二章 母の足跡
母方の祖父である大江雅致(まさむね)の邸の文殿で、小式部は『紫式部日記』の写本を読んでいた。
南池にせり出して造られた文殿にいると、穏やかな四月上旬の午後の陽射しは心地よかったが、受領階級の父祖が、三条の一角に四分の一町の地に建てた邸など、道長が平安京の内外に営む一町単位の広壮な大邸宅とは比べるべくもない慎ましいもので、せいぜい主屋である寝殿に東対と文殿が付随して南池に面して建つ他には、持仏堂があるだけであった。
それでも小式部にとっては生まれ育った邸で、落ち着く。
『紫式部日記』は、一条天皇中宮彰子に仕えていた紫式部の見聞感想文で、寛弘五年(一〇〇八)秋の土御門殿での中宮の敦成親王(後一条天皇)出産の前後から書き始められ、同七年正月までの出来事が記されている。
記述の殆どは、他者からの伝聞で、限られた情報を整然と理解し、認(したた)めた紫式部の筆力は評価される。
次に、小式部は、やはり紫式部の手になる中宮彰子付きの女房たちの消息文と呼ばれる批評に目を移した。
この女房たちの批評の中に、母である和泉式部に対して書かれた部分があり、『紫式部日記』の写し同様に、小式部は教通に縁故を頼って手にしたのだった。
こうした消息文によると、
『和泉式部の歌は大変に面白いが、歌の道理からみると、真正の歌詠みとは言い難い』
と手厳しい。もっとも、この厳しさは母との親しさ故からの直截な表現とも受け取れるが、文面だけでは紫式部がこの消息文を書いたときの心情は解らず、楽観はできない。同時に、『紫式部日記』の筆者の手になったものであるから、説得力と存在感があった。
小式部が母とともに彰子の許へ出仕を始めたのは、十二歳の年で、当然、紫式部とも会っているはずであったが、紫式部が誰であったか、まるで思い出せない。
一口に女房といっても、内裏や里内裏に雇われて働く公的な官女と、摂関家の権威を内外に誇示するために、ときの氏長者から個人的に乞われて宮仕えする私的侍女もいる。
私的侍女は単なる労使関係ではなく、主従の感情もあって仕えるのであるが、一身上の都合から、長い期間、出仕を中断することもあり、紫式部の参内も断続的なもののようであった。
小式部は、紫式部が書いた母の消息文は母の作品に関して評したものであって、人格を云々したものではなかったことに安心しながら、『尊脈分派』と『中古歌仙三十六人伝』の両親と母方の祖父母に関して記した部分の抜き書きに目を遣った。
『尊脈分派』は、諸氏の系図を集成した書で、『中古歌仙三十六人伝』は、『後六々撰』の歌人の伝記で、ともに小式部が教通に写しを頼んだのだった。
これらによると、母は、
越前守大江雅致女、母越中守平保衡女、太皇太后宮昌子御乳母、号(二)介内侍(一)、和泉守橘道貞為妻、仍号(二)和泉式部(一)、童名御許丸、上東門院女房、
とある。
小式部にとって母方の祖父の家系である大江家は、阿保親王を祖先とし、代々、漢学を学として朝廷に仕えていた家柄であった。
祖母は、介内侍の女房名で呼ばれ、太皇太后宮昌子の乳母を務めていたようである。祖父は、昌子の大進であり、この縁から祖父母は出会ったのであろう。
こうした環境から、母も御許丸(おもとまる)という幼名で昌子内親王に仕えたことが察せられる。やがて、和泉守と昌子の権大進を兼ねていた父の橘道貞と結婚し、長徳二年(九九七)に小式部自身が生まれている。
さすが学識者によって、累代の天皇や中宮に奉ることを前提に著された書物であったが、これだけでは自分の家柄が解っただけで、自分の母の人となりを学び、そこから自分が何者なのか知りたい、という当初の目的を果たしたことにはならない。
もっと父母の足跡を知らなければ……しかし、どうやって……小式部が行き詰まりを感じたとき、背後に人の気配がし、振り返ると、祖父の大江雅致が立っていた。
雅致はひょろりとした長身で、老いてなお、瞳には学問を探究する者らしい澄んだ光が湛えられている。
「小優香、おとうさまが……亡くなったよ」
祖父は、言葉を選び取るように、ゆっくりと橘道貞が亡くなったことを小式部に告げた。雅致は母を勘当して久しかったが、孫娘には優しく、三条の邸に住むことを許している。
「……えっ……」
小式部は、息を呑むと、言葉を詰まらせた。橘道貞は、小式部が物心つく前に既に母と別れていたため、小式部の胸の中では父親の存在自体、薄かったが、それでも過去の記録から父の名を見つけ、輪郭をつかみかけたそのときに訃報が届けられたのだった。
小式部は冷然と突き放されたような衝撃に、言葉を失った。
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平安歌人で著名な和泉式部の娘・小式部を主人公に据えた恋愛小説の新展開です。
藤原教通に識者の著書の写しを頼んだ小式部は、自分の家柄を学ぶことができますが、そのとき思いしなかった訃報が届きます。