No.153402

唄わない人魚

朝比奈恋さん

幼なじみを探すため、異世界に紛れ込んだ少女は、人魚の姿になっていた。声を奪われ、サーカス小屋で見せ物になるリルル。ようやく出会った幼なじみは、記憶を失っていて……

2010-06-26 13:12:18 投稿 / 全9ページ    総閲覧数:767   閲覧ユーザー数:742

 道が、いよいよ険しくなって来たのだろう。リルルを乗せた荷車が、さっきからずっと傾いたままだった。

 腰まで伸びた金色の髪をリルルは撫でた。四方を囲む鉄格子には厚い布が掛けられていて、外の様子は分からない。それは同時に、リルルの姿を人目から遮ってもいた。

 団長のブルグの声が聞こえて来た。このまま、野宿になりそうだと話していた。

(良かった。今夜は、見世物小屋に出なくて済みそうだわ)

 リルルは、瞳を足元に向けた。大きな魚の尾鰭と、銀色の鱗が目に映る。それがリルルの腰へと続いていた。

 リルルは、人魚なのだ。

 その昔、妖しい歌声で船人たちを誘い、多くの犠牲者を出したと言う人魚の伝説。

 だが、勇者の活躍で魔王が倒されてからは、他の魔物たちと共に、その姿を見ることもなくなった。だから、リルルの姿は、平和に慣れてしまった人々にとって、恰好の見世物なのだ。

 檻の中で生活するようになって、もう何日になるだろう。リルルは、夕べも村の集会場に設けられたテントの中で、大勢の視線に焼かれた。両手を大きく左右に広げて板壁にくくり付けられ、投げナイフの的になるのだ。

 一昨日も、その前も……

 このサーカス団に捕らえられてから、ずっとそうだった。

 檻に掛けられた布の一部がめくられ、ブルグが顔を見せた。リルルは、両手を胸の膨らみの前で合わせ、あごを斜めに引いた。

「全く色っぽいよな。上半身だけなら人間の女にだって、これほどの珠は滅多にいないぜ。脚があったら、飛びついているところなんだが……」

 ブルグが、商売用に伸ばしたヒゲをいじりながら、白い歯を見せた。

「止めといてくださいよ。これでも魔物の生き残りなんですから」

 声だけ聞こえているのがラール。ブルグの補佐役で、昔は名のある魔法使いだったようだ。

「わかってるよ。お前がディテレの呪文で、こいつの声を封じていなけりゃ、俺たち全員食べられているかもしれないって言うんだろう」

「耳にタコですか。私は、団長の鼻の下を短くする呪文を、知らないものでね」

「こいつ、言いたいことを……」

 布が下ろされた。再び、檻の中だけの世界に戻る。

 いつまでこんな生活が続くのだろう。そんな想いを物語るように、リルルの下瞼から溢れるものがあった。

「俺、ファンタジー世界に行く方法を、見つけたんだ」

 幼なじみのペーターが、リルルの部屋に飛び込んで来た。学校から帰ったばかりで着替えの途中だったリルルは、慌てて手に付いた枕をペーターの顔めがけて投げた。

「この科学万能の時代に、何がファンタジーよ」

 リルルはベッドの毛布を引っ張って肌を包んだ。だが、ペーターは臆することなく近づいて来る。

「わかってねえなあ。いくら科学が発達したからって、人間の心はいつもファンタスティックなものを求めているんだ。それを子供っぽいとか、現実離れしているとかって、そんな言葉でごまかしているだけじゃないか」

 リルルは、何度、聞かされたことか。高校生になれば少しは変わるかと思ったが、屁理屈ばかりが大人びるだけだった。

「良いから出て行って。私、着替え中なのよ」

「へへんだ。お前のぺちゃんこな胸なんか見たかないやい」

「ばかっ。出てけ、この痴漢!」

 リルルは目覚まし時計をつかんだ。

「なんだよ。一緒に連れて行ってやろうと思ったのに。出て行きますよぉーだ」

 ペーターが勢いよくドアを閉めた。一人になったリルルは、

「ペーターのバカ。いつまでもぺちゃんこじゃないぞ」

 目覚まし時計を枕元に戻したリルルは、その手をブラジャーのカップに当てた。

 それから何日後だっただろう、ペーターが行方不明になったのは。

「まさか、あいつ……」

 本当にファンタジー世界へ行ってしまったのだろうか。

 リルルがそう思い始めたのは、部屋でペーターの手紙を見つけてからだ。最後に来た日に置いて行ったのだろうが、リルルはペーターがいなくなるまで、気づかずにいた。

「俺はファンタジー世界に行く。一緒に来たければ、リゾの街でファーザを訪ねろ。三日後の夕方五時。遅れるなよ」

 手紙の内容は、それだけだった。

 ペーターは、リルルが手紙を読んだものと思っているだろう。翌日から学校で会っても変わった様子を見せなかった。手紙で言うところの三日は、とうに過ぎている。読んだ上で、その日に来なかったものと思い、一人でファンタジー世界へ行ったに違いない。

「素直じゃないあなたが、いけないんだからね」

 リルルは、ペーターの手紙を握りしめて、リゾの街へと飛び出した。

 ファーザと言うのは、この辺りで名の知れた占い師だ。リルルは、水晶玉をのぞき込むファーザの前に立った。大きな黒いマントを頭から被っていたが、その声は、おじいさんのようだった。

「お嬢ちゃん、リルルだね?」

 何も言わない内から話しかけられた。リルルは、ペーターが伝言していったものと思い、驚きもしなかった。

「はい。ペーターはどこですか?」

「心配ない。すぐに連れて行ってあげるよ」

「えっ……?」

「聞いているとは思うが、今のままの姿で向こうに着けるとは限らないぞ。何かしらの変化は、覚悟をしておくことだ」

 聞き返す暇もなかった。

 リルルは、真っ白な光に包まれ、視力を失った。気づいた時には、見知らぬ浜辺に打ち上げられていた。

 人魚の姿で。

 満員の観衆を集めたサーカス団のテント、その中央にリルルは張り付けられていた。

 山越えの為に興行を休んだのは一日だけで、翌日から、また見せ物にされる日々が始まった。体を串刺しにして余りある大きさのナイフが、次々にリルルの周囲の板壁に突き刺さる。

 観衆の視線は、ナイフ投げの技量とリルルの姿態と、どちらに多く注がれていたのか。

 それから、いくつの村を渡り歩いたかわからない。どこへ行っても『唄わない人魚』の評判は高く、観客の数に比例してリルルの羞恥は募った。灯りが消え、檻に戻されたリルルは、涙を絞る日々を続けていた。

 ある日の晩、ラールが、一人の少年を、リルルの檻の前に連れてきた。

「さあ、お前は今日からこいつの世話をするんだ」

 リルルは鉄格子を握りしめた。ラールが肩に手をおいた少年こそ、ペーターなのだ。

(ペーター、あたしよ。リルルよ!)

 声が出せれば、きっとそう叫んでいただろう。

 ペーターが頭を上げた。目が合う。リルルは自分の姿を思い出し、両手で肩を抱き、鉄格子を離れた。その目は、ずっとペーターを離さなかった。

「なんだ、こいつ。お前のことが気になるらしいぞ」

 ラールの目にもそう映ったようだが、ペーターは、ただ棒立ちになっているばかりだ。

「全くお前ときたら、自分の名前以外、何も覚えていないんだからな。覚えていたところで、人魚に知り合いがいるわけもないか」

 ラールは、行き倒れ同然だったペーターを引き取り、このサーカス団で働かせることにしたらしい。

(ペーターが、記憶喪失だなんて)

 何日かが過ぎても、ペーターは、リルルを思い出さなかった。

 リゾの街のファーザは、この世界に来るには、何かしらの変化が現れると言っていた。

 リルルは、人魚になった。ペーターは、以前と変わるところがない。外見が変わらない代わりに、ここに来るまでの記憶を失ってしまったのだろう。

「ほら、人魚の餌だ」

 ラールが、残り物の肉と野菜を皿に盛り、ペーターの前に出した。

 最初の頃は「人魚は何を食べるんだ」と言っていたサーカス団員たちも、今では自分たちの食事の残りを分けてくれるようになった。残飯整理と言ってしまえばそれまでだが、昔のような魔物に対する危惧は、薄らいでいるようだ。

 リルルは、皿に盛られた食べ物を、手づかみで食べた。今まで、ずっとそうして来たのだが、食事の様子を見たペーターは、

「それじゃ食べづらいだろう」

 自分のフォークを差し出した。

 周りで見ていた団員たちは、「そんなことをして大丈夫か」と、注意を促した。

 ところが、リルルが喜んでフォークを使うものだから「まるで人間みたいだな」と、人だかりを作った。

(ありがとう、ペーター。でも、あなたはあたしを思い出さないのね)

 リルルとペーターの間には、まだ冷たい鉄格子があった。

 ある夜、皆が寝静まったテントを離れて、ペーターがリルルの檻にやってきた。リルルは、いつものようにすすり上げているところだった。

「泣いているんだね」

 リルルが、涙を拭いながら、体を起こす。

「女の子だからね。あんな格好で、人前に出されるのが恥ずかしいんだね」

 リルルは、頷いた。

 こちらの世界に来て以来、誰もリルルを人間扱いなどしなかった。ましてや女の子などと呼ばれたことはない。

「俺もね。身寄りがいないんだ。いや、本当はいるのかもしれないけど、俺、記憶喪失って言うんだって。昔のことを覚えていないんだ」

 ペーターは、返事の返せないリルルを相手に、話し続けた。

「だけど、ずっと大切に想っていた人がいるような気がしてならないんだ。なんで俺は、その人を置いて、こんなところにいるのだろうって。おかしいだろう。他のことは何も覚えてないのに、その人は確かにいたんだって、思えてならないんだ」

 リルルは、首を振った。そうすることしかできなかった。

「やさしいんだな。俺を慰めてくれるのかい?」

 ペーターが、鉄格子の隙間から、右手を檻の中に伸ばした。リルルは、ペーターの手を両手で包み、自分の頬に持っていった。

「ここに来ると気持ちが安らぐみたいだ。もしかしたら、前にも俺たち、会っているのもしれないな」

 リルルの動きが止まる。目尻から溢れたものが頬を伝い、ペーターの掌に届いた。

「あれ。俺、何か悪いことを言ったかい?」

 リルルは大きくかぶりをふる。

「そうかい。なら良いけど」

 ペーターは、そっと右手を引いた。リルルがそれを追いかけるように鉄格子に張り付く。

「また明日も来るよ。おやすみ。今夜は楽しかった」

 ペーターの背中を見送りながら、リルルは、また涙を流した。それは、リルルを記憶に止めていたペーターに感激してのものだったのか。それとも、檻で生活するリルルと、記憶喪失のペーターの、これからを嘆いてのものだったのか。

 それからと言うもの、ペーターは、毎晩リルルの檻へやって来た。一方的に、いろいろな話をしては、テントに戻って行く。

 リルルには、それが何よりも楽しい時間となっていた。

「昔は、この辺りにもドラゴンがいたんだって。ドラゴンは、別に悪さをするわけでもなかったんだけど、その昔、勇者って人に力を貸してやって、最期には魔王と刺し違えたって、ラールさんが言ってたよ」

 そんな話をするところなど、ペーターは全く変わっていなかった。以前のリルルなら「そんな話に興味はないわ」と、話を打ち切らせていただろうが、今は、貴重な時間だった。

「あーあ、お前と話しができたらなあ」

 ペーターが両手を上げて、大きく伸びをしながら言った。

 そんなことができるくらいなら、とうの昔に告げていただろう。「あたしはリルル。あなたを追って別の世界から来た人間なの。あたしを連れてここから逃げて」と。リルルの顔に苛立ちが浮かんだのだろう。ペーターは、

「どうかしたの? お前、ちょっと変だぞ」

 リルルは、すぐに気持ちを落ち着けて、首を力なくふった。

「じゃあ俺、寝るわ。元気出しなよ。明日は、いよいよリゾの街だってさ」

 ペーターは戻って行った。

(ちょっと待って。リゾ……? ここにもリゾの街があるの?)

 リルルは、単なる偶然とは思えなかった。リゾの街があるならば、ファーザがいるかもしれない。ファーザがいれば、元の世界に戻ることだってできるかもしれない。

 遠くに見えていた街が、もう目と鼻の先にあった。リルルは相変わらず厚い布に覆われた檻の中にいたが、時折ペーターが布をまくり、表の景色を見せてくれたのだ。あれがリゾの街……それはリルルにも見覚えのある光景だった。リルルが初めて見せ物にされた場所である。サーカス団は、この辺りを巡業して、また振り出しに戻って来たというわけだ。

 何とかして、ペーターにファーザのことを伝えなければならない。

 リルルは焦ったが、その方法が見あたらない。今、伝えなければ、次はいつこの街に戻って来られるかわからなかった。

 団長のブルグが、ラールと話しているのが聞こえた。

「なあ、そろそろ人魚を的にしたナイフ投げも、飽きられたんじゃないか?」

「そうかもしれませんね。何か他の出し物を考えますか」

 リルルは、もしかしたらこれで逃がして貰えるかと、甘い期待を抱いた。

「それで、こういうのはどうかなあ?」

 ひゅんと風を切る音がした。それは多分猛獣使いの鞭だろう。ブルグが得意としている出し物だ。

「そんなものどうするんです? 人魚は、飛んだり跳ねたりできませんぜ」

「天井から吊して、鞭で打つんだよ。良い見せ物になると思わないか?」

 あの鞭には、以前一度だけ叩かれたことがある。舞台に立つのを拒んだ日のことだ。その時の骨まで軋むような痛みは忘れていない。あんな思いをするくらいなら、おとなしく的になっていた方が良いと思えたものだ。

「あまり良い趣味とは思えませんが……それに、そんなことをして人魚が死んだら、元も子もないじゃないですか」

 ラールは、乗り気ではないようだ。

「その日の興行が終わったら、お前が回復の呪文を唱えれば良い。それなら死ぬこともないし、翌日も使えるだろう」

「毎日、そんな目に合わせる気ですか? 残酷なことを考えるものですね」

「俺は、客が喜べば、それで良いのさ」

 何と言うことだろう。

 リルルが一発で根を上げたあの鞭を、興行として使おうと言うのだ。いったい一日に何発の激痛を浴びせられることになるのか。リルルにとっては、耳を塞ぎたくなるような会話だった。

 一行がリゾに着いた。街の真ん中を流れる川からはいくつもの運河が広がり、重要な交通手段の一つとなっている。

 以前にテントを建てた場所に、とりあえず荷車が停めった。

 ちょうど昼食の時間だった。いつものようにペーターが食事を運んで来た。檻の内と外ではあったが、ペーターは、自分と同じものをリルルにも食べさせてくれた。

「そうだ。お前に名前を付けてやろう。うーん、何が良いかなあ」

 ペーターはフォークを休めて頭を傾げた。「そんなことより……」と、リルルはペーターを見つめる。先程のブルグとラールの話を、ペーターは聞いていなかったのだろうか。

 リルルは、その時になって、やっと思いついた。檻の中から手を伸ばし、すぐ外の地面に指先で『リルル』と書いた。ペーターに気づかせる為に、鉄格子を掌で鳴らす。振り向いたペーターは、地面に描かれたものに目を見開いた。

「お前、字が書けるのか。えーと、この国の文字じゃないな。でもわかる。何でかなあ。リ・ル・ル……そうか。お前、リルルって言うんだ」

 ペーターが、ここに来て初めて、リルルの名前を呼んだ。

(そうよ。リルルよ。これでも思い出さないの?)

 リルルは鉛筆を持つ手振りをして見せた。何か書くものが欲しかったのだが、この世界では、紙は貴重品で、一般市民が落書きに使う余裕はなかった。

 ペーターは、できるだけ真っ直ぐで堅そうな木の枝を取ってくれた。リルルは、地面に書き付けた。

『あたしは別の世界から来た人間。あなたもそう。わたしたちの世界へ帰りましょう』

「えっ、本当かい? 君が人間だったなんて」

 リルルは、大きく頷いた。

「別の世界って? 俺もそうだって? いきなり言われても……」

『あなたの失われた記憶の中ある世界なのよ』

「そうなのか? 信じられないけど……」

『信じて』

「うーむ。でもどうしたら帰れるんだい?」

『ファーザを探して』

「ファーザって……?」

 聞き返すペーターの口を片手で制し、リルルは、もう片方の手で地面を撫でた。ラールが近づいてきたのだ。

「おい、何をしている?」

 ラールは、リルルとペーターの様子に、いつもと違う何かを感じたのだろう。事はより急がなければならないようだ。リルルは、目とあごでペーターに合図した。

「えっ、あっ、ラールさん。俺……街を見学して来ます!」

 言い終わる前に、ペーターは走り出していた。

「なんだ、あいつ」

 ラールは、両手を腰に当てて、ペーターの後ろ姿を目で追った。その足元には、いくつかの文字が消し切れずに残っていた。

 オレンジ色の日差しが空を染めた。もうすぐ開演の時間だ。ブルグもラールも、準備で走り回っている。忙しくなったのは、いつも雑用を引き受けていたペーターがいなくなったせいでもある。

(どうしたの、ペーター。早く帰って来て)

 リルルの緊張は高まっていた。

 少し前にリハーサルだと言って連れ出され、舞台の真ん中で、両手を頭上に吊り上げられた。尾鰭がやっと床に届くくらいにまで引き上げられ、体中、全くの無防備だった。その前に立ったブルグが、幾重にも巻いた鞭を、掌で遊ばせていた。

(こんな格好で鞭を打たれるなんて……)

 リルルは全身に悪寒が走った。リハーサルは、それで済んだが、もうすぐ始まろうとしている本番では、確実に素肌を打たれるのだろう。リルルは、考えたくないとばかりに首を激しく振った。

「リルル」

 ペーターが、小声で呼んでいる。返事のできないリルルは、辺りを見回すことしかできない。

「このまま荷車を動かすから、騒いだりしちゃダメだよ」

 開演前の慌ただしさに紛れて、ここから抜け出すつもりらしい。リルルは、息をするのも気遣かわれた。

 そんなに規模の大きなサーカス団ではない。荷車が一台なくなって目立たないはずがなかった。団員の一人がすぐに気づき、団長を大声で呼ぶ。他の一座が、人魚を盗みに来たのだと思ったようだ。

「いたぞ。逃がすな」

 街を出たところで団員たちに見つかった。ペーターは、必死になって荷車を引っ張ったが、空身で走る大人たちから、逃げ切れるわけがない。

 二人の行く手を、川が遮った。

 後ろばかり気にしていたペーターは、川に気づくのが遅れた。勢いの付いた荷車は、リルルの檻ごと、水柱を上げた。

 川の流れは速く、あっという間に二人を飲み込む。追いかけて来る者は、いなかった。

「なあ、あの時どうして助かったんだ?」

 学生服を身に付け、鞄を下げたペーターが、隣を歩くリルルに尋ねた。

「うふふ。内緒」

 リルルは、意味ありげに笑う。

「教えろよ。俺が気づいた時には街中の運河にいて、川から上がると目の前にファーザがいて……気づいたら、元の世界に戻っていたんだからな」

 ペーターは、片手を首の裏に当てて、左右に捻りながら、思い出す素振りを見せた。

「ファーザのことも、はっきりと、覚えてなかったんだものね」

「ああ、悪かったな」

「良いのよ。別にそれで」

「なんか引っかかるんだよな。その言い方」

 ペーターは、川に落ちると同時に気を失った。

 だが、リルルが閉じ込められていた檻は、川面から飛び出した岩に叩き付けられて、その役目を果たさなくなった。自由を得たリルルは、ペーターを抱えたまま、急流を泳ぎ切った。人魚であることが、初めて幸いしたわけだ。

 川岸に運ばれたペーターの息は途絶え、体は冷え切っていた。

 リルルは、保健体育で習ったように、人工呼吸を施した。二人が唇を合わせたのは、これが初めてだった。あまり良いムードとは言えないが、とにかくペーターは、息を吹き返した。冷えた体は互いの体温で暖め合った。

 ある程度回復したところで、リルルは、再びペーターを抱きかかえ、川を遡った。その川が、街中の運河に通じていることを、人魚の本能が感じとっていたのだ。

 後はペーターが言った通り。

 運河を泳ぎながらファーザを探し当て、この世界に戻して貰ったのだが……

 何で内緒にしているかって。

 それはね、ファーザに言われたの。

 人魚は、初めて唇を許した男性と、添い遂げる運命にあるんだって。

 ちょっとうれしいような、つまらないような……

 どっちにしても、もうしばらくペーターには言わないでおきたいわけ。

 だって、こいつ、全然気づいてないんだもの。

               (おわり) 

 


 
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