夜の帳が落ちて、空は藍色に染まる頃合となった。
街の至るところで灯がともり、また時間が経つにつれて喧騒の意味合いが変わってくる。
和やかで平和そのものであったそれから、暗く剣呑なものへと。
昼間にはなかった種類の言い争いや喧嘩、騙し合い。
大人達の、思わず顔を顰めてしまうような口汚い応酬・・・。
きっとこれはいくら平和になったって絶えることのない、人間の醜い一面なのだ。
夜というものは美しく、そして恐ろしい。
明るい時分には抑えられていたものが、まるで蓋を開けたみたいにあふれ出してくる。
――そういえば、日本の神話にもそんな話があったな。
そんなことを思い出す。
太陽を司る女神が隠れてしまうと、太陽がなくなってしまって、夜には魔物が出るようになった。
おぼろげな記憶だが、そんな話だったように思う。
――こっちも、ちょっとやばいことになっているらしい。
俺は冷や汗が流れるのを感じながら、やけに冷たく感じる竹簡を握り締めるように閉じた。
「ん、きたか」
その声の主は、孫権さんだった。
今この部屋にいるのは、孫権さん、祭さん、劉備さん。そして今入ってきた俺だけだ。
秋蘭と星、鈴々には退室願っている。
・・・星と鈴々は劉備さんを心配して、秋蘭は俺を心配して、なかなか出て行ってはくれなかった。同席させろと、懇願してきた。
それは至極当然のことで、出て行けという俺のほうがおかしい。
だけど俺は譲るわけにはいかなかった。
なにせ今から行うのは、劉備さんを救うための話し合いなのだから。
「共に、事を成してくれるか」
そう問いかけてくる孫権さんの目は、どこか嬉しそうで、どこか不安そうだった。
俺は力強く頷いてみせる。
・・・俺自身は、何かを成すことはできないけれど。
何かを成したいと願う人の手助けをすることくらいはできる。
それはきっと、華琳に対してしてきたことと同じで。
ならば俺は全力で“王”を手助けするまでだ、と腹をくくったのだった。
「・・・ありがとう」
その言葉は、俺のもの。
口を開きかけていた孫権さんは呆気にとられたような顔で俺を見ていた。
「・・・なんでお前がそれを言うのだ」
「いや、なんか言いたくて」
「・・・・・・おかしなやつだな」
クス、と笑う孫権さんに思わず笑みが漏れる。
「んんッ!」
と、わざとらしい咳払い。
「祭さん?」
「見つめあうのはそれくらいにして、話を進めてもらえんかの?」
ニヤニヤしながら、目は笑っていないという離れ業を見せてくれる祭さん。
・・・からかってるんだか怒ってるんだか。
「なっ・・・ち、違うぞ、祭!私はこやつのことなど・・・!」
「む、それはよろしくありませんぞ、権殿」
「えっ?」
何事かを否定したかったらしい孫権さんを制した祭さんは、一転して諭すような顔になる。
「な、なにが?」
「これから共に事を成すのでしょう、なのにいつまで一刀に対してそのような他人行儀な振る舞いをしておられるおつもりか?」
「そ、それは・・・」
「って、ちょっと待って。さっきから思っていたんだけど、祭さんが参加することはいつ決定したの?」
俺としては、秋蘭たちに出てもらうときに、祭さんもそうしてもらうつもりだった。
それを止めたのは孫権さんと、少しだけムッとした様子の祭さん本人。
今もやっぱり祭さんはムッとして俺をにらみつけた。
「お主も権殿に同じく、儂をのけ者にするつもりじゃったのか?」
「いや、それは」
のけ者とか、そういうつもりじゃなくて。
・・・魏とか呉とか、そういう勢力を絡めてしまっては動けなくなってしまうのではないかって孫権さんが言っていたからで。
ていうか祭さんにこれ以上危ない橋を渡ってほしくないわけで・・・。
「お主らふたりで何ができるというんじゃ?これから何をするかも、まだ決まっておらんという悠長っぷりで」
「うぐ」
孫権さんとふたり、言葉に詰まる。
「ふ、ふたりと言っても、明命だって手伝ってくれるわ」
「はうあっ!?」
どこからともなく現れた明命が驚いたように孫権さんを見て、孫権さんはといえば、
「手伝ってくれるのでしょう?」
「・・・・・・・・・はい」
にっこり笑ってそれを制した。
・・・王への成長、恐るべしッ!
「え、えーと」
戸惑う俺に、明命は気にしないでくださいと笑った。
「私の一番の使命は、蓮華様をお守りすることですから!蓮華様が行くところには、どこまでもお供するだけなのですっ」
「ま、まぶしい・・・」
「へ?」
「あ、ごめん。つい本音が」
「本音なのですかっ」
その真っ直ぐさが、今の俺にはまぶしいだけです。
「ともかく。お主らだけで何もかも成せると思ったら大間違いじゃ。目的のためならなんでもするのではないのか?」
「それは・・・」
「頼れるものは何でも頼る。使えるものは何でも使う。――それくらいの覚悟も持てんで、何を決意した気になっているのやら」
孫権さんとふたり、今度こそ何も言い返す言葉が見つからなかった。
「で、じゃ」
「何の話だったっけ」
「ええい、めんどうじゃな!権殿の振る舞いが他人行儀過ぎるという話じゃ!」
「ああ・・・」
話が逸れまくってて、何の話かさっぱりになっていた。そういえばそういう話だったな。
「権殿、そろそろおわかりになられましたか?」
「え、ええ・・・でも・・・」
なにやらモジモジしている孫権さん。
「?」
「そ、その・・・」
「権殿・・・」
あきれ返ったような祭さんが、孫権さんの目をしっかりと見つめて語りかける。
「この件、一歩間違えれば命が危ういこともありましょう。お国にバレれば、お味方の信用を失うことさえ。・・・それを共にしてくれるという。そんな人間に、何を躊躇うことがありましょうや?」
「む・・・」
何か祭さんの言葉に感じ入ることがあったのか、孫権さんは説得されたらしい。
「・・・北郷」
不意に俺のほうに向き直り、しっかりと見つめられる。
「う・・・うん?」
「以後、私のことは、そ、その・・・蓮華と呼んで・・・ほしいのだけど」
最後のほう、少しだけ決意が鈍ったのか、語尾が怪しくなったが。
・・・それは確かな、信頼の証だった。
「ほ、北郷・・・?」
はっとなる。どうやらあまりの喜びに、固まってしまっていたみたいだ。
「ありがとう。すごく嬉しいよ。俺には真名がないから、好きなように呼んでほしい・・・蓮華」
「・・・っ!ええ・・・じゃあ、あの・・・一刀と呼んでも?」
「もちろん」
頬を染めて、小さく口の中で「一刀」とつぶやいているらしいそん・・・いや、蓮華を見ると、なんだか恥ずかしくなってきた。
「んんッ!!」
本日二回目――祭さんのわざとらしい咳払い。
「話を進めても、よろしいかのう?」
「え、ええ、もちろん」
わたわたと焦っているらしい蓮華にため息をひとつだけ漏らしてから、祭さんは部屋の隅にふいっと視線をずらした。
そこには、俺がこの部屋に入ってくる前からずっとそこにいて、今の会話にも俯いたまま何の感情も示さない人がいて。
「話を聴くところから始めるんじゃろう?――劉備殿に」
名前を呼ばれてびくりと身を震わす劉備さんは、まるで何かに脅えているかのようだった。
「桃香・・・」
「・・・っ」
手を伸ばそうとする蓮華に、頑なに拒む劉備さん。
その光景はひどく痛々しくて、俺たちは苦い顔をするしかなかった。
・・・と、いっても。
時間があまりあるわけじゃ、ないんだよなあ。
・・・“アレ”を見たからには、特に。
「一刀?」
劉備さんに近寄る俺を、祭さんが訝しげな目で見てくる。
彼女の目の前まで近づいて、ふっと腰を下ろした。目線を合わせる。
「劉備さん」
「・・・は、い」
その目は意外にもしっかりとしていて、俺の目をちゃんと見返してきてくれた。
・・・乱心しているようには、思えないけれど。
「あなたに訊きたいことがある。できる限り答えてもらいたい。・・・いいかな」
「・・・はい」
「うん。じゃあ最初に、なぜ挙兵を宣言した?」
「・・・」
予想していたのだろうその言葉に、だけど劉備さんは言葉を詰まらせた。
言おうとして、でも言葉が見つからなかった。・・・そんな感じだった。
「桃香」
「わ、私は・・・」
皆が劉備さんの言葉を待つ。
何度か言葉を呑み込んで、ようやく劉備さんは口を開いた。
「・・・華琳さんが、憎かったの」
「!?」
気づくと、がっしと腕を祭さんに掴まれていた。
落ち着けと、その目は俺に強く訴えかけていた。
頷いて見せて、大丈夫だと示す。
・・・祭さんにそうしてもらっていなかったら、俺は劉備さんにつかみ掛かっていたかもしれなかった。
その様子を見ていたらしい劉備さんは、フッと儚げに微笑んで、言葉を続けた。さっきよりも少しだけ心を決めたみたいだった。
「憎くて、妬ましかった。自分に何もないことを見せつけられているみたいで・・・」
「何もないって、そんな・・・」
「うん、今はそんなこと思っていないよ。仲間がいるって、ちゃんとわかってる」
弱々しげに笑ってみせる。
「それで・・・その、信じてもらえるかわからないけれど、そのときから何かが可笑しくなって」
「おかしくなった・・・ですか?」
「誰かが囁いてくるんだよ」
疑問を呈する明命に対し、遠くを見るような目で、しかし何かを悲しむような目で、劉備さんは言葉を紡いでいく。
「私の罪を、私が見たくなかったものを、囁いてくるの。それが嫌で、私は考えることを止めてしまった・・・」
「・・・」
正直言って。
俺は、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
この人は意識がはっきりしているように見えて、やはり乱心しているのだろうか。
そんなことまで思ってしまったくらいだ。
「なるほど。それで、どうしたの?」
だけど、蓮華は彼女を微塵も疑っていなかった。
彼女のためを思って、彼女の言葉に耳を傾けている。
身を引き締めるような思いで、俺は劉備さんの言葉にもう一度耳を傾けた。
「その声が、華琳さんのやり方は間違ってるっていって、私はそれを信じちゃって・・・」
「挙兵を宣言したと?」
こくり、と頷く劉備さん。
「それが先ほどの男たちのことか?」
先ほどの男?
と、思い出す。彼女たちがこの部屋に戻ってきたとき――何者かに襲われた、といっていたことを。
考えが回らなかった。
そうか、つまり劉備さんを唆した相手は実際に存在するということだ。
「・・・いったい、誰なんだ、そいつらは?」
「劉備殿をどう助けるかということと同時に、そやつらの対策も考えなければならんの・・・」
「あ、あの・・・」
考えに沈む俺たちに、劉備さんは辛抱ならないというような様子で話しかけてくる。
「さっきから思っていたんだけど・・・その、私を助けるって・・・」
「ああ。・・・桃香、お前、今も平和を乱したいと望んでいるのか。何とかして、戦を起こしたいのか?」
あえてそう尋ねる蓮華に、劉備さんは首を大きく横に振って否定を示した。
「ち、違う、そんなことしない!信じてもらえるなんて思ってないけど、私はそんなこと、本当は・・・!」
「それなら、私は桃香を助けたいと思う」
「・・・え?」
「余計なお世話かもしれないけれど・・・私は、あなたを助けたいの」
「どうして・・・?」
蓮華は少しだけ考えて、しかし白状するとでもいうように、顔を赤らめて微笑みながら言った。
「あなたに死んでほしくないからよ」
「・・・・・・っ」
小さな部屋に、嗚咽が響く。
それは誰でもない、劉備さんのもので。
彼女は泣いていた。
自分の犯した過ちに。
気づけなかった、たくさんの人のぬくもりに。
次に顔を上げたとき、その顔は、泣いていた少女のそれではなく。
――ひとりの王の顔をしていた。
「助けられるだけなんて、嫌・・・」
その柔らかな瞳に、一筋の強さを灯して、彼女は立ち上がる。
「自分のやったことの責任は、とる。今度こそ、みんなが笑えるように・・・」
蓮華は、どこか嬉しそうに。
祭さんは、なにか感心するような顔で。
明命は、驚いたような瞳で。
皆一様に、劉備さんの決意に感動しているみたいだった。
俺は・・・。
俺は、皆みたいに、ただ感動するわけにはいかなかった。
ポケットに入れた竹簡が重みを増した気さえした。
それは、呉を出る前に冥琳が託してくれたものの最後のひとつ。
蓮華に会ってから開けろと言われていたもの。
なぜそう言われていたのか?俺はようやくその理由を知る。
冥琳は俺たちに余計な心配をさせたくなかったのだ。
そして成都に行くならば、せめて蓮華や明命と共に行って、危険を減らしてほしかった。
今起こっているのか、これから起こるのか、ひょっとしたらすでに火種は消えたのかわからないけど。
ひとつの可能性として。
――成都は今、危険な状態かもしれない。
“参”の竹簡に記されていたこと。
曰く――“蜀、内乱の虞(おそれ)有り”と。
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どうも!世間は今、青少年育成条例改正案で大変なことになってますね。
今日でなんらかの結果が出たことと思いますが、ニュースじゃ「話はまだ続くぜ!」みたいなことしか書いてなくてよくわかりませんでした。
誰か説明プリーズorz
今回は一応展開を進めてみたつもりですが、まったくいつ目的地点まで辿り着けるやら・・・。
桃香さんは、なんか他のキャラの引き立たせ役みたいになっちゃっていて本当に申し訳ないです。
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