曹の旗が、風に揺れていた。その下に張られた天幕の中で、一人の少女が目を閉じて時を待っている。
「華琳様」
2人の女性が、そう声を掛けて中に入ってきた。
華琳こと曹操の忠実なる部下、春蘭こと夏侯惇、秋蘭こと夏侯淵の二人だ。
「春蘭、秋蘭。準備は出来た?」
「はい。いつでも出撃できます」
「そう……」
頷いた少女――華琳は、身の丈ほどもある大鎌『絶』を手にする。
「いくわよ!」
「はい!」
「はっ!」
華琳に続き夏侯姉妹も天幕を出ると、自軍のおよそ10万の軍勢が整然と並ぶ中を、3人は悠然と進んだ。そして一番先頭まで来ると、向かい合うように並んだ朝廷軍の30万にも及ぶ軍勢を眺めた。
「死人の軍勢か……連中は、兵力には事欠かないようね」
「噂では餓死した者の遺体を、朝廷が集めているそうです。それらをこうして、兵力として使っているのでしょう」
「悪趣味極まりないけれど、死人が相手なら容赦なく戦えるわ」
そう言った華琳が秋蘭に視線を向けると、彼女は頷いて姉に声を掛けた。
「姉者、行くぞ」
「おうっ!」
夏侯姉妹が一歩進み出て互いの両手を合わせると、聞いたこともない言葉で呪文のようなものを唱え始めた。すると、地面から黒い霧が立ち上って二人を包み込み、その姿を変貌させる。
そこに現れたのは、馬ほどもある双頭の黒い狼だった。
『絶』を片手に、華琳がその狼の背に飛び乗る。
「さあ、行くわよ! すべての敵を、殺しつくしなさい!」
狼の双頭が、戦端を開く遠吠えを天に響かせた。
華琳の振るう『絶』と、狼の双頭が流れるような動作で次々と敵の首をはね飛ばす。
心の奥底から湧き上がる衝動を、抑えることが出来なかった。いったい、いつの頃からだろう。戦いの中でありながら、ふと、華琳は思った。
(狂おしいほどに、心が渇く。欲しても、欲しても、満たされない)
物心付いた時から、自分の中に得体の知れぬ渇きがあった。まるで体の一部を失ってしまったかのような、暗い絶望を感じた。
渇きを満たそうと、知識を得て、武を得た。魔獣と呼ばれる夏侯姉妹をも手に入れた。故郷の村の長となり、腐敗した朝廷と戦いを始めた。欲しい物は、何でも手に入れた。けれど、渇きが癒えることはない。
(私はまだ、一番欲しいものを手に入れていない)
それが何なのか、夢に見るのは満月の空ばかりで、確かな情報は何もない。けれど感じるのだ。いつかそれを、自分は手に入れる。その時まで、戦い続けるのだと。
か細い呼吸が静かに停止して、命が終わったことを告げた。少女の胸に両手を当てた彼女は、わずかに震え、逃げるように飛び出して行く。
(また、救えなかった!)
自分の治癒術で、みんなを笑顔にしたいと思った。それが出来る力があると、ずっと思っていたのだ。だから村を出て、旅を始めたのに。
「桃香様!」
誰かに腕を掴まれ、彼女はようやく走るのを止めた。そして崩れ落ちるように、その場に座り込む。
「大丈夫ですか、桃香様」
「愛紗ちゃん……」
「鈴々もいるのだ」
「鈴々ちゃん……ぐすっ」
自分を支えるように寄り添う二人の義妹を、桃香はぎゅっと抱きしめた。
「私、誰も助けられない」
「そんなことはありません。桃香様に救われた者は多い」
「そうなのだ。鈴々が怪我した時も、お姉ちゃんが助けてくれたのだ」
「だけど私は、みんなを助けたい。誰にも死んで欲しくないの」
「もちろん、それは私たちも同じ気持ちです。ですが桃香様、治癒術といえでも万能ではありません。それに桃香様の体も一つ、救える命にも限りがあるのです」
愛紗の言うことは、わかっているつもりだった。でも、だからといって割り切ることは出来ない。
「どうすれば、いいのかな?」
「今の世の中が変わらなければ、無駄に失われる命を止めることは出来ません」
「世の中が変わる……」
そんな時が、本当に来るのだろうか。そう考えた時、不意に何かが心の中に芽生えた。それは、とても小さな希望の光だ。けれど温かく、やがてすべてを優しさで包み込んでくれる気がした。
「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、私、もう少しがんばるよ」
「桃香様……」
「お姉ちゃん……」
なぜだかわからない。でも、力が湧く気がした。
「私たちががんばれば、いつかきっと、出会える気がするんだ」
「誰にですか?」
「ご主人様……そう、呼べる人に」
「何を――」
ばかなことを、そう言いかけて、愛紗は口をつぐんだ。どういうわけか、桃香の言葉を否定する気持ちは湧いてこなかった。それどころか、自分もどこかでそれを信じている。
(ご主人様か……)
心の中で呟くと、不思議と心が弾んだ。甘い夢でもいい。今はこの温かさが、とても心地よかった。
繋いだ小舟に寝転んで、星を眺めていた。さっきまでお酒を飲んでいたのだが、全然酔うことができなかった。こういう日が、最近はたまにある。
「らしくないじゃないか」
「冥琳……」
女性は身を起こし、やって来た友人に笑いかける。
「こんなところでどうしたんだ、雪蓮」
「冥琳こそ、浮かない表情じゃない」
「お互い様か……」
冥琳も小舟に乗り込んで、雪蓮と向かい合うように座った。
「孫家を守る為とはいえ、さすがにあの袁術に仕えるのは気が滅入るな」
「客将と言えば聞こえはいいけど、ようするに人質だもんね。冥琳がいるからまだ我慢できるけど……」
「私もだよ」
二人は溜息をつき、力なく笑った。
「そろそろ戻ろう。体が冷えてしまう」
「そうね」
頷いた雪蓮が立ち上がろうとした時、小さな悲鳴のような声が聞こえた。冥琳を見ると彼女も聞こえたのだろう、小さく頷いてみせる。
二人は小舟から下りると、声のした方に走り出した。すると、数人のガラの悪そうな男たちが一人の女の子を取り囲んでいたのだ。女の子の服は破れ、大きく肌を露出している。
「その子を離しなさい!」
雪蓮はそう叫びながら、抜刀する。
「くそっ!」
女の子を突き飛ばした男たちは、身を翻して一斉に逃げ出した。
「この子をお願い」
「わかった」
剣を片手に、雪蓮は男たちを追い掛けた。ここで逃がせば、またどこかで同じようなことをするかも知れない。
(逃がさないわ)
心が高揚する。雪蓮は血に飢えた獣のように、月夜を舞った。
剣を振るう度に、血が、肉片が飛び散った。懇願にも耳は貸さない。こうなった自分を、自分でも制御は出来なかった。
「雪蓮……」
冥琳に声を掛けられて、ようやく我に返った。周囲は赤く染まり、転がる物体がかつての人間だとは、誰にもわからないほどの有様だった。
振り向くと、友人と、怯えている女の子の姿が目に入った。
「先に戻っていて……」
そう言い残して、雪蓮は走り出す。熱く火照った体を撫でる風が、気持ちよかった。
(このままじゃ、ダメだ)
自分の中の『狂戦士』に気付いたのは、いつ頃だろうか。戦いの中で、自分を見失ってしまう。人を殺すことに、喜びを感じてしまうのだ。抑えようと思っても、抑えきれない。
(怖い……)
いつか、自分を失ってしまうのではないか。そう思うと恐怖が湧き上がる。『狂戦士』に呑み込まれて、殺戮を果てしなく繰り返すだけの存在になるのではないか。それどころか、友人や妹たち、大切な仲間をも自分の手で殺してしまうかも知れない。
「嫌……そんなの、絶対嫌よ」
涙が溢れる。
(誰か、助けて!)
心の中で、雪蓮は叫んだ。すると、不意に何かが心の中を通り過ぎて行くのを感じた。足を止めた雪蓮は、呆然とその場に立ち尽くした。
なぜかわからない。ただその瞬間、あれほど抑えきれなかった衝動が、霧にように消えたのだ。
「何……?」
トクン、と胸が高鳴った。彼女の勘が告げる。いつか自分が帰るべき場所があると。そこは『狂戦士』に呑まれそうな雪蓮をも、優しく抱きしめてくれるところ。
安らぎをくれる、唯一の腕の中。雪蓮の顔に、笑顔が溢れた。今はこの、不確かな勘を信じよう。これまでもそうやって生きてきた。そして大概、自分の勘は当たる。
いくつかの運命が、いつか交わるその時まで――。
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恋姫の世界観をファンタジー風にしました。今回は将来の3人の王のお話です。早く一刀とイチャイチャさせたい気分です。楽しんでもらえれば、幸いです。