No.154758

二重想 第三章 プロローグ 壱

米野陸広さん

連続投稿になります。
失礼をば。

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2010-07-02 15:48:23 投稿 / 全14ページ    総閲覧数:1204   閲覧ユーザー数:1150

第三部  雪村

月日は巡っていく。それがいいことであるにせよ、悪いことであるにせよ、これが停まることは、私が感知できる限り有り得ないだろう。また、そんなことを考えていても、意味のないことなのだ。

彼女の記憶を失ったはずの私は、徐々にではあったが、彼女の記憶を取り戻していった。……楽しかったことから、辛いことまで。彼女と過ごした、その最後の瞬間までの記憶を、私は、取り戻していったのだった。だが、その代わり、私が『雪村聡志』であった際の記憶は、一切蘇ることがなかった。冴子から『彼』が関わった、どんな事柄を聞かされても、決して私の中で再び、『彼』が現れることはなかったのだ。

そもそも、『彼』を作り出したのは、私自身に他ならない。今ならはっきりと言える。私が『彼』に変わった夜、あやふやながらも、その心情は覚えている。

だんだんと自分が、知らない自分へ変わることへの恐怖。その、気持ちが、私の中で『彼』を生み出したのだ。……『彼』は、私が一番信頼できる、……言ってしまえば創造物だったから。

これから、私の外に、『彼』が出てくることはないだろう。耀子といた時の記憶を手に入れた私には、もう自分を恐れる必要などないのだから。

私の隣には、冴子が居てくれるのだから。

ただ、唯一気がかりな点としては、彼女に関する、ほとんどの記憶は手にしたものの、一つだけ、すっかり忘れていることがあるのだ。

それは、……あの、記憶を取り戻すたびに痛みを生み出す傷痕がついた理由である。

今もはっきりと、戒めのように残るその傷痕は、一体どのようにしてついたものなのか、私にも冴子にも、分かることはなかった。もちろん、推測が立たなかったわけではない。ただ、どれも確証のもとにあるわけではなく、信憑性が無いのである。

記憶の戻りつつあった頃、そのことが、とても気がかりだったのだが、時間の経過とともに、そのことも、さして、私を悩ませなくなった。彼女と過ごした思い出も、自然と色褪せていくほどに、私は今まで、幸せに生きてきたのだから。彼女の分まで生きるといったら、罪になるだろう。だから、彼女を愛しきれなかった、守りきれなかった分、私は、冴子を愛そうとしている。そう心に誓っていた。

……そんな自分に、罪悪感が生まれないはずはなかったが、そんな時、私の側には、冴子がいて、ただ黙って私の身体をそっと抱きしめてくれる。実の姉を殺した、人間なのに、『好きだから』という理由だけで、許してくれる。……私と一緒に、罪を背負ってくれる。

だから、私は今、耀子と一緒に居た時のように常に幸せであれた。そして、きっとこれからもそうあり続けられると思う。

私は、耀子を、愛していたのだから。

……これが、私の、耀子への三行半だ。

人は、死んだ者へだって、愛を抱く。例えそれが無意味なことだったとしても、恋する人間には、その相手が何であれ、全てなのだ。だから、人は告げなければならない。死んだ者への、別れの言葉を。

相手は、答えてはくれない。

だが、少なくとも、自分にけじめはつけなければと、私は思う。

彼女の気持ちがわからないことをいいことに、身勝手な男だが、それが……私だ。

耀子が死んだ時、私は、一度、……死人同然に成り下がった。生きる意味が、見つけられなかった。あの頃の私は、まだ、耀子のことが好きで離れたくなくて、ずっと、ずっと、一緒にいたくて、私は一人、心の奥に閉じこもった。そう、確か、絶対に耀子のことを、忘れないようにしたはずだったのだが。

……どういった方法だったのかは、もう、覚えていなかった。まあ、過ぎてしまったことだ。

そんな死人同然の私のことを救ってくれたのが、冴子だった。私の想いは耀子の方を向いていたのに、冴子は、そのことに耐えてまで、私に付き添ってくれた。

……そんな彼女が、私は好きだ。

だから、私は、耀子と別れなければならない。冴子を愛すために、そして、自分に正直であるために。

僕は、許せなかった。素直に自分の本体である、雪村恵吾を憎んでいた。

もともと、憎しみというものを、彼に対して持っていたのは事実だが、その感情も今では、言い尽くせないほどの憎悪で染まっていた。

『彼』は、僕の想いを奪った。……僕は、冴子が好きで、『彼』は耀子が好きなはずだった。なのに、現実世界で、『彼』は、僕の想いを自分のものと勘違いして、今では肉体的にも、精神的にも、冴子と繋がってしまった。

僕は全てを知り、全てを失った。それなのに全てを知らず、のうのうと生きている『彼』が、幸せを掴むなど僕には堪えられない。

耀子さんは、別にそれでも構わないようだが、僕はそれで納得するわけにはいかない。……冴ちゃんは、……僕の一番大切な人だ。……彼女を失いたくない。

僕は、雪村聡志だから……、彼女を愛しているのは、『彼』ではなく、僕なんだ。誰にも、僕の想いを邪魔させない。

……彼女は、僕だけのものだ。

以前、雪村恵吾のいた内在的な場所に、僕は今存在している。かつて、『彼』が愛した、耀子さんとともに。

だが決して、僕の心が耀子さんに傾くことはなかった。僕の心は、常に冴ちゃんに向かって進んでいたから。

僕は耀子さんに語りかけた。

「……耀子さん、すいませんが、僕に協力してください。」

「……ええ。雪村君も、真実を知らなければいけないし。……それに、あなたも、雪村君の一部だから。」

「ありがとう。」

心中の、音のない会話。ここでは嘘をつくことなど、出来ない。……全ては、心のままだから。

正直に言おう。

僕は、……雪村恵吾だけには、僕の想いを譲ることは出来ない。

ただ、それだけ。

……誰かへの愛情は、それ以外の誰かへの憎しみにもなり得る。

間違いなく僕は、霧下冴子を愛している。

……ここは何処?

僕は、朦朧とした意識の中、目覚め始めようとしていた。

……あれから、一体どうなったんだろう?

僕は、そこにあり、ただ、ふわり、ふわりと漂っているようだった。

だんだんと、記憶が再構築されていく。

……そうか、僕は、結局、……振られたんだっけ。……ハハハ、滑稽だよね。結局、僕は、……僕に似ている『彼』に、勝てなかったんだ。

「……勝ち負けじゃないよ、大切なのは、どれだけ、その人を想っているか、でしょ。」

………聞きなれない女性の声。それは、この世界にとてもよく響いた。そのうえ、僕は、この声の持ち主を知っていた。

「……雪村耀子、さん?」

「正解。」

静かに彼女は現れた。雪が舞い降りるようにゆったりと。

頭からつま先まで、順々に現れていくその姿は、スーパーヒーローのテレポーテーションを思わせる。

「テレポーテーション?ふふっ、あなたって、面白いこと、考えるのね。」

「えっ?……僕の心、」

彼女が放った一言。僕は、驚きを隠せなかった。

「そう、私には、あなたの心が手に取るようにわかる。……ここは、雪村君の心の中、だから。……あなたも、一応雪村君だし。あなたの心がわからないはずはない。そうでしょ?」

「……よくわからないけど、そうなんだろうね。」

僕の答に、彼女は、にっこりと微笑みを返す。これは友好の証ということなのだろうか。

そうだな、きっとそうなんだ。だが、その表情はどこか偽りのように思えた。

……動物が本能的に感じる危機を、彼女からは感じないのも、いい証拠だ。といっても、今の時代の人間が、そんなものを持っているとも思えないけど。

考えがとりあえず一段落する。そこへ、再び疑問が頭をもたげた。

「それで、僕は……、どうなったの?」

さっきまで、ほんのさっきまで、僕は、彼女の側にいたはずだ。それから、気を失って……。

「雪村君……。」

彼女は僕に悲しそうな眼を向けた。それが何故なのか、僕には知る由もなかったが、やはり彼女の面立ちは、冴ちゃんと似ているものがあった。さすが姉妹というべきなのか。

「……冴も幸せになったね。二人の雪村君から愛されて。辛いことかも知れないけど、逢えないことよりはとてもましだから。」

彼女の切ない声。無機的に存在しているはずの彼女には、似つかわしくない感情的な声だった。しかし、その姿を見せたのは一瞬の事だった。

「これから、あなたに伝えることは、あなたにとって、とても辛い事実かもしれない。……だけど、あなたには全てを知る権利があるから。私と雪村君のこと。……そして、何故あなたが、生まれることになったのか、最後に、今、あなたと、雪村君は、どういう関係にあるのか。」

「……。」

「あなたも、雪村君だから。これは、知らなければいけない。もちろん、雪村君っていうのは、あなたが概念上で使う『彼』のことね。それで、私は、あなたが全てを知ったうえでなら、あなたが、どんな行動をしようとも、私は構わない。……例えそれが、雪村恵吾を傷つけることであっても、雪村聡志であるあなたは、もう一人の雪村恵吾でもあるから。……いい?」

彼女の慎重に選ぶ一言一言は、なんだかとてつもなくややこしかったが言わんとしていることはわかった気がする。

「……うん、教えてくれ。僕としても、いつまでも、ここに留まっているわけにはいかないから……、それに、」

「それに?」

「僕には遣り残していることがまだあるから。」

「そう……。」

哀しそうな瞳に彩られた微笑み。それはまるで、母親が、上京する息子に向ける顔のように、僕には見えた。

彼女は少しずつ、語り始める。

「……それじゃあ、いい?あなたの誕生も、このプロテクトも、今私がこうして存在していることも、……全ては、私が、死んだことに始まる。実際は、もっと、いろいろ、他の原因が絡み合っているのだけれど、おおもとは、そこから。……私は、今から大体五年前に、亡き人となった。残念だけどその時の心境は語れない。正確には、私は私じゃないから。」

「え?」

僕は、わけもわからず、疑問の声を上げた。

「まあ、そのことは後で説明するから、今はとりあえず置いといて。それで、……階段を踏み外したことによる事故死。それが、私の死因。……誰もが、それで納得した。だけど、雪村君は、そうはいかなかった。」

「その話は、聞いてる。」

「そう……。多分、あなたが思ってるその通り。彼は、愛するものを失った悲しみに耐えられるほど、強くなかった。常に自分を責めつづけた。いっそ死んでしまったほうがいいと思ったこともあったぐらいに。一度だけ、発狂寸前まで陥ったこともある。……だけど、彼は、何とか踏みとどまった。……精神崩壊ぎりぎりのところで、包丁を手の甲に貫き通すことで、正気を保った。利き手は右手だったんだけど……。雪村君は、自分の右手を憎んでいたから。……だから、力加減も出来ない左手で。」

「何で、右手を憎むの?」

「彼が、私を助けられなかった手だから。……現実に、ポケットにさえ右手を入れていなかったら、私は死ななかっただろうし、ね。……自殺を思い留まった彼は、それから考え方を一気に反転させた。死から生の方へとね。……生きることが辛いのは、それが自分に対する罰だからと思ったからみたい。きっと。死ぬより、生きているほうが、辛い。本当はそういうことばかりじゃないのに、彼は、悟ってしまった。……そして、プロテクトをかけた。」

「プロテクト?」

「そう、私を未来永劫に忘れないようにする、記憶の封印。その結果が私。」

「……どういうこと?」

「簡単な話。彼は、私のことを忘れたくなかった。絶対に、私の全てを。……だけど、人間の記憶能力なんかたかが知れてるから、古いものは、どんどん忘れていって、最後に思い出せるのは、楽しい記憶なんかじゃなくて、自分への戒めの記憶だけ。……言われてみると、そう言えば、と思うでしょ。……恥ずかしい記憶、辛い記憶、そういう記憶ばっかりが、自分を縛りつづける。二度と同じ過ちを繰り返さないように。……それに比べ、楽しい記憶は、どんなものでも、全部、過去の事象としか残らない。そのとき自分が何を思ったかなんて、覚えてすらいない。……だから、雪村君は、それに逆らったの。私の事を絶対忘れないようにって。……でも、そのことは、雪村君をさらに苦しめることになった。」

「……何で?」

「……彼の目に映る女性全てが、『私』になってしまったから。」

僕はごくっと唾を飲み込んだ。

「……それは、つまり、………。」

僕の言いたいことを理解してくれたのか、彼女が頷く。

「彼は女性において、私のほかに誰とも会うことは出来なくなった。……このプロテクト、彼は、私が掛けたものだと信じてたけど。この答、……半分は正解。でも、彼の私を思う心が、そのプロテクトを掛けたから、半分は間違い。」

「……そんなことが、あったの、か。」

僕は、『彼』の意外な過去を知り、戦慄を覚えた。このことは、冴ちゃんからも得られなかった情報だ。

「それは、当然よ。だってそれからの彼は、当てもなく彷徨いつづけたから。私と会うこと、つまり、罪の意識から逃れたくて、彼は、人と付き合うことを全て放棄した。人込みを避け、自然の中に生きるようになった。でも、銭湯には、なるべく行くようにしていたわね。綺麗好きだったから。」

彼女はその頃を思い出したのか、くすっと微笑んだ。こういう仕草を見ると、彼女にとって雪村恵吾は、本当に大切な人ということが、よくわかる。

「……ありがとう。雪村君。」

「まあ、人を想うって心が、わからないわけじゃないから。」

僕は、彼女の心に同意した。……彼女の心。僕は、それを感じ取ることが、さきほどから出来なかったが、自分と彼女は似ている。そう確信していた。

お互い好きな人がいて、だけどその距離は遠くて、ただ彼女の場合は、両想いだった分、そして自分の存在が、彼を苦しめていた分、僕より辛かったかもしれない。……僕は、彼女の幸福を祈っていれば、いいだけだったから。

「基本的には、私もそれと同じよ。私も、雪村君の幸せを願ってる。ただ、その中には、あなたも含まれている。それだけ。」

「えっ?僕、も?」

「そう、だって、あなたも雪村君じゃない。」

彼女は意地悪く笑った。……まあ、確かに彼の一部ではあるが、僕は、

「私の愛した、雪村君ではないって?そんなこと、ないよ。あなたは、雪村君。誰がなんと言おうと、私の中では、雪村君。」

なんだかわからないけど、……理屈はめちゃくちゃだと思うが、彼女にとっては、それが真実なんだろう。世の中にはどんな方程式でも、解決できない感情なんてものがあるものなのだから。

彼女の話が続く。

「そんな生活の中にあったから、雪村君は私のことを忘れなかった。どんなに女性と逢わないようにしたって、今の時代、そんなことは、なかなか難しいからね。食料の買出しするたびに、結局、私と逢ってた。」

「ふーん。でも、それって、解けちゃったんだよね。」

冴ちゃんからは、そう聞いている。彼は倒れて、記憶を失ったと。状況から考えると、それは彼のプロテクトに対する、異常反応だったと考えるべきが、妥当なところだろう。

「そう、……それまでの生活だったなら、彼のプロテクトは完璧だった。だけど、……冴子の存在が、それを許さなかった。私と血が繋がっているから、冴子は私と、雰囲気がよく似ている。そのことが、ただでさえ重い罪の意識を、より一層リアルにして、思い出させたの。だから、彼は、自分のプロテクトに耐えられなくて、私に関する想い出を、全て消し去った。……それが、貴方が生まれる前に起きた真実よ。」

「成る程。」

「……でも、そのせいで、彼は全てを忘れ去った。私と逢う以前の調子に、全部、時が巻き戻されてしまった。今、思うと、この状態も一種のプロテクトだったんだよね。私から逃れるという意味での。」

「確かに……そうかも、ね。」

僕は、静かにそれに首肯すると、彼女は、フッと笑った。

「それでも、結局、思い出すんだけどね。冴子が躍起になって、私のこと思い出さそうとしてたし、……それに、気を失うたびに、私と会っていたから。……今、あなたとこうしているような状態でね。」

「……それは、辛くなかった?自分のことを覚えてなかったんでしょ。」

「まあね、……でもそれまでの私は、ただ待つだけの存在で、逢うことすら出来なかったから。哀しさに浸るっていうよりも、逆に、嬉しさの方が強かったかな。」

「……そうか、五年間、ずっと、見てるだけだったんだもんね。」

「……うん。それに最後には、私のこと思い出してくれたし。そして、私と生きることすら選んでくれた。……で、そのとき貴方が生まれた。」

「僕が?………って言うと、つまり、いつになるんだ?」

僕には、いまいち、いつ頃から、僕が僕になったのか、覚えていなかった。まあ、それは当り前のことである。僕にはちゃんとした記憶があって、もちろんその経歴通りに生きてきたと思っていたのだから。

「あなたが生まれたのは、彼が、変わってしまう自分を恐れたとき。私を思い出すことで、現状が変わってしまう自分を、彼は、とても恐れた。それまで自分がどんな人間だったのか、記憶になかったから。……不安だったの。だから、彼は、安易な道を選ぶことにした。……新しい自分を作って、それを表に出し、今いる自分を裏に引っ込める。そういう方法を取ることで。」

その答に僕は愕然とする。

「そんな、じゃあ、僕は、彼の身代わりに成るために、生まれたっていうのか?」

「……ええ。そういう言い方をするなら。」

彼女は口を重たくしながらも、淡々と言葉を紡いだ。

……自分の出生の秘密が、そんな安易なものだったとは。……信じたくなかった。僕が、生まれたのが、『彼』の弱さと、都合からだったなんて。……二重人格になるくらいだから、随分と悲しい過去を背負っていると思っていたのに。ただ単に、自分の弱さから逃げて、安心できる場所へと逃げ込むためだったなんて。

「……でも、その事実のおかげで、あなたは、人に恋をするということを知った。違う?」

「それは、そうだけど……。」

確かに彼が、僕を作り出さなかったら、僕は、冴ちゃんに逢うことは出来なかった。その意味では、彼に感謝しなければ……、でも、生まれなかったなら、それはそれでそういう感情が生まれるわけじゃないんだから、別に損をするわけじゃないような、気もするけど。

「どう思うかは、あなたの自由だけど、でも、大事なのは損得じゃ、ないんじゃない。」

彼女の語調が少し強くなる。彼女にしてみれば、そう思うのも当然だろう。人を愛することを損得なんてもので、考えてほしくないに違いない。だって、彼女は、永きに渡って、実るはずのない恋を続けてきたのだから。

「……愛は自分が得だとか、損だとか、そういうこと抜きで、働く感情の少ないものの一つ。私はそう思ってる。だから、……。」

「ああ、ごめん。そうだよね。……冴ちゃんを好きな自分がいる、そのことが大事なんだよね。」

僕は、自分に言い聞かせながら、一人呟く。ちゃんと、彼女にも聞こえるように。

「ありがとう。わかってくれると、嬉しい。あんまり、雪村君とは、ギクシャクしたくないから。」

「そうだね。……うん。」

僕らは、自然と笑顔を作った。

「……で、どこまでいったかな。ええと、そうだ。『彼』とあなたが入れ替わったところまで、だよね。」

「ん、うん。そう。……えっと、それから、僕の方はわかるけど、耀子さんは、僕の心の中にいたわけだよね。」

「ええ。雪村君と一緒に。といっても、……ただし、あなたの意識がないときだけ、だけど。」

「僕の意識?」

彼女は僕の疑問に首肯する。

「ええ。だって、幾らなんでも、意識のある中では、あなたが自分の身体を支配しているわけだから、私たちが出て来る隙間なんてないじゃない。だけど、眠ってる時とか、気絶してる時なんかは、私と雪村君は、あなたの中で、コミュニケーションを取ることができるから。」

「……コミュニケーションて。」

一瞬僕の中で、卑猥な言葉が浮かんだ。それとともに、彼女の頬が赤くなる。

……。

「僕の中で、耀子さんは、勝手にそういうことを?」

「……だって、お互いが好きあってるんだから、しょうがないじゃない。それに、五年も逢ってなかったんだよ?常に二人きりだし。自然と体が、こう、なんていうか。」

「そうは言ったって……。」

僕は批判したかったが、どうしたものか、わからなかった。そうしてるうちに、

「はいはい、この話題はここで終わり、それで、いいでしょ。次の話題の方があなたにとって重要なんだから。」

と、流されてしまった。だが、重要と言われればそちらのほうが気になる。

「重要?」

だから僕は、思わずそう言葉を返していた。

「ええ。私と雪村君のこうした生活も、あなたが、私の記憶を取り戻した時に、終わってしまった。それはいいよね。だから、あなたと雪村君は、再び、表と裏を入れ替わった。でも、……心の入れ替わりが、完全に行われなかったの。」

「……どういうこと?」

「言い辛いんだけど、あなたの恋愛感情が、今表に出ている雪村君に、大きな影響を与えてる。そして、都合のいいことに、彼はまた私の事を忘れてしまった。」

「……ちょっと待って、それって、つまり……。」

僕の脳裏に、一番出したくない、結論が生まれる。

「ええ、二人は、恋人同士になったわ。もう、それから半年近く経ってる。」

「……嘘、でしょ、耀子さん。」

「いいえ、あなたも中途半端に入れ替わったから、わかるはず。全くもって、初対面のはずのあなたが、私のことを知っていたことが、それを物語ってる。」

「……そんな。」

僕は、肩を落とした。絶望の淵から、絶望を見る気分だ。いや、もう淵を越えてしまったのかもしれない。黒いイメージが僕を包み込む。

「あなたは、半年も、目覚めなかった。雪村君の意識の中で眠ってた。今の今までね。」

「……半年!」

半年、漢字にしてしまえば、たったの二文字だが……。長い間の眠り。……その間に、彼女たちが、もう、恋人同士だなんて……。しかも、僕の心は……、盗られた?そんな馬鹿な。

「残念だけど、本当のこと。これが現状よ。」

「………僕は、どうしたら、いい?それより、耀子さんは何で?何で、そんな平然としてるの?」

「知ってるから。」

「えっ?」

彼女は、一言、極短く言い放った。

「私は知ってるの。雪村君が、必ず、どちらか選ばなきゃいけない時が来るって。……私か、冴子を。置き換えるなら、現実世界か、精神世界を。私は、その決断を待たなければいけない。」

「何で、待つだけなのさ?足掻けばいいじゃないか、もっと。」

僕は、怒鳴るような調子で、文句を唱える。

その言葉に彼女は、しばらくの間、押し黙り、やがて、口を開いた。

「最初に言ったよね。私は、私であって、私じゃない。私は、本物の耀子ではなくて、複製品なの。……彼が作った、複製品。……だから、私に、感情は存在しても、彼に対して動くことは絶対に出来ない。足掻く。……そういう概念が存在しないの、私の中には。」

「……そんな、馬鹿みたいな話が……。」

「あるの。でも、それで、いいのよ。それが、私……、だから。私はただ、待つだけなんだから。」

「……。」

諦めた、そういう感情ではない。信じている。そういうことでもない。ただ、彼の決断を待っている。本当にそれだけのようだ。何の見返りがなくても構わない。ただ、愛していたい。彼女はそれだけなんだ。

「ええ、そう。だって、見返りが欲しくて、私は雪村君を愛してるんじゃない。本当なら、もう、私は愛されてはいけない、過去の人なんだから。でも、それでも、私が雪村君を好きなのは、彼が今の私の全てだから。……たとえ、彼が、私を見てくれなかったとしても、私が彼を好きでいることに、何にも問題はない。そうでしょ?」

……僕は、目の前にいる存在が、やはり、もう人間でないことを改めて認識した。人間がこんなことを、考えられるはずがないんだ。人間は誰しもが、愛すなら、愛されたいと思う。当然だ。幸せになりたいんだから。

……それなのに、こんな一方的な愛だけで、全てを済ませられるなんて。僕は目の前の彼女を、やりきれない気持ちで見てしまう。

「そう、でも、あなたは、私と同じように過ごす必要はない。私は私。あなたはあなただから。現に、あなたは、『彼』を憎んでるでしょ?」

「えっ?」

突如の問いに驚くが、僕は思案したのち、その通りだと思った。自分の想いが、勝手に人に奪われるなんて、そんなことあって、いいはずがない。

「あなたは、私と違う。……そのことを忘れないでね。あなたは、雪村君の創造物だけど、決してレプリカなんかじゃない。私と違って、少しも人間と違わない。……だから、あなたには、私と違って、限定された生き方なんてしないで欲しい。……私も応援するから。」

「……耀子さん。」

「あなたの選ぶ道が、どんなに雪村君を傷つけるものであっても、私はあなたについていく。……最後には、必ず、みんな幸せになるって。……甘い考えかもしれないけど、そう思うから。」

「……僕は、」

そう言われても、僕は自分に自信がなかった。期待されても、それが耀子さんの望む道とは限らないし……。

「だから、さっきから言ってるでしょ。私は、あなたの後についていく。雪村君の望むことが、私の望むこと。私達は、いつまでも一緒なんだから。……雪村君が、誰を選んでも、私はいつまでも、あなたと一緒にいるから。」

「……。」

僕は黙り込んだ。いろいろな葛藤が心に生まれる。

……だが、敢えてそれらは全部取り除こう。

僕は、自分のしたいことをすればいいんだ。……僕は、自分のために生きる。僕には想いを、告げなければいけない相手がいるのだから。そのためには……。

僕の想い。

『彼』の想い。

……はっきりさせなければならない。

「ねえ、耀子さん……。」

「はい?」

「……僕は、冴ちゃんが好きだ。」

「よく、知ってる。」

彼女は、僕の方を向いてにっこりと笑う。一点の悲しみも浮かべない彼女。

僕は、自分の道を、今、定めたのだ。

 

蝉が、鳴いている。赤信号で止まった車の中へ、彼らが死に対して、一生懸命抗おうと鳴く声が響いている。……それとも彼らは、泣いているのか?次々に死んでいく仲間へ対しての弔いなのか。

冴の運転する車の助手席で、私は一人、そんな想いに囚われていた。

耀子が死んで、丁度六年目になる今日、私は、冴とともに、彼女の墓がある寺へ七回忌に向かっている。この日のために卸したばかりの黒スーツとネクタイ。白いワイシャツは、家にあったのでそれを使った。装飾品はつけていない、と言うよりも持っていない。

……改めて現在の自分の姿を思い出し、脳裏に描き、それを四方八方から見る。

黒と白のコントラストは、時として、人の心を引き締める効果があり、厳粛な態度にさせるものだ。……曖昧でないところがいいのだろうか?

先程から運転に集中している彼女も、基本的に黒で統一している。スカートにレースが小さく入ったワンピース。オーソドックスに真珠のネックレスが、こもって輝いている。彼女は安物だと言っていたが、本当のところはどうなのだろう?

何もせずに生きていても、周りに何かがいれば疑問が湧く。それが、人間というものだ。たとえそれが、どんなにつまらないことであったとしても。……要するに、私は、答のない質問を、自分に語りつづけているのだった。それにしても、……夏にこの格好は、本当に暑い。

日が、かんかんと照り差す昼下がり、私達は料金所を抜け、高速道路に入った。直線道路に入り、彼女はどんどん車体を加速させていく。

車内の冷房は、それほど強くなく設定してあり、カーステレオからは聞きなれない洋楽が流れていた。リズムからするとラテン系なのだが、歌詞の意味は全く聞き取れない。とても英語には聞こえないし、例えそれであったとしても、私は英語が得意なわけでもなかった。だが、そんな音楽でも、心をリラックスさせることはできる。私は、ゆったりとその音楽に、身を任せていた。

「ねえ、恵吾。」

「ん?」

道路が一直線になったからか、先程まで張り詰めていた緊張感がなくなっていた。いつもの調子でこちらに話し掛けてくる。

彼女は、免許を取って、もう五年近く走っているようだが、人を乗せて走ることは滅多に無かったらしい。

緊張して、ちょっと硬くなるかもしれないけど、気にしないで。そう出発直前に、頬を赤く染めて言う彼女のこと思い出すと、こちらも少し気恥ずかしくなる。

私は彼女のことを大切に思っている。そのこと自体には、照れたりなどしないのに、彼女に「好き。」とか、「抱きしめて。」とか言われると、どうも照れてしまう。今はもう慣れたが、恵吾、と彼女が、私のことを下の名前で呼ぶようになった時も、随分とこそばゆかった。

……彼女が私のことを名前で呼ぶようになり、どれ位経っただろう?最初はそんなだったのに、いつの間にか慣れてしまっている自分に、今更ながら気づく。まあ、そういう自分も、今では、彼女のことを『冴』と呼んでいるが。

……彼女を最初に抱いた夜には、既にそう呼んでいたような気がするから、少なくとも、もう半年前から、彼女の呼称は冴のままだ。

「……本当に、大丈夫?」

彼女が心配そうな声を上げた。私の七回忌参加が決まってから、彼女はずっとこの調子だった。あの時のように、私を失うのが怖いのだろうか?……確かに私としても、その可能性は否定できない。けれども、もう私の心は決まっている。

「……くどいぞ、冴。十分、その件については話したはずだ。……確かに耀子に関わる事柄は、私の精神に異常をきたす恐れもあるが、問題はそういうことじゃないだろ。冴には心配を掛けて、悪いとは思ってるけど、ちゃんと耀子のことには、けじめをつけて置きたいんだ。」

記憶の修復に伴い、私は耀子への想いを、再度確認することになった。だが、その度に、冴を好きになってしまった私は、耀子に対し、どうしようもない罪悪感を覚える羽目になった。死者に対する感情は、意味のないことだとわかっていても、どうしても私の中でそういう感情が渦巻いてしまう。

だから私としても、どうすれば、その感覚を取り除くことができるのか、考えてみたりもした。しかし結果は、……どうしようもないことなのだと、諦めるしかなった。情けないことだが、私は耀子のことを完全に想い出に出来るほど強くはない。耀子への気持ちを完璧に捨てきれるほど、大人ではないのだ。

だが、……私は人間だから、それでいいんだと思う。というより、むしろ、そう、割り切った部分と、割り切れない部分のある方が、人間らしいと、私は思う。

例にとってみれば、時たま、ふと耀子のことを、冴に重ねてしまうことがある。料理を作っている時の冴、耀子の使っていた香水を身につけた時の冴……。日常生活における冴の行動は、姉妹のなせる技と言うべきか、耀子のものと、とてもよく類似している。こんなこと、とても冴には言えたことではないが、彼女は少なからず、気付いているかもしれない。私の次に、……いや、一番よく知っているのは、彼女のはずだから。

そういうわけで私は、冴のためにも、耀子のためにも、そして自分のためにも、けじめをつけようと思い立った。それが、私は冴を愛していることの、証明になるから。

彼女の、運転する横顔に眼を向ける。

この堪らなく、いとおしい気持ち。どうすれば君に伝えることができるだろう。出来ることなら、そのままの心を君に見せて……、いや、それは、しない方がいいのかな。確かに君を私は愛しているけど、耀子を想う気持ちが、完全に消えたとはとてもいえないから。

この心の中に蠢く罪悪感。こんな醜い感情を君には見せたくない。

……でも、いつかは、伝えなきゃいけないことでもある。

矛盾。

その言葉が、私の中に浮かび上がる。……苦しみたくないのに、人間はその中に留まろうとする。そんな不安定な部分に漂っているのが、楽だからなのだろうか。それは、好きな人が出来た感情に、よく似ている。自分の気持ちを伝えれば、楽になれるのに、その結果に恐れているという理由で、あえて感情を口には出さず、自分の中に閉じ込めておく。そして、その中でうろうろしている自分を楽しむのだ。……不思議だな、……人間って。

「恵吾、どうしたの?」

「え、いや?大したことじゃない。」

「何それ?気になるな。」

「だから気にするほどのことじゃないって。」

「……そう。」

冴も私の視線に気付いたようだ。少し訝しげな表情を見せていたが、また運転へと集中する。もちろん、視線は、先程からずっと前を向いたままだったが。

冴がウインカーを出して、追い越し車線へと、移った。車の時速を百から百三十オーバーまで上げる。周りの景色が、次々に移り変わっていった。左手を走る、色とりどりの自家用車を追い抜き、私達は耀子のもとへと目指した。

耀子の墓は、同じ県内にあるのだが、冴の家からは少々離れている。車でも、大体一時間ぐらいになるらしい。私の家からはそんなに遠くなく、電車で、三十分程なのだが……。

「ねえ、恵吾。」

「ん?」

突然の問いかけ。

「私、そんなにお姉ちゃんと似てる?」

「えっ?」

いきなりの彼女の言葉に、私は戸惑いを隠しきれなかった。また、その言葉が核心を突いていたことも、私には相乗効果となって現れていた。

彼女の横顔に陰りが見える。

「何となくだけどね、そう思うときがあったの。恵吾の、私を見る時の目が、たまに、お姉ちゃんを見てる時とそっくりに、なるから。」

「冴………。わたしは、」

だがその言葉も、途中で彼女に遮られる。

「わかってる!わかってるんだよ。恵吾が、そう簡単にお姉ちゃんのこと忘れられないのも、……その気持ち、わかってるんだよ。でも、でもね、それが私には辛いの。恵吾が、私を愛してくれてる、そう言ってくれてる、そう思うと嬉しいよ。でも、だけど、……すっごく不安なの!恵吾が好きなのは、私じゃ無くて、お姉ちゃんに似た、私なんじゃないかと思って、凄く嫌なの!……ううん、きっと、それだけじゃなくて、恵吾を信じられない、私自身が、一番に嫌い。……大切な人を、信じられない自分が、一番……。」

「冴……ごめんな。」

私は溜息とともに、さっき回想していた心と一緒に吐き出した。

「……何で恵吾が謝るの?……非道いこと言ってるのは、私なのに。」

「……だって、それは、事実だから……な。私は、冴を愛してるのに、君の存在を、たまにだが、耀子と重ねてしまう。……済まない。」

「恵吾……。」

「でも、わかってくれ。私は、冴をいつも一番に考えている。……冴のことを見ている。……信じられないかもしれないけど、信じて欲しい。」

「……。」

「ごめん、何言ってるんだろうな、私、は。こんな矛盾した文章、私らしくも無い。」

「ううん、そんなことないよ。……。」

それから私たち二人は、耀子の墓へとつくまで、一言も、互いの名を呼ばなかった。

灰色のひび割れたコンクリートの地面と、平滑で綺麗な黒色の墓石、その対照的な二つの物質が、私の見る世界には存在していた。私達二人の他に、墓参りに来た人間はいないうえ、ここいらでは蝉が鳴かないのか、不気味なまでに静まり返っていた。この霊園に隣接する寺からも、読経する声など一切聞こえない。………このシチュエーションが、夕陽に輝く海だったなら、大層ロマンチックだったのだろうが、生憎、ここは死者の寝床である。私たちの気持ちがそうなるはずもなかった。

まあ、それはさて置き、私は今日で、ここを訪れるのは、六度目になる。毎年来て、丁度この回数、つまりは、彼女が死去してから六年が経ったということだ。

長い人生から考えれば、僅かと言っていいほどのものではあるが、人を変えるには十分な時間であり、私もその例外ではない。

……もう、あの時から六年、か。まさか、冴と付き合うようになるなんて、予想の範囲では無かった。それどころか、女性と交際することですら、いや、人間に関わることさえ無理だと考えていたほどだ。それなのに、現実に、私は、今、ここにいる。

私と冴は、一つの墓石の前に立った。そこには、『霧下家之墓』と彫られた文字が、光りの加減でくっきりと浮かび上がっていた。

「恵吾、覚えてる?あなたが戻ってきたのも、この、場所だったんだよ。……そして、私の気持ちに答えてくれたのも。」

「ああ、覚えてるよ。あの時、冴には、迷惑を掛けた。」

「ううん、気にしてないよ。でも、お姉ちゃんには、悪いことしちゃったね。」

「……まあな。」

私達は二人して、気まずそうに呟いた。

フッと蘇る、そのときのおぼろげな記憶。鮮明な映像ではなかったが、その事実がとても大事だったことはちゃんと忘れないでいる。一度目の決別と、一度目の始まり。だがそれは、決して完璧なものでなかった。いわば、成り行き状、そうなったに過ぎない。少なくとも私の中では。

『お姉ちゃんに、私たちのこと、いつか報告しに行かなきゃいけないよね。』

『耀子の前で、恋仲になったわけだからな。当然、私達にはその義務がある。』

冴が私の言葉にこっくりと頷く。

『そうだね、必ず、いかなきゃね。』

この台詞は、ここに来る二、三ヶ月程前に、冴と私の間で交わされたものだ。この時、冴の目はやけに遠くを見つめており、そのことがやけに頭に残っている。もしかしたら冴は、このときから既に私の心に気付きつつあったのかもしれない。

そんなことを考えているうちに、私の傷を持つ手は、自然と今右隣にいる冴の肩を、抱いていた。

「恵吾?」

「……本当に、いろいろとすまなかった。」

「何?どうしたの急に?」

冴は突然の私の行動に戸惑っている。

「いや、……今、何となく、そう言いたい気分だったんだ。」

なんだか、心が重い。耀子の前でなければ、彼女の肩に顔を埋め、泣きたかった。

……何でそんなことを思うのだろう?私は、もう、冴の恋人であるはずだ。何故、耀子に許可を得るような真似をしなければ?

それに、……一体、私は誰に謝っているんだ?

何を思って泣きたいんだ?

私の視線は、真っ直ぐ、耀子の墓石だけを見据えていた。私には、耀子の意味だけしかないこの墓を。

「恵吾、泣いてるの?」

彼女に問われたとおり、細い涙の筋が、私の顔を伝っていた。

「……ああ。耀子が、私の前からいなくなった時、本気で流せなかったから、な。……いや、今まで流さなかったからか、……だから、今、……泣いてるんだと思う。」

途中言い直しながらも、私は独白した。

視界がぼやけ、不安な顔をして覗き込んでいるはずの彼女の顔も、輪郭だけしかつかめなくなる。聴覚ももう怪しいものだ。いつの間にか、高周波数の音が頭に流れ込んでいた。

頬を風が涼しく打つ。

「大丈夫……。許してくれるよ。恵吾は、お姉ちゃんが、一番好きだった人なんだから。」

優しい冴の言葉。だが、それに、私は一息ついて、涙を拭った。肩に掛けていた腕も外した。

「だが、冴。本当に、耀子は私を、許すと思うか?いくら、私を愛していたと言っても、……というより、私を愛していたからこそ、恨んでいるんじゃないのか?しかも、今、付き合ってるのが、彼女の実の妹である、お前なんだぞ。」

「だったら、なおさら、恵吾は恨まないでしょ。恨まれるのは、私だけ。お姉ちゃんから、恵吾を奪ってしまった私、だけだから、安心していいよ。」

そう言って弱々しくもにっこり笑う、冴。その笑顔はあまりにも、あの時、耀子が見せた、死に顔とそっくりだった。

「そんな顔するな!」

気が付いたときには、思わずそう絶叫していた。

「恵吾?」

彼女の驚く表情をも無視して、私は、喋りたてていた。

「頼むから、そんな全て諦めきったような表情をしないでくれ。……もう、誰も失いたくは無いんだ!決して、一人で、背負おうとするな。……いつまでも、私と一緒にいてくれ。……いつまでも、一緒に……、頼むよ。」

最後はもう、哀願するような調子であった。再び涙が、こぼれてくる。今まであったものが、急になくなる喪失感。あんな想い、もう二度としたくない。

私は、冴と肩並びだったのを、向かい合わせにし、そのまま、勢いに任せ、抱きしめた。涙が、唇の隙間に染み込み、口内に酸っぱい感覚が広がる。

しかし、そんな自分に、僅かなみっともなさを感じている余裕も、今の私には存在していなかった。

そんな私に、彼女は、優しく語り掛けてきた。

「……恵吾、何、馬鹿なこと、言ってるの?そんなの当たり前じゃない。私とあなたは、いつまでも一緒。……それに、辛いのはあなただけじゃないんだからね。……いつだって恵吾は、私をお姉ちゃんと比べてる、そう考えるたびに、私、凄い鬱になるんだから。……お姉ちゃんは、恵吾の知ってる通り、スーパーウーマンだったし、とても私じゃ、敵わない。……だけど、私は、お姉ちゃんの代わりにはなれないけど、恵吾の側にいることだけは出来るから。」

「……冴。」

言葉とともに、彼女もまた、私の体を、抱き返す。

その抱擁が、精神体のボルテージを、下げていった。

「それに、ずるいよ、恵吾。自分だけ辛い振りして、……そうやって、私との間に、壁を造ろうとしてたのは、いつだって恵吾のほうだったんだから。」

……私が壁を?造っていた?……そんな馬鹿な。

……でも、それは、……正しいのかもしれない。

「……私は、一緒にいるよ。絶対離れないよ。頼まれれば一日中だって、……ううん、頼まれなくったって、……恵吾が不安なら、いつも、私を拠り所にしてくれたって、構わない。」

それは虫が良すぎるだろ。私は、別に、冴に寄りかかって、生きたいわけじゃ……、

そう思いかけたとき、

「私だって、私にだって、恵吾が必要なんだから。もう、……恵吾無しじゃ、無理だよ。」

……冴、泣くなよ。冴が泣いたら、私が辛いだろ。私の罪がまた増える。

「……だから、もっと、もっと……、」

やめてくれ、私は、そんなに何かを求められていい人間じゃない。

「……好きになってよ!必要としてよ!お姉ちゃんよりも、大事にしてよ!」

何かが私の中で、ぷつっと音を立てて切れた。

それと共に……私はまた、……罪を重ねてしまう。赤く甘い罪を、彼女のものに重ねていた。激しく、今までに無いほどの優しさを込めて、激しく、炎を包み込むような、気持ちで、彼女を覆っていく。

そして、彼女も私と同じ罪を犯した時、全てが変わった。

時間を超越する。……それが、こういうことなのだろうか?何も感じない。それなのに、ただ時が流れている。この世には自分一人しか、……訂正しよう、私達二人しかいないかのように錯覚する。互いの触感以外は、何も無く、それでいて周りは無色透明な世界。私たちは何処に存在しているのか……、そう思ったとき、全てが元に戻る。

……最初に戻ってきたのは、気だるい暑さだった。お互いの身体が密着しているぶん、余計暑く感じるのも、否めない。私のスラックスの下では、汗玉が、ひょるりとくすぐるように滑っていった。

「ねえ、恵吾……。」

「ん?」

「……ありがとう。」

「それは、お互い様だ。」

「ん。」

私達は、抱き合っていた身体を、互いに解放し、耀子の方へ向き直った。今更のように恥ずかしさがこみ上げてきた。よく、こんな公然とした、ただっ広い場所で、私達は、……口にするのも躊躇われる。

隣の彼女はというと、涼しい顔をしていた。……全く、こういう時、女は強い。と言っても、世界の女性を知っているわけじゃないから、何ともいえないが、少なくとも、私が深く知った女性達は、二人とも、強いということだ。

「恵吾、そろそろ、正式に報告しよっか。」

「ん、ああ、そうだな。」

耀子の前での行為だったというのに、私はいつもより、落ち着いていられた。なんと言うか、それがごく当たり前のように感じられたのだ。

「お姉ちゃん、久しぶりだね。」

「耀子、元気か。……私は耀子が思ってるよりは、多分、元気だ。」

もう、耀子への執着は無い。私は、冴とともに歩む。……何度も、繰り返し、挫折するかもしれないが、それでも、また、進んでみせる。

「去年までは、大変だったんだけど、ね。」

「ああ。いろいろと、耀子にも謝っておかなければ、いけないこともある。」

私は、今最大限に思い出せるものを、体中に散りばめた。

「……ごめん。私は、結局、お前を選ばなかった。それが一つ。」

私は、死を選ぶことも出来なかった。

「……ごめん。私は、お前を忘れてしまった時期があった。それが一つ。」

私は過去の痛みから、逃げ出してしまった。

「……そして最後に、ごめん。……私は、お前を想い出に変えて、歩こうとしている。これから先、ずっと、……私の隣にいる、冴と、共に。……冴のことは、耀子の方が、よく知ってるよな。」

戒めを思い出に変えること、それは、誰かのことを、少しずつ忘れていくこと。

「私からも、ごめんね、お姉ちゃん。……でも、お姉ちゃんなら、わかってくれるって、私、信じてるから。……私、お姉ちゃんの代わりになれるなんて思ってない、……思ってないけど、お姉ちゃん、も、気付い、てた……はずだ、よね。私が、ど、れだけ、……恵吾のこ、と想って……たか。……だ、から、わ、……私、」

泣き始める冴、私はその肩をそっと支えた。

「……私、絶、……対、……恵吾の、……こ、と、お……いていか、ないから。」

「……耀子。私達は、これから、前に進む。だから、……身勝手な、願いだと思ってるけど、私達を、……祝福してくれないか?」

そう私が言葉を発する。すると、それに合わせるかのようなタイミングで

(……ふざけるな!)

「え?」

「どうかしたの、恵吾?」

「いや、……今、なんか聞こえなかった?」

私は訝しげな表情を浮かべながら、まだ目の赤い彼女に、そう問い掛けた。涙に濡れて、白粉をつけた肌に、くっきりと筋が浮かび上がっていた。

(……このまま、ハッピーエンドなんかでおわらせるか!)

「やっぱり!何か、聞こえる。」

「えっ、何が?何にも聞こえないけど……。」

冴がきょろきょろあたりを見回してながら、そう私に伝える。

……確かに人影は見当たらない。……実際そうなのだろう。何処かに隠れているわけではあるまい。それに、私が感じている声が、聞こえてくるのは、

(……ここからだよ、雪村恵吾。僕は、……お前だけが、幸福になるなんて許さない。都合のいいことだけ忘れて、全てを手に入れようなんてこと……、絶対に。)

これは、私の身体の中からか?

一体、私はどうなっているんだ?

「恵吾、大丈――」

冴の声。だがそれはすぐに謎の声にかき消される。しかも、今度は女性のものだった。懐かしく優しい甘い声。私の心に、深く、広く、浸透する。

(雪村君……。あなたは全てを思い出さなければならない。その時がやってきたの。……すべてを決断する時が。)

脳内に電流が走ったような気がした。

「が、あ、あ、あ、あ、ぐがああ、あ、あ、ああがああがあがあ、あ、あ、が、が、が、があああああああ。」

私は、私は、私は、私は、何かが脳内に流れ込んでくる。

(雪村君、……あなたは、全て、思い出すの。そうしなければいけない。)

「ぐあ、あがが、あああああ、ががが、げごげおっがああががっが……。」

この痛みは、……あの時の、……。

私は、右手の傷を目で追いながら、その場に崩れ落ちた。重要な『何か』を手に入れた私を邪魔する者は、誰一人としていなかった。

冴のことを考える余裕など、残っているはずもなかった。

私は瞬く間に、闇へと引きずり込まれていった。

「ふざけるな!」

僕は、もう一人の僕に向かって叫んだ。僕と『彼』は、今この状況下において、初めて、繋がっていた。そんな都合のいい話で終わらせて堪るものか。もう、何もかもを手に入れたくせに、この上、耀子さんに許しを乞おうだと?ふざけるのも大概にしろ……。

自分の気持ちを、僕から奪い、それでも飽き足らず、……許さない。

(……今、なんか聞こえなかった?)

頓珍漢なことを、言うんじゃない!

僕は、『彼』が自分のことを、ちゃんと知覚していないと理解していたが、だからと言って、僕の感情が、『彼』の度を越した傲慢さを、許すはずも無かった。

「……このまま、ハッピーエンドなんかでおわらせるか!」

(やっぱり!何か、聞こえる。)

(えっ、何が?何にも聞こえないけど……。)

精神的に、耀子さんと、『彼』が最も近くなる時、それが、この墓参りだったのだが、そのときに限り、僕にも、『彼』へ言葉が届くように、耀子さんに、セッティングしてもらったのだ。

(……確かに人影は見当たらない。……実際そうなのだろう。何処かに隠れているわけではあるまい。)

私の中に、『彼』の考えが流れ込んでくる。いつもこうだ。彼の考えていることの全てが、私と耀子さんには筒抜けの状態で伝わる。こちらが無視していれば、何の問題も無いが、そんなことなかなか出来たものでもない。『彼』の喜怒哀楽、それを私達は『彼』と共に感じ、年月を重ねてきた。……ただし、彼の感情が、私と同じものであるということは、ほとんど無かったが。

……辛かったよ。『彼』が冴ちゃんを愛するたびに、僕の精神はつんざくように切り裂かれ、思い出したくも無いほどの、屈辱に苛まれた。僕なんかまだいい。この辛さを、六年間も味わってきた、耀子さんのことを思うと、余計に憎悪が膨れ上がる。

彼自身が掛けたプロテクトのくせに、……耀子さんが掛けたものだと?信じられない。愛する人から恨まれることが、どんなに辛いのか、考えたことがあって、言ってるのか?そんなことはないだろう。それなのに、

(それに、私が感じている声が、聞こえてくるのは……)

「……ここからだよ、雪村恵吾。僕は、……お前だけが、幸福になるなんて許さない。都合のいいことだけ忘れて、全てを手に入れようなんてこと……、絶対に。」

僕のその声に反応して、『彼』が混乱し始めるのがわかる。僕の役目はここで終わりだ。後は、……僕はそこで後ろを振り返った。背後にいる、耀子さんと目を合わせ、彼女と共に僕は頷いた。ここからは、彼女の出番だ。

(……一体、私はどうなっているんだ?)

「雪村君……。あなたは全てを思い出さなければならない。その時がやってきたの。……すべてを決断する時が。」

彼女が声を発すると、最初、心の中に温かい火がともったと思われたが、刹那、激しく乱れ始める。

洗濯機の中では、常にこういうことが起きているのだろうか?もの凄い勢いで、僕のいる世界が渦を巻き始める。

(が、あ、あ、あ、あ、ぐがああ、あ、あ、ああがああがあがあ、あ、あ、が、が、が、があああああああ。)

獣の咆哮のような悲鳴が上がる。呻き声と呼ぶには、強すぎる。雄叫びと呼ぶには悲しすぎる。

否が応にも、『彼』の心が僕のもとへと流れ込んできた。……甘酸っぱい、痛みの記憶がそこには映し出され、僕の胸を締め付ける。

……記憶の共有。

「雪村君、……あなたは、全て、思い出すの。そうしなければいけない。」

(ぐあ、あがが、あああああ、ががが、げごげおっがああががっが………。)

『彼』の咆哮は、『彼』が気を失う、その時まで、決して途絶えることが無かった。

また、『彼』が倒れる直前、『彼』が全てを悟った。心の渦は次第に収まり、平定が取り戻され、表面世界に雪村恵吾という人間は存在しなくなった。冴ちゃんを苦しめてしまうことは、心残りだけど、僕は、……自分の気持ちを犠牲にしてまで、相手に従順になるほど、お人好しではないから。

もうすぐ僕らは、初めて、邂逅の時を迎えるのだ。

そして、全てに決着を着けなくちゃいけない。

僕の想いにも。

『彼』の想いにも。

どうせ納得できる終わり方になるはずが無い。……強い方が、勝つ。これが自然の理だ。

 


 
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