「御主人様…私は…」
腕の中の少女はぐったりと四肢を投げ出し、もはや意識も朦朧にただうわ言のように水…水と呟いている
「此処は…地獄だ」
北郷一刀はやけに着膨れした少女~雛里を抱きかかえたまま目の前の凄惨な光景に絶句し唯立ち尽くしていた
季節は夏
時代が違えど住む場所が違えど世界が違えど
森羅万象『夏』という季節は暑く、むしろ暑いから夏、というか誰だ夏を作ったやつ
「夏の風物詩?」
止め処なく流れ出る汗を拭い、終わりの見えない政務に励んでいた二人はいつしか『夏といえば何か』を互いに
語り合っていた
「天の世界じゃこんな暑いときは如何しているのかなと思って」
右手に筆を持ち、左手に持つ団扇で自身を扇ぎながら訪ねてくる桃香
先程から見ていれば右手と左手の稼働率がえらく偏っている事については不快指数が止め処なく上昇中の政務室
に閉じこもっている事を考慮すれば些か仕方の無い事なのだろうと一刀は額の汗を拭った
「そうだなぁ…やっぱり夏といえば海で泳いだりとか」
「海かぁ…行ってみたいねぇ」
内陸育ちの彼女は当然ながら海を見た事が無い
川で水浴びなどは此処最近の休日の唯一の楽しみでもあり一刀にとってもやはり別の意味も含めて楽しみだったり
するものだが、海まで出向くとなれば一日の休日では到底叶う願いではないだろう
何より
「愛紗が許してくれないだろうなぁ」
「…だねぇ」
連日の猛暑で二人の仕事の効率はあからさまなまでに落ち、処理し切れなかった分を次の日に回してはそれが積み重なり
既に政務室は先日の残りのそのまた先日の残りのさらにそのまた先日の残りの竹簡、書簡が足の踏み場も無いほどに、且つ
天井に到達せんとばかりに組み上げられていた
「…息が詰まりそう」
桃香の溜息に一刀も同意とばかりに頷く
一刀と桃香しかいない政務室ではあるが、二人の処理を今か今かと待ちわびる書類の山は、今にも二人に圧し掛からんとばかりに
当に無言の圧力を此方に向けて放っていた
「あとは夏祭りとか」
目を瞑れば瞼の裏に浮かび上がる屋台の数々、聞こえてくるは囃子の音色
(かき氷食いてぇ)
ごくりと鳴る喉を通ったのは甘く冷たい氷ではなく渇いてむしろ気分が悪くなるような少量の唾
「お祭りかぁ…楽しそうだねぇ」
もはや両手に団扇を持ち扇ぎ続ける桃香の姿に、たとえ祭りを開催した所で仕事を放り出しての祭りなど到底許可は降りない
だろうと半眼で彼女を見つめていた
「変り種な所としては我慢大会とかかなぁ」
「がまん…たいかい?」
ついに机に突っ伏したまま顔も上げずに団扇を力なく扇ぎ続ける桃香だったが聞きなれない単語に
「ご主人様、我慢大会ってなに?」
やはり机に突っ伏したまま尋ねてくる桃香に一刀は我慢大会とは如何なものであるかを説明し始めた。
「へえ…世界には変わった人もいるんだねえ」
一通りの説明を受けた彼女が漏らした呟きはどの世界においても共通の認識だろう
誰が好き好んでこのクソ暑い中でさらに暑さを上乗せしようと思うのか
「だよなぁ」
説明し終えた頃には一刀も同じくして机に突っ伏し、そよそよと団扇を扇いでいた
そこへ
「まるで捗っておりませんな」
ゴゴゴゴゴと黒いオーラを背負った愛紗が部屋の入り口で仁王立ち
「「すすすす、すみません!」」
慌てる二人がそれまで掻いていた汗とは違う種類の汗を浮かべてバリバリと筆を走らす
「まったく…」
どうやらこの調子では今日の分も終わりそうに無い
バタンと扉を閉め、大股で廊下を突き進む愛紗
(これでは休みもとれんではないか)
暑いのはわかる、仕事が停滞するのもわかる…が
ぴたりと脚を止め、政務室へと向き直る
「ただでさえ最近は二人きりにもなれんというに」
自身の呟きを柱の影で聞いていた者がいたことに
彼女は気付かなかった
「というわけで御主人様争奪!第一回!チキチキ我慢大会を開催します!司会進行はこの私!馬岱が勤めさせて頂きます!」
あれから数日、誰が企画したのかわからないが何故か『その日』はやってきた
「だから何で我慢大会よ?」
蝉の声が鳴り響く街の広場、大勢の人だかりを前にして一刀はこめかみを抑えていた
「大会規則は単純!特設会場に作られましたこの小屋の中で誰が最後まで暑さに耐えられるか!?」
蒲公英が指差す先には六畳程の間取りの小さな小屋、中には火に炙られた石に水が掛けられジュウジュウと蒸気をあげ、さながら
サウナ状態だ
「この蒸し暑さにもはや参加する無謀な人間はいるのかと心配もされました!…が!ご覧ください!この死地に自らの身を投げ入れ !我こそが蜀一の勇者であると豪語する挑戦者達の姿を」
「おおおお!」とか「いええええぃ!」とか歓声を上げるギャラリーの視線の先には愛紗、恋、雛里…そして
「何故私が…」
本人の呟きももっともに何故か華雄もそこにいた
「そして最後まで残った勇者には豪華景品!御主人様との甘くて熱々な夜を過ごせる権利が授けられます!」
それまでの歓声が一変、ギャラリーから地響きのようなブーイングやら罵声やらが一刀に向けられ
「ふざけろー!」
「死ねええぇ!」
「ジーク・かずとおぉ!!!」
…何か変なものも混じっていたが
「…何このアウェーな空気」
たは~と溜息をつく一刀
「しかし愛紗までこんな事に参加して」
てっきりこんなくだらない事してないで働けと怒られるものだと思っていたのだが
「それだけ主と共に居たいのですよ」
「…星?」
いつのまにやら酒瓶とメンマを盛った皿を手に一刀の横に陣取る星
「此処暫く政務、政務でまともに相手もされませんでしたからな」
トクトクと杯に酒を注ぎ喉に流し込んではぷは~と息を吐く
「ぼちぼち皆の欲求も溜まって来たところ…主との密な夜をとな」
トンと頭を一刀の肩に寄せる
「健気ですなぁ」
ふふふと笑うとメンマを一撮み口に放り込む
「そういう星は…参加しないの?」
皿に盛られたメンマに手を伸ばしひょいと摘み上げながら尋ねる一刀に星は悪戯っぽく視線を向け
「私はあのような物に参加せずとも何時でも主の下へと馳せ参じる所存故」
器用に片目を瞑りにやりと口の端を吊り上げる
「しかし主がそこまで私と共に閨を過ごす事を希望されるとは…女冥利に尽きるというものですな」
嬉しいやらなんやら
深い溜息を吐いた一刀だった
そして
地獄の始まりを告げる銅鑼が鳴った
~開始十分経過~
「あちゅいでしゅうう(暑いです)」
早くも呂律の回らなくなった雛里がグルグルと目を回しユラユラと頭を揺らしていた
小屋に入った彼女達は普段の服に加え、更に四枚着重ねる義務が大会規則によって定められている
全身から吹き出る汗は蒸発する事も許されないままに服へと吸われて行き、暑く、重く参加者へと圧し掛かっていく
唯一さらけ出されている顔には大量の汗が浮かび絶え間なく頬を伝い顎から落ちていく
「情けないぞ雛里、まだ始まったばかりではないか」
そう言って激を飛ばす愛紗だが、言葉を発すれば否応にも口に吸われる空気の熱が舌の上を踊り、苦虫を潰したように
顔を顰めた
その姿に「ふっ」と白い歯を見せて笑ってみせる華雄
「さすがの軍神もこの暑さの前にはいつもの気概が感じられんな」
くくくと喉を鳴らし愛紗を挑発する
「…なんだと」
こめかみをぴくぴくと引くつかせ華雄へと向き直る愛紗
「そういう貴公こそ既に顔が真っ赤ではないか?」
ふふんを鼻を鳴らし仰け反る様に胸を張り華雄を見下ろす
「やせ我慢はよして表へ出たらどうだ?貴公が一番に逃げ出したところで誰も不思議には思わんだろう」
「言ったな貴様…天の御使いなど興味もないが、貴様なぞに負ける私ではない!」
その間も互いの顔をだらだらと汗が流れ、足元へと水溜りのように溜まっていく
「ふん!どうした汗が洪水のように吹き出ているぞ、限界ではないのか?」
愛紗の挑発に華雄は焼け石が積まれている囲炉裏へと歩き出す
「限界?まさか?」
そういって近くの水瓶から柄杓を使って水を掬うと
「むしろ寒すぎるくらいだ!」
叫ぶと同時に焼け石に水を掛ける
ジュシャアァ
もくもくと上がる蒸気と共に小屋の温度は更に上がり
「あわわわわわわわわ」
「っ!?」
目を見開く二人を他所に華雄は柄杓でトントンと肩を叩き
「…う、うむ!ちょ丁度いいくらいか?」
満面なんだか蒼白なんだか良く解らない表情でまた中心へと戻ってきた
直後
「暑い…出る」
それまで部屋の隅で膝を抱えていた恋がつかつかと扉へ向かって歩き出したかと思えば
「…じゃ」
此方へとフルフルと手を振り、躊躇なく外へと出ていく
「「「!?」」」
「おーっとここで驚く三人を他所に外へ出た恋選手!」
そして小屋の隣に作られた溜池へと
ドボン!
「そして救済の泉へと跳躍!これは気持ちがよさそうだ!」
暫くして
「ぷはぁ」
水面から顔を出し救済の泉から乗り出すと徐に服を脱ぎだす
「「「「「「おおおおおおおおおおお!!!!」」」」」」
周りからは喝采と指笛
裸まであと一枚というところで恋の下へと躍り出る影
「恋殿~お疲れ様だったのです!」
絶妙のタイミングで恋の身体にタオルを巻きつけるねね
「「「「「「うああああああああ!!!」」」」」」
ギャラリーの歓声が悲鳴と溜息に変わった瞬間だった
「恋、おいで~」
一刀の手招きにトコトコと駆け寄るとその膝に頭を乗せて寝転ぶ恋
未だ水の滴る身体を団扇で扇いでやり
「どうだ~気持ちいいだろ?」
「~♪」
ゴロゴロと喉を鳴らして風で冷えていく身体を丸める
その最中も一刀は恋に向けて団扇を扇ぎ続けてやるのだった
…その様子を
「「「ごくり」」」
大きく息を呑み、睨み付ける様に見つめる三人だった
そして互いの顔にはっと気付き
「は!天下の飛将軍も大した事は無いな」
「ま、まったくだ」
「…はい」
~四十分経過~
「さてここでお腹も空いてきたであろう三人に天の料理の差し入れです!」
「はひ?」
「なんだと?」
「天の料理?」
もはやしどろもどろな三人の篭る部屋になにやら月が鍋を持ってやってくる
なにやらグツグツと煮立つそれを三人が覗き込めば
「御主人様のいた世界での我慢大会における鉄板料理!その名も…おでん!!これを一番最初に食べきった方が優勝です!!」
「「「…うそ」」」
「一人一品ですから…食べてくださいね♪」
そういって鍋の中から具を盛る月
愛紗にはジャガイモ
雛里には大根
華雄にはゆで卵
椀に汁ごと盛られた具は如何にも危険な具材
「こ、これを…」
「この場で…」
「食べるでしゅか?」
椀を持つ手がぶるぶると震え、体中の水分が決壊したダムのように溢れ出る
「へう…御主人様に教えて頂いて愛情込めて作りました♪」
三人に負けじと汗をだらだらと流すも満面の笑みの月
(((殺す気だ)))
目の前の少女の笑みに首筋が何故かこの状態にも拘らずひんやりとした風が走った気がした
しかし
(ま、負けられぬ)
(ここで諦めたら試合終了だ)
(これを食べたら私の勝ちこれを食べたら私の勝ちこれを…)
思い思いにこの勝負への意気込みを再度燃やし
「御主人様…私に力を!」
「えええい!ままよ!」
「これを食べたら私の勝ちでしゅう!」
三人同時に口の中へと放り込む
そして
最初に響いたそれは悲鳴だったのかそれとも雷鳴だったか
会場にいた誰もが見たのは
突如小屋の壁が吹き飛んだと思った瞬間
「ぎゃああああああああああああああああああ」
「ぐあああああああああああああああああああ」
小屋の壁の両側から飛び出してきた二体のそれが
会場のありとあらゆる物を吹き飛ばし
人に壁に
何にぶつかろうとも止まる事無く
突風の様に駆け巡る謎の何か
迫ってきたと認識したときには既に遅く
「うあああああああああああ」
ある者は上空高く打ち上げられ
ある者は会場の端から端まで吹き飛ばされた
「…う、うう」
最初に目を覚ましたのは一刀
彼の目の前では未だに二匹の獣が奇声を上げて会場内を所狭しと駆け巡っていた
足元を見れば
「雛里!?しっかりしろ!」
抱き上げるも一刀の声にも反応しない雛里
「御主人様…私は…」
腕の中の少女はぐったりと四肢を投げ出し、もはや意識も朦朧にただうわ言のように水…水と呟いている
「此処は…地獄だ」
北郷一刀はやけに着膨れした少女~雛里を抱きかかえたまま目の前の凄惨な光景に絶句し唯立ち尽くしていた
そしてその被害はいつしか街中に及び
街の復興の為に一刀は紅葉の季節まで休む間もなく働き詰めることになったという
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執筆・ねこじゃらし
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