そんなこんなの日々が過ぎて行ったある日。
懐かしい人が城を訪ねてきた。
「お久しぶりでございます。殿下」
「お久しぶりです、ジュズさま」
さすがに椅子から立ち上がって挨拶をする。
一時期、稽古をつけてくれた剣客だった。
老女と侮るなかれ、剣の腕には自信がある方だったが、こてんぱんにやられたのはこのジュズだけだ。
そして、わたしの唯一の師とする人物だ。
スズが一瞬、体を硬直させたのが分かった。
「スズ?」
「…まあ、可愛らしいお姫さまですこと」
なぜかジュズも顔をこわばらせたが、すぐに笑顔になった。
「この娘をご存知なのですか」
「いいえ、知り合いの子に似ていたものですから。お名前はなんとおっしゃるの?」
人見知りなどしないスズが、恥ずかしそうにわたしの後ろに隠れる。
「スズ。恥ずかしがらずにご挨拶なさい。昔、わたしがお世話になった方だ」
おずおずと前に出たスズは、ペコンと礼をすると、また後ろに隠れてしまった。
ジュズはクスクスと笑っている。
キムザが茶を運んできた。
「可愛らしいお姫さまでしょう」
我が娘(でもこんな自慢はしないか)かのように、鼻高々と言う。
「ええ、本当に。どこでお知り合いになりましたの?」
「とある町で拾いました」
初秋の日が窓から差し込んでいる。ジュズは優雅に茶を啜った。
スズは大人しくちんまりと椅子に座っている。
「まあ、捨て子ですか。とてもそうは見えませんけど」
「乱暴されている所を助けたら、なつかれまして」
そして、まさか城に連れ帰ってこんなに愛するとは思わなかった。
この娘が消えてしまったら、わたしは一体どうなるのだろう。
ジュズは菓子を割って、スズの口に運んでやっている。
まるで母が溺愛している娘を甘やかしている姿だ。
猛烈な嫉妬心が沸いた。目の前の老女に。
わたしが口を開くより早く、ジュズがにっこり笑ってこちらを見た。
「殿下。わたくしこの子が気に入ってしまいました。一刻お借りいたしますわ」
わたしが口を開くより早く、キムザが猛然と声を上げた。
「ジュズさま。もうすぐスズさまは後睡のお時間でございます」
「あら、ではわたくしと一緒に寝ましょうか」
「恐れながらスズさまは、殿下かわたくしの膝でしかお眠りになりません」
こらこら、キムザ。
「スズ。お前はどうしたいのだ」
戸惑ったように、しかし菓子を食いながら周りの大人たちを見ていたスズは、行く、と椅子から飛び降りた。
すぐに戻るから、と甘えたように両腕を出す。
「早く帰っておいで」
その体を抱き上げて、小さな口の周りについている菓子屑を払ってやる。
強く抱きしめると、そっと下におろした。
ジュズとともに部屋を出てゆく姿を見送りながら、なぜか一抹の不安を感じた。
「なんて厚かましい方でしょう」
隣でキムザが苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
この老女はスズが来てから、本当に表情が豊かになった。
「カイドウを呼べ。リンドウでもいい」
椅子に戻り茶をすする。すっかり冷めていた。
可哀そうな子。
老女は確かにそう言ったという。
「なんだと」
庭園の長椅子に座った二人を付けて、聞き耳を立てたカイドウが頷いた。
閑散とした政務室は、僅かにカビ臭い匂いを漂わせているだけだ。
「それ以外は、スズさまの耳元でお話をされていたので、聞き取れなかったのですが…。その言葉ははっきりと聞こえました」
可哀そうな子。
そんな訳あるか。
スズはここで幸せいっぱい夢いっぱいの生活を送っている。
うまいものは食い放題(そしてよく食っている)、好きな時に寝放題(そしてよく寝ている)、周囲に愛されて、なによりわたしとずっと一緒にいる。政務というろくでもない時間以外は。
「スズの様子は」
「それが…」
始終俯いて、泣いていたという。
「なんだと」
帰ってきたスズに、そんな気配は微塵もなかった。ただ異様なほど甘えた。
「あと、その…」
言いにくそうにカイドウは目をそらせた。
「どうした」
「ジュズさまは…」
わたくしと一緒においでなさい。
スズを自分の旅に誘ったという。
「なんだと!」
愕然とした。何を考えている、あの老婆。
「スズさまは、すぐに首を振って拒否しましたけど」
当たり前だ。
「部屋に帰ろう。師がわたしのネコを誘拐するかもしれない」
「スズさまの求心力はすごいですね」
呑気に感心している場合か。
普通、好敵手(ライバル)とは、同性の同年代がお約束ではないか。
アオイはまだいい。十歳年下とはいえ、男だった。
しかし、今、スズを巡ってわたしと火花を散らしているのは二人の老女だ。
勘弁してくれ。
だいたい、女というものは口が達者で、老人というものは長く生きている分、矜持も高くなるらしい。
なんにせよこの老女らが、ある時は猿と犬のごとく、またある時は風神雷神のごとく黒い風雲を撒き散らしながら睨みあうのは度々だった(わたしとスズは当てられたように口を開けるだけだった)。
「スズさま。本日の夕餉は世にも珍しい鱶鰭というものにございます」
キムザは立場(一介の女官にも関わらず、色々と特殊権力を持っているらしい)を利用して、御馳走をこれでもかというほど食卓に並べる。
スズはうまいものに目がない。そしてキムザを、餌をくれる人と認識している。
喜んで甘えるように纏わりついた。
もう一人の老女も負けてはいない。
「スズちゃん。今日はおばあちゃんとお話をしましょうね」
スズは不思議なことにジュズの前では借りてきたネコだった。
素直にトホトホとついてゆく。
「何を話しているのだ」
きいてみても、秘密、としか言わない。
はりつかせているカイドウによると、ジュズはただ昔話を語っているのだそうだ。スズは大人しく聞いているらしい。
しかし、キムザがいくら馳走を用意しても、スズの口に運ぶのはわたしだったし、ジュズがいくら連れだしても、スズの帰る場所はわたしの腕の中だった。
それでも気分のいいものではない。
わたしは心の狭い方だと(自信を持って)自負している。
膝の上でくつろいでいるスズの顎を撫でてやる。
「お前は、誰を主人だと思っている」
――あなたに決まっているじゃないの、なんでそんなことを聞くの?
そう鳴いて、機嫌を取るように甘えてきた。
メロメロに可愛い顔をして。
そうすればわたしが相好を崩すことを、このネコはとっくに学習している。
まったく余計なことばかり学んでしまう、と思いつつも白い頬に口を落とす。
蕩けるような甘い声をだしてスズが鳴いた。
「稽古試合ですか?」
「ええ」
ジュズはにっこり微笑んだ。
庭園の長椅子で、スズと三人(カイドウ曰く、父と子と祖母のようであったらしい)でくつろいでいた時だった。
スズは二人の間に挟まって、行儀よく座っている。
「久しぶりに手合わせをいたしませんか。体がなまって困っておりますの」
「しかし、ジュズさまは城の兵士たちを指南してくださっているのでしょう」
「物足りません」
閉口した。どれだけ元気な老婆なんだ。
「まあ、殿下ともあろう方がこのばあさんに負けるとは思いませんけども」
よく言う。
「分かりましたよ。お受けいたします」
「ただの稽古試合では面白くありませんわね」
歌うようにジュズは言う。
「スズちゃんを賭けませんか」
わたしは仰天した。
「この娘はわたしの大事なネコです。賭けるなど、とんでもない」
急いでスズを引き寄せると、驚いた声を出した。
「だからこそ、やりがいがあるのではないですか。本気でかかってこられないと、こちらも張り合いがございません」
「仮にわたしが勝った所でなにも残らないではないですか」
「スズちゃんが残ります」
間の悪いことに、この悶着を人に聞かれていたらしい。あれよあれよと噂は広がり、ついに国王(ボケ)の耳にまで入ってしまった。
「で、稽古試合が御前試合に」
「スズさまを賭けることになったと」
呆れたようなカイドウ、リンドウの声を聞きながら、深いため息をついた。
予測されているのか、窓の外にも部屋の外にも警備が立っている。
にげだすことも叶わない。
「勝つ見込みはあるのですか」
「無い」
老女の身体が衰えていることを期待したが、覗いた修練場ではそんな気配はこれっぽっちもなかった。
スズは不安そうにわたしに抱きついている。
「大丈夫だ。お前を離したりはしないよ」
安心させるためにも、その背中を叩いてやった。
負けたらスズと手に手を取って逃げてやろう。
わたしの辞書には卑怯という文字が堂々とのっている。
その夜。
秋のひんやりした風を受けながら、窓際の椅子に座ってスズと体を重ねる。
月明かりを浴びれば、この娘の瞳は深い蒼色に濡れる。
無性にそれが見たくなる時があった。
「スズ」
しっとりと汗に濡れる肢体が快楽に震える。
「誰がお前を渡すものか」
耐えきれぬようにしなやかに仰け反った。
――あたしが。
蒼い瞳から涙を流しながらスズが鳴いた。
――あたしがあなたを守るから。
「お前が守ってくれるのか」
その涙を舌で掬いながら答えた。
「悪くないな」
そう言ってしまったことを、わたしは後日、後悔するはめになる。
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ティエンランシリーズ第六巻。
ジンの無責任王子ヤン・チャオと愛姫スズの物語。
「殿下。わたくしこの子が気に入ってしまいました」
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