1.マエリベリー・ハーン
抜けるような青空と眩い日差し。
静かに打ち寄せる波は陽光を反射してきらきらと輝く。
対岸をぐるりと囲む山が見えるので海ではなく湖なのだろう。
無意識に任せて砂浜を歩いていた私に当然の疑問が湧きあがる。
――ここはどこなのだろう。
どういう経緯でここへやってきたのかすらわからない。誰かに訊いてみよう。
人の姿を探そうとしたところで、ちょうどこちらへ向かってくる者が見えた。
二人の女の子だ。高校生、いや中学生くらいだろうか。水着を身に付けている。
その中の一人が私の姿に気付き、少し驚いた様子で歩みを緩めた。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げる。
艶やかな黒髪が動きに合わせて振れた。
ピンクのワンピースタイプの水着が良く似合っている。
可愛らしい格好をしているが、どこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。
顔を上げた彼女と目が合う。
私を見つめる大きな瞳は隙がなく、十代の少女とは思えない落ち着きが感じられた。
「見ない顔だな」
もう一人の少女が私をまじまじと見ながら言った。
ウェーブのかかった金髪と黒いビキニから派手好きな印象を受ける。
露出した肌は白く滑らかで、水着の黒色とのコントラストには同性の私でもドキリとしてしまう。
「ちょっと! 失礼でしょ、魔理沙」
黒髪の少女が注意するが、金髪の少女――魔理沙は堪える様子もない。
ここまできて、私は本来の目的を思い出した。
「いったい、ここは……」
「待ってくださいよ~!」
訊ねようとした私の言葉を遮って、遠くから声が聞こえた。
またしても女の子が一人、こちらへ向かってくる。
薄い緑色のビキニの上に、同色のフリルのスカートを付けている。
長い髪を揺らして駆けてくる姿は無邪気で微笑ましかった。
それでも、先の二人よりも年上に見える。
理由は二人と比較にならないほど豊かな体つきにあった。
「遅いぜ、早苗」
魔理沙は遅れてきた少女――早苗というらしい――を急かしてから、私に向き直る。
「私たちはこれから泳ぎで競争するんだけど、お姉さんも一緒にどうだ?」
「え?」
突然の申し出に私は戸惑う。
「無理を言っちゃだめよ。お姉さんは水着をもってないでしょう」
黒髪の少女が申しわけなさそうに言った。
「霊夢の水着貸してやれよ。胸んとこがきついだろうけど」
魔理沙がにやにやと笑いながら返す。
「張り倒すわよ」
黒髪の少女――霊夢が低い声で脅す。先ほど感じた神秘性はどこかへ行ってしまった。
「ですよねぇ。私がもう一着水着を持っていればよかったのですが」
早苗が心底困ったという様子で言う。
「早苗、あんた何普通に同意してんのよ。しかも何か見下されてるように感じるんだけど」
「それはたぶん被害妄想だぜ」
見ているだけで楽しくなってくる三人の会話。
彼女たちには悪いが、水着があったところで私は競争には参加できない。
私は泳げないのだ。
「またね、お姉さん」
三人は次々と水に飛び込んでいった。
私はそれを眺めていることしかできない。
湖の水は驚くほど澄んでいた。日本にまだこれほど綺麗な湖があっただろうか。
そこまで考えて、私は肝心なことを訊き忘れたことに気付いた。慌てて叫ぶ。
「待って! ここはどこなの?」
――そこで目が覚めた。
2.宇佐見蓮子 八月二十四日
「泳げるようになりたい!?」
私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
会って相談したいことがある――メリーがそう言うので、夏休みであるにも関わらず大学のカフェテラスで待ち合わせた。
深刻そうなメリーの声に、もしかしたら秘封倶楽部を辞めたいなどと言いだすのではないかと心配していたのだ。
相談の内容は私の予想とはかすりもしないものだった。
「そもそもメリーって泳げなかったんだ」
そう言いながら、私にもメリーが泳いでる姿は想像できなった。
「メリー」と「水泳」、これほど似合わない組み合わせもないような気がする。
「うん、別に泳げなくても困らなかったから」
メリーは悲しそうに言った。
学校の体育の授業で困らなかったのだろうか。
私はそう思ったが口にはしない。
メリーが変わり者であることは十分理解しているからだ。
「じゃあ、何で今さら泳げるようになりたいなんて思ったの?」
メリーは昨日見たという夢の話をした。
私は黙って聞いていた。メリーの夢の話は、たかが夢だと馬鹿にできないのだ。
メリーは夢で拾ったものを現実に持ち帰ってきたことがある。
しかし、とりあえず今はメリーが体験したことが夢か否かを議論する必要はない。
「よく分からない夢だけど、良いきっかけかもしれないね」
私はちょっと面白そうだと思い始めていた。
「いいわ、水泳を教えてあげる。特訓しましょう」
「本当に? ありがとう」
メリーの表情が明るくなる。
「でも、私も暇じゃないからね。期限を決めましょう」
「期限?」
「そう。だらだらやるよりも効率が良いわ。期限は八月いっぱい。今日が二十四日だから明日から始めるとちょうど一週間ね」
九月から、私は所属している研究室で長期の実験に取り掛からなければならない。
大学としての夏休みは九月半ばまで続くが、私にとって夏休みは八月末までという感覚だった。
「たった一週間で泳げるようになるかしら」
「それはメリーの頑張りしだい。死ぬ気で頑張ってね」
少しプレッシャーをかけてみる。
「コーチの腕しだいじゃないかしら」
メリーは涼しげな表情で返すのだった。
3.マエリベリー・ハーン 八月二十四日
蓮子と別れた後、私は水着を買いに出かけた。
泳げない私は当然のように水着を持っていなかったからだ。
デパートの売り場ではどの水着にも値引きの札が付けられていた。
夏の終わりが近付いていることを実感する。
私は自分に似合いそうなものをいつくか試着し、一番をしっくりくるものを購入した。
そこまでは良かったのだが、家に帰って少し不安になった。
――こんな薄い布きれだけで人前に出ても良いのかしら?
これまで水着というものを着たことがなかった私には自信がなかった。
一度、誰かに見てもらっておいた方がいいかもしれない。
だから、私は再び蓮子に会うために彼女の部屋を訪ねることにした。
* * *
水着に着替えた私を蓮子がまじまじと見つめる。
「ほう、これはこれは」
顎に手を当てた蓮子は、妙な感嘆の声を上げた。
なぜか骨董品の鑑定士みたいな雰囲気を醸し出している。
私の買った水着は、白地に花の模様があしらわれたビキニだった。
胸の前にはリボンの飾りがついていてアクセントになっている。
下はビキニの上にボーダー柄の短いスカートを付けていた。
ビキニだけだと少し恥ずかしかったからだ。
「どうかしら?」
蓮子は質問には答えず、真剣な表情で私を見ている。
目の前までやってくると、しゃがみこんだ。私の腰の前に蓮子の顔がきている。
蓮子がおもむろにスカートを捲る。
「ちょ、ちょっと何してんのよ」
「動かないの」
私の抗議は蓮子の強い口調で遮られてしまった。
スカートを捲る意味はあるのかしら。
蓮子は立ちあがると、今度は私の後ろへ回った。
背中に蓮子の視線を感じて落ち着かない。
――いったいどこを見ているのよ?
いよいよ耐えられなくなってきた頃、突然後ろから蓮子の両腕が伸びてきて、胸を鷲掴みにされた。
蓮子の指が私の胸に食い込む。
「いやー!」
私は暴れて撥ね退けた。
「な、何すんのよ!」
蓮子はにやにやと笑っている。
「ごめんごめん。一応確認しておいた方がいいかと思って」
「何の確認よ!」
「落ち着いてよ、メリー」
悪びれる様子もない。
「水着は似合ってるし、おかしなところもないわよ。ただ、メリーの魅力を引き出すには何かかが足りない気がするの」
そう言うと蓮子は部屋の隅に置いてあった紙袋を差し出した。
「これに着替えてみて。こっちの方がきっと良いわ」
先ほどのふざけた様子がなくなり、まっすぐ私を見据えて言う。
「……わかった」
ただ褒めるだけなら誰にでもできる。こうして、親身になって考えてくれる友人に感謝しなければならない。
* * *
着るんじゃなかった。
蓮子の水着に着替えた私は、姿見鏡に映った自分の姿を見て後悔した。
蓮子に渡された水着は最低限の布しかないマイクロビキニだった。
この姿で水泳の練習なんて正気とは思えない。
体を動かそうものなら何かがこぼれる。
「すごく似合ってるわよ」
蓮子は間違いなく私をからかって遊んでいる。
「これ、まさか蓮子の持ち物? 蓮子って変態だったのね」
言ってやった。やられっぱなしで終わるわけにはいかない。
「そんなわけないでしょう。私のはこれよ」
蓮子がひらひらさせているのは、至って普通の青いビキニだった。
「今メリーが着てるやつは、さっき買ってきたばかりなんだから」
「え、わざわざ買ってきたの?」
結局、また私が驚く番だった。
「そうよ、高かったんだから。おかげで良いものが見れたからいいけどね」
「やっぱり変態よ!」
私は蓮子の脛を蹴ってやった。
4.宇佐見蓮子 八月二十五日
泳いだことはなかったが、大学に結構立派な室内プールがあることは知っていた。
ここの主である水泳部は、毎年八月最後の一週間だけ部活が休みになるらしい。
水泳部以外に利用する者などほとんどいないため、今日から一週間はほぼ貸し切りで練習ができるはず。
素晴らしいタイミングの良さだった。
私はここを練習場所に決めた。室内プールなら日焼けの心配もない。
メリーは不安な面持ちでプールサイドを歩いている。
五十メートルのコースは、泳げない者にとっては果てしない距離に思えるかもしれない。
これを端から端まで泳ぎ切ることが目標になる。
メリーの運動神経はどうなのだろう。
よく考えるとメリーがスポーツをしているところを見たことがない。
それでも何とかなるだろうと私は楽観的に考えていた。
準備運動をして、いよいよプールに入る。
水はほとんど冷たさを感じないくらいの温度だった。
私の後に続いて、メリーがぎこちない動作で水に足を入れた。
「まずは一度潜ってみようか」
まず、私が手本を見せるために潜る。
水の中で待っていると、メリーが続いて入ってきた。水中で目が合う。
私は体が浮かび上がるのに任せて時間を置いてから、息が苦しくなってきたのでプールの底に足をついて立ちあがった。
同じくメリーも水面から顔を出す。
「自分の体が浮かぶ感覚が分かったかしら? これが大事なの」
「ええ。何だか楽しいわね」
メリーは珍しくはしゃいでいた。とりあえず、特訓は順調に滑り出した。
* * *
始めて二時間もしないうちに、メリーは水に浮くことを覚えた。
まだ、進む力は弱かったが蹴伸びもできるようになっていた。
「これならすぐ泳げるようになるんじゃないかしら」
メリーは少し調子に乗り出している。
私はクロールの型を簡単に教えた。
「やってみるわ」
メリーがコースに着いた。
水の中に頭を沈め壁を蹴る。
蹴伸びの推進力は徐々に失われ、いよいよメリーが泳ぎだす――と思ったら、
「あらら」
ジタバタともがきながら沈んでいくメリーの姿に思わず声が出た。
何もできずにプールの底に足を付いたメリーは勢いよく咳をしている。
どうやら水を飲んだらしい。
「蓮子ぉ」
悲しそうな顔でこちらを見るメリー。
「やっぱり、少しずつ段階を踏んで練習しましょう」
コーチは優しく声をかけるのだ。
その日はメリーのやる気がすっかりなくなってしまったので、続きは翌日にすることにした。
5.マエリベリー・ハーン 八月二十六日
水泳というものが思っている以上に体力を使うものだと知った。
昨日はほとんど水の中を歩いたり潜ったりしているだけだったのに、
家に帰った時には全身がだるくて仕方がないほどの疲労感に襲われた。
おかげでよく眠れたけれど。
本日、最初の特訓メニューは、プールサイドに腰をかけて足をバタバタさせるというものだ。
傍から見ると頭の弱い子にしか見えない気がして恥ずかしかったが、こういう基礎練習が大事なのだと蓮子は言った。
だから、私はそれに従って盛大に水飛沫をあげ続けている。
「昨日、クロールがどうして上手くいかなかったのかわかる?」
プールサイドの練習が終わったところで蓮子が私に訊ねた。
「どうしてかしら。水に浮いていたはずなのに、手足を動かせば動かすほど沈んでいってしまって」
「それは余計な力が加わったからよ。無駄な力をなくして、必要な方向だけに力が働けば決して沈むことはないわ」
何となくだけど蓮子の言っていることは理解できた。
「まずは、手と足の動きを別々に練習しましょう」
こうして、私はビート板を手に持ってキックだけで進む練習と、逆にビート板を足に挟んで手の動きだけの練習を繰り返した。
プールサイドから飛んでくる蓮子の指導で、少しずつ正しい手足の動かし方を覚えていく。
何回プールの端から端を往復しただろうか。全身のエネルギーが空っぽになってしまったような気がする。
それでも、不快ではなく心地よい疲労感だった。
大学の門で蓮子と別れる。帰ったらすぐに寝ようと思った。
6.宇佐見蓮子 八月二十七日
昨日は手足を別々に練習させたので、今日はまず、手足を両方組み合わせて泳がせてみることにする。
丸一日みっちり練習した甲斐があってか、メリーの泳ぎは十分クロールらしくなっていた。
メリーは筋肉痛になったらしく、水着に着替える前は練習を嫌がっていた。
しかし、いざ練習を始めてみると真剣そのもの。
泳げるようになりたいという気持ちに嘘はないみたいだ。
「だいぶ見られるようになってきたわね」
「そうかしら」
私が褒めるとメリーは子供みたいに素直な笑顔を見せた。
しかし、私は厳しいコーチなのだった。
「でも、やっと半分といったところよ」
「まだ半分なの?」
メリーは水の中でよろめいた。
「当り前でしょう。ここからが大変なんだから。今から『息継ぎ』の練習を始めるわよ」
まずはメリーをプールサイドに立たせ、私はゆっくり泳いで手本を見せた。
そして、もう一度水の中に呼ぶ。
水の上に浮かんだメリーの手を引きながらゆっくりと後ろへ歩いていく。
メリーは足にビート板を挟んでいるので、こうすると何もしなくても進むことができる。
「はい、手を片方ずつ回して。みぎー、ひだりー。次、顔を上げて」
メリーは正面を向いたまま、顔を水の上に出してしまう。
「違うわ。顎を引きながら、横を向いて顔を出すのよ」
息継ぎというのは、一度覚えてしまえば酸素を求めて無意識でも体が動くようになるものだ。
しかし、手足に加えて頭まで別々の動作をさせなければならず、初めは苦労する者も多い。
私は小学一年生の時にはもうできていたけどね。
メリーの手を取って何度もプールを往復した。
メリーは息継ぎの動作のパターンを理解してきていたが、まだ余計な動きも多い。
続きは明日にしよう。
* * *
夜、部屋で洗った水着を干していると携帯電話が鳴った。
所属している研究室からだった。
7.マエリベリー・ハーン 八月二十八日
今日は蓮子からの電話で目が覚めた。
「メリー、ごめん! 今日の練習には行けない」
なんでも、蓮子の研究室で九月から使う予定だった器材が、トラブルで手に入らなくなってしまったとか。
特殊なもので代わりを見つけるのも容易ではないらしい。
今日、蓮子はその器材の手配のために奔走しなければならないと言っていた。
――そんなこと他の子にやらせておけばいいのに。
私はそう思ったが、蓮子は他人に任せるくらいなら自分で動く性格であることも知っていた。
蓮子から見れば誰だって遅くてまどろこしいのだ。
今日の練習はやめてしまおうかとも思ったが、
一日空けたら覚えたことが全部なくなってしまうような気がして、やはり大学のプールに来ていた。
何本か泳いでみたが、どうしても息継ぎができなかった。
水面に出した顔を再び水に戻すと、体が大きく沈み込んで前へ進む力を失ってしまう。
昨日のレッスンを思い出しながらやり直しを続けるが上手くいかない。
悪いところ指摘してくれる蓮子がいないので、どこを直せばいいのか分からなかった。
すっかりやる気を失ってしまっていた。
プールサイドに設置されたプラスチックのベンチに腰を掛ける。
揺らめく水面をぼんやりと眺める。
――私って蓮子がいないと前に進めないんだ……。
蓮子の強引な誘いでサークルを結成し、蓮子のわがままにいつも仕方なく付き合ってあげているみたいに振舞ってきた。
でも、本当に秘封倶楽部を必要としていたのは私の方だ。
泳ぎの練習のように、蓮子に手を引いてもらわないと何もできない。どこにも行き着かない。
ずっとこのままじゃいけないのはわかっている。
蓮子の重荷にだけは成りたくなかった。
私はベンチから立ち上がる。練習再開だ。
それでも――明日は蓮子に会いたいと願う。それも私の正直な気持ちだった。
8.宇佐見蓮子 八月二十九日
昨日は大変だった。
一日中、器材を持っていそうな大学や研究機関に片っ端から電話をかけて交渉し、
やっとの思いで貸し出しの約束を取り付けた時には、もう夜になっていた。
その後、同じ研究室の仲間に報告すると、
「やっぱり優等生の宇佐見さんに任せて正解だったわ」
労いの言葉一つない。何だかやるせなくて、疲れだけが残ってしまった。
今日からまた、メリーの水泳の練習に復帰している。
けれども、水に入る気も起こらなくて、私はプールサイドのベンチでメリーの泳ぐ姿をただ眺めていた。
これまで、ちらほら見かけた別の利用者も今日はいない。
本当に貸し切りになってしまっている。
さすがに監視員はいるが、彼らも眠そうだった。
静かな空間に、メリーが飛沫を上げる音だけが反響する。
ささくれ立った心が徐々に和らいでいくのを感じていた。
「コーチのやる気が感じられないわ」
いつの間にかプールから上がっていたメリーが、私の隣に腰を掛ける。
私はメリーの不満の声を無視して言った。
「私たちってさ。夏休みの間、ほとんど毎日一緒にいたね」
改めて振り返ってみて気付いたのだ。
「……そうね。飽きもせずに」
メリーが苦笑する。
「なんでだろ」
二人だけのサークルに所属しているから?
それとも、メリーの特殊な目が私の好奇心を満たしてくれるから?
それもあるけれど、たぶんそれだけじゃない。
私にはメリーしかいないのだ。
大学に入って交友関係は広がったけれど、こうして一緒にいて穏やかな気持ちになれる相手はメリーだけだった。
突然、黙ってしまった私を不思議そうにメリーが覗きこんでいる。
「夏休みが終わったらもう毎日一緒にはいられないね」
私が呟くとメリーが、
「何言ってるの。授業期間でも毎日会ってるでしょう?」
それもそうだ。私とメリーは学部も専攻も違うけど、空いた時間を見つけてはカフェテラスなどで話をしている。
――それでも、大学を卒業してしまったら?
さすがに毎日会うというわけにはいかないだろう。
その喪失感を想像しただけで胸が痛んだ。
痛みをごまかすために私は立ちあがる。
「さぁ、いつまで休憩してるの、メリー。特訓を再開するわよ!」
まだ訪れてもいない先のことを考えて、暗くなっているなんて私らしくない。
今、自分が面白いと思うことだけやればいい。
だから今は、メリーに泳ぎを教えよう。
9.マエリベリー・ハーン 八月三十日
タイムリミットまであと二日。弥が上にも気合いが入る。
勇ましい足取りでプール施設のドアを潜ろうとしたら、
「痛っ!」
……自動ドアに頭をぶつけた。
頭を押さえて振り返ると、蓮子が自動ドアの手前に置いてある立て看板を指さしている。
そこには黒く力強い書体で『休館日』と書かれていた。
* * *
右腕をぐるりと回して、頭の先にある蓮子の枕にバタンと叩きつける。
次は左腕を同じように動かしてバタン。
蓮子の部屋のベッドに寝そべって泳ぎのイメージトレーニングをしていた。
蓮子の部屋は殺風景で、女の子らしさが感じられない。
部屋にあるものは壁一面の本棚、机とその上に載ったノートパソコン、あとはシングルのヘッドくらいだ。
これでも、十分必要なものは揃っているのだという。
「ねぇ、メリー。私の枕をペシャンコにしたいの?」
蓮子が分厚い本のページを捲りながら言った。
私は練習を続けながら答える。
「ちょうど手が来る位置に枕があるのよ」
「そうでしょうね。枕は普通その位置に置くものだから」
抑揚のない蓮子の声を聴きながら、私は腕だけでなくキックの動きも追加する。
質素な作りをしている蓮子のベッドだったが、意外と蹴り心地が良かった。
力いっぱい足をバタつかせる。
「うるさーい! それに埃が立つ!」
ついに蓮子の怒りが爆発。私は動きを止めた。
「イメージトレーニングをしておけって言ったのは蓮子じゃない」
「イメージトレーニングなんだから頭の中だけでやりなさいよ」
私は膨れて見せたが、蓮子は気にせず読書に戻ってしまった。
蓮子の読む本は、難解な言葉の羅列の間に、難解な数式が挿入されるような代物なので私が参加する余地はない。
「じゃあ、もう帰ろうかな」
独り言のように呟いて蓮子の反応を見る。
文章を追う蓮子の目がわずかに止まったのがわかった。
「私が帰っちゃったら寂しいでしょう」
たまには蓮子をからかってみてもいいかもしれない。
「水着ショー」の仕返しも残っている。
「寂しい」
蓮子がぽつりと漏らすように答えた。目が合う。心なしか蓮子の瞳は潤んでみえた。
蓮子の普段とは違う憂いを帯びた表情に、私は戸惑ってしまう。
「夏が終わるのが寂しい」
「え?」
「あぁ、今年の夏も素敵な出会いがないまま終わっていくのね」
蓮子は大げさにため息をついた。
「何よそれ」
ドキドキして損をした。やっぱりからかわれてしまうのは私の方だった。
結局、私は蓮子の部屋に泊まっていくことにした。
蓮子の部屋にお泊りするときは、私がいつも蓮子のベッドを使うことになっている。
蓮子はお客様用の布団なんて持っていないからだ。
それで、蓮子はどうするのかというと、もちろん自分のベッドで寝るしかない。
蓮子は夜型――というか、睡眠時間自体が少ない――なので、私より先に眠ることはない。
だから、私が寝付いた後、同じベッドに入ってきて眠るらしかった。
私は目覚めると、シングルベッドのわずかなスペースに、体を潜り込ませて眠る蓮子の姿を見ることになる。
初めは蓮子に悪い気がしたが、今では慣れてしまって何とも思わない。
私はベッドで眠りに入る直前だった。
部屋の照明は消えていて、蓮子は机のライトで本を読んでいる。私はその背中を眺めていた。
「ねぇ、メリー。境目を意識してみたらどうかしら」
蓮子は本に目を落としたまま言う。
「当り前のことだけど、あなたと水には境目が存在するのよ。水の境界面に自分の体を載せるようにイメージしてみて。
もしかしたら、それがメリーの感覚に一番合っているかもしれない」
私はまどろみの中で蓮子の言葉を聞いていた。
10.宇佐見蓮子 八月三十一日
いよいよ最終日――。
メリーはコースの壁にぴったりと背中を付けて、対岸を見据えている。
もちろんゴールまでの距離は五十メートル。
メリーのこれまでの最高記録は十五メートルくらいなので、その三倍以上を泳がなければならないことになる。
普段の穏やかなメリーからは想像できない凛々しい表情だった。
軽く息を吸って、体を水に沈める。そのまま壁を蹴ってスタートした。
蹴伸びのフォームは悪くない。これなら蹴伸びだけで十分に距離を稼ぐことができる。
勢いが落ちてきたところでクロールを始めた。
ややぎこちなさの残るゆっくりとしたペースで腕を回すが、
おそらくそれは練習で学んだ型を崩さないように注意していることの表れでもある。
苦労した甲斐あって、息継ぎの頭の動きにも問題はなかった。
メリーの動きに、徐々にリズムが生まれてきた。気付くとすでに二十五メートル地点を過ぎていた。あと半分。
私はプールサイドでメリーと並走する。
「メリー! いけるよ!」
私は声を張り上げた。メリーに聞こえているだろうか。
もはやメリーの泳ぎには自信すら感じられた。今まさにメリーは泳げるようになったのだ。
四十メートル……、四十五メートル……。
そして、メリーは壁に手をついた。
これにて特訓は終了。私はメリーの合格を認める。
水から上がってきたところを祝福しようと待ち構えていたが、一向に顔を出さない。
メリーはどこにもいなかった。
11.マエリベリー・ハーン
抜けるような青空と眩い日差し。
静かに打ち寄せる波は陽光を反射してきらきらと輝く。
それは、前に見た夢とそっくりの光景だった。
――また、夢を見ているのかしら。
先ほどまで、大学のプールで泳いでいた。
五十メートルを泳ぎ切って壁に手をついたところまでは覚えている。
手をついた次の瞬間、ここに立っていたのだ。
何が何やらさっぱり分からない。
茫然と立ちつくしていたところに、水着姿の二人の少女が現れた。
この子たちにも会ったことがある。
「こんにちは」
ぺこりと頭を下げたのは霊夢――名前も覚えている。
「見ない顔だな」
私をまじまじと見つめるこの子は、たしか魔理沙といった。
「ちょっと! 失礼でしょ、魔理沙」
このやり取りまで以前と同じだ。それならば、おそらくまだ役者が足りない。
私は二人がやってきた方角に視線を移した。
「待ってくださいよ~」
「遅いぜ、早苗」
駆けてきた早苗が合流する。
どうやらこの夢は、以前見た夢の繰り返しらしい。
こんな経験は初めてだった。
「私たちはこれから泳ぎで競争するんだけど、お姉さんも一緒にどうだ?」
「え?」
分かっていたはずなのに、魔理沙の言葉に動揺してしまう。
「わ、私はその……」
「何をためらうんですか。泳ぐ気まんまんの癖に~」
早苗に言われて初めて気付いた。私は水着姿だった。
三人に押し切られるようにして、私はスタート位置に着いてしまった。
「あの御柱がゴールですよ」
見ると湖面に大きな赤い柱が突き出ていた。
結構、距離がある。
百メートル、いやもっとあるかもしれない。
「神奈子様が『あれ以上先へ行ってはいけないよ』という意味で立てたんですよ」
早苗の言っていることはよく分からなかったが、ようするに海水浴場にあるブイのような役割をしているらしい。
「幻想郷最速を見せてやるぜ」
魔理沙が不敵な笑みを浮かべる。
霊夢は黙々と準備運動をしていた。
私はもう一度、ゴールの柱を見た。
あの辺りはきっともう足が付かないだろう。少し怖かった。
それでも、この無邪気で賑やかな少女たちと一緒に泳ぎたいという気持ちが勝った。
「よーい……、どん!」
魔理沙の掛け声で私たちは一斉にスタートする。
プールのようにすぐに泳ぎ始めることはできない。
まずはある程度水深のあるところまで走ることになる。
思っていたよりも水が冷たかった。それでも走る勢いは緩めない。
腿のあたりまで水がきたところで私は泳ぎに切り替えた。
蹴伸びができないので出だしの勢いが付けられない。
それでも、私は落ち着いてクロールに取り掛かった。
体は少しずつ加速を始める。
プールとは違って、湖の中は生命の気配に満ちていた。
貴重な天然魚を見つけられるかもしれないが、今はそれどころではなかった。
前を行く人影は一つだけだったので、私は二番手に付けたことになる。
緑のビキニを身に付けたお尻が見えたので、先頭はおそらく早苗だろう。
霊夢と魔理沙がどの辺りにいるのか気になったが、もちろん振り返ることもできないのでわからなかった。
息継ぎの瞬間、右方向の少し離れた辺りに魔理沙の姿を発見する。
――飛んでる!?
衝撃的な光景に水を飲みそうになったが何とか堪えた。
じっくり見たわけではないので確かではないが、魔理沙は箒に腰かけて空中を移動しているように見えた。
そして、次の息継ぎで見間違いではなかったことを確認する。
もう私は驚かなかった。それよりも「反則じゃないかしら」なんてことを気にしている。
おかしな話かもしれないがあの魔理沙という少女なら、空を飛ぶくらいやってのけてしまいそうに思えたのである。
それにこれは夢だもの。
「魔理沙~!」
後方で怒鳴り声が聞こえた。
水を隔てているのでくぐもっていたがおそらく霊夢の声だ。
その直後、私が見たのは無数の紙切れに包まれて水面に激突する魔理沙の姿だった。
何が起こったのかわからなかったが気にしないことにした。
私は再び泳ぎに集中する。早苗との距離は縮まらない。
私は五十メートルを泳ぎ切るための特訓はしたが、速く泳ぐための特訓はしていないのだ。
――境目を意識してみたらどうかしら?
昨日、寝る前に聞いた蓮子の言葉を思い出す。
この的確なアドバイスのおかげで私は五十メートルを泳ぐことができたと言ってもいい。
悔しいけど、やっぱり蓮子は私を良い方向へ導いてくれる。
水と私――そこには紛れもない境目が存在している。互いが反発しあい浮力が生まれる。
水は私を押し上げてくれるけれど、私の行く手を遮ろうともする。
だから、私は水に嫌われないように優しく体を滑らせなければならないのだ。
私は腕の回転速度を上げた。
早苗が少しずつ近づいてくる。
水の抵抗をほとんど感じなくなっていた。
むしろ水が私を押し進めてくれているようにすら思える。
あとは夢中だった。気付くと早苗の姿が私より後ろにあった。
目の前には赤い御柱。その鮮やかな色合いは水中でもくっきりと見える。
私は勢いをそのままに柱にタッチした。
――私の勝ちっ!
皆は褒めてくれるだろうか、それとも悔しがるだろうか。
水面に上がるために体を押し上げようとしたら、御柱に着いた手がずるりとめり込んだ。
他に体を支えるものがないため、私は為す術もなく柱の中へと吸い込まれていく。
落ちていく時、周囲に無数の目が広がっているのを見た気がした。
* * *
「あれ?」
気が付くと私はベッドの上にうつ伏せになっていた。
ほのかに感じたシーツの匂いで、私はここが何処なのかを悟る。
「メリー?」
椅子に座った蓮子がひきつった表情で私を見下ろしている。
ここは蓮子の部屋だった。ついさっきまで湖で泳いでいたというのに。
あまりの展開に私は思考が追いつかない。
「プールで急にいなくなったかと思えば……、何でびしょ濡れで私のベッドにいるのよ!」
蓮子のベッドは見事に水浸しだ。これは私のせいということになるのだろうか。
「そ、それは……何でかしらね」
私は苦笑するしかなかった。
「これじゃ寝られないじゃない! 明日、朝早いのにどうしてくれるのよ」
蓮子は怒っている。何とかしてなだめなければならない。
「とりあえず私の家に来る?」
当分、蓮子は私の部屋で寝泊まりすることになりそうだ。
夏が終わっても、やっぱり私たちは一緒にいる。
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秘封倶楽部――蓮子とメリーの8月最後の一週間を描いた物語です。
水着もあるよ。