「私の兄は私を助けるためにゴリラに…」
東(あずま)は、青ざめ、目に涙を溜めて、そう言うと口をつぐんだ。私は一体どう反応すればよいのだろう?ゴリラに殺された人間がいるなど、十八年生きてきて聞いたことがないし、聞きたくもない。栗色の髪を持つ乙女、東から放課後に呼び出されて校舎裏に来て一分足らずで、東の第一声がこれである。私は、東と久しぶりに、面と向かって喋るのにもかかわらず、告白されると思っていた。この頃、東としばしば目が合うというだけで。うぶな私を私は呪った。神よ、一体、私が何をしたと言うのだ。この十五年間、私は、東一人を熱心なキリシタンがキリストを愛するがごとく、一途に愛して来たではないか。それなのに、何ゆえだろうか、神は私の東への信心を知りながら、私と東の間に、色事ではなく、ゴリラを持って来たのだ。色事とゴリラの接点など何所にもない、私にはそう思えたし、誰もがそう思うだろう。ゴリラと色事の接点が分かるのは未来を透視出来る人だけであったろう。私の知り合い大多数は、今これを読んでいるあなたのように私の十五年の純潔を馬鹿にし、逆にその純潔は卑猥だと言う。私は自分で自分に、貴様は乙女か、と厳しく罵詈雑言を浴びせたくなるが、断じて言おう、私は乙女ではない、乙女兼追っかけである。まあ、こっちの方がはるかにたちが悪いのだろうが。この世には、ストーカーなる言葉があるらしいが、私の知り合い大多数が、私の事をストーカーと呼ぶが,私はそんなものではない。何ゆえに私が、そのように言うのか、それは私の危機感のせいであろう。私は、ストーカーと呼ばれるのを畏怖しているからだ。東が昔、ストーカーに悩まされていると聞き、そのストーカーが私ではないと信じたいからだ。私は、ただ、東が学校から家に帰る帰路を毎日そっと後をゆっくり歩くぐらいである。断じて言おう、つけてはいない。帰り道が一緒なだけである。家が近くにあるだけである。学校から家に帰る時間帯が、偶然、一緒なだけである。
私は、東と同じ幼稚園の出身であり、その頃から、東の事が好きであったし、東は覚えていないかもしれないが、東も私の事が好きだと言ってくれて、キスまでしたのである。まあ、それは、幼稚園のお遊戯会の劇の中でのことであったが。そして、同じ小学校、中学校、高校、現在にいたるのである。その間、私は東を思い続けていたのだが、東は私の気持ちに気づかなかった。しかし、それは当り前だったかもしれない。私は中二病と言う、世の男の子達を童貞君と言う、謙虚でよわよわしい男にする、病にかかっていたからだ。私は、幼馴染であろうと、女性と話す時は敬語になると言う不甲斐ない、軟弱男子になってしまったのである。
東は、さまざまな男達に、求愛されたがその度に断り、不敗神話を形成していき、負け知らずの軍神として色男達に畏怖の目で見られている。私はそんな東が好きであった。東は、才色兼備、文武両道、を兼ねそろえているため、東は、周囲から、特別な人間だと思われていて、憧れと嫉妬の目で見られているが、東は、とんとそんな事に気付かない。要するに、東は天然素材なのである。天才で天然ボケなのである。
そんな東が、私の愛してやまない東が、私に、人々がストーカーと呼ぶ私に(東は気付いてないのだが)、悩みを打ち明けてくれたのである。でも、何故だ、何故ゴリラなのだ。私は、どちらかというと、ゴリラが好きであるが、得意なほうではない。私は、ゴリラを飼育したことはないし、ゴリラと面と向かって話したこともない。私はゴリラのスペシャリストではない、断じて言う、私はゴリラのスペシャリストではない!
「東さん、お兄さんがゴリラに…」
「そうです、兄はゴリラに…」
「それは、何時の話なのですか」
「三日ほど前に…」
「それじゃあ、まだニュースになってないわけだ」
「え、なぜニュースになるのですか、このことは私しか知りません」
「だって、お兄さんは動物園でゴリラに亡きものにされたのでしょう、そんな奇異な出来事、マスコミが放っておくわけないじゃないですか」
私がそう言うと、東の顔面は、驚きを示した。その顔でさえ美しい。
「兄は死んだのですか?」
「いや、私は知りません」
「知らないのに、なんで、そんな事を言うのですか!」
東は私をビックリさせるぐらい大きな声で言った。東はわなわなと体を震わせ始め、目には涙が勢いよく溜まりはじめた。東はこの時、非常にうまく泣いた、と私は後に舌を巻いた。
「もう、何がなんだか分からなくなりました。妙な噂を信じた、私が馬鹿でした…忘れてください」
東はそう言うと走って私から遠ざかろうとしたので私は東の手首を掴んだ。私は女性を泣かして、平気で生きていく事など出来ないのである。特に、東を泣かして平気でいられるわけがない。軟弱男子童貞君でもそのくらいの事は出来るのである。
「お兄さんはどうしたのです、わけを話してもらわないとこちらも対処できません」
「もういいのです、誰も私の言うことなど、信じてはくれません」
「大丈夫です、私の友達には、朝起きるとゴリラに姿が変わっていた人がいます」
私は、カフカの『変身』を前の日に読んだ影響かそう言った。それは、私の人生を狂わせる原因になった。諸君、今、あなた達が読んでいるこれは、私の手記である。私が、この手記を書き始めた理由は、私が作家志望の人間であるだけではない。この後、起きる出来事を記して後の世に伝えたいと思ったからである。後の世に私と同じような奇妙な運命を辿るかもしれない人のために。
「やはり、噂は本当だったのですね…」
東は長いまつ毛についた涙を手で拭いながら言った。私はその噂というものがなんであるのか、分からなかった。私についての噂、私が未だに童貞君だということ、学校の関係者全員が卑猥だと言った一編の小説を制作したのが私だという事、私についての噂と言えばこのぐらいである。
「あなたは…」
東は次の様に語った。東いわく、私は学校の中では有名人らしい。眉目秀麗、頭脳明晰、剛毅木訥。東は、私をこの三つの四字熟語で周囲は認識していると教えてくれた。私はそれだけでも驚きを隠せなかったのに、さらに東は言った。私が普通の人間にはない、特別な、霊的な力を持つ人間だと周囲から認識されていると。
「私がもしそのような人間であるとして、東さんは私に何を頼みたいのですか?」
「そんな人間であるとして、ではなく、あなたはそんな人なのでしょう?」
私のこの時の心中の動揺は、日本の国土の地中深くにいると言う巨大なナマズが、渾身の力をもって日本を揺らしているよりも激しかった。私は、東の『あなたはそんな人なのでしょう?』という期待に答えたいと言う感情が理性を超えてしまった。
「そうです、私は、福岡の稲川淳二と呼ばれています」
私には、今でもまったくと言っていいほど、そっちの知識がないが、さすがに稲川淳二は不可解だと思う。
「やはり、そうだったのですか」
東も抜けていた。私はこの時、気づくべきであった、東もそっちの知識が無いことに。
「それで、東さん、私に何をしろと言うのですか?」
私はなるべく動揺を抑えて言った。ボロが出ないように懸命に。
「私の兄は、あなたのお友達と同じようになってしまったのです」
「なーるほど。ゴリラになったのですね」
「驚かないのですか」
「そんなの珍しくも何ともないですからね。私の家の近所にはゴリラが板前をやっている寿司屋がありますから」
私は、東の、『兄、ゴリラ説』の衝撃に上手く対応したと自分でも思った。
「ゴリラがお寿司を…やはりあなたに話して正解でした。どうか、兄を助けてください。お願い、北君。お礼ならなんだってするから」
お礼ならなんだってするから、という東が発した言葉によって、私の理性が東のセーラー服を見て崩壊しかけたのは言うまでもない。私の中の軟弱男子童貞君が色めき立ったのも言うまでもない。
私と東は、東の兄が幽閉されていると言う動物園に次の日の朝、向かった。私はゴリラの事と東が私にしてくれるお礼を考えて眠ることが出来なかったため、寝不足で気分が悪かったが、東と会った瞬間、これは二人の初デートではないかと思い、私の気分は跳ね上がろうとした。しかし、その気分を上から抑え込む奴がいる、それが誰だか、諸君らはお分かりになるであろう、ゴリラである。奴は、私の気分を人力を超えた力で抑え込もうとしたのである。例えば、私と東の動物園を訪れた理由が、象を見に行く、というほほえましいものならば、私の気分は、夏の草原を縦横無人に走り回る少年のように、あふれんばかりの活力を表にだしていただろう。しかし、私と東の動物園を訪れた理由は、ゴリラに姿が変わった兄を救出しにいく、と言う奇妙奇天烈なものであったから、私の気分は、出口のない暗い青春を永遠に走りまわされる中学二年生のように、憂鬱であった。要するに、私の気分はバッチリ抑え込まれたのである。ゴリラによって。
憂鬱な私を尻目に東のテンションの高さは異様なものであった。私は気付くべきであった、東のテンションの高さの理由を、男として。
東が前日、教えてくれたことによると、東の兄は、今はゴリラとしてゴリラの檻の中で生活しているらしい。東の兄は毎日、人間としてのアイデンティティを守りとおそうと、ゴリラとしての生活を拒否しているため、飼育員から、食事を与えて貰えなかったり、するそうである。私はその話しを東から聞いて、疑問に思ったことがある。東は一体どうやって、東の兄と連絡をとっているのだろうか?
「兄には、携帯を持たせています。なんなら、会話してみますか?」
東は私が、東の兄と東がどう連絡をとっているか聞くと、そう言った。
私は、東から手渡された携帯が重く感じられた。ゴリラになった人間がはたして人語を喋れるのだろうか?「ウホ、ウホ、ウッホ」なんて喋られたが最後、私の理性は崩壊するであろう。だから、と言って、「もし、もし、僕、ゴリラ」なんて喋られたら私まで自分がゴリラに変身したのではないかと疑うはめになるだろう。
私はどちらにしろ、ゴリラとなんか話したくなかった。
「こんにちは、妹さんの幼馴染の北と申します。事情は全て聞きました。私はあなたを助け出すために全力を注ぎますので、よろしくお願いします」
私はゴリラと会話することで緊張して、震える声でそう言い終わるか終らないかの時、東は。ちょっと、と言って私から離れていった。おそらく、小用であろうと思い私は、電話に集中した。東の兄はしばらく何も言わなかったため、私たちの間、私とゴリラとの間には、沈黙が流れ、私は、このまま沈黙が続けばいいと思った。私はゴリラに何も言って欲しくなかった。どんな事を言われるにしろ、私の中の何かが崩壊するのは目に見えていた。ゴリラはしばらく、いや、ずいぶん長く、何も言わなかった。そして、私は肩を後から叩かれ、振り向きざまに私はしたたかに殴られた。私は私を殴った相手を見て、驚愕した。右手に携帯を持った、顔だけがゴリラの人間がいたのである。私は恐ろしさのため、後ずさりした。そして、ゴリラは言った、
「こんな、胆力のない男のどこがいいんだろうか」
そう言い終ると、ゴリラは自分の顔を脱いで、その顔を投げ捨てた。それは、ゴリラの覆面であった。そして、その覆面の下にある顔は、東とそっくりの、顔の形の整った男の顔であった。
「男なのに、なぜ気付かなかった、この童貞野郎!」
私は、土砂降りの雨の中走っていた。この時の私に不可能はなかった。川の氾濫によって橋が決壊しようと、橋を使わずとも泳げばよい。山賊に襲われても、そんな奴ら蹴散らせばよい。私の前を走る奴がいても、それが、メロスでも今の私なら追い越すことも出来るであろう。私は行かねばならなかった、東のもとへ、男として。
私には東がどこにいるのか見当がついていたから、私はすぐに東を見つけた。東はゴリラの檻の前に一人、土砂降りの雨の中、傘もささずにたたずんでいた。その姿は相変わらず品があって美しかったが、恋に破れた乙女のように、悲愴さが漂っていた。私は渾身の力をふりしぼって叫んだ。
「あずまー!騙しやがったな!」
東は放心状態だったのか、私をボンヤリとした目で見た。
「ああ…北…君。兄は…ゴリ」
「もういいから東、お兄さんから話は聞いた」
「でも、北君は…私のことなんか、なんとも思ってないでしょ」
「そんなこと…」
「だって、普通に考えてよ、兄がゴリラになるだなんてあり得ないでしょ。そんなの女が男を誘う口実に決まっているじゃない、そんな事にも気付かないなんて…北君が私の事をなんとも思ってない証拠じゃない!」
「そんなこと…分かるわけないだろう!お前は本当に抜けてるよ!男を誘うのに、兄がゴリラに変わったなんて言う女、お前以外おらんわい!」
「北君、喋り方が昔に戻ってる」
それは、私にとって無意識的なことであった。無意識的に、私の中にいる弱虫、軟弱男子童貞君、が私の中で駆除されていたのである。しかし、私はこの時まだ童貞であるのに変わりはなかった。
「う…うるさい、そんなことはどうでもいいだろう、あのな、東…」
「分かったわ、こういうことでしょう。北君は私のこと女として見る事が出来なくなったから、そんな喋り方になったんでしょう、私みたいな女、北君には似合わないものね」
「馬鹿かお前!お前みたいな女を理解出来ないにしても、真摯に付き合ってくれるような男、俺以外におらんわい!だから、東、俺と付き合ってくれないか、お前以外に、俺みたいな馬鹿を好きになってくれる女いないんだ。そして、俺はお前以外、好きになれない」
私がこの手記をここで終わりにしようとしているのを諸君達はお分かりになるであろう。先人は言う、「成就した恋ほど語るに値しないものはない」と。私は今になって思うのだが、神は私の望み通りに、私と東の間に色事を持ってきてくれた、信じるものは救われるかもしれない。
しかし、もう、ゴリラはこりごりである。
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『童貞男子軟弱君』の北君はある日、意中の乙女、東に校舎裏に呼び出されて、とある秘密を告げられる…。ゴリラと恋はつながるのか?神は北君に意中の乙女、東との色ごとを持ってきてくれるのだろうか?東の兄は無事にゴリラの檻から生還することが出来るのか?ゴリラ・ラブ・コメディー(略して「ゴリラブ」)は成立するのか?