許都。
豫州・頴川郡、許昌がもともとの地名である。
一地方都市に過ぎなかったこの町が都とされたのは、洛陽からの脱出後、曹操の庇護下に置かれた劉協が、亡き(と思っている)姉の後を継いで帝位に就いた後、新たな都として定める勅を発してからである。
曹操本人はこれまで通り、陳留を本拠として活動。青州・徐州を瞬く間に制圧し、いつの間にか死んでいた張譲の支配下にあった洛陽も、その支配下に置いた。
その張譲の死の知らせをもたらしたのは、最近劉協の側近として台頭してきた、司馬仲達という女だった。
青・徐、二州の制圧と、洛陽制圧も、その仲達という女の献策で、劉協からの勅として、曹操に命じられたものだった。
そして、ある日のこと。
「麗羽が宣戦布告、ね。ふ~ん」
陳留の玉座の間。
この日、曹操の下に河北を支配する袁紹からの、宣戦布告の書簡が届けられた。
「袁紹軍の戦力は二十万とも三十万とも言われています。対してこちらは十万を少し超える位です。少々戦力的に、不安があるかと」
曹操にそう危惧の念を語るのは夏候淵。字を妙才という。旗揚げ時からの曹操の腹心の一人である。
「何を気弱なことを言うんだ、秋蘭!たかだか二倍、三倍の戦力など、私がいればたいしたことはない!」
夏候淵に対し、胸を張って言うのは、片目に眼帯をした女性、夏候惇。夏候淵の双子の姉である。
「脳筋のいう事は放っておくとして。華琳さま、たとえ数は倍以上であっても、士気や練度は決して高くありません。勝算は十分にあるかと」
猫耳のフードを被った少女荀彧が、いきり立つ夏候惇を尻目に、曹操にそう意見を述べる。
「そうね。春蘭のことはともかく、わが精兵を持ってすれば、麗羽なんて大したことはないわ。でもね」
いったん言葉を区切り、立ち上がる曹操。
「何か腑に落ちないのよ。この書簡、書いてあるのはたった一言だけ。『帝に仇なす身中の虫に、天誅を下す』……それだけよ」
「華琳様が身中の虫!?ふざけたことを!!」
一人激高する夏候惇。だが、夏候淵と荀彧、そして、同じくその場に同席していた二人、郭嘉と程昱も、不可解な顔をする。
「ど、どうしたのだ?」
わけがわからず、疑問を口にする夏候惇。
「(姉者は本当に可愛いなあ)……いいか、姉者。袁紹は書簡に、一言も華琳様の名を書いていないんだ。つまり」
「袁紹さんにとって本当に倒したい相手は、華琳様ではなく、別の誰かかもしれない、と。そういうことですよ~」
夏候淵と程昱が、首をかしげている夏候惇に、そう説明する。
「そういうことよ春蘭。だから一度、麗羽と話を」
そこまで言ったときだった。
バタン!と、扉が思い切り開かれ、一人の人物が部屋に飛び込んでくる。
「孟ちゃん、おるか?!都から勅使が来たで!!」
「霞」
その人物は張遼だった。
洛陽からの脱出の際、曹操と共に劉協を連れ出した一人だ。その後、張遼は曹操に帰順し、配下となっていた。
「……随分、間が良いじゃない。……稟、案内を」
「は」
拱手して部屋を出る郭嘉。
そして、勅使がもたらした勅命は、曹操たちの予想通りのものだった。
「逆賊・袁紹を討て」
勅命には逆らえない。たとえ、その裏に誰の、どんな思惑があろうとも。
こうして、世に言う『官渡の戦い』が開始された。
曹操は、最初の舌戦で袁紹の真意を問おうとした。だが、
「お話しすることは何もありませんわ」
袁紹は舌戦に乗ってこなかった。ただ一言だけ言って、全軍に攻撃開始を命じたのだ。
戦の序盤は、戦力に勝る袁紹軍が、有利に戦を展開した。
だが、袁紹配下の許攸という人物が曹操の下を訪れたことで、状況は一変した。
許攸からもたらされた情報により、袁紹軍の食料貯蔵地である烏巣を、少数の兵で奇襲し、焼き払った。それで、戦局は決した。
士気が下がり、逃亡する兵が続出した袁紹軍は、虎豹騎が戦線に加わると、瞬く間に壊滅していった。それを見ていた曹操は、
「……一体なんなのかしらね。あれは」
怯むという事をまったくしない虎豹騎の兵たちに、えも知れぬ不気味さを覚えていた。
その後、袁紹と、その腹心である顔良・文醜の三人は生死不明となり、河北は曹操の支配するところとなった。
袁紹勢の残党狩りには虎豹騎があたる事となり、そのまま河北に駐留することとなった。
「……気に食わない、わね」
帰還の途上、そうポツリとつぶやく曹操だった。
そして、官渡の戦いから数日後。
曹操は劉協からの招聘を受け、許へと参内した。
「臣を魏王に?」
待っていたのは、曹操にとってまったく予想だにしていなかったものだった。
「それだけの功が、貴女にはある。陛下はそう仰っておいでです」
「……」
許の謁見の間。御簾の向こう側に座っている劉協と、その前に立つ一人の女。
司馬懿・仲達。
役職は太博。皇帝の教育係という名ばかりの名誉職。それが本来の役職だった。だが、仲達は実質上の宰相として、劉協のそば近くに仕えていた。
「どうされたのです?まさか、陛下よりの下賜がお気に召さないとでも?」
曹操に問いかける仲達。
「……いえ。余りにも身に過ぎた事ゆえ、恐縮いたしておりました」
そう答えながら、曹操は思った。
(ここに来てから、まだ一度も帝のお声を聞いていない。まさか……)
と、ある疑念が頭によぎったときだった。
「仲達」
「!!」
劉協が仲達の名を呼んだ。
「朕より直に、孟徳に言葉をかけたい。構わぬか?」
「……は」
横に下がる仲達。
「孟徳よ。これまでに至る働き、まことに大儀である。……いろいろと思うところも多々あろう。だが、朕は何より、この大陸に安寧をもたらしたいのだ。姉上が夢見た、争いなき世を。そのために、これからも孟徳の協力が必要なのだ。……よろしく頼む」
御簾の向こうから聞こえた声は、間違いなく劉協のものだった。
「……。陛下の想い、確かに承りました。この”魏王”曹孟徳、必ずや陛下の夢、叶えてご覧に入れましょう」
深々と頭を下げ、そう答える曹操。
そして、それから数日後。
吉日を選んでの、曹操の魏王就任の儀式が執り行われた。居並ぶ文武百官を前に、曹操は声高に宣言した。
「皇帝陛下の御名の下、魏王・曹孟徳はここに宣言する。大陸を平定し、安寧なる世へと導く!我が精兵達よ!奮起せよ!漢に昔日の繁栄を取り戻し、民に安らかなる日々を与えん!」
おおおおおおおおおっっっっ!!
曹操の心には、もはや迷いは無かった。
(陛下のために、全力を尽くす)
そして、その為なら、
(一刀。たとえ貴方でも容赦はしない。陛下の理想を妨げるのなら、貴方を討つこともためらわない)
曹操が南征を宣言したのは、それからわずか三日後のことだった。
一方、江東の地でも騒乱が起きていた。
「許貢が反乱ですって?」
「はい。呉郡と会稽郡の豪族たちに声をかけ、兵を挙げました。その数、三万」
孫堅にそう報告する諸葛謹。
「母様」
「……まずいわね。先の江夏攻めで、大半の船を失ってるから、戦力差以上に不利だわ」
爪を噛み、そう呟く孫堅。
「荊州に援軍を求めるしかありませんね。劉翔、もしくは袁術のどちらかに」
と、周瑜が孫堅に献策する。
「……同盟結んで早々に、か。ま、それしかないね。明命、すぐに襄陽に発って。兵は良いから、船をなるべく多く送ってほしい、と。そう伝えてくれ」
「はい!!」
返事をして部屋を出て行く周泰。
「戦の場所はどのあたりになるかしら?」
孫策が地図を見ながら言う。
「そうだな。荊州からの援軍の速度と、反乱軍の侵攻速度から考えると、……ここ」
地図の一点を示す周瑜。
「……赤壁」
うなずく周瑜。
荊州と江東。それぞれに大戦の嵐が吹き荒れようとしていた。
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刀香譚もついに三十話です。
今回は一刀達が荊州の乱を治め、州牧になっていた頃の、
華琳の話がメインです。官渡に至るまでと、その後。
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