小さな村だったが、生活するのに必要なものは一通り揃っていた。唯一の商店に、毎月、麓から補充のための商人が来るのだという。
北郷一刀たちは、湯治に訪れた貴族ということになっていた。秘湯があるらしく、まれに訪れる者のために小屋が用意されていた。そこに多少の寄付をすることで、宿泊させてもらっているのだ。
「よいしょ……」
月は温泉の湯を木桶に汲んで、一刀が眠るベッド脇のテーブルに置いた。ここでは侍女ということで通し、眠ったままの一刀の世話をしている。
人肌にした木桶の湯にタオルを浸すと、しっかり絞った月は一刀の顔を丁寧に拭う。
「おはようございます、ご主人様。今日もいいお天気で、気持ちが良いですよ」
返事がないのはわかっているが、なるべく月は話しかけるようにしている。日常の変わらぬ刺激が、一刀の目覚めを早める効果があるかも知れない――剣の姿になる直前、貂蝉が教えてくれた。
その貂蝉と卑弥呼は、剣の姿で力を蓄えるべく再び長い眠りについている。
「今朝は村の方から、貴重な卵を頂きました。本当は生で食べると良いらしいのですが、ご主人様はちょっと難しいですよね? 餡かけにでもしようかと思っています。お昼は、楽しみにしていてください」
そんな話をしているうちに、顔と手は拭き終わった。そこで月は急に黙り込み、もじもじとタオルを手で揉み始める。
「へぅ……」
月は顔を真っ赤にして、自分の手と一刀を何度も見た。今日は、体も拭く日なのだ。
前回は三日前で、その時は貂蝉と卑弥呼が大興奮の中、一刀の全身を隅々まで綺麗にした(らしい)。恥ずかしくて見てはいなかったが、とても満足そうな二人の様子が印象的だった。
「これでしばらくは、いい夢を見ていられるわ」
そう言って貂蝉と卑弥呼は剣になったのである。
「……ぬ、脱がせないと」
タオルを木桶に入れ、震える手で布団をめくる。わずかにはだけた胸元に、月は目眩を感じた。
(はぁ~、どうしたらいんだろう。さすがにこれ以上放っておいたら、ご主人様が不潔になってしまう)
やらねばならない。拳を握り、使命感に大きく頷いた月は、帯をほどいて衣を脱がせた。上半身裸で眠る一刀を、月はまともに見ることができない。
「へぅ……」
タオルを絞り、首筋を拭った。その時である。
「月~、一刀の様子はどう?」
「ひゃあっ!」
突然、話しかけながら部屋に入ってきた詠に、月は飛び上がるほど驚いた。
「ちょ、ちょっと! 月、あなたまさか……」
「違うの、詠ちゃん! これは、ご主人様のお体を拭いていただけで、あの!」
「ああ、そうか……びっくりしたわ」
「うう……恥ずかしいよぉ」
両手で顔を隠す月の頭を、詠は優しく撫でた。
「やっぱり、おばちゃんに頼んだ方が良かったんじゃない?」
「でも、悪いよ……」
おばちゃんというのは、何かと面倒を見てくれる村の女性だった。夫と二人で暮らしており、年は六十歳ほどだろう。一刀の排泄の世話は、そのおばちゃんがしてくれていた。
「去年まで九十歳で寝たきりの父ちゃんがいたんでね、こういう世話は馴れているんだよ」
そう言って豪快に笑い、困っていた月を助けてくれたのだ。
「私、詠ちゃんやみんなに迷惑を掛けてばかりで、自分では何も出来ない……。だからね、せめて私を助けてくれたご主人様のお世話は、一人で出来るようになりたいの」
「月……」
昔からそうだった。助けてもらうことを、必要以上に申し訳ないと感じてしまう。そんなことはないのに。
「わかった! ボクも手伝うよ」
「でも……」
「最初は一緒に。馴れてきたら、月ひとりでがんばってみればいいじゃない。ね?」
「……うん。ありがとう、詠ちゃん」
「ボクは月と一緒にいられれば、それだけで嬉しいんだから」
だが、月以上に恥ずかしがりやの詠である。一刀の裸を前に固まった二人は、その後、昼近くまで掛かってようやく上半身を拭き終わるという有様だった。下半身は、おばちゃんがものの五分で終えた。
「眠ってる男なんて、ふにゃふにゃよ! はっはっはっ!」
おばちゃんのそんな言葉に、月は首を傾げ、詠は顔を赤く染めていた。
北郷一刀の仲間として逆賊になった董卓は、その領地を没収されていた。朝廷の命令によって騎馬隊を率いた馬超は、素早く董卓の領地を支配下に置いた。とはいえ、まったく抵抗はなかったようだ。
馬超の名は、さすがに涼州では有名なのだろう。馬超自身も乱暴な真似はせず、先触れの使者を立てて事を荒立てないよう細心の注意を払った。
「まったく、面倒な事に巻き込まれたなあ」
街の外で訓練を行いながら、馬超は呟いた。どこにいても、日々の訓練を欠かさない。それが彼女の騎馬隊の強さになっていた。
「よし! 今日はここまでだ」
並んだ部隊に告げ、その場で解散となった。皆は街に戻るようだが、馬超はもう少し馬を走らせたい気分だった。風を感じている間は、嫌なことを忘れられる。
(何だか息苦しいな……同じ涼州でも、違うんだ)
走る馬上から、空を眺めた。まだ数日だというのに、故郷が懐かしく感じる。
物思いに耽りながら、馬超が適当に馬を走らせていると、誰かが後ろから追い掛けて来た。
「お姉様~!」
「たんぽぽ……」
馬を走らせて来たのは、従妹の馬岱だ。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「どうしたじゃないよ! 方向音痴のお姉様が一人で出かけたから、心配して追い掛けて来たんじゃない」
「あたしは別に方向音痴じゃ……」
「嘘! この前だって泣きながら捜索隊の人に連れられて来たくせに」
「あっ! たんぽぽ、どうしてそれを――」
「へへーん。たんぽぽは何でも知ってるんだから」
胸を張る馬岱に、馬超は溜息を吐いた。
「ちょっと、散歩がしたかっただけだよ」
「ふーん。じゃあ、一緒に行こ」
「仕方ないな……」
二人は馬を並べて森の方に走って行く。彼女たちの暮らす所は多少の緑はあるものの、ほとんどが岩と砂ばかりの場所なので、こうして森の中を走るのは新鮮だった。
「いい気持ちだね~」
「ああ……」
どれくらい走っただろうか、不意に馬が足を止めてしまった。
「どうしたんだ?」
愛馬のたてがみを撫でながら問いかけ、前方に視線を向ける。
「お姉様、何かいるみたいだよ?」
「何だろう……」
怯えるような馬をなだめつつ、馬超と馬岱は森の奥に進んでいく。大きな洞窟の入口に居たのは、赤竜と二人の少女だった。
「その赤竜……お前、呂布か!」
思わず叫んだ馬超だったが、何も武器は持ってきていなかった。一方、呂布はしっかりと槍を持っている。
「お前は何者です?」
呂布の隣にいた小さい女の子が訊ねてきた。
「あたしは馬超、こっちは従妹の馬岱だ」
「馬超……確か月殿の領地を奪った奴ですな。恋殿、あいつは敵です!」
「……ん?」
だが、呂布は不思議そうに首を傾げて戦う気はないようだった。その時である。洞窟の奥から、たくさんの犬や猫たちが鳴きながら出てきた。
「そいつらは……?」
「家族……」
「ご飯はもうないのです。また来るから、それまで待っているのです」
大勢の犬や猫に囲まれ、小さい女の子がその一匹一匹を撫でながら言う。
「そうか。それでわざわざ戻って来たんだな……」
「恋たちがご飯あげないと、お腹空く……」
「……よし! 呂布とそこの……」
「陳宮です!」
「呂布と陳宮に約束する。こいつらの面倒はあたしたちが見るよ」
馬超がそう言うと、驚いたように全員が見た。
「ちょっとお姉様!」
「いいんだ、たんぽぽ」
命令とはいえ、董卓の領地を奪うようなまねをすることに、馬超は抵抗を感じていたのだ。
(それでもあたしには、守らなくちゃいけないものがある)
何よりも西涼の民を思う、それが母、馬騰より受け継いだ意志だった。だから気休めでも構わない。今回の遠征で自分に胸を張れることが、一つでもいいから欲しかったのだ。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
まだ目覚めない一刀と、事後処理の日々。
楽しんでもらえれば、幸いです。