵意の視線ではないから、必ず俺の言うことを信じるはず。

 

 名刺をこわごわ受け取ったセールスレディは、案の定はっとした顔をした。多分、ナンバーを見たんだろう。これなら彼女は必ず俺の言うことを聞くはずだ。俺は率直にセールスレディに彼女が今危険な状況に立たされていることを伝えた。

 

「突然で申し訳ありませんが、ご同行願えますか。貴方はフェ・ラジカに感染しています。これ以上不特定多数の方と接触することは汚染の拡大に繋がります」

 

 彼女は「フェ・ラジカ?」と不安そうに聞き返した。小柄な見た目どおり可愛らしい感じの声だ。そういえばフェ・ラジカって名前は一般にはあまり知られていなかった。俺は親父がそう呼んでいたから知っていただけで、一般人たちは殺人カビという漠然な呼び方しかしていない。新聞では学名が書かれていたが、何かやたら長ったらしくて覚えてないんで、仮にそれを覚えててもセールスレディには通じないだろう。

 俺は特に隠しもせず「殺人カビです」と付け加えた。それを聞いた彼女は酷く怯えたように顔を引きつらせたが、それを見たのか俺の体内のカビが『妙だな』と呟いた。

 

『動揺してもいいはずだがいまいち反応が鈍い…むしろ単純にこちらに興味を示している様だぞ?』

 

 錬金術師に発見されたと分かれば普通はフェ・ラジカもびびるはずだ。だって錬金術師は駆除する側なんだぞ。なのに逆に興味深々だなんて…何なんだコイツ?

 俺がカビのほうに意識を向かせていると、女性が首を振って講義した。

 

「何故そうと言えるんですか? 私はいたって健康です。心当たりが…」

 

 そりゃあそう思うだろう。でも、俺はさっき考えた口説き文句があるから動揺しなかった。これなら間違いなく彼女は従う。俺がセールスレディの立場だったら、こう言われれば従わざるを得ないだろうと思う事だからだ。

 

「貴方はさっきから咳をしていらっしゃる。フェ・ラジカの病の初期症状は風邪と酷似しているのです。それに…」

 

 俺はもったいぶって少し間をおいた。錬金術師はよくこういう話し方をするからだ。もしくはやたら早口にまくし立てるか。ナンバーを持った錬金術師は前者が多く、ナンバーを持たないカルト研究者は後者が多い。錬金術師の家というちょっと特殊な環境で生まれ育ったから分かる癖だ。だって錬金術師の一族には不思議と錬金術師が寄って来るんだからな。

 

「貴方からは特殊な香りがするのです。甘い香りが」

 

 蚊が言っていたフェ・ラジカのキャリア特有の香り。これを言えば大抵の人は信じるはずだ。何故なら本人には全く分からないものだからだ。何しろ人間には分からない香りだ。俺だって蚊に指摘されなきゃそんな香りが出ていることは知らなかっただろう。

 不思議なもので、本人に自覚が無いものを指摘されることのほうが不安を煽る。あたかも本当のように言えば言うほど、それはもしかすると本当かもしれないと思うようになる。…必ずなるはずだ。だって俺もキャリアなんだ。俺からも出ているはず…人を魅了する不思議な香りが。

 

 セールスレディは不安そうに自身の体を見回した後「失礼ですが、それは香水の事では?」と言い返した。言うと思った。俺は内心ほくそ笑みながら彼女に言う。俺はその言葉を揺する材料にするために仕掛けたんだ。

 

「貴方は香水を体中に振り掛けているとでも? フェ・ラジカの香りは我々錬金術師にしか分かりません。それは汗と共に体から分泌されます。分かる者には、かなりきつく感じるんです…全身から。それが本当に香水の香りであるなら、貴方は香水を使うことをやめるべきです」

 

 無礼な言い方だが、錬金術師はよくこういう上から目線な言い方をするから演技としてはありだろう。ここまで自信たっぷりに言われれば折れるはずだ。本当は錬金術師でも香りをかぐことは出来ない。そんな訳である意味嘘だから可哀想だけど、こればかりは仕方ない。

 思惑通り彼女は少しショックを受けたように視線を泳がせると、「分かりました。そこまでおっしゃるなら」と鞄を閉めた。よっしゃ。ガッツポーズを決めたい気持ちを抑えて俺は「ご協力頂き感謝します」と努めて冷静に挨拶した。

 

 彼女に道を譲るように廊下の端に体を避けると、セールスレディは誘導されるように俺の前を通り過ぎ去り階段へ向かった。俺は彼女を後を追う様にその場を後にする。背中から『ソロモン?』と聞こえた。振り返ってみたが誰もいない。

 あの音質はインターホンの声のようだ。そういえばあの部屋はジュディスの部屋ではなかった。それでも連絡が行ってたようだし、単に協力してくれただけだろうが…今の呟きはソロモンに反応していたのか? 何か気になるな。部屋の主は誰だろう? 気にはなるけど今は調べてる暇はない。俺は少し後れを取ってしまったので、やや足早にセールスレディを追った。

 

『そうか、キャリアのシグナルの一つが臭いだったな』

 

 階段を下りている最中に俺の体内のフェ・ラジカが感心したように呟いた。どうよどうよ、俺結構いい着眼点してるだろう。ビジネスマンは基本的に香水をつけてはいけない。セールスレディは化粧品売りだから別に問題はなさそうだが、お客様に顔合わせする手前少なくともあの距離で、しかも別に動いていない状態で匂うのは確実に減点対象だ。

 元々香水はつけているだけで嫌われるファクターも備えているから使用には細心の注意を払わないといけないし、本来スペシャリストであるはずの側が付ける量や付け方を間違えてるなんて信用ならないだろう? だからそこを突けば必ず折れると思ったのさ。

 

 しかし、発見されてもフェ・ラジカ側のリアクションが一つも無いってのも気になるな。でも彼女がキャリアってのは間違いないんだ。それが目的ではないんだが何か悔しいじゃないか。こうなったら必ず尻尾を掴んでやる。

 

 1階のエントランス前まで来て俺はふと思い出した。そういえば検問所にいたあのマスク女はどうしただろう。エントランスにキャリアを連れて行ったらあの人も危なそうだ。あのマスクじゃ防げそうもないしな。

 俺はひとまずセールスレディにこの場で待っててもらうように伝えて、先にエントランスに入った。同時にあのマスク女が検問所の扉を開けてこっちにやってきた。そして俺を見て「どうだった?」と尋ねる。彼女はどうも俺を待っていたようだ。

 

 キャリアを他の人と一緒にいさせるのはまずいので、俺は「発見したけど、危ないから別の場に避難してくれ」と外に出るように促した。するとマスク女は「危ないって言われても。女の人と二人きりにするのはどうもねえ…」と俺を疑わしげに見る。どうも完全には信じてないようだ…もう手元に名刺はないし、どうしようか。

 それでもある程度は友好的に見てくれてるらしいこのマスク女を説得する為に、とりあえず俺は説得してみる事にした。何も言わないで言葉を濁すよりよほどいいだろう。

 

「俺が変なことするように見える? 何なら事務所に電話して確認してもらってもいいんだけど。俺はソロモンだ。IDナンバー010020437-8355…」

 

 ナンバーを言いかけたところで「ソロモン?」とマスク女は目を丸くした。何だ? どうしたんだ? 驚いて読み上げるのを中断すると、マスク女はにっこり微笑んだ。

 

「以前うちの息子が世話になった若い錬金術師かね? 話は聞いてたけどお前さんかい。赤毛が印象的なぶっきらぼうな若い男だったけど、良心的な値段ですぐ駆けつけて解決してくれたって喜んでたよ。よかったらまたよろしくしてやってくれよ、あの家は古いけど息子なりに愛着があるんだ」

 

 えっマジか。どうやらソロモンはこのマスク女の息子さんに雇われたことがあったらしい。もしかしてこの人が口だけで俺を信用したり電話番号を聞いただけでアブラメリンの事務所だと言い当てたのは、この人自身も使った事があるからかもしれないな。元々錬金術師に対して好意的な人みたいだ。

 

 俺をソロモンと思い込んだマスク女は、一度検問所に引っ込んで鍵を持つと出口に手をかけた。どうも俺の言う通りにしてくれるようだ。

 

「あんたなら信じてもいいよ。鍵は持っていくから、その危ない人を無事に連れて行ったら呼んでね。私は裏の待機室にいるから。それにしても事務所は対応が遅いね…もう一度連絡しておいてやるよ」

 

 何ていい人だ。俺は心の底から「ありがとう」と礼を言った。でもいい人だから逆に何かあったら駆けつけてきそうでもあるな…それだと困るから、俺は念を押しておくことにした。

 

「でもさ、何があってもエントランスに来ちゃ駄目っすよ。変なことするわけじゃない。ただ、殺人カビが何をするか分からないんだよ…俺だけでも不安だけど、おばさんまで来たら守りきれるかどうか」

 

 マスク女は俺の忠告を受けると「場の空気を呼んでどうするか決めるよ。お前さんも気をつけてね」と答えた。ありがたい。でも出来ればマスク女が判断に困るような事態が起きなければいいんだが…

 彼女は出入り口から出て行くと、外から鍵をかけた。内側から開けれるけど、外から誰も来ないようにという意味だろう。これでおばさんへの感染を気にする必要はない。セールスレディを呼んで、事務所からの使いを待つだけだ。

 

 セールスレディをエントランスの椅子に座らせると、俺は窓から見える景色を見た。外はやや曇がかかっているが、それがかえって気持ちよさそうだ。木々は少し揺れている。それにしても遅いな…おばさんがもう一度連絡してくれるそうだから、そう時間はかからないと思うけど。

 

 ぼんやりしていると、体内のフェ・ラジカが『それにしてもIDを空で言えるとは…さすがアブラメリンの一族だけあるな』と感心していた。そういえば何で俺ソロモンのIDを覚えてるんだろう。英知の才っていう一度見るとすぐに覚える錬金術師の才能があるけど、それはソロモンに遺伝してるはずだよな…アイツは何でもないものでも覚えてるし。…俺にも少しはその才能があるのかね? よく分からないけど…

 

 しかし暇だ…この間何してればいいんだろう。何か気まずい空気が流れてるし、気軽に話しかけるわけにもいかない。そういえばさっきセールスレディを引き止めてくれた人がソロモンに反応してたようだったよな。一体誰だろう? エントランスにポストがあるから、それを見れば分かるだろうか。

 

 さりげなく階段通路に通じるポスト付近に移動して名前を目で追っている丁度その時。いきなり全く聞いた事が無い声が、俺の名を呼んだ。


 
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