カコオン、と鹿威(ししおど)しの音響が生じる中、俺……近藤一成は和室に正座していた。俺の正面には、和服を着た壮年の男が同じく正座をしている。彼は千早正造氏、今年で五十歳になる千早家の大黒柱。そして俺の義父(とう)さん……になる予定だ。……だよね? いや、なって欲しい。でなきゃ、何のためにこうして会いに来たか分からない。
千早家は過去何百年にも渡る、由緒正しい旧家らしい。なんでも、血筋を遡れば将軍筋までいくとか。……だが、そんな事関係ない。俺は千早ひろみさんが好きだ。ひろみさんも俺が好きだ。そこに身分の差なんてない。あるのは、確かな俺達の愛だけ。だから俺は全力でこの男、正造氏を説き伏せるんだ。
初めて対面した時から、正造氏は黙っていた。最低限の挨拶は返してくれるものの、後は難しい顔をして一向に話そうとしない。ひろみさんはというと、今はこの場から去ってもらっている。正造氏が、「一対一で話し合いたい」と払ったのだ。しかしひろみさんが去ってから、こうして向かい合っているだけでどれほどの時間が経ったのだろう。三十分かもしれないし、一時間かもしれない。慣れない長時間の正座も苦痛だが、このいたたまれない無言の時間はもっと苦痛だった。掛け軸の鷹までがこちらを睨んでいるような気がする。早く帰りたかったが、ひろみさんとこれ以上の関係になるには、嫌でもこの父親と分かり合わなくてはいけない。
気の遠くなるような無言の末、ようやく正造氏は口を開いてくれた。
「近藤……一成君、だったね?」
「は、ひゃい!」
突然名前を呼ばれたので、声が裏返ってしまった……。だが正造氏はさして気に留めた様子も無く、腕を組んだままこちらを見据えてきた。
「ひろみから話は聞いているよ。明るくて、元気の良い青年だという……。成程、まさに聞いていた通りのようだ。いつもひろみと仲良くしてくれているそうだね?」
眼鏡越しに、正造氏は俺を覗き込んでくる。
「はい、そうです」
「……そうか。思えば君と付き合いだしてからなのだろう、あの子は我が家でもよく笑うようになったよ。その事については、礼を言おう」
……これは、ひょっとして案外うまくいくんじゃないだろうか? 俺は内心の喜びを抑えつつ、礼を返す。しかし、正造氏の次の言葉は俺を凍らせた。
「――だがな。おかしな事に、ひろみと君が付き合っている、と私が知ったのはつい昨夜なのだ。それも、玄関先で君達が抱き合っている姿を見て、初めて知ったのだよ……。君に、私の胸中が分かるかね……?」
正造氏の目は全く笑っていない。これは本気で怖かった。だが俺だって、昨日の事を言われるのは覚悟している。いくら罵られようと、この頑固そうな親父さんに誠意を見せるために、俺はこうしてここに座っているんだ。ここで引いちゃいけない。俺は今、試されているんだ……!
「俺達が隠れて付き合っていたのは謝ります。……でも、俺達は本気で愛し合っているんです」
「…………」
「お願いです、ひろみさんを俺に下さい!」
沈黙が、場を制した。
俺の心臓は早鐘を打ったように鳴り続けている。正造氏は何も語らぬまま、腕を組んでこちらを見ていた。……どうなんだ。俺の直球、正造氏に通じるか……?
十秒……二十秒……三十秒……。沈黙は続く。全身が張り裂けそうになるくらい、俺は正造氏を見つめた。肌がピリピリする。手の平に汗が滲む。呼吸をする事さえ、苦しい。正造氏の放つ威厳が――重い。
再び、鹿威しの音。その余韻が消える頃、正造氏は言った。
「――ならん。君のような男に、ひろみはやれん」
その言葉は、死刑宣告に等しかった。俺はショックで一瞬気が遠くなったが、次の瞬間には怒りと焦燥が沸いて来た。
「そんな! 確かに俺は浮ついたところがあるかもしれません。でも、俺はひろみさん一筋です。浮気なんか絶対しません!」
「そんな程度で済む話はない。第一、君ではひろみに釣り合わんし、社会に何を言われるか分からん。ひろみには、相応しい相手を私が見つけてやる。……近藤君。君にはお引取り願おう」
そうか、俺じゃ身分違いだと言いたいのか……!
そう思った瞬間、俺は憤怒で目の前が真っ暗になった。相手がひろみさんの父親という事も忘れ、気付けば正造氏の胸倉を掴んで叫んでいた。
「ふざけるな! 身分違いの恋のどこが悪い! 俺はひろみさんを愛してるんだ。そして、ひろみさんも俺を受け入れてくれている。これ以上、何が必要だって言うんだ? 金か、地位か、学歴か? そんなもん、くそくらえだ! ああそうさ、俺は三流大学出身だし低収入だよ。だからどうした。あんたが何を言おうと、俺はひろみさんを養ってみせる。幸せになってみせる! いいか、一般市民を舐めるなよ……!」
俺は正造氏から手を離し、荒い息をついた。
……やっちまった。
どんな父親でも、こんな事をされれば二度とそいつに敷居をまたがせないだろう。けど、今の俺に不思議と後悔は無い。この馬鹿親父に一矢報いただけでも、晴れやかな気分だった。
……そうさ。正造氏に認められなかったからと言って、それが何だって言うんだ。この際、ひろみさんと駆け落ちするのも悪くない。ここを離れて、二人で北海道にでも行ってみようか?
そんな事を考えていると、正造氏が話しかけてきた。
「……君の、ひろみに対する想いは良く分かった。けれど、本当にそれは本物の想いなのか? 確かめさせてもらおう」
座りなさい、と正造氏は俺の前に居座った。……正直、俺は驚いた。このまま追い出されるかと覚悟していたが、まだ話を続けられるとは。正造氏は案外話の分かる男なのかもしれない。俺は再び彼と相対する形で座った。
「まず、君はひろみを好きと言うが、ひろみのどんなところが好きなのかね?」
「……一言じゃ言い表せません。愛って、そんなものでしょう? 強いて言うなら、ひろみさんの優しくて、清らかで、それでも芯の強い部分に惹かれました」
「君達二人がたとえ一緒になろうとも、周りは反対するかもしれない。……事実、私は反対だ。そんな時、君ならどうする? それでもひろみの事を愛せるのかね?」
「当然です。どんなに反対されようと、俺の気持ちに変わりはありませんよ。周囲の意見に押し潰されるようなら、それは本当の愛とは言いません」
「……そうか。君の気持ちは良く分かった」
正造氏は一息つき、どこか遠くを見るような目で続けた。
「ひろみはな、私と妻の間にようやくできた、大切な子供なんだ。ひろみを宿した時の妻の涙を見て、美しく健やかに、そして自由な意思を持った子に育って欲しいという意味を込めて『ひろみ』という名前にしたんだよ。……ひろみが生まれてから、私はあれを目に入れても痛くないほど可愛がってきたつもりだ。……その大切な、大切な我が子を君は奪おうとしているんだ。分かるかね? 君がしようとしている事はそういう事なんだ」
正造氏は本当に寂しそうだった。……そうだよな。俺はひろみさんを彼らから引き離そうとしているんだ。正造氏が反対したくなる気持ちも、少し理解できるように思えた。
「……正造さんの言いたい事は分かります。でも……」
「何も言わんでくれたまえ。この気持ちは、父親にならんと分かるまいよ。ひろみを嫁にやりたくない。エゴと呼ばれようと、頑固親父と呼ばれようと。……こんな日が来るなど、思いもしなかった」
「お父さん……」
「君に父と呼ばれる覚えはない」
にべもない。
「だが、君の熱意には負けたよ。私からはもう、何も言うまい。妻の君代も君が納得させたら、後は好きにすればいい」
俺は自分の耳を疑った。まさか、本当に正造氏が許してくれるなんて!
「ほ……本当ですか!」
「うむ。男子に二言は無い」
「あ……ありがとうございます。お父さん!」
「だからまだ父ではないと言うに」
さて、後はもう一押しだ。正造氏の奥さんの許可も貰えば、俺とひろみさんは晴れて両親公認のカップル。そして結ばれる日までまっしぐらだ!
数時間後。俺は先程同様、正造氏の奥さん、君代さんと正座で向かい合っていた。ただ、今の俺の隣にはひろみさんが座っている。君代さんは俺とひろみさんの三人で話し合いたい、という事らしい。俺としては助かる話だ。一人よりも、隣にひろみさんがいた方がずっと安心する。
隣を向くと、ひろみさんが笑って元気付けてくれた。やっぱり、ひろみさんは可愛いなぁ……。
その一方で、君代さんは啜っていた茶を置いて切り出した。
「まず始めに言っておきますが、私は貴方達の交際を認めるつもりは一切ありません。夫がどう言い負かされたか知りませんが、私は自分の意見を曲げるつもりはありませんよ」
いきなり手厳しい。俺がそれに何かを言うよりも早く、ひろみさんが先に反発した。
「そんな、お母さん……!」
「黙らっしゃい」
ぴしゃりと言われ、その剣幕にひろみさんは黙り込んでしまった。これは強敵だ……。
「それに、何なの貴方は? 確か近藤さんと仰ったかしら」
「はい、そうです」
「貴方……正気なの?」
君代さんは心の底から心配そうに俺を見る。彼女が何を言いたいのか分からない。俺は至って正気なのに。
「確かにウチのひろみは素直だし、良い子なのは認めます。けれど……」
君代さんは大きく息を吸った。
「――ひろみは男なのよ!?」
だから、それがどうしたというんだろう?
「何か問題でも?」
「あるに決まっているでしょう、男同士で恋愛なんて! おお気持ち悪い、何を考えているの最近の若い子は? しかもひろみはひろみでこんな男を愛しているだなんて、何か悪い物でも食べたの!? 悪い事は言わないわ、早く正気に戻りなさいひろみ。これは何かの間違いよ! そうに決まってるわ!」
君代さんは憑かれたようにまくし立てた。一種のヒステリーだろうか。大切な一人息子がいなくなるので、正造氏同様反対しているのかもしれないな。ここは一つ落ち着いた対応を見せて、君代さんの好感度を上げよう。
「まあまあお母さん、落ち着いてください」
「何で貴方なんかに母親呼ばわりされなきゃならないのよ! 大体、ひろみをたぶらかしたのも貴方でしょ? さっさと息子を元に戻しなさいよ、この悪魔!」
うーむ、錯乱しているな。そんな事を言う君代さんに、ひろみさんが止めに入った。
「やめてよお母さん、一成君はそんな悪い人じゃないよ! 僕達は、一目見た時からお互いに愛し合ったんだ。これは運命なんだよ!」
さすがひろみさん。俺の胸中を察し、言いたい事を全て言ってくれた。やっぱり俺達は分かり合っている。きっと最高の夫婦になれるよ、ひろみさん……。
「キイーッ、お黙り! 嫌よ嫌よひろみが男と結婚だなんて。私はひろみの嫁を見るのが楽しみだったのに、どこをどう間違えば男を選んで来るわけよ!? 我慢できないわ、理解不能よ。これは悪い夢よ、早く目を覚ましなさい私……!」
ついには現実を否定し始めた君代さん。ひろみさんは、そんな母の狂態にオロオロしている様子だ。
「お母さん、どうしてこんなにムキになっているんだろう」
「俺達が愛し合ってるのがどうしても信じられないらしい」
「そっか。なら、僕達の愛を見せ付ければいいんだね!」
「その通りさ。やっぱりひろみさんは賢いな」
「えへへ……。そんな一成君も格好いいよ」
その後、一時間に渡り俺達は君代さんの前で愛の証を見せ続けたが、君代さんは顔を青くするばかりで、最後には泡を吹いて倒れてしまった。うーむ、彼女は持病でも抱えていたのだろうか?
正造氏は黙認し、君代さんは何も言わなくなったので、俺達は晴れて結ばれる事となった。そして訪れる、めくるめく幸せの日々。まずは新婚旅行だ。世界中を旅して周り、最後はラスベガスで結婚式を挙げるんだ。
「大好きだよ、一成君」
「愛してるよ、ひろみさん……」
ベッドの上で、俺達は恋人のキスを交わす。
さあ、これから薔薇色の未来が待ち受けているぞ!
色々とおしまい
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愛する人と結ばれるため、恋人の親に頭を下げる男の話。