その男はいつも汚れた作業着にベレー帽を目深にかぶっていた。
無精髭に乱れた髪、猫背で歩くその姿は浮浪者と間違えられても仕方がないものだった。
「ゼンさん!今日はどこにつれてってくれるの?」
幼い子供たちがその男に尋ねる。
無邪気な笑顔に『ゼンさん』と呼ばれるその男はゆったりとした口調で言葉を返す。
「よし、山へ行こう。クワガタムシを獲るんだ、カブトムシもいるぞ」
子供たちから歓声があがった。あちこちで昔獲った虫の自慢話が始まる。
そんな自分の武勇伝のない子供たちはゼンさんを頼る。
「ゼンさんゼンさん!のこぎりくわがたもいる?」
「ああ、いるとも。いっぱい獲れる秘密の場所を教えてあげるよ」
「やったぁ!はやく行こうっ!」
警戒心を持たない子供たちはいつもその男と一緒だった。無邪気に山を駆け巡り、木を上り、そして笑った。
みんなゼンさんが大好きだった。
「・・・ああ、夢か、」
私はゆっくりと体を起こした。
見回してもそこに野山などはない、ただ雑然と並ぶ建売住宅の一軒。ウサギ小屋にたとえられる狭い敷地に立てられた小さな家。
それをさらに細かく区切った一室のベッドの上だ。
セミダブルのベッドには私一人が寝ていた。
妻は朝食の準備にキッチンにでも行ったのだろう。
私もベッドから降りると三歩でたどり着く窓をあけた。
「こんな狭い部屋にベッドなんて必要ないのにな」
ため息混じりに空を見上げる。隣との隙間が一メートルとない窓からはお零れ程度の朝日が差し込んだ。
「こんな家のために後何年働けばいいのか・・・」
見栄のために無理なローンを組んだ家も、今ではただの足かせに過ぎない。現実は幸せとは程遠い生活。家庭の中で笑顔を見たのはいつの事だったろうか?
今日の仕事は気が重い。しかし落ち込んでいる訳にも行かない。
生きていくしかないのだ。今、この時代に。
私は大きく深呼吸をすると準備を整えてリビングへと降りた。
リビングにはすでに冷め切ったトーストと卵焼きが並んでいた。キッチンに妻の姿はない。
分かっている、娘を学校に送っていったのだ。たかが小学校に余分な金を払ってまで有名私立に入れる必要があるのだろうか。
公立の学校ならば歩いても十分とかからない距離なのに、わざわざ毎日一時間の道のりを車で送り迎えなどばかばかしい。
やれ塾だ、やれ習い事だと駆け回り、遊ぶのは夜中に部屋でのテレビゲーム。今と昔は違うのだ。そう言ってしまえばそれまでだが、何かが足りない。
もっともその何かは今の私には分からなかった。でも、あの人になら分かるのではないだろか?
ゼンさん・・・
私は堅くなったトーストをかじりながら、今朝の夢を思い出していた。
親たちはゼンさんを嫌っていた。
今考えれば至極当然のことだ。あんな浮浪者まがいの男に子供がついていくのを親が喜ぼうはずもない。一人の娘を持つ親になって私もあの時の両親の気持ちがわかる気がする。
そういえばゼンさんは今どうしているのだろう?
成長するにしたがってゼンさんとの記憶は薄れていく。子供から大人に代わっていくに従い、私の心の中からゼンさんは消えていった。
今でこそ早く大人になりたかった子供時代を懐かしく思うが、戻りたいと願ってももう戻ることはできない。
ここまで流され、社会という鎖にからめとられた私に自由はない。
一口だけかじったトーストを皿に戻すと私は家を出た。
今日の仕事は森林の開発。私の育った町のあの山。ゼンさんと登りクワガタを獲ったあの山を切り開いて住宅地にするのだ。
町は変わっていた。
見渡す限りに広がっていた田畑は住宅と化し、魚をとって遊んだ川には汚水が流れ、危険防止のための高い柵でふさがれていた。
走って遊んだ丘もない、高い枝の上で夕日を眺めた樹も今はない。
ここは違う世界になってしまったのだ。
私の心に寂しさが浮かぶ、だが逆に少し安心している自分にも気づく。私もこれから山を開くのだ、思い出を壊し新しいものを作り出さなくてはならない。
それも、ここまで変わってしまった町なら罪悪感も薄らぐと言うものだ。こんな昔の面影もない町なんて、ゼンさんのいないこんな町なんて。
私は工事現場となる山へと向かって歩いた。
住宅地を出てまもなく舗装もされていない山道へと出た。この道は見覚えがある。ゼンさんが教えてくれた「秘密の山」に通じる道だ。
そう、大きく傾いたコナラの木の脇を通り、背丈ほどの笹をくぐり抜けるとそこは大きく開けた虫たちの社交場があるのだ。
スーツが汚れるのも気にせず私は記憶をたどって山を分け入った。そこで私は、もう二度と合うことのないと思っていた人物と再び出会った。
ゼンさんは少しも変わっていなかった。
昔と同じ汚れた作業服にベレー帽といういでたち。
ただ違うのは杖をつき足を引きずってること、そしてかなりやつれて見えることだった。
「ゼンさんっ」
駆け寄る私にゼンさんは不思議そうな表情を見せた。そんなゼンさんに私が答える。
「私はこの町で育ったんです。ゼンさんは覚えていないかもしれないけど、この山で虫を取ったり川で遊んでもらった子供の一人だったんです」
私の言葉を聞くとゼンさんは悲しそうな顔で語り出した。
「もうここに川はない、丘もない、もちろん虫たちもいない。あの川は私の足だった。丘も木も草も花も虫も、すべてが私の体の一部だった。
私にはもうこの山しか残っていない。しかしここももうすぐ無くなる。私はここを離れるつもりだ。山があり、きれいな川の流れるところに行こうと思う。君も行こう。また一緒に山で遊ぼう。クワガタだって捕まえてあげるよ」
ゼンさんは震える手のひらを私に差し出した。
昔のように・・・昔はよかった、ただ遊んでいれば良かったのだから。しかし今は違う。私はもう大人になってしまった。
「だめですよ、ゼンさん」
私はゼンさんの手を押し戻していた。
「私はもう大人だ、ただ遊んでいれば良かった子供時代とは違うんです。私がこの山に戻ってきたのは懐かしくなったからではない。私はこの山を開発しに来たのです」
ゼンさんの目が大きく見開かれ、私を見た。心の中まで見透かすようなその瞳に私は恐怖を覚えた。しかしゼンさんは不意に元の悲しい表情を浮かべ私に言った。
「おまえも時代に流された犠牲者か・・・」
ゼンさんの言葉は私を、いやこの時代に生けるもの全てを哀れんでいるように聞こえた。
「すきにするがいいさ、山を拓くなり潰すなり勝手にやればいい。しかし、私の大切なものを壊すのだから、私もおまえの最も大切とするものをいただくよ。もう二度と会うことはないだろう、昔の友よ」
ゼンさんは杖をつきながら町へと降りていった。私はその場に立ち尽くしたまま、涙でぼやけるゼンさんを見送ることしかできなかった。
次の日から山の開発は始まった。
伐採の指揮をとり山を拓くたび、はじめ痛んだ胸も気になら無くなっていった。仕事に没頭することで全てを忘れようとしたのだ。
山は日に日にその姿を変えていった。そして全ての木々が消え去った後には、細かく切り分けられたウサギ小屋のための敷地が完成した。
その夜、家に帰った私は何年振りか妻に出迎えられた。
しかしそれは夫の帰宅を迎える顔ではない。
私が「ただいま」を言う暇も与えず、妻はわめき散らすように訴えた。
気持ちばかりあせって分はめちゃくちゃだったが、要約すると言いたいことはこういうことのようだ。
いつもなら8時には塾から帰宅するはずの娘が9時になっても戻らなかった。
塾に連絡するととっくに帰ったという。慌てて警察に連絡し調べてもらうと、家の側で浮浪者風の男と話していたと言う目撃証言を最後に消息を絶っていた。
警察でその浮浪者風の男を重要参考人として足取りを追ってくれているが、一向に行方はつかめていないとのことだった。男の特徴は作業服にベレー帽、足が悪いらしく杖をついていたのだという。
私の一番大切なもの、その言葉を聞いたとき一番に考えるべきだった娘のことを私は忘れていた。 もう自分は父親失格なのかもしれない。
私にはもう娘は帰ってこないことが分かっていた。隣には涙を流し震えつづける妻の姿がある。私は妻の肩をそっと抱いたが、その行為は傍目に見たらいかにも芝居がかって見えたことだろう。
あの事件から一ヶ月が過ぎた。狭いと思っていたこの家も一人で住むには広すぎるようだ。あまりにも娘の行方に無関心だった私に腹を立て、半月前妻はこの家を出た。彼女は今も娘を探しているようだが見つける事はできないだろう。
私はこれで良かったのだと最近考えるようになっていた。あの娘は私たちに育てられても本当の幸せには出会えなかっただろう。
私と同じように時代に流されるだけだった。しかし、ゼンさんは違う。あの人なら信じることができる。
娘には流されてほしくはなかった。
もっと自由に楽しいことだけを追いかけてほしかった。
私は食べかけのトーストを皿に戻すと出発の準備をはじめた。
首にネクタイを巻き、ゼンさんの言葉を思い出していた。
『おまえも時代に流された犠牲者か・・・』
静まり返ったウサギ小屋に椅子の転がる音だけが大きく響いた。
一度流されたものは最後までたどり着かねばやり直すことはできない。川を下った雨粒が大海から空に帰るように。
誰にも食べられることのなく、食べかけのトーストは皿の上でその温度を下げていった。世界はいつもと変わらない、ありふれた朝が始まっていた。
END
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幼い頃あそんだ故郷。
大人は嫌な顔をしたが、子供たちには大事な友達であり、色々なことを教えてくれる先生でもあった。
そんなゼンさんは、あなたの思い出にもいませんか?