「……っと、これで良し。どうだい、気分は?」
「ええ、だいぶ良くなりました。感謝します、華佗殿」
「稟ちゃん、これからはもう少し妄想を控えた方が良いと思うのですよー」
「わ、わたしだって毎回毎回好きで鼻血を噴いているわけではないっ!」
「……その、女性が大声で鼻血とか叫ぶのは止めた方がいいと思うんだが……」
「っ! し、失礼……。確かに、華佗殿の言う通りですね……」
「しかし、華佗さんがたまたま近くにいて本当に助かったのですよー。これが天の助けなんですかねー」
街の片隅、大通りから脇へと続く路地で。一人の男と二人の女が言葉を交わしていた。
男――華佗というらしい――は長身で、ぱっと見には細い印象を与えるものの、その実引き締まって均整のとれた体つきをしている。白い長衣と左腕の籠手が特徴的で印象深い。
二人の女の片割れ、稟と呼ばれた方は、緑を基調として身体の線を浮かび上がらせるほどぴったりとした服を着ていて、女性らしく膨らんだ胸元の形すらもあらわにしていた。にもかかわらず雰囲気がどこか硬質なものを感じさせるのは、うなじのあたりで一まとめにくくられた栗色の髪と、怜悧に引き締められた美貌と、両の目にかけられた眼鏡のせいだろうか。
もう一人の女、この場における最後の一人は……なんというか、可愛らしい存在だった。腰まで伸びた、『ふわふわ』という表現がぴったりの、はっきりと波打った金に近い淡色の髪。小柄な身体を青色の服で緩やかに包んでいる。そのせいか、体型がわかりにくい。
大きな瞳とは対照的に小さく形良く整った鼻すじと唇。この女――少女を前にして「可愛い」と言えない者はそう多くないだろう。
しかし何より特徴的なのは、少女の頭の上でちょこん……ではなく、どどん、と存在を主張している人形というか置物というか……とにかく不思議なモノだった。
けれどその不可思議なモノについて、この場の誰も気にした様子が無い。何も問題はない、という雰囲気で話が進んでいく。
「前にも言ったが、これはあくまで出血を抑える程度のものでしかない。なんというか……その癖を直さないと根本的解決にはならないぞ」
「ええ、それはわかっているのですが……」
ふぅ、と朱を刷かなくとも艶を帯びた口唇からこぼれたのは、『悩み』という感情を凝縮したかのような吐息。
顔は男の方を向いているが、視線は定まっておらず、ここにはないなにか――あるいは誰かか――を見ているように感じられる。
「なにやらお悩みのようですね~」
次に口を開いたのは、淡色の髪をした少女だった。いつもこんな調子なのだろうか、おっとりとした口調の幼げな声色。
「華琳さまのことですか~? それとも……」
「――生憎、そんな冗談に付き合うような気分ではないのです」
やや険のある口調で答えながら、少女に目を向ける稟。
ぼうっとしていた自分を誤魔化すかのような仕草に、少女――風は思わず苦笑した。
「華佗さんが血止めしてくれたように、今の稟ちゃんに効くツボがあればいいんですけどね~」
「まるで他人事のように言いますが、風、あなたはどうとも思っていないのですか? そ……その……か、身体を許した……何と言うか……とにかく! 一刀殿がいなくなったことに対して!」
「もちろん、思うところはありますよー」
さらっと。今日の天気はどうか、みたいな気軽さで風は答える。
「ある……とは言いますが。あなたは何事もなかったかのように、そうして涼しい顔をしているではありませんか!」
泰然とした態度が気に入らないのか、噛み付くように言葉を続ける稟。
「? 稟ちゃんは何をそんなにかりかりしているのですかー?」
「わ、わたしは別にかりかりなどしていません!」
とは言うものの、眦を吊り上げた表情は怒りか不機嫌かのどちらかにしか見えない。
そんな相方に対し、ふぅと一息ついて、あくまで我が道を往くといった空気のまま、しかし痛烈な一言を投げかけた。
「お兄さんが、今の稟ちゃんを見たら何て言うでしょうねー?」
「っ!」
穏やかな口調の抉りこむような内容に、思わず唇を噛み締める。
「まぁ、稟ちゃんのその『病気』は簡単には治らないでしょうね~」
「風!」
「ぐー」
「寝ないでくださいっ!」
「おおっ。稟ちゃんが大声を出すので、つい~」
「……いや、それは普通逆だと思うんだが……」
まるで漫才のような三人のやりとり。
そんなほのぼのとした? 空気は、大通りから響く喧騒によって破られた。
「避けろ避けろぉ馬が通るぞ!」
「あぶない、避けてぇ!」
「急ぎにて馬が通る! 道を開けろぉ!」
悲鳴じみた人々の声と、それを裂くように男の野太い叫びが聞こえる。
つい今しがたまでいがみあっていた(?)のも忘れたかのように、風と稟は互いの顔を見合わせた。
「……何事なんでしょうね~?」
「わかりません。が、ただ事でないのは確かです。行ってみる必要があるでしょう」
「オレも行こう。怪我人が出ているかもしれないしな」
「それは助かります。では行きま――」
「ぐぅ」
緊張した空気に包まれたと思った瞬間、全てを台無しにするかのような風の寝息。
「だから、寝ている場合ではないでしょう!」
「おおっ!? つい~」
「……ともかく、オレは行くよ。ここにいても何もわからないしな」
すぐ混沌と化す場の空気から逃げるように、華佗は踵を返す。
稟と風の二人も、路地から大通りへと続く道へ歩を進めた。
同じ頃、騒ぎの発端となった郭門とは正反対の門に、霞を先頭に呉・蜀からの来訪者たちが洛陽に到着した。
「なんや、えらい街が騒がしいようやけど……なんかあったんか?」
国王の先導という大任を終えた安堵感からか、霞がお気楽な調子で門兵に話しかける。
対する兵は、複雑な表情で口を開いた。
「はっ! 自分はこの場を離れていないので詳しいことはまだわかりませんが……なんでも、天の御遣い様がお戻りに――」
「ほんまか? ほんまの話なんかそれは!? 冗談や嘘で済まされるもんやないでそれは!」
先ほどの気楽な調子とはうってかわり、胸倉に掴みかかりそうな勢いで門兵に詰め寄る霞。
「ちょっ、霞さま!」
慌てて副官が止めに入る。が、その彼も疑わしそうな眼差しで兵を見据えている。
「まぁまぁ霞。さっきそこの兵が詳しいことは知らないって言ったばかりじゃんか。ここであーだこーだやってても始まんないって」
そうなだめるように口を開いたのは蜀の将、馬超……翠だった。
「それに、長旅であたしらも馬も疲れてんだ。まずは城へ案内してもらえないか? 曹操に会えば、ホントかどうかもはっきりするっしょ」
周りを見渡しながらの言葉に、場の多数が頷いて同意を示す。
「……そうやな。取り乱してすまん。あんたも、すまんかったな」
冷静さを取り戻したのか、一歩下がってわびる霞。
「いえ……お気持ちは、わかるつもりです」
気にしないでくださいというように、門兵は頭を振った。
「ともかく、お城に移動なのだ!」
場の空気を和らげるように、鈴々が朗らかに叫んだ。
「噂の御遣いに会えるかもしれんのか。面白くなってきたのう」
豪快に笑ってみせたのは桔梗。追従するように紫苑がそうねと笑みをこぼす。
「さて、それじゃあ行くとしましょうか。事によっては、国王会議どころじゃなくなるかもねっ」
雪蓮の心底楽しそうな言葉に、蓮華と冥琳が小さく溜息をこぼした。
「うん? なんだ? やけに外が騒がしいな」
城に自室にこもり、作業に没頭していた春蘭だが、飛び交う声や慌しい物音に部屋から出た。
ちょうど前を通りかかった兵を捕まえて、何事かと問いただす。
「それが……五胡兵の討伐へ行かれた楽進、李典、于禁さまらがお戻りになられたのですが、一緒に天の御遣いさまもおられるとか……」
「何っ! 北郷が戻って来ただと!?」
「それを聞いた曹操様は急に城を飛び出されたそうで……わたしも人づてに聞いただけで、詳しいことはまだ何もわからないような有様ですが」
そう言い、では、と一礼して立ち去る兵士。
だが、春蘭の耳には聞こえていなかった。
「北郷が……戻って来た、だと……!」
しばらくその場に立ち尽くしていた春蘭だが、やがて踵を返すと急ぎ足で……いや、全力疾走でその場を後にするのだった。
天の御遣い――北郷一刀帰還の知らせを聞き、各人はそれぞれに思いを抱く。
そして物語は再び、少女と少年の元へと返る。
洛陽の都、その大通り。
郭門から城門までを繋ぐ、この街の中心とも言える場所。
普段なら喧騒が絶えず、賑やかさで満ちているここも、今は異様な空気に包まれていた。
通りの中心を十人ほどの集団が城へ向かって歩き、その周りを大勢の住人が囲んでいた。ただし、歩いている集団の邪魔をしないためにか、同じぐらいの速さで人垣も城へ向かって移動している。
上から見下ろせば、それは罪人を運んでいるようにも見えたかもしれない。
しかし場の中心にいるのはこの国の王であり、この世に一時の平穏をもたらした英傑である曹操――華琳。
そしてその背に負われているのは、天の御遣いと呼ばれた少年――北郷一刀。
一度はこの世を去った一刀が、また再びこの地に姿を見せた。そのことを知っている民衆にとっては、一刀は英雄……尊敬と敬いの対象でこそあれ、罪人などと思う者は誰一人としていない。
まぁ、一部の人々にとっては、やはり一刀は罪深き人なのかもしれないが。
ともかく。本来なら歓声が飛び交っていてもおかしくないこの状況が緊迫した空気に包まれているのは、やはり一刀が意識を失ったままだからなのだろう。
そんな一刀を背負ったまま無言で歩を進める華琳の姿に、人々も気圧されたかのように言葉を発せないでいるようだ。
と。そんな状況で華琳に声をかける者が現れた。
「久しぶりだな、曹操さん。これは一体何の騒ぎなんだ?」
城へ向かう華琳の行く手を塞ぐように通りに立っていたのは、華佗だった。その後ろには風と稟の姿もある。
いまいち状況を理解できない華佗とは対照的に、風と稟は華琳の背中にいる人物を見ただけでおおよその事態を把握したようだった。が、驚きのあまりか、何も言えずにいる。
「あなたは……確か華佗、だったわね。悪いけど、今あなたと話している暇、は……!」
構っている暇はない、と煩わしそうに華佗をやり過ごそうとした華琳だったが、台詞の途中で彼がどういう人物だったのかを思い出したようだった。急に顔色を変えて、大声で叫ぶ。
「お願い、一刀を診て! 目を……目を覚まさないの!」
城内の一室。かつて一刀が使っていた部屋。
主が不在だったせいか多少埃くさくはあるものの、手入れ自体は行き届いている。
いつか一刀が帰ってくるかもしれない。あるいは、いつ一刀が戻ってきてもいいようにと、主に凪がこの部屋の管理をしていたのだった。
そしていま寝台には、本来の主である天の御遣いが横たわり、静かに目を閉じている。
「……で、どうなの? 一刀の容態は」
脈を取ったり額に手を当てたりといった一通りの診察が終わったのを見て、華琳が口を開いた。その口調には苛立ちがにじんでいる。
無理もない。
華佗と合流して急ぎ城に戻ったはいいが、そこには話を聞いた魏の将たちのみならず、蜀・呉の面々も興味深々といった顔でずらりと待ち構えていたのだから。
華琳の心情を察した魏の人間はともかく、星や紫苑や蒲公英、雪蓮や明命や小蓮にまとわりつかれ、騒ぎ立てられ、華琳の堪忍袋の尾は切れる寸前だった。
医者である華佗の鶴の一声によってようやく部屋に運び込むことはできたものの、内心は三割の苛立ちと七割の不安でいっぱいになっている。
「今診た限りでは、身体のどこかに異常があるというわけではなさそうだ。病魔が巣食っている様子もない。なにかひどく体力を消耗するようなことがあって、回復のため眠っているようだな」
「じゃぁ、命がどうこうということではないのね!?」
「ああ。しばらく休めばじきに目を覚ますだろう。一応、起きるまでオレもこの城にいよう。疲労回復のための鍼は打つし、薬湯を水差しで飲ませるなどして早く意識を取り戻すよう手を尽くす」
その言葉を聞いて、華琳は安堵の吐息をこぼした。
「では任せるわね。人手が必要なとき、何か要るものがあるときは遠慮なく言ってちょうだい」
「わかった。そうさせてもらおう」
そうした短いやりとりのあと、では準備にかかる、といって華佗は部屋を出た。
寝息だけが静かに響く、二人だけの空間。
「一刀……」
ぽつりと、少年の名を呼ぶ。
寝台に腰掛けると、寝顔を覗き込んだ。
こうしてよく顔を見ると、確かに知っている一刀ではあるのだが、どこか違うようにも思える。
そう気付いたとき、急に得体のしれない不安が胸に込み上げてきた。
不安を打ち消したい。そんな衝動に駆られて、華琳はそっと手を伸ばした――
――その時。
何人もの悲鳴と共に、部屋の戸が凄まじい勢いで弾け飛んだ。
そして室内に、文字通り雪崩れ込んでくるおり重なった人々――魏・呉・蜀の武将たち。
「いったぁー……ちょっと誰よ押したの!」
「か、華琳さま! ご無事ですかっ!?」
「いいから早くどかぬか! 桃香さまが苦しんでおられるではないか!」
「だ……誰のですかこのおっぱい……らくがきしますよぅ……」
「一刀! 一刀の様子はどないなん!?」
「みんな~、早くどいてよう~。つぶれちゃう~……」
喧々囂々。
さっきまでの静けさが嘘だったかのように、たちまち騒がしさで満たされる室内。
倒れこんだ人々は思い思いに好き勝手なことを言っている。
――が、その喧騒がぴたりと止まった。
いつの間にか愛刀『絶』を手にした華琳が、背中に揺らめくものを纏いながら仁王立ちしていたからだ。
「――で。誰から首を刎ねられたいのかしら……?」
青ざめる者、言い訳を始める者、逃げ出そうともがく者――しんとしたのはわずか数秒で、再び騒がしくなる室内。
騒ぎのせいで誰も気付かなかったが。
意識を失ったままの一刀の口元が、ほんの少し、緩んでいた。
その日の夕方、洛陽の街中におふれが出された。
天の御使いが戻ってきたこと。
今は疲労のため眠っていること。
その目覚めまで、三国国主会議は延期にすること。
そして、会議終了後には極めて盛大に祭りを行うこと。
住人たちに、異論があるはずもなかった。
街を歓声が満たす。
声高に叫ばれるのは、天の御遣い――北郷一刀の名前。
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本っ当にお待たせしました……。
まぁ、読んでみてください。