もう、こうするしかない。天和は身を強ばらせて、勧められた椅子に腰掛ける。刺繍が施された、体が沈むほどフカフカの二人掛けの椅子だった。普段ならきっと大はしゃぎしただろうが、今はとてもそんな気分にはならなかった。
「いや、よく決心してくれたね」
大きく垂れたお腹を揺らしながら、男が天和の隣に座ってくる。かなり大きめな椅子だったが、男の巨体のせいでかなり窮屈だった。
この男は李聞(リブン)という豪族の一人で、以前から親子ほど年の離れた天和に想いを寄せていたのである。もちろん、天和がそれに応えることはなかった。今までは。
彼女には地和、人和という二人の妹がいる。幼い頃に両親を病気で亡くした後、身よりのない三人は力を合わせてこれまで生きてきた。歌うことが好きで、それを芸として身を立てていたのだ。
しかしなかなか安定した収入を得ることはできず、いつしか食べるものにも困窮する有様になっていた。そこでとうとう、借金をする羽目になってしまったのだ。だが返済が出来ずに利子がたまって、借金は自分たちではどうにもならないほどの額にまで膨れあがってしまったのである。
「大丈夫、私に任せてもらえれば悪いようにはしないよ」
そんな時に現れたのが李聞だった。借金が返せないならと連れて行かれた地和と人和を助け、全額を肩代わりしてくれるという。だがその条件として、天和が彼のものにならねばいけなかった。
(仕方ないよね。私がお姉ちゃんだもん)
嫌らしく太股に触れる李聞の手に、天和は眉をひそめた。こんな男になんて、触れられたくはない。でも我慢しなければいけなかった。大切な妹たちを守るために。
「ひははいひゃふへ、うひゃふひゃへへはひ」
「とうとう、頭までおかしくなったの? むしろ元からだったかしら?」
「先程の攻撃で、舌を噛んでしまったようです」
「ああ……」
周泰の通訳により、荀彧は納得した様子で頷いた。そして二人は、そんな一刀を放っておき食事を始めてしまう。
あの後、目的地の街まで来て食堂に入った。周泰が空腹を忘れるほど、荀彧の猫耳に夢中だったことが判明し、とりあえずうるさいので何か食べさせようということになったのだ。
(舌が痛くて食べられない……)
「ふほひ、はんほひひっへふふ」
「少し散歩に行ってくるそうです」
「周泰だったかしら? あなた、よくわかるわね?」
「はあ、何となくわかります」
おいしそうに食べる二人を横目に、一刀はとぼとぼと一人で店を出た。この街はこれまで立ち寄った村よりは遙かに大きく、通りも人で賑わっている。
(こんな世の中だけど、やっぱりみんなたくましいなあ)
活気に溢れているというほどではなかったが、それでも暗く沈んでいる様子はなく、笑い声もわずかだが聞こえたりしていた。その様子を、何となく笑顔で眺めながら、一刀は特にあてもなくブラブラとする。
出店を覗いたりしながら過ごしていると、ふと、目に止まった女の子たちが居た。
髪を束ねた女の子と眼鏡の女の子の二人が、何やら深刻そうな顔で路地裏の方に入って行く。それだけならさほど気にしなかったのだが、その後を見るからにガラの悪そうな男たちが三人、明らかに彼女たちを追って路地裏に入って行ったのだ。
(嫌な予感がするなあ)
一刀はこっそりと、彼らの後をつけてみることにした。
人気のない路地裏は、薄暗く湿った空気がまとわりつくようだった。と、角を曲がったところで、思った通り争うような声が聞こえて来た。
「ちょっと! 約束が違うじゃない!」
「へへへ……」
女の子の怒声に、男たちはニヤニヤと笑って後ろから押さえつける。逃げようと暴れるが、力の差は歴然としていた。
「や、やめて!」
「誰か……誰か助けて!」
「無駄だぜ、誰も来やしねえさ」
男がそう言った刹那、不意に意識が途切れてその場に崩れ落ちた。
「兄貴?」
何が起こったのか、呆然とする他の二人はいつの間にか現れた一刀に気付く。だがその瞬間、その姿が消えたかと思うと目の前に現れ、衝撃が顔面に襲いかかった。男は吹き飛び、壁に激突する。
「な、何だ!?」
恐怖に顔を歪めた最後の一人も、何が起きたのか理解するより前に意識を手放した。
風が吹き抜けるように、黒い影が通り過ぎたかと思うと、自分たちを押さえつけていた男が崩れ落ちた。何が起きたのか、突然現れた男が淀みのない動きで、あっという間に三人の男を倒してしまう。まるで相手にならなかった。
「大丈夫だった?」
その男は、先程とはうって変わって、まるで子供のような無邪気な笑顔でそう訊ねてきた。
「うん、ありがとう」
礼を言いながら、彼女は男の笑顔に温かいものを感じた。ホッと安心するような、そんな笑顔だった。
(この人なら……)
迷っている時間はない。彼女は、男の手を握った。
「私は張宝……真名を地和って言います。あなたにお願いがあるんです」
「ちぃ姉さん!」
「時間がないのよ、人和。それにこの人なら、信じられる気がするの」
「……」
男は困惑しているようだった。それはそうだろう。いきなり助けた相手に、真名を教えられたのだから。
「あの、話だけでも聞いてもらえませんか?」
必死に彼女――地和が頼むと、男は真剣な顔で頷いてくれた。
(待ってて、お姉ちゃん。必ず助けるから!)
食事をしながら、荀彧と周泰の二人は互いの真名を交換した。周泰が「猫耳族の方なら」と先に名告ったので、それに荀彧が応えたのだ。
「私はある方にお仕えしていまして、今は見聞を広めるために旅をしています」
荀彧こと桂花が自分のこれまでの経緯を説明した後、周泰こと明命がそう話し始めた。
「やはり一度、洛陽を見ておこうと思いまして立ち寄ったのですが……」
「商人から聞いた話だと、厳戒態勢で入れないみたいじゃない?」
「はい。門番に追い返されました。でも余計に気になりまして、夜を待って忍び込もうと思ったんです」
「明命は隠密行動とか得意そうだものね」
「はい。ですが、洛陽の警戒は予想以上でした。空気というか雰囲気がピリピリして、一度入ったら出られない、そんな気持ちにさせるんです。なので、無理はやめて諦めました」
「賢明な判断ね」
運ばれたお茶を飲み一息つくと、桂花は訊ねた。
「明命は、これからどうするの?」
「はい。実は一つ気になることがありまして、それを確認してみようかと思ってます」
「気になること?」
「旅の途中で、ある夫婦を助けました。見るからに怪しい男たちに襲われていたので、事情を聞いてみると娘さんを助けるため彼らを探っていたとのことでした」
「彼らって?」
「人さらいの組織みたいなものです」
夫婦は店を持っていたが、あまり儲からずに借金を抱えていた。だがいつの間にかそれが膨れ、とうとう払えないほどの額になってしまったのである。
娘を差し出せばチャラにすると言われたが拒んでいると、ある豪族が融資を申し出てくれた。
「その豪族が、この街の李聞という男です。李聞は娘を屋敷に一年間だけ奉公させれば、借金を肩代わりすると申し出たそうで、親孝行の娘はそれを承諾しました」
だが、一年過ぎても娘が戻って来ない。おかしいと思い屋敷に向かうと、すでに出て行ったとのことだった。
「夫婦は娘の行方を捜し回り、ようやく見つけたのですが……」
「人さらいのところだったと」
「はい」
「その、李聞というのが何だか怪しいわね」
「私もそう思って、少し調べてみることにしたんです」
桂花は思う。
(あいつが聞いたら、首を突っ込みそうね)
「桂花さんたちは、これからどこへ向かうのですか?」
「私たちは涼州に向かおうと思っているわ」
「涼州……あそこは確か」
「ええ、『赤竜使い』がいるところよ」
「勅命を受けた董卓軍が、『赤竜使い』の討伐で戦闘を繰り返しているとか」
「私たちは、『赤竜使い』の呂布を仲間にしたいと思っているの」
「ええっ!」
もちろんまだ、呂布がどういう人物なのかわからないので、決めたわけではない。だが、これからの戦いを考えると、呂布という人材は必要だった。
(北郷も強いけど、知名度では呂布に敵わないわ)
一刀のことをひどく言うことはあるが、内心ではその力を認めている。
「桂花さんと一刀様は、本気で朝廷と敵対するつもりなんですね」
「ええ……というか、明命はどうしてあいつを『一刀様』なんて呼ぶの? ただの変態よ?」
自己紹介をした時から、明命は一刀のことをそう呼んでいたのだ。ずっと気になっていたのだが、何となく聞きそびれていた。
「どうしてでしょうか? 自分でもわからないのですが、自然とそう呼んでいました」
「前世であいつに呪いでも掛けられたんじゃないの?」
「それは、ちょっと嫌です」
そんな話を二人がしていると、散歩に出かけていた一刀が戻って来た。女の子を二人も連れて。
「……最低」
「……不潔です」
冷たい視線を言葉と共に投げつけると、一刀は慌てて言い訳を始める。最初は無視していた桂花と明命だったが、「李聞」という名前が出て二人は顔を見合わせた。
「詳しく、話してみなさい」
桂花がそう促すと、一刀は道すがら地和たちから聞いた事情を話して聞かせた。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。
まじめな話をさせるのは、何だか難しいと思いました。何度か書き直しましたが、結局、こんな感じです。楽しんでもらえれば、幸いです。