水から異臭がする、という事はないか?
それは水に何かしらの要因が加わって何かが混ざってるからだ。貯水池に藻が増えてたりすると青臭い水になることがある。発生していた藻によってどんな感じの臭いか分かれるのが結構面白いよな。かび臭いのはそのまんま、カビが発生していた可能性が高い。藻というけど実はカビの一種ってのもあって、調べるとちょっと面白いかもしれん。胞子で増える植物は結構多いから、植物とカビは親戚なのかもしれんな。
下水や排水が混じる事もある。下水・上水は所詮人が治水したものだからまざっちゃいけないと分かっていても何かしらの要因でまざることもある。そういったときも一番最初に教えてくれるのは臭いだ。
カナケという言葉があるとおり、鉄が水に混ざって異臭を放つ時もある。水を通してる管から染み出したり、管に付着した汚れが原因という事もあるが、地下水なんかだと元々混ざってるということもある。
鉄は水に入り込むこともある。普通に聴くと手品みたいで驚きだろう? でも元素周期表を見ると鉄は26番目の元素ってことで登録されている。Feってのがそれだ。それを見ると、ようやっと水に混じってても変じゃないと実感できる。ああ見えて立派な元素なんだからな。
鉄ってのは堅い金属の姿だけじゃない。鉄は意外な形であちこちに点在している。何も無い砂場で磁石でほじくると砂鉄が取れることもあるからそれは納得してもらえるだろう。貧血を治すために鉄分のサプリメントを飲む事もあるとおり、人体にも鉄は不可欠だ。血が赤いのは鉄が酸素をくっつけてるからだ。血が鉄の味するのも赤血球がどうやって酸素を運んでるか考えれば納得できる。血が鉄を強く錆びさせるのも血の大体の働きを考えればそうした効力があるのだろうな、と何となく分かる。だって錆は酸化した鉄だ。酸素を運ぶ為の入れ物として鉄が使われているのだから、血の中には自在に酸化させるものがあるんだろう。…多分。
あちこちに点在する便利な鉄だが、その点在する鉄に異変が起きたらどうする? 例えるなら、突然鉄が何か得体の知れない有毒物質に置き換わってしまうとか。
何でいきなりそんな事を言い出すって、そういう問題が俺の周りで実際問題として起こっているからさ。
いつからかはまだ分からん。うだつのあがらん調査団は調査中の札かけて逃げたんじゃないかってくらい発表が遅いからな。だが、ある時から俺たちの周りに妙なものが生活の中に紛れ込み始めたのは確かだ。
それは鉄を食って増殖する新型の真菌類…要はカビだ。元々カビの中には鉄を食料に出来るやつもいる。メッキを食ったり硫酸の中でも繁殖できるカビがいるんだからそういうのがいてもおかしくないだろうな。しかしわざわざ新型というには訳がある。そいつらはそこらにある固形物の鉄を食うだけじゃない。生物の中の血液でも繁殖できるんだよ。
そいつらが生物に取り付くと血液を巡って全身に酷い腫瘍を作り、分解の過程によって出来た猛毒によって死に至らしめる。…それだけならまだいいさ。よくないけどそれだけならここまで問題にはならない。一番の問題はこっからだ。
そいつらは取り付いた生命体を毒によって殺す事が本位ではないのか、それとも新しい宿主を探しているのか、毒を外に撒き散らすようになる。その毒の中に胞子が混じっているから、それに近寄った別の生命体に取り付く。その毒は大抵膿の形を取って放出される。仮に人間がそいつらのえじきになったら衛生上放置できないから、どうしたって胞子に接触する機会が出きちまう。
要は街の中に感染者が出れば町は殺人カビだらけになっちまうってことだ。しかももっと厄介な事にこのカビ、ある程度の知能があるらしい。知能があるから彼等なりに共存しようと必死に適応しようとする。だから株が増えるごとに潜伏症状が分かりづらくなる。彼等からしてみれば少しでも宿主を延命しよう、苦しみを減らそうと頑張ってるんだろう。ただの喉風邪かな、程度の症状が何ヶ月も続いたと思ったら実は痰じゃなくて膿で、結局ある時を境に痰程度の膿じゃ毒素を排出しきれなくなって一気に悪化しちまう。何ヶ月もキャリアやってて、知らないうちに町全体がバイオハザード地帯になってしまっていたってこともざらだ。
何故カビに知能があるかは分からない。何故いきなり人里に侵食しだしたのかも分からない。野生動物の体に取り付いて繁殖した形跡は実は前々から見つかっていたらしいが、後出しの情報だからいつからというのははっきりしない。何でも死体がまるではぜたように死肉が広範囲に広がって、ただでさえエグいその死肉にたくさんの腫瘍、そしてそれが割れて毒素が撒き散らされ側の草木が枯れてるという説明するだけで気持ち悪い状態だったそうだ。
そんな気持ち悪いもんが森の中にあったらすぐに誰かに言うだろうに、何で後出しなのかは分からん。報告したのにうだつの上がらんエライ連中にもみ消されていたのか、それとも実は本当に最近の話だったのか。それは想像の域を出ないから追求はしないでおこう。
繁殖するごとに知能があがっていく奇妙な殺人カビの存在は実にセンセーショナルだ。実は国が作っていた生物兵器とか噂が立ってるが、一番槍玉に挙げられたのが各地に点在する錬金術師の存在だ。
俺たちの世界の錬金術師というのは医者と化学者と歴史学者を混ぜたようなみたいなもので、どちらも聞きかじり最新科学から古代から伝わる迷信じみた魔術に近い科学まで幅広く取り入れた独自の研究方法で役立つものを作ったり、太古の昔から伝承されてきた民間療法を研究して最新医学の進歩に貢献する考古学研究者の側面もある。ただ、免許みたいなものはない。昔から伝わる膨大な知識を継承してないといけないから、ほいそれと一代で錬金術師になることは出来ない。絶対にな。
一切の風化もしていない現在過去未来の情報を手中に収められる研究者のみが錬金術師になれる。だから、錬金術師というのは貴族や大富豪であることが大多数だ。そうじゃなくても大昔から複数の家柄がコミュニティを作って閉鎖的に代々財産と知識を継承している旧家だ。
一代限りのアマチュアや資料や機材が乏しい錬金術師は錬金術師ではなくカルト研究者と呼ばれることが多い。そいつが錬金術師を志したところで本当に錬金術師だと呼ばれるようになるには最短で3代後の話だ。3代の間に世に発表できて名を残せるだけの有益な研究結果が3つ残せればどうにか錬金術師の家として認められるだろう。残せなければいつまでたってもカルト研究者のままだ。
その呼び方で分かるだろう。錬金術ってのは周りから見れば今も昔もカルトなんだよ。だから大金持ちのカルト野郎がカビを改造して猛毒化させたんじゃないかって噂がまことしやかにささやかれるのも納得いく。さっきの野生動物の件も金持ちの野郎が情報をもみ消したに違いないってな。貴族や金持ちに対する庶民の目はいつの世も厳しいのよ。
だが錬金術師たちは悪評を全く気にしてないことが殆どだ。周りの言う事にいちいちショックを受けるような肝っ玉の小さいやつなんて殆どいない。こういう常人離れしたセンスがなきゃ長年錬金術師なんてやってられないだろう。家によっては5世紀近く錬金術をやってる生粋の変態一族もいるしな。
むしろ錬金術師たちはこのセンセーショナルな事件に興味津々だ。カルト研究者たちも目の色を変えてこの事件の究明に乗り出している。何しろ黒死病の再来とさえ言われる事件だ。原因の解明、もしくは解決方法を開発すれば歴史に大きく名を残すことが出来る。その執着心たるやキチ入ってるんじゃないかと思うくらいスゴイ。正直俺はついていけない。
何か随分詳しいじゃないかって? そりゃあそうだろう、俺の実家はアブラメリン家。国で5本の指に入る錬金術師の家だ。最近は大病院や研究所を複数持つ資産家ってイメージしかないが、そこまで大きくなったってことは要は過去に何度か偉業を成し遂げてきたということだ。
ぶっちゃけると錬金術師ってのは普通にアルケミストという意味もあるし、知識によって金を作るもの=研究によって巨万の富を築くものという意味もある。だからさっき言ったとおり一代では錬金術師になれないのさ。一人だけでは巨万の富を得る事はできても巨万の富を築く事はできない。
でも俺は錬金術師じゃない。だから言ってることが妙に曖昧だろ? …ちょっといいかっこしたくて色々読んだんだよ。だって俺は錬金術師に必要な勉強はハイスクールん時に科学の時間に習ったっきりだもんな。だから俺はこの事件は正直早く終わってほしいし、アブラメリン家の悪口を言われると色々胃が痛い。俺は家と関係ないって分かってるから俺に直接嫌味を言うんだと思うけどな。なんだかんだ言いつつ皆笑ってるし、事件が表面化した時も以前と変わらず接してくれたし。そう考えると少し気が休まる。
多分、ソロモンは嫌味ではなく陰口として家の悪評が耳に入ってるんだろうな。
ソロモンは俺の双子の兄貴だ。奴は俺と違って生粋の錬金術師でな、現在医学生やってる。頭はいいが見てくれは悪いよ。一卵性双生児の弟の俺が言うんだから間違いない。俺が鏡の前に立つとまず映るのは赤茶けた毛だ。酷い剛毛で伸ばすと猿人みたいだから短くスポーツ刈りにするしかない。どうせ赤毛ならもっとオレンジがかったまさに赤毛って感じの綺麗なのがよかったのに、何か中途半端な赤さで格好悪い。茶髪ともいえない色だし、赤毛で通じる。恐らく少し色を抜けば俺の思う赤毛になりそうだが、どうせ色を抜くくらいならブロンドか黒に染めたい。
角ばってると説明したほうが早いいかつい顔に鋭い目つき、それに気持ち鉤鼻っぽい、妙に目立つ鼻。まつげは長いがまゆげもスゴイ。ほっとくと野生動物みたいだからこまめな手入れがいる。体はまあいいんだ、角ばってるほうが男らしいし。
中途半端な赤毛と特に激しく鍛えてもいないのにやたらごつく見える骨格、そしてやたら生える無駄毛。自然のまま放置してたら俺は猿人みたいだ。見た目に反して汗っかきではないし、むしろ冷え性で夏でも長袖着ないと寝れないのに、子供の頃についたあだ名がアブラギッシュ。むさい見た目とアブラメリンの家の子供だからだろう。見た目で判断しないでくれ。俺の食生活は僧侶か菜食主義者かと勘違いされるくらいの野菜尽くしなんだぞ。ごぼうを愛しているんだ。
目つきが悪いから小さい子に泣かれる事4回。くそっ泣くなよ、俺がお前くらいの頃は一応可愛いって言われてたんだぞ。お前が俺くらいになったら同じ目にあわせてやる。しかも泣かれなくてもおじさんといわれるのは日常茶飯事だ。俺まだ19歳なのに。あんまりおじさんおじさん言われるんでそう見えるのかなと思って16歳の頃エロ本を買いに行ったら「子供はダメだよ」って注意されるし。おいおいどっちなんだよ。その事ノアデアに言ったら死ぬほど笑われたし。
総合的に言えば、仮に俺が女だったらきっと錬金術師を目指していただろうってレベルだ。全身を整形する金を稼ぐ為に。よく言えば男らしい見た目だから今は整形しないでおいてやってるけど。
でもソロモンはそういう外見上の話は無頓着みたいだから気にしたことないだろうな。奴は俺と違って学問一筋だ。さすがに剛毛は気にしてるのか俺と同じく短く切ってたけど、見た目というよりは研究の邪魔だからという様子だった。俺とソロモンは瓜二つだが、性格が顔に出るってのは確かみたいでいかにも気難しいを絵に描いたような顔つきしてたな。俺はそんな頭よくないが、目つきが悪さが災いして子供に怖がられるだけみたいでそれ以外からは「人のよさそうな顔」といわれる。
俺の住むマサース市一の秀才だったソロモンは大人たちに未来の錬金術師として畏怖と期待と愛情を受けて育っていたが、俺みたいに同年代の奴等と遊ぶことはしなかった。
俺の親は俺をハブにした…とかそういう暗い話はないぞ。そういうのを期待した奴はお気の毒様。俺の親は全く同じ遺伝子を持った俺たちがそれぞれ全く違う人生を送る事に文句はないようだし、錬金術に興味がない代わりに経済学をとった俺を『家に新風を取り入れる風雲児』としてむしろ喜んでくれている。ソロモンはソロモンで自分たちの継承してきた知識を受け継ぐ者として可愛がってるようだが、別にえこひいきを感じた事はないな。
先に言っておくと俺はあいつ嫌い。錬金術師特有の強引で自己中心的な部分を直そうともしないし。だって俺の本を興味深かったからという理由で無断でもってっちまうんだぞ? 人の部屋を勝手にあさってさ。でも参考書に混じって漫画を持ってった時はあいつも案外俗っぽいんだなって笑ったけど。
あと、アイツの部屋の汚さ。病気じゃないかと思うくらいきたねえ。遠く離れた俺の部屋にまで異臭が流れ込んでくる時がある。俺と違って研究室という別の個室を与えられてるってのに、アイツ自分の部屋でも何か研究してるのか? って位生活とは無縁の異臭を漂わせてやがる。
生臭いとか汗臭いとかそういうのは百歩譲ってやるとしてもだ、何で硫黄臭とか得体の知れない刺激臭とか明らかにヤバイ薫りが漂ってくるんだ。一家心中するつもりなのかよ。あまりに酷いんで近くの研究所の仮眠室貸してもらったくらいひでえ臭いだった。何してたんだろうな…
俺は兄弟だから嫌いではあっても表立って人格攻撃するほどじゃない。性格に難ありだとは思うが、ただ思うのと口に出すのとは少し違う気がする。俺は口に出してまで激しく嫌悪しているわけじゃない。
でもやっぱりというか、人付き合いが殆どない上に錬金術師だから色々と悪い噂は立ってるみたいだ。錬金術師は例えどんな人格者でも、その存在感と得体の知れない実験と口先で飯を食う金持ち連中だ。悪態付かれるのも仕事のうちって言われるくらいだから、仕方ないんだけど。
でも俺が多感な年頃の頃はソロモンのせいで俺まで色眼鏡で見られると思って本当に殺してやりたいくらい嫌いだったこともある。なまじ同じ姿をしているから人生を誤った自分自身を見てるみたいな気分になって、腹立ち紛れに喧嘩吹っかけて殴りあった事もある。もう少し大きくなった頃奴の存在をなかったことにしようとした事もあった。
親から強く注意されるくらい徹底的に無視した。そんなこんなで俺はしょっちゅう親から怒られたが、あれだけ酷い部屋を持っておきながら怒られた事がないソロモンに対して優越感みたいなものを感じていた。俺を正そうとするお袋や親父はきっと俺のほうに期待しているのだろうと思い込んでいた。だから俺は一時期不良みたいに荒れてたよ。
でも違った。単に別々の場で怒られていただけだった。夜に喉が渇いて廊下歩いてたら親の怒鳴り声がソロモンの部屋から聞こえてきたのを聴いてそれを悟ったよ。
ソロモンはソロモンなりの方法で親に怒られる手段をとっていたんだろう。俺はチンピラみたいに不良化をしただけで、ソロモンは自堕落な生活をする事で不良化していただけだった。やり口は違っても結局考えてる事は同じだったんだ。一卵性だけに求めるものは同じだったのかもしれない。俺もソロモンも怒られる事で親が自分に特別気をかけてくれてると思い込んでいたんだろうな。つまり口や態度に出さなかっただけでソロモンも俺に対して敵対心を抱いていたわけだ。
一方的な敵意を向けること自体は気持ちいいけど、敵意を向けてる相手からも同じように嫌われていると分かると悲しくなるもんだよ。そんなの当たり前の事のはずなのに。明確な敵意を感じることでサンドバックだと思っていたものが実は自分と対等な人間だったと悟っちまうんだ。
人間ってのは有利な立場にいる時は残酷なことをいくらでもできるけど、それはただの思い込みであったと悟ると腰が引けるんだ。臆病なもんなんだよ。
それに加えて俺の漫画をかっぱらっていくようになったアイツを見てたら毒気が抜けちまった。アイツは気難しいし昔から天才児って言われてるから漫画なんて娯楽性のあるもの見ないと周りから思われてたのは知ってる。だが根本は俺と同じであるのなら、ソロモンは多分人恋しいと思うことも遊びたいと思うこともあったんだろう。でもなまじプライドが高くて貸してくれとは言い出せないから、参考書に混じって漫画を持っていくのかもしれない。
俺だって錬金術に全く興味がないわけじゃないしちょっとくらい知っておきたいなーと思うことはあるが、奴に頭を下げて教えてもらいたいなんて思っちゃいない。親父達に訊いても「ソロモンに訊け」としか言わないし、他の錬金術師は自分の手の内を明かすには情報料を請求されるのが当然のしきたりだから何となくで教わるわけにはいかない。俺は錬金術を知る機会はない。あってもソロモン頼みだから心情的に嫌だ。
きっとソロモンも俺に対してそういう気持ちがあるんだろう。漫画はほしいが無償では読めないし、世間体があるから意地でも買いにいけない。かといって俺や誰か知人に貸してとは心情的にいえない。だってそういう遊び友達が身近に居ないんだ。
そう思うようになってから以前みたいに敵愾心を抱く事はなくなったが、やっぱり好きになれそうもないからお互い干渉しないようにしてる。周りは兄弟仲が悪いという認識が強いからか、ソロモンの評判の悪さを俺に持ちかける事が多い。昔はざまあみろと思ったが、今にして思うと少し可哀想な気がしなくもない。でもどうにかしてやろうという気持ちもなかったから適当に受け流している。
それでも最近はこの俺もさすがに心配になる事が続いてる。どうよ、もう少し話しに付き合ってはくれないかい? なんだかこのままじゃ気が変になりそうだ。
…何、俺は何者なのかって? そういえば自己紹介してなかったな。俺の名前はザドック。ザドック・アブラメリン。クローリー経済大学経営学科の2年生。講義が入ってない時は本屋のバイトをしながらごく普通の人生を楽しんでたとこだったのに、色々問題が山積みでそれどころじゃないんだよ。
ああ、俺はこの先どうなっちまうんだ?
嘆いていても仕方ない。ここは一つ情報を整理しようじゃないか。…そうだ、ソロモンが心配な理由だったな。長くなるだろうがまあ聴いてくれ。
鉄を食う危険なカビの噂は俺の住むマサース市の各町にも広まっていた。混乱はそんになかったよ。流行地より離れていたから皆無縁だと思っていた。俺もいざとなりゃアブラメリンという錬金術師の家が何とかしてくれると軽い気持ちだった。実家が最後の砦って割と心の支えになるもんだぞ。周りの皆も悪口は言えどやはり最後の頼みとして信頼はしていたようだ。
だが集中豪雨で街の中を走る川が氾濫して道路が水浸しになるよくある事故が発生してから、何かがおかしくなっていった。川の付近から腐臭がするようになっていったんだ。腐った臭いというか、なんだか血なまぐさい。普段は氾濫しても一日もたたんと元に戻るはずなのに。何かがおかしいと感じたうちの研究所に勤務してる研究員が川の付近の調査を始めたんだ。
そこで見つけたのは、川の近くの街路樹の陰で繁殖していたカビだった。川の氾濫で流されてきた死んだ魚と思しき肉片は噂どおり爆ぜた様に地面に飛び散っていて、腐って半液体状になった肉はつつじの木に絡まっていた。つつじの木の根元から不気味な腫瘍が複数生み出されていたよ。研究員が写してきた写真で見て俺は全身の血が逆流したようにぞっとしたもんだ。胞子が俺の中に入れば俺もいずれこうなっちまうんだぞ、怖いじゃないか。
感染した魚によって例のカビが町に持ち込まれちまったんだ。幸いまだ人間には感染したって話はないようだから、今のうちにつつじごと焼き払って消毒してしまおうとあれこれやってたらしい。俺は写真を見せてもらっただけで詳しい事は分からない。だって俺は錬金術師じゃないし、研究員たちみたいに医者や科学者じゃない。ただ俺も一応アブラメリン家の子息だからその特権を生かして本来一般人が見るべきものじゃない資料を見ただけの話だ。
だがつつじを焼き払おうとした研究員達にまったをかける阿呆が現れた。…そうさ、ソロモンだよ。
ソロモンは錬金術師の立場としてこのカビを欲しがった。まだ鉄をたくさん取り込んでおらず強い毒素を放っていないこの小さな株で生態を調べれば、各地に広がるカビの侵攻を食い止める事ができるはずだってな。まあ確かに小さな魚の体とつつじを媒体に大きくなろうとしてたカビはお世辞にも強大な病原体というには役不足なサイズだった。だって写真1枚で収まる規模だぞ。規模が小さくても十分気持ち悪いけど。
うちの親父も錬金術師だし、ソロモンの気持ちも分かるんだろう。でもいつ胞子をばら撒き始めるか分からない。いつもみたいに研究対象を家の中に持ち込むようなずさんな事はせず、研究所で厳重な管理化の下で研究する事って約束でソロモンの願いは成就されちまった。…あの異臭はやっぱり自分の部屋で研究してたのか。俺はその事実を知ってぞっとしたよ。今まで何の研究してたか知らんけど。
そんなわけで例の鉄を食うカビ…そうそう、確かカビの名前は『フェ・ラジカ』。フェ・ラジカの株を手中に収めたソロモンは研究所に引きこもって何かしら研究していた…ようだ。アイツも一応医学生なのにちゃんと大学行ってたのかね? 普段はそんな事気にもしないんだが、さすがに状況が状況だから親に訊いてみたら今下手に外をうろついたら胞子をばら撒くかもしれないから学校には行ってないそうだ。留年も辞さない心構えだったのかもしれない。一体いつまで学校に行かないつもりなんだろうな。つくづく気が知れない奴等だよな、錬金術師って奴は。
そんなこんなでソロモンの姿を見なくなって3ヶ月くらいたった頃かな。俺が大学1年の頃だから…そうだ、学期末試験で平和に頭抱えてた頃かな。珍しく深夜まで勉強しとったら、どこからか喘ぐ声が聞こえてきたような気がするんだよ。いやらしいものじゃなくて、今にも死にそうなやつな。勘違いするなよ。
うちはさすが錬金術師の家だけあって結構立派なたたずまいなんでたまに病院と勘違いした病人が家に迷い込んで来る事があるから、そういうのかなと窓から外を見てみたがそうでもないらしい。でも確かにどこからか死にそうな声が聞こえてくる。
気味悪いが翌朝病死した人間が家の側で倒れてたとかあったら困るんで、部屋から出て表に出て様子を見ようとしたんだ。だがどうも外からじゃないらしい。耳を済ませて声が聞こえる所を探ってみたら、その声を掻き消すような凄いいびきがソロモンの部屋から聞こえてきた。どうも知らないうちにソロモンが帰ってきたらしい。でも、ソロモンのいびきに混じって確かに何かが苦しんでいる声が部屋の中から聞こえてくる。
よっぽど無視しようかと思ったが、声の主が可哀想な気がすると同時に猛烈な好奇心が俺を支配した。俺はいつもソロモンに勝手に部屋の中に入られてるし、たまには俺が不法侵入したっていいだろうと思って意を決して入ってみた。
そこで見たのは、いつ洗ったのか知れない黄ばんできったねえシーツに包まっていびきをかいて寝てるソロモンと、本とプリントと脱ぎ散らかした服が散乱してる綿埃とフケと抜け毛と落ちたパンくずだらけの床。元は机であったのであろう物置みたいなスペースに置かれた奇妙な箱だった。どうも苦しむ声はそこから聞こえるらしい。
にしても地獄絵図みてーな部屋だ…ゴキブリすらはだしで逃げ出すんじゃないのかね。事実奴の部屋からは死んだゴキブリしか発掘された事がないらしいし。
入っただけでダニか何かに食われそうだが、箱が気になって俺は恐る恐る部屋に入った。俺と同じ顔した奴がきたねえツラして寝てるのも気にはなるが、今のところ起きる気配はなさそうだ。少しやつれて痩せてるようには見えるが、まあずっと研究所でよろしくやってたんならこんなもんだろう。
しかしこうして改めて見ると俺って無精髭ほんと似合わねえな…まるで山賊みたいだ。気をつけよう。
箱はえらく頑丈に蓋が閉められていた。それでも開かないことはないようだった。箱の蓋をなるたけ音を立てないように注意深くこじ開けて、俺は窓から入ってくる月明かりを頼りに中を覗いた。そしてそれが何なのかを目視して、血の気が引いた。悲鳴を上げなかったのは我慢したからじゃない。本当に身の毛がよだつ思いをすると悲鳴も上げられないもんだ。
箱の中にあったもの。それはあの腐った肉片のような不気味な物体…親父から家に持ち込む事を堅く禁じられていたはずのフェ・ラジカだった。ソロモンは親父の言いつけを破って家に持ち込んだんだ。
何も用意せずフェ・ラジカを間近で見ちまった俺は数日後に死ぬかもしれない。俺は箱の底でぐちゃぐちゃになってるフェ・ラジカを凝視しながら硬直していた。どう反応していいのかわからなかったから。
だが、硬直しながらも心のどこかは案外冷めていた。ここまできてもやっぱり好奇心ってのがあったらしい。冷静な俺はあの時聞こえた苦しむ声の主がこのフェ・ラジカである事を突き止めた。確かフェ・ラジカは噂を鵜呑みにするなら知能を持った真菌類だったはず。この声が本当にフェ・ラジカのものだとするなら、フェ・ラジカは長期間のソロモンの研究で痛めつけられて死にそうになっているのかもしれない。
気持ち悪い。気持ち悪いが、今にも死にそうになっていると分かっていてここで見捨ててもいいのだろうか。別にカビなんだし死ねばいいじゃんと思うんだが、俺は罪悪感を感じてどうしても捨て置けなかった。苦しむ声があまりに人間に似ていたからかもしれない。しかしどこからこの声を発しているのかは分からない。
万が一親に見つかってもフェ・ラジカだったとは思わなかったとしらばっくれればいい。約束を破ったのはソロモンだし、俺は無知な一般人だ。そう言い聞かせながら俺は箱を持ってソロモンの部屋から抜け出し、出来るだけ静かに庭に出た。
ここにきてやっとフェ・ラジカの生臭さが確認できた。奴の部屋は危険なカビより臭いってことか…よくもまああんなところで生活できるものだ。もしやフェ・ラジカが死にかけてるのは実験で弱ったからじゃなくて部屋が汚かったからじゃないだろうな。
俺は庭にある水道の蛇口をひねって箱の中に水をぶちこんだ。臭かったし、魚を媒体にして生まれ出た株なら水が一番いいだろうと考えたからだ。
菌類らしくぐちゃぐちゃになって底にへばりついていたフェ・ラジカは暫くはその姿を保っていたが、水を受けてじわじわと底から外れていった。そして水面に浮いた。なんだか気持ちよさそうだった。何故俺がそう思ったかよく分からないが…とにかくこいつは気分よさそうだと思った。
スライムみたいにゲル状なのかと思っていたが、よくよく観察するとそうでもないらしい。つつくと弾力はあるがしっかりとした固形物であることが伺えたので、思い切って洗ってやることにした。どうせ死ぬなら殺人者をもっと観察してみたいと思ったからだ。水面にはフェ・ラジカが分泌したらしい脂特有の膜が張っていたが、水を注ぎ続けながら表面をこするように洗ってやると次第にそれが出なくなった。なんだかソフトビニールのボールか何かを触っているような手触りだ。
ここまでくると俺も大胆になったもんで、本当にボールみたいに丸くなった水浸しのフェ・ラジカを服で乱暴に拭いて水を切ってやった。ぐちゃぐちゃで腐臭を放っていたのはどうも寄生先の肉片の関係だったようで、それを洗い流すとしなやかで案外綺麗なもちのような物体になった。腐臭もなくなった。
掌に乗る大きさのもちみたいな物体はほっとした様子で俺の手に乗っていた。苦しんでいたのはどうやら不衛生なまま放置されていた為のようだ。カビですら綺麗な状態を好むのに…ソロモンはカビ以下なのだろうか。
月光の下で見るフェ・ラジカは思った以上に白くてきれいだった。もしかするとフェ・ラジカではないかもしれないと思うほどだ。
つついてもやっぱりもちみたいにやらわかい。可愛いもんだとつついて遊んでいると、フェ・ラジカもまるで俺と遊ぶようにその身を使って指を軽くひっぱった。指がもちにめり込んだまま引き抜けなくなったが、悪意がないことは何故か分かった。遊んでるようだ。知能があるというが、本当にあるらしい…
それは動くカビ玉で、じわじわと俺の指に絡むと俺の手にくっついた。何かくすぐったい。引き剥がすと簡単に取れたが、今度は引き剥がした手にくっついた。
ひとしきり遊んでから箱を水切りして、すっかり綺麗になった箱の中に同じくさっぱりと綺麗になったフェ・ラジカを入れてやった。そしてソロモンの部屋に戻って蓋を閉めて元通りにしてやった。ソロモンの部屋はやっぱり地獄だった。フェ・ラジカの死肉臭をかき消すほど臭い部屋ってどうなんだ。
そこまでは俺も随分と冷静だった。自分の部屋に帰ってから寒気が襲った。つついて遊んでいた時は何も感じなかったはずの指から出血していたのだ。フェ・ラジカの白い体には血は一切ついてなかった。蓋を閉めた時についたのだろうか? だったら痛みを感じるはずだ。だってえらく豪勢にぱっくりと傷が開いている。…まさか、フェ・ラジカに吸血されたのか?
フェ・ラジカは血液内で増殖して殺すというから、俺は本当の意味で寄生されちまったのかもしれない。いまだ流れ出る血と自分の傷を見ながら俺は本気で死を覚悟した。…覚悟なんてかっこいい事はしてないな。後悔してたというのが正しいか。
でも案外床に入ると寝れるもので、朝起きたらとんでもねえ時間になっていた。寝坊して試験に遅刻した。あとで追試してどうにか単位は取れたが、俺は心底ぞっとした。… 試験に遅刻した事に対して。何故かフェ・ラジカに吸血された可能性に関してはさっぱり恐怖心は浮かばなかった。
その日の夜ソロモンはもういなかった。箱もなかった。
俺はその後風邪みたいな症状もなくぴんぴんしたものだったよ。要は体のどこかから膿が出てきたらアウトってことだから、ニキビ一つにも細心の注意を払った。だが何故か本当に何も無かった。あの日の出来事が嘘のようだが、指の傷があるから夢じゃないんだろう。
ただ、平穏無事というわけじゃなかった。俺に異変があったのではなく、町に異変がおき始めた。
町に鳥の死骸が増え始めたんだ。普通鳥の死骸は事故で急死したようなのしか見ないだろう? だが、落鳥した死骸があちこちで見られるようになった。同時に町に風邪が流行り始めたんだよ。一番疑わしい俺は風邪らしい症状がないのに…
ついに幼馴染で同じ学科のノアデアとエステルが風邪で寝込じまった。ノアデアは花屋の息子で、小さい頃から家業の手伝いをして空っ風吹きすさぶ寒空の下でも平気で水仕事を何時間も行うような鉄の体してたのに…見舞いに行ったら奴は「初めて高熱でた」と何故か喜んでいた。何考えてるんだよこいつ…人の気も知らないで。
エステルも見舞いに行くと彼女のご両親から「もう家には来ないほうがいい」と言われた。エステルが女だからって意味じゃないのは分かる。俺が錬金術師の家柄だから邪険に見ているわけでもない。まだ無事である俺の身を案じてくれているのは明白だった。その意味は…考えたくもなかった。
何故俺が無事なのに周りがフェ・ラジカに感染していくんだ?
俺はパンドラの箱を開けちまったのだろうか。親にも相談出来ないし、一体どうしたらいいんだろう…俺は休学状態になって静まり返った大学のキャンパスのベンチで呆然としていたよ。死ねば楽になるだろうかと思ったが、死んだところで皆が元気になるわけじゃない。逃げたところで俺がフェ・ラジカの胞子を撒き散らす事になっちまう。一体どうしたらいいんだろう…本当に、どうしたらいいのか分からなくてずっとどうしたらいいんだ、どうしたらいいんだとバカみたいに繰り返し自問していた。
どれくらい自問したんだろう。不意にその問いに答える声が聞こえてきた。どこから聞こえたのかは分からない。誰もいないはずの大学なのに…しかしその声は確かに言った。
『迷うならばマサース第一研究所に来い』
マサース第一研究所…昔から何度か世話になったことがあるうちの研究所じゃないか。家の異臭騒ぎの時に緊急避難したのもここだ。だが現在は風邪騒ぎで一時閉鎖されているはずだ。現在動いている研究所は人里から離れた第七・八館だけ。あそこは医療特化で特殊な薬品や病原体のサンプルなんかも保存してあるから、一般人である俺は決して近寄ってはいけないときつく言われている厳重な研究所だ。
第一研究所は研究所というよりは倉庫や資料室、会議室みたいなものが多い。だからただアブラメリン家の人間というだけの一般人である俺でも入れるのだが、比較的家に近い事もあってソロモンのラボもそこにある。
誰もいない大学で頭を抱えていても仕方ない。誰の声なのかは分からないし何故そこに誘うのかは知らんが、俺はとにかくマサース第一研究所に向かう事にした。
大学は自転車で通学できる距離だ。といっても自転車でおよそ20分強。家業の関係でハイスクールに通っていた頃に既に免許を取得したノアデアにたまに送ってもらうが、10分くらいで到着出来る代わりに駐車場を探すのに時間を食うし、後から作られた新駐車場は大学から妙に離れてて歩いてキャンバスに到着すると約5分くらいかかるから結局所有時間は変わらない気がする。だから車がほしいとは思っちゃいない。でもこういう時はほしいと思った。研究所も家に程近いところにあるし、時間的にはさほどかわらないだろうがな。
静まり返った町中を自転車で走りながら俺はずっと考えていた。そういえば親父も錬金術師だが、何故かフェ・ラジカを積極的に研究しようとはしていなかったような気がする。興味がないわけではなかったようだが何故だろう? 何より街中にある第一研究所でフェ・ラジカの研究をさせるなんて危険なことをさせるなんて親父らしくない。うちの親父はソロモンみたいなアッパラパーが多い錬金術師にしては珍しく良識のある常識人だ。街中で研究させていれば何か悪い事が起きると想定できなかったはずはない。
親父には親父なりの何か策略があってソロモンに任せたのだろうか。俺にはよく分からない。こうなってしまった以上、うちはきっと今まで以上に糾弾されるだろう。…俺たちはどうなってしまうんだろうな。3世紀つづいた名門アブラメリン家もおしまいか…
先行きの不安さのせいか、俺はよく見知った道を何度か間違えて迂回を繰り返しながらどうにか第一研究所に到着した。正門は堅く閉ざされているので、勝手口の鍵を使って中に入ってみた。白を基調とした綺麗な廊下は太陽の光を受けてなお明るく輝いているようだったが、人の気配がないというのはやはり薄気味悪い。…人気がない? そういえば俺に話しかけてきたのは誰だったんだ?
いざ研究所に侵入したものの一体何をすればいいのかと途方にくれていると、グッドタイミングに次の指令が聞こえてきた。大学にいたときと同じで妙にか細い声だ。か細くとも何かにかき消される事のない、なんとも不思議な声だ。
『本当に来てくれたのか…ありがたい。1階の臨時倉庫を知っているか? そこに来てほしい』
一階の臨時倉庫…名前だけじゃどこだか分からん。色々考えて一階をうろついたが、階段下の少し奥ばった所に扉があったのを見て思い出した。小さい頃ここの掃除の手伝いをしていた事があるのだが、ここはいらなくなった書類やゴミをいったん保存しておく場所だったはず。ここが臨時倉庫かどうかは分からないが、それらしい倉庫といったらここしか思い当たらない。俺は急いであけようとしたが、ドアは無情にもガンという何かつっかえているような音をたてて俺の侵入を拒んだ。ゴミ捨て場といえど元は大事な資料だから勝手に持ち出されないように鍵がかけられているらしい。
俺は焦って鍵を壊しかねない勢いでノブを回してガンガンやったが、鍵は俺の力じゃ壊せそうもない。鍵が保管されているのは…確か事務所の給水室の側だ。俺は急いで事務所まで走ったが、事務所で待っていたのはまたしても鍵だった。こちらはさらに頑丈そうだ。とても俺では壊せないだろうし、形状からしてピッキングなんて出来そうもない。そもそもそんな芸当やったことがないけど。
もういっそガラスを破ってやろうかと思ったが、側にあった消火器に手をかけたところでふと思い出した。小さい頃家の鍵を忘れて帰れなくなったことがあったんだ。親父もお袋もたまたま留守で、ソロモンは一人で勝手にどこかに言ってて俺はよく分からない。今思い返すと多分図書館にでもいたんだろうな。うちは確かに大きいが親父の持ち物には機密書類が多いからセキュリティシステムを強固にする反面ハウスキーパーは基本雇わない。だからお手伝いさんみたいな人は家にいない。
研究所で待っていようとしたらここも閉まっていた。研究所周辺は通常一般人は立ち入り禁止だから研究所の敷地内にいさえすればそこまで心配は要らないんだが、どんどんあたりが暗くなるし俺は怖くなってめそめそ泣いてた。小さい頃は誰でも可愛いもんだね。で、運よく丁度用事があって研究所に寄ったらしい事務員が俺を見つけて研究所に入れてくれたんだ。
その時の事務員は輝いて見えたよ。今でも覚えてる。いつも俺が遊びに来ると可愛がってくれた女の人で、鍵には赤くて可愛らしいキーホルダーがついていた。…外の鍵を開けて、その足で事務所をあけたはず。その時のキーホルダーは赤いままだった。
もしかすると勝手口の鍵と事務所の鍵は同じなのか? セキュリティ面では難ありだが、勝手口は事務員達が頻繁に使うから同じであってもおかしくはない。むしろ逆転の発想で同じであるはずがないと思い込むから、本来なら開かずの扉なのかもしれない。だったら俺の持ってる勝手口の鍵で事務所の鍵が開くはずだ。10年近く前の話だから取り替えられてるかもしれないが、取り替えられていないことを祈るしか…
天に祈りながら勝手口の鍵を事務所の鍵口に差込み回すと、随分あっけなくかちゃりと音を立てた。俺は思わずガッツポーズをしたが、そんな事をしている場合じゃない。俺は急いで事務所に入ると倉庫の鍵を探した。各部屋の鍵が壁にかけてあるが、臨時と書かれているこれがそうだろうか? タグを見ると会議室の鍵はあっても資料室のような重要そうな鍵はここにはないようだ。俺があけたいのはゴミ溜め倉庫だから関係ないか。資料室を指定されなくて良かった。
急いで階段下の倉庫の前に戻って鍵を開けた俺は少し緊張しつつドアを開けた。一体誰がここを指定したのだろう?
扉の向こうにあったのは、うずたかく詰まれた本と大きな箱、ビニール袋に入った細切れの紙だ。いらない本やシュレッダーによって処分された紙はここに保管されて、回収に来る業者に渡すようになっているらしい。箱の中は電球や空き缶、電池、インクがなくなったトナーなんかが箱ごとにしっかり分けられて入れてある。そのうちプラスチックゴミの箱の中に見覚えのある箱が放り込まれている。この黒くて可愛げのない箱は…
俺はその箱を拾い上げてみた。プラスチック製の小箱だが、重さが少しあるから空ではなさそうだ。堅そうな蓋を開けるために俺はすこし力をこめた。…あの晩は音を立てないように注意を払っていたが、今は気にする事もない。だから以前よりは難なく開ける事ができた。
箱の中にあったものは、あの時見た白いもちのような物体…殺人カビ『フェ・ラジカ』だった。
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1話を晒そうとしたらちなみさんが「お前ちょっと文多すぎコロシアムぞ」ってカラテチョップ蹴ってきたから、分裂させました。1話のその1って変だからもういっそこれが1話ってことにしちゃってもいいだろうか。いいよね。だってオリジナルだし。