天幕の外が、騒がしかった。攻めてきたという曹操軍が、とうとうここまで来てしまったのだろうか。
(怖い……)
天和は小さく震えた。虚ろな眼差しに、妹たちの姿が映る。
歯車が狂いだしたのは、どこからだったろうか。最初は、時々意識が途切れるものの、楽しく歌を唄えたのだ。聴いてくれる人も増え、少ないながらもお金を手に入れることができた。
(気が付くと、朝廷に不満を持っている人たちが集まっていたんだよね……)
そして、自分たちが祭り上げられた。それでもまだ、制御が可能だったのである。自分たちの話を聞いてくれたし、純粋に歌が好きだという人もいた。それが変わっていったのは、あの男が現れてからだ。
(あの『太平妖術』っていう本をくれた人……いつの間にか、付き人になっていた)
ガラの悪い男たちが集まり、オークが護衛してくれるようになる。一日の半分は、眠ったように意識がなく、目が覚めても朦朧とする日々が続いた。そして、絡繰り人形のように決められたことをただ繰り返すだけになって、自分の意志で体が動かなくなっていったのだ。
(唄うことも出来なくなって、天幕に籠もって生活する日々になった。何が起こっているのかもわからなくて、ただ、身の回りが慌ただしく変化するのを呆然と見ていることしか出来ない……)
逃げることも、抗うことも、ただ空虚な日々に呑まれてしまった。暗い闇のようなものが、心の中に生まれて不安と恐怖を煽ってゆく。
(私たち、曹操軍の人に殺されちゃうのかな……)
捕らえられ、大勢の見守る中で処刑されるのかも知れない。考えただけで、天和は怖くて泣きそうだった。
(嫌だよ、そんなの。誰でもいいから、助けてよ!)
強く、強く願った天和の心に、彼の笑顔が浮かんだ。
(そうだ……あの時だって、何もかも諦めていた私の前に現れたんだよね。別れる時に約束したもん。お願い、助けて! 一刀!)
心の叫びが、一筋の光を示す。そして――。
趙雲がオークたちを蹴散らしたその隙に、一刀は天幕へと飛び込んだ。
「とーっ!」
気合いの声と共に飛び込んだ天幕には、懐かしい三人の姿があった。
「天和! 地和! 人和!」
笑顔で呼びかけた一刀は、三人の様子に気が付いて顔を曇らせる。虚ろな目はこちらを見ているが、感情のようなものが何も映っていない。
「いったい何が……」
呟いた一刀は、まるで影のように潜む男に気が付いた。黒装束の、痩せた男だ。
「その姿、洛陽で見た。そうか、お前が!」
両手の剣を構え、男に飛びかかろうとする一刀の前に、張三姉妹が立ちはだかった。
「みんな!」
呼びかける声も届かず、天和が両腕を大きく左右に振った。すると、鎌鼬のような鋭い空気の刃が、一刀に襲い掛かった。寸でのところで横に飛ぶその背後で、天幕が切り裂かれる。
そして続けざまに、今度は地和が腕を振るとつぶてが無数に飛びかかった。
「くっ!」
剣で打ち落としながら距離を開けると、続いて人和の攻撃が襲い掛かる。周囲の木々がざわめき、四方八方に伸びた枝が生きているようにうねりながら、一刀を捕らえようと近付いて来たのだ。
一刀は身をひねり、宙に飛ぶ。だが空中で待ち構えていた天和が起こした突風により、一刀は積まれていた木箱の山に激突した。
「一号!」
「かず……一号!」
趙雲と、思わず名前を呼びそうになった恋が駆け寄る。切り裂かれた天幕から空中に浮かび上がった張三姉妹と黒装束が、その様子を見下ろしていた。
瞬間移動のような素早さだった。趙雲と恋に支えられ立ち上がった一刀に、天和が迫る。両腕に風の刃をまとわせて、一刀の首を狙い襲い掛かってきた。咄嗟に反応した趙雲と恋がそれぞれ受け止め、反撃を仕掛ける。
右から趙雲、左から恋が勝利の一撃を放った。だが――。
「なっ!」
「あっ……!」
天和の首筋ギリギリで二人の攻撃を受け止めたのは、なんと一刀だった。
「手を出さないでくれ!」
痛みに顔を歪めながら、一刀は二人に言う。
「だが!」
「頼むよ……」
反論しかけた趙雲は、一刀の真剣な眼差しに深い溜息を吐いた。
「そんな顔をされては、何も言えないだろう」
「ごめん」
「まったく……それならば、我らはあの黒装束を相手にしようか」
趙雲が、黒装束に向かって跳ぶ。
「…………大丈夫?」
心残りがあるように一刀を見て、恋が首を傾げる。安心させるように頷いた一刀は、趙雲を追って黒装束に向かった恋を見送ると、改めて張三姉妹と対峙した。
「絶対助けてやる! 来い!」
絶叫する一刀に、天和の烈風、地和のつぶて、人和の樹木が襲い掛かった。
天変地異の前触れのように、風が切り裂き、巨大な岩が転がり、森が生きているように蠢いている。華琳は自分の目を、思わず疑った。
「何が起きているの……」
常に冷静な彼女も、さすがにこの事態には動揺を隠せないでいる。
「華琳様!」
隣にいた桂花が、空中を指し示す。視線を向けると、そこには三人の女性が宙に浮いていた。そして彼女たちが腕を振るたびに、異変が巻き起こっているようだった。
「妖術使い!」
「あれが黄巾党の党首たちでしょうか……いったい、何をしているの?」
呟きながら、桂花は三人の視線の先を辿っていく。そしてそこに、仮面を付けた男の姿を見つけた。華琳も気付いたのだろう、隣で息を呑む気配を感じた。
「あれは――」
「……北郷!」
思わず叫んだ桂花は、慌てて口を押さえて華琳を見る。
「桂花……」
「あ、あの華琳様」
「あの男を知っているのね?」
「いえ、あの……」
「北郷というのは、天の御遣いの北郷一刀のことなの? 言いなさい、桂花!」
覇王の激しい気迫に、桂花は身を強ばらせて何度も頷いた。黙っていたことを、怒られるのだろうか。いつもならお仕置きを楽しみにする彼女だが、今の華琳は何よりも恐ろしかった。言い訳を必死に考えていると、突然、華琳が笑い出した。
「ふ、ふふふふ……」
「か、華琳様?」
最愛の主は、どうしてしまったのか。不安げな面持ちで見つめる先で、華琳はしかし最高に気分が良かった。
(そう、そういうことなの。覇王の私が求めた天の御遣いと、少女の私が求めたあの男が、同一人物だったなんて! 悩んでいたのが馬鹿らしいほど、単純な答えだったのね! なら、後は簡単なこと)
「桂花!」
「はい!」
「この騒ぎで城壁が崩れたわ! 総攻撃を仕掛ける! すぐに伝令を出しなさい!」
指示を出す華琳のもとへ、孫策が現れた。
「曹操! 私たちも出るわ!」
開口一番、曹操にそう宣言する。
「じっとしていられないのね?」
「当然でしょ。私、あいつらと戦いたいの」
孫策の視線の先には、張三姉妹と一刀の姿があった。
「許可するわ。ただし、あの変な仮面の連中は殺しちゃだめよ。黄巾党の方は出来れば生け捕りにしてちょうだい」
「善処するわ」
苦笑を浮かべた華琳は、ただ一点を見つめる。
(北郷一刀……もう、逃がさないわ)
曹操軍のドラが鳴り、総攻撃が始まった。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
とうとう始まった最終決戦。黄巾編の終わりも近いはず!
楽しんでもらえれば、幸いです。