「ほろにがシュガーミルク」
今日が最後だ。
今日言わなかったら、きっと後悔する。
一握りの勇気を出さなかったばっかりに、この先もずっと悔いることになる。
そんな苦い人生は、嫌だ。苦いのは嫌いだ。
俺は甘い砂糖菓子のような、そんな生き方がしたい。
だから、言うんだ。
そう思いながら、俺はいつもより二百円多い三百円を強く握り締めて、ポケットの中にねじ込んだ。
二階にある俺の部屋の窓がノックされたのは、ちょうど日を跨ごうかという頃だった。
俺は返事をしようともせずに携帯を閉じて、視線だけを上げた。
ここ一週間、この時間は窓を開けておくことになっている。
「ちゃおー。今日も元気か男の子」
夜風と共に部屋に入ってきたのは、隣の家に住んでいる幼なじみだ。
名前は秋山・涼子(あきやま・りょうこ)。
名前の一文字目が『涼しい』ということで、俺は小さな頃から「スズ」と呼んでいる。
スズはタンクトップにジーンズという非常にラフな格好だった。
長い髪は、いつもと違って首の後ろでくくっていない。
「髪、縛ってないんだな」
「さっきシャワー浴びたからね。どう? 惚れ直した?」
「バカなこと言ってんなよ」
そう言いながら、俺は風呂上りで妙に色っぽさを感じさせる幼なじみを直視出来なかった。
それを知ってか知らずか、スズはうししと真っ白い歯を光らせながら笑う。
その気持ちのいい笑顔に負けず、スズは性格も明るくて面倒見がいい。
身長はかなり高く、痩せ型だが出るべきところはそれなりに出ている。
そんなスズは、性別を問わずにもてまくっていた。
これまでにスズが何人に告白されたか、数え始めたらキリが無い。
「はぁー……智博(ともひろ)の部屋って、めっちゃ涼しいわねぇ。風通しサイコー。きもちいいわぁ」
そう言いながら、スズは俺のベッドにごろりと横になる。
まるで自分の部屋であるかのような振る舞いだ。
今までスズに告白してきた奴らに、今のだらしない姿を見せたらどう思うだろうか。
まあ、俺とは物心がつく前からの仲なので、無理もない。
そうは思ったが、妙に視界をちらつく膨らみに、俺は声をかけざるを得なかった。
「お前、もうちょっと恥じらい持てよ。そんな格好で寝転がってると……見えるぞ」
「何が?」
「何がって、んと……」
スズが大きく広げた両腕、適度に肉のついた二の腕の先にある脇は艶やかで白く、
更にその先に僅かに見えるのは、多くの人間をダメにしてきた、決して小ぶりとは言いがたい双丘だ。
風呂上りだからか、下着は着けていない。
そういえば、かつては本人に直接「揉ませてください!」と言い放った猛者もいたことを思い出す。
俺が止めなかったら、腕の一本も折られていたかもしれない。
「ねえ、何が? 何が見えるの?」
「……お前、からかってるだろ」
「もちろん」
にかっと笑いながら、自信満々に言い切られた。
その笑顔を見ると、ついスズのことを許してしまいたくなる自分自身を忌々しく思う。
俺は幼なじみの特権とも言える素敵な光景から目を背けつつ、深い溜息をついた。
ほんの半年ほど先に生まれただけの相手に、俺は長い間翻弄されっぱなしだった。
それが俺達の日常であり、そんな時間を嫌だとは思っていない自分がいる。
そして、それでは満足出来ない自分も、いた。
だからこの春休み、俺はスズに一つ提案をしたのだから。
「今日も行くんかい?」
「うん」
「そかそか。しゃーない、おねーさんが付き合ってやるか」
スズはそう言いながら上体を起こした。
胸の辺りにくっついている余計で無いものがその存在を強調する。
それを見ないようにしながら、本棚の上に敷いた新聞紙の上から二人分の靴を取り出し、片方をスズに手渡してやる。
窓の縁で靴を履き、俺達二人は躊躇うことなく屋根の上へ降り立った。
「何度やってもこういうのってどきどきするわねぇ。いけないことしてるみたいで」
「ガキかってえの」
「私がガキなら、提案した智博はもっとガキね」
俺は返事もせず、あらかじめ用意しておいた縄ばしごで下へと降りる。
今の状況に胸を高鳴らせているのは確かだ。
それでもスズの言葉に頷くのは、俺のちっぽけなプライドが許さなかった。
が、幼なじみというのも厄介なもので、返事をしなかった時点で図星だったことを悟ったらしいスズは、
俺の心を見透かしたような目をしながら、相変わらずからかうように笑い続けていた。
「智博の提案にしては悪くないわね。夜の散歩ってのも。でも、いきなりお誘いが来た時は何かと思ったわ。どういう心境の変化?」
「どういうって言われてもな……」
「何か魂胆があるんでしょ? 何もかもおねーさんに暴露しちゃいなさい。そうしないと帰っちゃうわよ?」
「それは勘弁してくれ。話すよ、話すから」
玄関を避けて、家の裏側の塀を越えたアスファルトの上でそんなことを言われた俺は、スズがついてくるのを確認しながら歩き出した。
冗談だとわかっていても、帰ると言われて少なからず焦りが生まれてしまい、上手く思考がまとまらない。
今日が最後なのだから、帰ってしまわれるのは困る。
俺がこの夜の散歩を提案した理由は二つあった。
どちらも口に出すのは気恥ずかしいものだったが、沈黙が許されるような雰囲気ではなかったので、
仕方なく比較的自分が答えやすい方の理由を口にする。
「憧れてたから」
「憧れてた?」
「ああ。こういう、いけないことするの」
俺がそう言うと、スズは一瞬呆気にとられたようにぽかんとなって、
直後、思い切り吹き出したかと思うと、腹を抱えて大笑いした。
体をくの字に曲げたまま、近所迷惑ではないかと心配になるほど大きな声で笑うスズは、
息苦しそうにしながら俺を指差して
「が、が、ガキすぎっ! 智博、あんた、ガキすぎ!」
「うるさいわ! 別にいいだろ!」
「そりゃいいけど、あんな真顔で『憧れてたから』とか、くくく……あはははは!」
さっきの返答はスズのツボを突いたらしく、しばらくの間スズの笑いは収まらなかった。
悪気が無いことはわかるが、なんだかバカにされているようで面白くない。
それでも、これが俺達の日常だった。
ちっぽけな不快感は、圧倒的な安心感の前に、気付くときれいに消え去っていた。
そんな日常も、今日で最後だ。
いや、こんなに何度も来る「最後」が果たして最後と呼べるのか。
「明日だっけな。引越し」
「うん。昼過ぎには向こうに着いていたいから、明日の朝は早いわぁ」
この春、スズは大学受験を突破した。
昔から面倒見の良かったスズは、将来は保育士になりたいらしく、
県外の大学で保育士としての資格を取るのだという。
合格発表のときは、一番に俺に電話をくれた。
あのときの嬉しそうな声は今でも覚えている。
それが俺にもたらした、僅かな寂しさも。
「そっか。悪いな、ぎりぎりまで付き合わせちまって」
「気にしないで。私が好きで付き合ってんだから。そうじゃなかったら今ここにいないわよ」
「そういう性格だもんな」
「知ってたくせに」
「まあな」
薄く笑いながら、ふと空を見上げた。
この辺りには珍しく、目を凝らすと星がちらほら見える。
今夜が晴れてくれたことに、俺は世界の何かに感謝したい気持ちになった。
「智博は来年度から三年ね。あんまりサボってないで勉強しときなさいよ。
ちゃんとやっとかないと、いざ受験ってときになって泣くことになるわよ」
「一応、先生方の間じゃ優等生で通ってる俺にそれを言うか?」
「私より成績良くないじゃない」
「学年トップの元生徒会長様は黙れ」
俺のその言葉で満足したのか、スズはまたにっこりと笑顔になる。
人当たりの良いスズは、いつも周囲にその笑顔を振りまいていた。
それが、今は俺一人に向けられている。
ちょっとした優越感があった。
それを悟られまいとして、緩みそうになる頬に手を当ててしかめ面をしていると、
ぼんやりと明るい光が視界に入ってくる。
俺達の散歩、その折り返し地点。
「到着っと」
嬉しそうにくるっとターンをしながら、スズはそれに近づいていく。
俺達が散歩の折り返しにしているのは、一本百円の自動販売機だ。
家から歩いて十分の距離にあるそれは、休憩するにももってこいなのだ。
そこで一本買って飲み、帰る。それがここ一週間の日課だった。
二人して百円を取出し、目当てのものを買う。
静かな夜に、ガコンガコンと缶の落ちる音が二回響く。
「なんだよ、また無糖コーヒーかよ」
「智博こそ、またそんなミルクコーヒーなんて買って。どれどれ……? うわっ、『砂糖入り』とか、キモいわねぇ」
「そんな泥水飲むよりいいだろ。第一、苦いのは嫌いだ。甘いのがいい」
「それじゃコーヒーなんて飲まなきゃいいじゃない」
「コーヒーは好きなんだよ」
矛盾したことを言ってるなと自分でも思いながら、缶を開けて口をつける。
夜風で冷えていたところに飲む熱いコーヒーが喉を通る感覚は、最高に気持ちがいい。
それはスズも同じなようで、腰に手をあてたまま目をつむって
「風呂上りの一杯は格別だわぁ。この一杯のために生きてる~」
「お前の人生は百円かよ」
「ははは。それいいわねぇ。それなら私の人生、これからいくらでも買えるわね」
そんなことを言いながら、二人してげらげらと笑い合う。
辺りにはほとんど人気がなく、微かに風と草の鳴る音しか聞こえない。
また一口、甘ったるいだけのコーヒーを流し込む。
「向こうに行ったら、しばらく会えなくなるわねぇ」
「そうだな」
「智博、覚えてる? 私が小学校に上がるとき、『スズおねえちゃんといっしょがいい!』って泣いたこと」
「あんまり思い出したくない過去の一つだ」
「そうなの? 私は良い思い出の一ページだと思ってるのに」
くすくす笑いながら、スズは砂糖もミルクも入っていない、ただ苦いだけのコーヒーに口つける。
あんな泥水の何が良いのか、俺にはちっとも理解出来ない。
多分、同じようにスズにはミルクコーヒーの良さがわからないんだろう。
「私があと半年遅く生まれるか、智博があと半年早く生まれてれば同じ学年だったのにねぇ」
スズが冗談めかして言ったその言葉に、俺は返事をせず、缶の口にじっと視線を落としていた。
今スズが言ったことを、俺は本気で「そうだったら良かったのに」とずっと思っていたからだ。
それを素直に言ってしまっていいものか、少しだけ迷った。
でも、今日言わなかったら、もう一生言う機会は来ない。そんな予感がある。
スズが小学校に上がったときも、中学校に上がったときも、高校に上がったときも、
直接家に遊びに行けば、スズとはそこで会えた。いつも近くにいられた。
大学に行かれたら、本当にしばらく会えなくなる。
そうなったら、きっと俺が今まで言わずにおいた言葉の吐き出す場所はなくなる。
やらない後悔よりもやる後悔。
それを俺に教えてくれたのは、スズだ。
俺が緊張を少しでもほぐそうとコーヒーを口にしている間、スズも黙ってコーヒーを飲んでくれていた。
スズと一緒にいると、この沈黙もどこか心地よかった。
ただお互いの存在を感じているだけで十分、そんな信頼関係が俺達の間にはあった。
もしかしたら、俺の言葉はそんな関係を壊してしまうかもしれない。
だけど、俺は。
「ごちそうさま」
スズのその言葉に、俺は思考の波を抜け出し、顔を上げた。
ふと気付くと、自分の持っている缶の中身もなくなっている。
口の中に甘いミルクの残り香だけが僅かに残っていた。
「んじゃ、そろそろ帰りますか」
俺達の散歩は、コーヒーを一本飲み終わったら帰ることになっていた。
そのこと自体にあまり意味はない。なんとなく決まった自分達だけのルールだ。
だけど今日は違った。
「待てよ。もうちょっと話そうぜ」
来た道に足を向けようとしたスズの背に声をかける。
スズは不思議そうな顔で振り返ってから、呆れ混じりに笑顔を浮かべる。
「イヤとは言わないけど、飲み終わったら帰ることになってるもんだと思ってたわ」
「だから、もう一本飲めばいいだろ」
ポケットをまさぐって、百円を指で弾く。
弧を描いて飛んだ硬貨を、スズは見事にキャッチしてみせた。
「珍しいわね。智博の方から奢ってくれるなんて」
「まあ、今まで付き合ってくれたお礼ってことで。最後くらいはな」
「なるほどねぇ。ま、ありがたく頂戴するわ」
そう言ってスズは百円を入れて、躊躇うことなくボタンを押した。
俺も二本目を買うことにする。
少しだけ悩んで、結局またミルクコーヒーを買った。
「うわ、またそんなゲロ甘そうなの買ってるし」
「別にいいだろ……って、お前だってまた無糖コーヒーじゃねえか」
「別にいいでしょ。好きなんだから」
きっぱり言い切って、またコーヒーを飲み始めるスズの横顔はやけに魅力的だった。
「それで? 何か話したいことでもあるんでしょ?」
「あ、ああ。まあ……いや待て、なんでわかるんだよ」
「何年幼なじみやってると思ってんのよ。あんた、何か頼みごととかするときだけ、
急に自分から何かしら恩を売ろうとしてくんのよ。普段は頼まれてもなかなかしてくれないくせにね」
言われてみればそうかもしれない。
自覚できていなかったというのは怖いものだ。
気を取り直そうと、俺は呼吸を整える。
「さっき、散歩の提案した理由言っただろ」
「うん」
「実は、もう一つ理由があってな」
「うん。なに?」
口の中があっという間にカラカラになる。
コーヒーを一口飲んでから、俺は気恥ずかしさを振り切って口を開いた。
「スズと一緒にいられる時間を、もっと増やしたかったから」
「……どうして?」
「ど、どうしてって」
正直その反応は予想外だったので戸惑ってしまう。
俺を見つめてくるスズの表情からは何の感情も見えない。
はじめて、スズが何を考えているのかまるでわからなかった。
「どうしてって、そんなの、言わなくてもわかるだろ」
「わからないわよ。ちゃんと言ってくれないと」
「……スズのこと、好きだから」
「ん? ごめん、よく聞こえなかった」
ぎりっと歯を食いしばった。
なんだよ、こっちが勇気を振り絞って自分の本心暴露してやろうってのに、その図抜けた態度は。
緊張感を紛らそうと、理不尽な怒りが沸々と自分の中で沸いてくるのがわかる。
わかっていても止められないほど、それは一気に膨れ上がり、噴出した。
「お前が好きだからだよ! ガキの頃からずっと好きだった!
いつも一緒にいたかった。いつもお前の隣にいるのは俺でありたかった。
お前が誰かに告白されるたびに、お前が遠くに行っちまうような気がして怖かった。
お前は俺にとって大切な友人で、お姉ちゃんみたいでもあって、
なんでも気兼ねなく話せる本当に信頼出来る奴だ。そんな関係が心地よかった。
でも、でも! それじゃだめだ、それじゃ……幼なじみじゃ、ずっと一緒にはいられない。
今の関係が壊れるのは怖いけど、お前が誰かのものになるのはもっと怖い。
でもこんな独占欲丸出しの感情ぶつけて、お前に軽蔑されるのも嫌だ!
そう思ってたけど、だけど、好きだって気持ちを伝えられないのも嫌だ……嫌だった!
だから、一回しか言わない!」
一息、
「スズ! どこにも行くな、俺のものになれ!!」
言った。ついに言ってしまった。
頭の中にいる冷静な自分が、自分自身のことを罵倒する。
なんてわがままで自分勝手な男なのだろう、と。
そんなに相手のことが好きなら、相手の幸せを第一に考えてやれないのか。
その感情は好意ではなく、普段からその相手の一段下にいるという劣等感からくる支配欲ではないのか。
心の中にそんな声が聞こえたが、俺はそれを半分は同意し、半分は否定した。
支配欲は確かにあるのかもしれない。
でも、それと同じくらい強い思いもあった。
スズとずっと一緒に生きていきたいという強烈な思いが。
息が詰まるような沈黙があった。
二人で過ごしてきた時間の中で、これほど居心地が悪い瞬間は無かった。
だから、スズが俺に再び笑顔を向けてくれたとき、本当に嬉しかった。
それだけで全てが報われたような気がして
「イヤだよ」
「……え?」
あまりに清清しい笑顔で言われたせいで、一瞬耳を疑ってしまった。
「だから、イヤだよ」
間抜けな顔をしているであろう俺に向かって、スズは追撃ちをかけてくる。
少し遅れて、張り詰めていた緊張の糸が切れる。
どっと喪失感と虚脱感がやってきた。
さようなら俺の初恋、こんばんは失恋。
「ねえ、ちょっとそのコーヒー飲ませてみてくれない?」
なんとなくこの世の全てを呪いたくなり始めた俺に、スズは普段と変わらない調子で話しかけてくる。
こいつは、俺の一世一代の告白にまるで動じていないのだろうか。
それともずっと前から俺の気持ちに気付いていたのか。
少しだけ考えてから、俺は考えるのをやめた。
今は全てがどうでもいいような気がしてしまっていた。
「うわっ……やっぱり甘い。これは厳しいなぁ」
「……その甘いのがいいんだよ」
少なくとも、俺は苦いだけの泥水も、こんな苦い思いも大嫌いだ。
「まぁ、たまにはこんな甘ったるいのも悪くないかもね」
そう言いながら、スズはその甘ったるいのを口に含んだ。
そのまま一歩こちらに踏み込んでくる。
ぼんやりしていた俺が、スズが何をしようとしていたのか気づいたのは、
甘いミルクコーヒーが自分の喉を通ってからだった。
夜の風が冷たいのに、体が妙に温かい。
距離が、近い。
「お、おおおまっ……! 何を」
「良かったね智博。ファーストキスが大好きなミルク味で」
「う、うん。……いやそうじゃなくて! だからその、なんだ。え? どういう?」
混乱して全然頭が回らなかった。
対して、スズはやけに落ち着き払っていて、やれやれと肩をすくめてみせる。
「智博、あんたは二つ勘違いしてんのよ」
「勘違い?」
「そう。一つ目は、私が『イヤだ』って言ったのは、別に智博の告白を拒否したわけじゃないってこと」
「え? だ、だって」
「二つ目は」
俺の言葉を遮ってスズは言葉を続ける。
「私が智博のものになる? 違うわよ。そうじゃなくて、逆なの」
「逆って……」
まさかと思った。
だけどスズの笑顔は、俺の予想が正しいことを示していた。
幼なじみとは恐ろしいもので、このくらいのことは目を見るだけでもわかってしまう。
「そうよ智博。あんたが私のものなのよ」
「……それ、ひどいんじゃないか?」
「大丈夫。私、智博のこと大好きだもの」
またいつもの笑顔になる。
でも、このままじゃ今までと変わらない。
だから今日だけは許しちゃだめだ。
そう思って、思わず見とれそうなのを堪えて口を開く。
「お、俺はそうじゃなくて、なんていうか、お前と一緒に生きていきたいんだ。
だからその、そう、対等の立場になっていきたい。スズのものになるのは流石にごめんだ」
「今までは私のもの同然だったくせに」
「うるさい!」
今までずっと良いように扱われてきたという経緯があるため、スズの言葉を否定出来なかった。
自分がこんなに情けない男だったことに気付かされ、再び虚脱感が襲ってくる。
「まぁ、私と対等になりたいっていうなら、無糖コーヒーくらい飲めるようになりなさいな」
ぐいっと残っていたコーヒーを全て飲み干して、スズはそう言った。
そのときに見せたスズの笑い方がとても魅力的で、思わずどきっとしてしまうほどで、
だからつい俺は「そんなの関係ないだろ」と言いそびれてしまった。
それでその日は帰ることになった。
目的が予想外の形で達成された俺はもやもやした気持ちを抱えていたが、
そのもやもやは腕にしがみついてきたスズの胸の膨らみに跡形も無く吹き飛ばされた。
冷静な自分が頭の中で「男ってバカだよな」と呟いてくれた。
楽しそうに笑うスズの顔を見て、いつかこの人に勝てる日が来るのだろうかと思う。
努力はしようと思いながらも、自分がスズの上になるなんて想像も出来ないことに気付き、
自分自身の不甲斐無さとスズの胸の柔らかさで頭の中がパンクしそうだった。
ただ、別れ際にスズが言った言葉は、やけに印象に残っていた。
「自信持ちなさいね。私が特別だって思ってるのは、智弘だけなんだから」
それから二週間ほど経った。
三月は終わり、四月。今日から通常授業が始まる。
学校へ向かうために俺は自転車をこいでいた。
あの日からスズには会っていない。
引越しのときに見送ろうと思っていたのだが、スズは俺にだけ顔を見せずに行ってしまった。
代わりに、俺の部屋の窓に書置きが貼り付けられていた。
内容はたった三つだけ。
嬉しかった。ありがとう。大好き。
それしかなかった。
そして、それだけで十分だった。
どこからか桜の花びらが風に乗って運ばれてくる。
調子良くペダルをこいでいた俺は、ふとあるものが目についてブレーキをかけた。
散歩の折り返しにしていた自動販売機だ。
俺は財布を取出し、百円玉があることを確認すると、何の躊躇いもなく投入口に入れた。
自分では一生押さないと思っていたボタンを押す。
携帯を見ると、まだ時間には余裕があった。
その場でフタを開けて、一口で一気に半分ほど飲んでしまう。
晴れやかな春の空を見上げて、桜を運ぶ風が自分の言葉をスズの元へ届けてくれることを祈りながら、呟く。
「やっぱり、苦いのは好きになれそうにねえよ……」
同じ空を見ているはずの幼なじみと対等になれる日は、まだ遠かった。
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甘いのが好きな男の子と、苦いのが好きな女の子の話。
糖分多めな、ほろにが系ほのぼのラブストーリー。
一言で言うと、
幼なじみの女の子と缶コーヒーを飲みに行くお話。
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