一方通行の明日
碓井央
1
いつものように、枕元に掛けたカレンダーにサインペンで線を引く。
カレンダーは、わたしがデザインしてプリントアウトしたオリジナル。月ごとにめくるタイプで、サイズは縦長のA4判。上半分には自分で撮った写真をレイアウトしてあり、下半分にカレンダーの本体である数字の並びがある。その数字に、線を引く。
線は斜線でも、×でもない。真横に線を引いて、前日の横線に継ぎ足す形にする。行が変わる土曜日から日曜日の間は線が数字の列の下を左から右へと戻っていく。なので、一週間が過ぎるごとにカレンダーの線はまるで南洋あたりに棲む大蛇のごとくにのたうつような軌跡を描くことになる。
今日は八月三十一日、月の終わりの日なので、この三十一という数字に引かれた線は特別な処理が施される。さらに横に伸び、右端まで達してから直角に折れ曲がって上に向かい、カレンダーの一行目の位置まできて再び折れ曲がって横に引かれ、縁で終わる。これは、次の月のページに線を接続するためだ。
「今日子さーん、朝ごはんできたでー」
下から詩緒の声が響く。
「いま行くよ」
わたしはすこし大きな声で返事をして、ベッドから降りる。
階段を下りると、ケチャップに似た匂いがした。
洗面所に入って顔を洗い、髪をブラシで軽くとかす。わたしの髪はあまり寝癖がつかない性質なので、この点はとても助かっている。最近また伸びてきたので、仕事の際には後ろでくくってポニーにしているが、正直あまり見映えはよくない。こうして鏡で見るたびにそろそろ切ろうかなとも思うが、思うのはそのときだけで、つい忘れてしまう。
「おはよう」
広く明るいダイニングキッチンに入ると、ピンクのエプロンをつけた詩緒が弁当のおかずを詰めていた。ガス台の上では大小の鍋が湯気をたてている。
「おはよ。いま並行処理でやってるねん。もちっと待っててや」
ややカン高い響きの声が、ちっこい体つきにマッチしている。顔だちが幼いので、赤いランドセルでも背負わせたら立派に小学生で通用しそうに思えるが、それを言うと本人は真っ赤になって怒る。わたしから見るとこういう容姿もなかなか得難い魅力があると思うのだが。
椅子に座り、テーブルの隅にあったポータブルネット端末を引き寄せて電源を入れ、最新ニュースのページを開く。
〈首都圏人口、前年同月比で三・一%減少 TJの影響はいまだ止まらず〉
〈TJによる資産デフレの傾向に拍車 首都圏の空家率はさらに拡大〉
〈大企業の生産効率上昇 その一方で中小企業の統合再編も進む TJによる雇用整理の明暗〉
〈欧米諸国はTJ技術の導入に対していまだ疑問視 倫理上の問題もからむ〉
最近は社会・経済・政治、どのジャンルにもトラックジャンプがらみの話題が必ずある。しかも年々増えているような気がする。それだけインパクトのある技術だということだろう。だが、社会にいい影響を与えているかどうかは疑問をもっている人も少なくない。ジャンプの実行に対してもっと厳しい規制をかけるべきだという議論もある。でも、いったんできてしまった流れをもう止めることはできないだろう。人々はもうトラックジャンプをあってしかるべきものと認めているのだから。
「ほい、あがったでー!」
威勢のいい声に顔をあげると、ミートソーススパゲティーを盛った平皿と、サラダの小皿、それに野菜ジュースの入ったグラスが置かれていた。
わたしは端末を横に押しやり、エプロンをはずして席についた詩緒と向き合う。
「では、いただきます」
「いただきまっす!」
ミートソースが放つ独特の香りに、ふと昔のことを思い出す。
「そういえば、あんたがここに来た頃、わたしがミートソース作ってるとこ見て、えらく感動してたわよね。これってセロリが入るんやーとか言ってさ」
「また、ずいぶん前の話やね。よくそんなん覚えてるな」
詩緒がフォークで不器用に麺をすくいあげながら苦笑する。
「前っていったってまだ二年ぐらいでしょ。わたしの頭の中ではそれぐらいのことは記憶がずーっとつながってるんだから……そういえば、最初にあんたがつくったミートソースはえらくしょっぱかったな。ウスターソース混ぜすぎだったのよね」
「そういう風なつながりかたは……ちょっとヤやわ」
「でも、その詩緒がこれだけ上手に作れるようになったんだから、人間の進歩ってたいしたものよね。今日のだって、けっこう味付けに凝ってるんじゃないの?」
「へっへー、分ります? 白ワインとオリーブオイルがポイントやで」
詩緒とは実年齢で六つ離れているのだが、仕事の同僚ということもあって、ふだんはあまり年の差を意識したことがない。ただ、こんな風に嬉しげな表情を見せられると、彼女が自分の妹か娘であるかのような妄想にとらわれそうになる。実際、抱きしめて頬をすりすりしてやりたいという欲望にかられたこと幾たびか。むろん、アブないおばはんだと思われしまう可能性大なので、そんなことはしないが。
朝食の後、わたしたちは作業用の制服に着替え、出勤の準備をする。わたしが家の戸締りの確認をして玄関にカギをかけ、ホームセキュリティを監視モードに切り替えていると、車庫からインカムつきのキャップをかぶった詩緒が顔を出して、敬礼風のしぐさをして言う。
「作業用水および作業用ボックスの確認、ジェネレータの動作点検、すべて終了しました」
「了解。それじゃ、車に乗って」
わたしたちは、JTTJのロゴマークがはいったワンボックスのサービス車両に左右から乗り込む。
運転席にわたし、助手席に詩緒が座り、システム電源をオン。生体認証とID認証を行ったあと、初期設定。コンソール画面上におなじみの表示がかけめぐったあと、これまたおなじみの〈上司〉の顔が出た。実際には一種の擬似AIなのだが、なぜか若い女性の顔をしている。単なるインターフェースと割り切ってしまえばどうということのない代物だが、詩緒は初めの頃この擬似AIをかなり嫌っていた。エリート然とした口のきき方が気に入らなかったらしい。
『……おはようございます、沢見今日子さん、小阪詩緒さん。本日の業務予定の変更はとくにありません。なお、沢見さん担当の一〇〇〇時からの長谷川芳彦氏の契約完了立会いについては、JTTJ本社スタッフとの連係を保ち、効率的な処理をお願いします』
あえて念押しのようなことを言われたのは、過去の業務記録との関係だろう。本社の管理セクションからは余計なことを言うタイプだという風に認識されているのかもしれない。擬似AIの〈上司〉はそのあたりの記録データをチェックして律儀に警告を発するようになっているのだ。
そこで、わたしも一応確認をとっておく。
「もし長谷川氏から契約内容に関係した助言を求められた場合、どのような応答をするのが適切ですか?」
擬似AIの女性の表情が一瞬、ぎこちなくなる。おそらく回答生成のために処理系に多少の負荷がかかったのだろう。
『……JTTJサポートサービスのスタッフとしては、技術的な質問に対してのみ助言・回答が許されていることを明示してください。また、助言に際しても客観的な判断材料を与えることに力点を置くようにしてください』
「分りました」
まあ、ある程度予想された反応だ。でもこう言わせておけば、あとあと文句をつけられるリスクが減る。擬似AIの発言も記録に残るからだ。
『業務報告に関しては通常通り、終業時一括報告とします。他に何か質問がありますか?』
「ありません」
『小阪さん?』
「……ありません」
『それでは、本日も安全かつ迅速に作業を進めてください。以上です』
〈上司〉の顔がヘッドアップ画面から消えると、詩緒が鼻を鳴らして言う。
「あいかわらず愛想もなにもないやっちゃ。なんぼ機械かて、行ってらっしゃいぐらい言えへんのかね」
「たぶん、インターフェース設計の担当に関西人がいなかったんだよ」
「そういう問題かや?」
「すくなくとも、愛想の良さっていう点では西のほうが勝ってるからね。むこうに出かけると、わたしいつも思うもの」
画面上にスケジュールを表示させて今日の段取りを再確認する。午前中は別行動なので、詩緒は途中で降り、わたしが立会いに出ている間、担当区の空き家を三軒回ることになっている。
「立会いが早めに終われば、お昼にはそっちと合流できると思うけど、もし遅くなるようならご飯は先に済ませちゃって。どっちにしても連絡は入れるけど」
「了解」
「それじゃ、出るよ」
エンジンを起動し、シートベルトを締める。いつもと変わらない一日の始まりだ。
2
早めに長谷川邸に到着したわたしは、門から少し離れた場所にサービス車を停めてそのまま運転席で待機していた。なにしろ、外気温が三十度を超えているので、エアコンの効いた車の中のほうが過ごしやすい。
すでに業務記録から顧客の顔写真と周辺情報を引き出し、再確認は済ませてある。長谷川芳彦氏は五十六歳、中堅商社の部長職、ただし彼が専門としていた電子部品事業から会社が撤退してしまったため、総務本部長付という中途半端なポジションにつけられ、そのまま勤続保留制度に応募することとなったらしい。
いわゆる〈TJ雇用整理〉の典型的な事例だ。企業の事業転換によって不要となった人材がこうした整理のターゲットになることが多い。長谷川氏のような専門性の高い業務についている上級管理職は、つぶしが利かないタイプだとみなされやすいのだろう。
「…………」
わたしは車のウィンドウ越しに長谷川邸をながめる。モルタル造りの和風の家で、庭もあまり広くない。その敷地を囲っているブロック塀にはところどころヒビが見える。
主である長谷川氏がこの家を去って三年。その間、区域担当であるわたしが継続してメンテナンスを行っていた。そして、今日の十時でこの契約が満了するのだ。
と、後ろで小さく警笛が鳴った。
振り返ると、白い大型のセダンが近づいてきていた。JTTJ本社の社用車だ。どうやら長谷川氏はそれなりに上級の顧客としての扱いを受けているらしい。
車は長谷川邸の入り口前に停まり、ドアが開いて運転席と後部座席から人が降りる。半袖のビジネスシャツを着けた本社の男性社員、そしてスーツ姿の男性は……写真そのままの長谷川氏だ。
わたしも車のドアを開けて、外に出る。とたんに、陽射しと熱気が身体を包み込んだ。暑い。
気を取り直して、彼らのそばに歩み寄る。
「お疲れ様です。JTTJサポートサービスの沢見今日子です」
「JTTJ資産業務部の武岡です。こちらは長谷川さんです」
武岡と名乗ったひょろっとした感じの社員は、ぱっと見には二十代前半。アルバイトに毛の生えたようなものだ。彼の役割は単なる運転手、そしてわたしと顧客による立会い作業の監視役に過ぎない。
一方、長谷川氏はがっしりとした体格で、髪に白いものが入り混じってはいるものの、顔つきもまだ老け込んだ感じはしない。ただ、写真では気づかなかったが、どことなく表情に蔭りがあるように感じられた。
そんな個人的な感想は胸の内にたたんでおいて、わたしはさっそく仕事にとりかかることにした。
「それでは長谷川さん、まずひと通り家の中を見て回って、異常がないかどうか確認してただきたいと思いますが」
「はい、分りました」
わたしから鍵を受け取ると、長谷川氏は玄関を開錠して家の中に入った。わたしと武岡くんもその後に続く。
一階の居間、客間、台所、浴室。そして階段を上がって二階の部屋の状態をひと通り見たあと、長谷川氏はわたしに言った。
「なにかこう……不思議な気がしますね。もちろん、三年の間しっかりと管理していただいたからこそなのでしょうが……家の中はほとんど変わりがない。でも、わたしにとってはわずか二日の間のことですので、変わっていないのが当然だという気分もどこかにある。自分の感覚がうまくひとつにまとまらないような、妙な感じです」
「そうですか……」
似たような感想は、これまでも顧客から聞いている。だが、わたし自身はジャンプの経験は一度もないので、彼らの言うところの奇妙な感じというものがどんなものかは分らない。
「確認書に署名します」
「え……もう、よろしいんですか?」
最後の清掃と点検は昨日済ませてあるので、とくに何か問題が発生するとは思っていなかったが、こうもあっさりOKが出るとはすこし意外だった。
「ええ。きちんと面倒を見ていただけて感謝しています」
すると武岡くんがすばやく横から出てきて、確認書とペンを長谷川氏に向かって差し出す。
「では、これにお願いいたします」
彼にしてみれば、この確認手続きさえ終わればお役御免なのだ。顧客の中には、衣類の傷みや電子機器の動作など、こまごまとしたことまで確認する人もいる。そういうのにつき合わされると半日ぐらいつぶれることだってある。だがそうした確認作業は顧客に与えられた正当な権利なので、急かすわけにはいかない。
長谷川氏が確認書に署名すると、武岡くんはほとんど最敬礼という感じでふかぶかとお辞儀をした。
「ありがとうございます。それでは、本社に報告してきますので、しばらくお待ち下さい」
階段を駆け下りてゆく。まったく、現金というか。本当なら、もう少し細かいところまで確認したらどうかとか言うべき立場のはずなのに。
「……しかし、むしろ家の中よりも外の感じが変わりましたね」
窓のカーテンを開けて、長谷川氏がつぶやくように言う。
「外……ですか?」
庭の手入れというのは中よりは雑だったかもしれない。なにしろ機械で雑草を刈ったりしているだけだ。
「どこらへんですか?」
「いや……どこがということではないんだけれどね。なんとなく街の雰囲気が違う気がする。そういえば、さっき車で移動中に見たんだが、前によく行っていた店がつぶれていた」
「ああ……」
外というのはそういう意味か。
「そうですね、このあたりはここ二、三年でだいぶ人が減りましたから、飲食店とかがやっていけなくてつぶれるのはありますね」
「人が減った?」
「ええ。トラックジャンプもだいぶ普及してきたというか、使う人が増えてきましたから、その分空き家も増えています。昔は長期のジャンプだと危険だとか、いろいろと噂が飛んでいたんですが、この頃では五年以上のジャンプもちゃんと実績が出てきましたから」
「なるほど。しかし、それは積極的にジャンプをする人が増えたということですか」
「若い人はとくに。いま国内はデフレがずっと進行中なので、先に行くほどいいものが安く手に入るだろうって考える子が多いんです。フリーターとかだと、どうせイチから仕事を始めるんだったら、扱う機械とか技術が新しかろうが問題ないっていう調子で。まあ、ほかにもいろいろと自分なりの腹積もりをもってジャンプを利用しようという人は増えているみたいですね。海外の債券に投資して、ジャンプしている間に金利を稼ごう、とか」
「驚いたな。そこまで考え方が変わってきているとは……」
長谷川氏が額に手をあてて苦笑したとき、階下から武岡くんの声が響いた。
「ウチの東京支社に長谷川さんの会社のほうから連絡が入っています。携帯に転送しますので、こちらに来ていただけますか」
「あ、はい……失礼」
わたしに会釈をすると、長谷川氏は階段を下りていった。
やがて、彼と武岡くんの間で何かやりとりをする声が聞こえた後、武岡くんがのそのそと二階に上がってきた。
「どうしたの」
「ああ、いえ……いま、会社の方と話をされてるんですけど、ぼくは席をはずしたほうが良さそうだったんで」
「何か、トラブル?」
「いや、トラブルってわけじゃないんです。要は、向こうの会社が契約延長の話を入れてきたんですよ」
「延長?」
「しっ、声を」
武岡くんが指を立てる。
「…………」
「どうやら、このまま長谷川さんが会社に戻っても席はないってことらしいです。それで、再度のトラックジャンプを呑んで欲しいという話をもちかけてるんですよ。実際、それを長谷川さんがこの場で承知すれば、契約を延長して、ぼくはまたこのまま彼を明石の転送センターにお連れすることになってるんです」
「なによ……じゃあ、本社と長谷川さんの会社であらかじめネタ合わせしてたわけ?」
「そういう言い方しないで下さいよ。こっちは指示に沿ってやってるだけなんですから」
トラックジャンプには当事者にとってはいろいろなデメリットがある。とくに、ジャンプしていた期間に関する情報から完全に遮断されるので、社会に対する相応の適応性を失わせてしまうと言われている。なにしろ、本人をとりまく人間関係も所属している組織や地域社会の状況も大きく変化しているのだから、ある意味当然だ。だが、本人がそのギャップに気づくまでには案外と時間がかかるらしい。
長谷川氏の上の人間は、彼が三年間の時間の空白がもたらしたものをあまり実感していないうちに再度のジャンプをもちかけて契約させてしまおうと考えているのかもしれない。
やがて、階下から断続的に聞こえていた長谷川氏の声がやんだ。
武岡くんが階段を下りてゆく。わたしもそっと後からついて行った。
「……あの、お話はお済みですか」
一階の応接間で携帯端末を手にしたままやや呆然とした様子で立っている長谷川氏に、武岡くんがおそるおそる話しかける。
「あっ……はい」
彼ははっとしたように振り向き、すこし間をおいてから言った。
「とりあえず、会社に対する返事は保留しましたので、今日のところはお引取りいただけますか」
「は、はい。分りました」
武岡くんは緊張した様子でこくこくとうなずく。たぶん彼は、きつい状況にさらされている人を目の当たりにすることにあまり慣れていないのだろう。
「これは、お返しします」
長谷川氏が端末を返そうとしたが、武岡くんはそれを押しとどめる。
「お持ちになっていてください。連絡手段がないと問題が生じます。回収はいつでもこちらでできますので」
「そうか……そうですね。考えてみれば、電話の契約も止まってるわけだしな」
「本日中は、何か身辺で不便なことですとか、困ったことがおありでしたら、サービスセンターのほうでご相談にのりますし、場合によってはこちらの沢見のほうで対応をさせていただきますので、いつでもご連絡を下さい」
「ありがとう……おふたりとも、いろいろとお手数をかけました」
その言葉は彼ではない何か別のものが機械的に発している感じで、表情もどこか虚ろな感じだった。
だが、どちらにしても彼の個人的な問題に対してこの場でできることはない。
わたしたちは挨拶もそこそこに長谷川邸を出た。
「残念ながら、そっちの思惑通りには行かなかったってことね」
すこし皮肉を込めて武岡くんに言うと、彼は苦笑した。
「こっちだってそんなに都合よくいくとは思ってませんよ。長谷川さん、冷静な人のようですしね。まあ、もしサービスセンター経由でなにか要請があったらそのときはよろしく頼みます。今日中は、無償でフォローする契約になってるので」
「はいはい。それで、あなたは明石に戻るの?」
「いえ。どうしてか分らないんですが、今日は東京支社で待機するように言われてます」
「……そう。ま、それじゃ、気をつけて」
わたしたちは、それぞれの車に乗り込み、お互いにクラクションを軽く鳴ら合って別方向に走り出した。
3
本日のスケジュールの最後、五軒目の空き家の保守作業もそろそろ終わりだ。
「詩緒、あがろうか」
「ほーい」
各部屋の換気と清掃は、丁寧にやっても全体の作業量としてはさほどではない。用具類を片付け、戸締りをすべて点検してセキュリティのモードチェンジを終えたときには、まだ時刻は四時を少し回ったところだった。
「とりあえず終業報告はあとにして、先に買出しに行っておこうか」
「そうやね。あ、そういえば今日は三十一日やから、トーコーで肉の特売やってるで」
「ああ、じゃあそっちに行こうか。まだ時間あるしね」
ふだん食料を買うスーパーは近場にあるのだが、もう少し離れたところに規模の大きな店がある。そこは日によっていろいろと目玉商品を出しているのだ。
車に乗り込み、エンジンをかける。
「なんか、今日は仕事にえらく気合入ってたね」
詩緒が助手席に座りながら、わたしの顔をのぞきこむ。
「そう? いつも通りだったと思うけど」
「いんや、ウチには分るで。例の立会いで、なんかあったのと違う?」
「…………」
やはり、つきあいが付き合いが長いとちょっとした行動の変化に敏感になるのだろうか?
だが、詩緒が言っているのはおそらく正しい。わたしは例の長谷川氏の様子がすこし気になっていた。そして、あえてそのことに心を向けないようにと、仕事に集中していたのかもしれない。
「まあ、ちょっとね。そこらへんは、またあとで話すよ」
「わかった。あとでな」
詩緒は微笑んで、うなずく。
パーキングブレーキを解除し、サービス車を発進させる。
道に出ると、傾きかけた太陽からの陽射しがまぶしい。日よけのカバーを出してフロントウィンドウの上部にあてる。
左右に立ち並ぶ住宅にはさまれた細い道に、長く伸びたいくつもの影がでこぼこの境界線を作っている。
「もう、けっこう日ぃが短くなってんやね」
詩緒がぽつりと言う。
「まだ八月やのに」
「でも、もう晩夏だしね」
「バンカ?」
「晩ご飯の晩に夏。夏の終わりって言う意味。八月っていっても今日が最後だもの」
「それにしても、なんやえらいお日さんが沈むのが早い感じがする」
「詩緒は関西出身だからじゃない?」
「え? そういうの何か関係ある?」
「関西のほうが関東よりも太陽が沈むのが遅いのよ。地球は西から東に回ってるんだから、西のほうが東よりも遅れるの。その代わり、朝日が昇るのも遅いけどね」
「いろいろややこしいんやね。わたし、そういう地球とか星とかの話は学校の頃にサボってたからいまひとつピンと来ないねん……そういえば、日付変更線ってあるやろ」
「うん、あるよ」
「ウチ、あれが昔からよう分らんで……その線をまたぐと日付が変わるって。あれってナニ? 時間の流れが変わるちゅうこと? トラックジャンプとなんや関係あるのかな」
「そういうんじゃないのよ」
わたしは思わず笑ってしまう。
「あれは、あくまでも便宜上つけた線。いま言ったように東より西のほうが時間が遅いから、西に向かって進むとどんどん前の時間にもどって行くことになるわけ。でも地球は丸いから西回りで一周しながら時計を遅くしていくと元の地点に戻るとまる一日分遅くなる。でも、元の場所にもどってるんだから、一日ずれるというのはおかしいわけよ。東回りだと逆にどんどん時計を進ませなくちゃならないけど、一周して元の場所にもどると一日分進んでることになる。これもおかしい。だからどこかで日付を変える必要があるのよ」
「うーん……なんか、分ったような、分らんような。なら、その線はどこかにあればどこでもええの?」
「そうね。理屈ではどこにしたって問題ないはずだけど。でもま、この手の話って、言葉で説明しようとするとなかなかむずかしいからね。地球儀があると分りやすいかな」
「地球儀? そんなの、ふつう家にあるもんやないで」
「でも、わたしの実家にはあったよ」
「ほんま? そんなの、何に使うんやろ」
「いや、そうね……まあ、何に使うのかと言われれば確かに不思議だけど。でも、たぶん……あれは父親のね」
人の頭ぐらいはありそうなしっかりとした造りの地球儀だった。ただ、自分の部屋ではなかったから、おそらく父の部屋で見たのだろう。
「……地球儀があるような家で育つと、そういう難しいことも分るようになるんかな。だって、地球が丸いっちゅうことを子供の頃に知るわけやろ? それってえらい差やんか。ウチなんか、小学生まで世界はまったいらや思てたわ」
「そんなものかな」
地球儀があったことは覚えていても、それで地球や宇宙のありようだのを意識したとかそういうことはわたし自身はない。
「でもあれだね……わたしも本当のところはちゃんと分ってない気がするな、その日付変更線の話は」
たぶん、父ならきっと詩緒にも分るように説明ができるのだろう。
スーパーで食材の買い出しを終えて車に積み込んだあと時計を見ると、五時少し前だった。ちょうどいい頃合だと、駐車場に停めた車の中で終業報告をする。例の〈上司〉は報告自体についてはとくに文句もつけずに受理したが、そのあとで一言付け加えた。
『本日契約完了の立会いをした長谷川芳彦氏からは、現状ではとくに要請は入っていませんが、夜八時までは緊急要請の受付をすることになっていますから、場合によってはサービスセンターから呼び出しの可能性があります。すいませんが、そのつもりで心得ておいてください』
「……了解」
〈上司〉の表示が消えると、詩緒がさっそく文句を言う。
「なんや、それってウチら八時までは身動きとれんちゅうことかいな」
「大丈夫よ、二人とも待機ってことじゃないから。なにかあったら、わたしが行く」
「せやかて、今日は大事な日やのに……」
そこで詩緒はふと思いついたように顔を上げた。
「そうや。いまから、そのお客さんちに寄っておけばええんやないの? いまのうちにできることは片付けたほうが気ぃが楽やろ」
「ああ……まあ、それはそうね」
たしかに悪くない考えだ。わたしは、表示をナビゲータのマップに切り替え、長谷川邸の位置を確かめる。すこし遠回りになるが、ここからの帰り道の途中だ。
「じゃあ、試しに寄ってみようか」
「そうしよ、そうしよ。そのほうが、今日子さんもいろいろとスッキリするんやない?」
それはどうか分らなかったが、様子を見ておきたいという気持ちがわたしの中にあるのは確かだった。
車で十分ほどで、長谷川邸の前に着く。
運転席のウィンドウ越しに様子をうかがってみる。すでに日が暮れかかっているというのに、窓はすべて暗いままだ。
「……留守してんかな?」
「念のために、ちょっと行ってみる」
「あ、ウチも行く」
門の内側に取り付けられているセキュリティの制御ボックスを見ると、監視モードは解除になっていた。そのまま中に入って玄関の引き戸に手をかける。と、簡単に横に開いた。
「わ」「あ」
わたしと詩緒は、ほとんど同時に短く声を洩らした。
玄関の上がりがまちに、午前中と同じ、スーツを着たままの長谷川氏が座っていた。
彼は顔をあげて、わたしたちをぼんやりとした表情で見た。
「……どちらさまでしょうか」
「あの、いや……わたしです。JTTJサポートの沢見です」
「ああ、どうも。あれ……もしかして、あなたの方に連絡がいったんですか」
「え? 連絡? JTTJに連絡をされたんですか」
「電気の接続というのをどうしたらいいかと思って……ええと、彼……武岡くんでしたか、電話をしてみたんですが、どうも彼につながらなくて。どこにどう話をもっていけばいいのかよく分からなくなってね」
「もしかして、サービスセンターの電話番号をご存知ないんですか」
「いや、そういうのは聞いてないかな……」
まったく、とわたしは舌打ちしたい気分だった。携帯を渡すならせめてサービスセンターの番号ぐらいあらかじめインプットしておけばいいものを。
「あの、電気の接続というのは、家庭用の電灯線のことですね?」
「ああ、はい。たぶん」
わたしは玄関を見回す。屋内ブレーカーは下駄箱の上のほうにあった。
「電気は、ここのブレーカーを上げるだけでいいんです」
メインブレーカーの封を切ってスイッチを上げる。ためしにそばの壁にあるスイッチを押すと、なんということもなく玄関の外と内側の照明が点灯した。
「ははあ、なるほど」
長谷川氏は眼を見開いていた。
「なんだか、ちゃんと手続きをしないとダメなのかと思ってしまって」
「手続きはあとからでも問題ありません。前回の検針値が電力会社のほうに残ってますから」
「いや……お恥ずかしい。いい年をして、こんなことも分らないとは。ついでといっては恐縮なんですが、電話の手続きというのはどうすればいいでしょう」
「ああ、じゃあそれもいまやってしまいましょう。詩緒、担当部署の……」
「検索してます」
詩緒は、すでに携帯端末を操作していた。
「長谷川さん、支払銀行の口座番号だけ教えていただけますか。カードに刻印されてますから」
この子は仕事モードの場合には、なぜかなめらかな標準語になるのだ。
詩緒は、電話会社と連絡を取って電話回線の復旧手続きをとり、電気会社のほうにも連絡をとった。
「……終わりました。電話はもう使えます。あとで確認の文書が郵送されてきますから、それに必要なことを記入して送り返せばそれで手続きは全部完了です」
「いや、ありがとう……本当に」
あまりの手際の良さに、長谷川氏は感動しているようだった。まあ、詩緒は単に仕事をさっさと片付けたかっただけなのだろうが。
わたしは長谷川氏に訊ねた。
「ガス会社にも連絡しますか。こちらはプロパンなんで、使えるのは明日以降になると思いますけれど……」
「ああ、それはいいです。わたしのほうでやってみますから。ただ、もうひとつだけお願いしたいことがあるんですが」
「かまいませんよ、何でしょう」
「こちらへ来ていただけますか」
わたしと詩緒は長谷川氏の後について洋風の居間に入った。ゴミの入ったコンビニの袋と空になったペットボトルがテーブルの上に置かれているのが眼に入り、あの立会いの後に彼の過ごした時間のことを思ってすこし胸が痛んだ。
「……ええと、これなんですが」
長谷川氏は小振りの専用デスクに設置されているPCを示して言った。
「これのネット接続を確認してもらえないでしょうか。たぶん問題はないと思うんですが、何かトラブルがあると対処がひと苦労なので」
「分りました」
わたしはモニターにかけられていたカバーをとり、コンセントを入れて本体の主電源スイッチを押した。
本体のパイロットランプが点灯し、システムのロゴと起動画面が数秒表示されたあと、突然真っ白な画面になった。
「……えっ?」
が、すっとフェードインするような感じで花の写真が現れた。大きな、黄色い花。向日葵だ。
そして、かなり久し振りに聴いたような気がする、あの軽快なメロディーが流れてきた。エコーの効いた電子オルガンのような音。ベースとリズムセクションもついている。
「これは……?」
わたしが背後の長谷川氏に尋ねようとしたとき、重なるように女性の声が響いた。
『長谷川芳彦さん。六十歳のお誕生日、おめでとうございます。あなたもついに還暦になっちゃったのね。でもこれからも元気に、がんばっていきましょうね。まだまだお互いに先は長いんだから。それじゃあ、また』
音声が終了すると、ふたたびフェードインする形で通常のデスクトップ画面となった。
「……死んだ家内の声です」
長谷川氏が静かに言った。
「あいつはわたしがこういう機械に詳しくないことを知っていたので、この手のいたずらをしょっちゅう仕掛けていたんです。でも、まさかこんな先まで仕掛けられているとは思いませんでしたよ」
「…………」
「実際にはわたしは今日で五十七歳なんですが、機械の中の時計はきっちり三年分の時間を刻んでいたということですね」
わたしは椅子を引き出して腰を降ろし、制御パッドを操作して通信コントロールのオブジェクトを開いた。
空いているほうの左手がすこし震えているのに気づき、にぎりしめる。
「その……あれですね、奇遇ですね」
「え?」
タブを開き、通信設定の項目内容を確認。
「長谷川さん、あれなんですよ、実はですね……わたし、明日が、九月一日が誕生日なんです」
「そ、そうなんですか。それは確かに……」
設定問題なし。OKボタンを押す。
「一休さんっていうお坊さんが、『門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし』っていう歌を詠んだっていうんです。この歌を聞いたとき、一休さんって案外ひねくれたヤツ、とか思ったんですけど、最近はそうでもないなって……本音を素直に言う人だったんだな、と思っています」
セキュリティ設定も問題なし。
「わたしも高校生ぐらいの頃は、誕生日が来るごとに自分の年が増えていくっていうのが、なんか嫌で……でも、これはめでたいとかめでたくないとかってことじゃないんだ、ってこの頃ようやく気づいたんです。そういう区切りっていうものにきちんと向き合って、自分の心に意識して刻むことがたぶん大事なんだろうって」
〈接続〉のコマンドボタンを押す。
通信接続シークエンスは問題なく終了し、オブジェクトのステータス表示が緑色に変わる。
ネットヴューワを起動して、検索エンジンにアクセスしてみる。問題なく表示。「沢見紘一郎」と入力して検索をかけると、約一万三千件のヒット。案外と少ないものだ。
わたしはヴューワを閉じて、長谷川氏を振り返る。
「それで……実は、今日の晩ご飯がかなりの規模になりそうなんです」
「は、はあ」
「ですので……とてもわたしとそこにいる同僚の小阪とでは処理しきれないと思います」
「…………」
長谷川氏は相変わらず、当惑したような顔つきをしている。
「あの、安っぽい同情とかそういうんじゃないんです。いえ、むしろもっとひどいんです……わたし自身が辛いだけなんです。こういうのを引きずったまま、帰りたくないんです。だから、お願いします」
すると、詩緒が長谷川氏のそばにきて、元気よく言った。
「長谷川さん、要するにアレや。このぶきっちょなお姉はんがいま何を言いたいかっちゅうとやな、今晩ウチでご飯でもいっしょにどないや、ということですわ。な、今日子さん」
「うん、まあ、そうなんだけどね……」
わたしは恥ずかしくて、思わず下を向いてしまった。
そういう風に簡単に言えることを、どうしてこんな妙な言い回しになるのだろう。自分でもよく分からない。
「……ありがとうございます、おふたかた」
穏やかな声に、わたしははっとして顔を上げた。長谷川氏は、これまでとは違う、とても優しげな笑顔を見せてくれていた。
「それでは、遠慮なくお言葉に甘えさせていただきます」
4
家に着いたあと、わたしは長谷川氏を居間に案内し、詩緒に話し相手をするように頼んでからから、キッチンで料理の支度にとりかかった。すでに車の中である程度考えておいたので、だいたい手順は組みあがっていた。それに、もともと今夜の夕食はそれなりのものを作る予定だったので、ある程度の下ごしらえはしてある。
正直、詩緒には悪いとは思ったが、さっきの長谷川氏に対するお誘いの不器用ぶりに我ながら全身が痒くなりそうな勢いだったので、これを頭の中から追い払うためにはとりあえず手を動かす仕事に専念するしかないと思ったのだ。まあ、詩緒はどんな人に対しても聞き上手かつ話し上手な対応をとれる子なので、そこらへん任せておいていいだろう。
わたしはひたすらに作業に集中した。
料理にだいたいの目処がついた頃には、一時間ほどが経過していた。まあ、そう悪くはないペースである。
居間のテーブル上の準備がすべて整ってみると、ほとんど見事に和食で統一されてしまっていた。なんとなく半自動で作れるものということになると、わたしの場合どうしてもそうなる。鳥と野菜の五目煮、ひじき大豆、かんぴょうのごま酢あえ、ほうれん草のおひたし、などなどといった感じだ。
「……ちょっと古風な感じのメニューかもしれませんが」
「とんでもない、素晴らしいです。正直、夢を見ているのかという感じがしますよ」
「ほなら、乾杯といきまひょー」
詩緒が長谷川氏とわたしのグラスにビールを注ぎ、無造作に自分のにも注いだ。
「不肖、この小阪詩緒が音頭をとらしていただきます……ちゅうか、残りの二人ともが祝われるほうの人なんやから当然やね」
「そりゃそうだ」
「では、長谷川さんと今日子さんのお隣り合わせの誕生日をお祝いして、乾杯!」
わたしたちはグラスを重ね合わせた。
一気に中身を干したあと、わたしはすこし頭を下げていった。
「もうしわけないですが、わたしは年齢の方は極秘ということで……」
「ははは、それは別にかまいませんよ」
「わたしら、実はそんなに歳は離れてまへんのや。今日子さんのほうがずーっとオトナやけどな」
「べつにオトナじゃなくたっていいよ、わたしは……あ、それから長谷川さん、言い忘れていましたけれど、今日はこちらに泊まっていってください」
「え……いや、しかし」
「こういう仕事やってると、いろいろなことがあるんよ。だから、ここんちにはいつでも誰でも泊まれるような用意がちゃんとあるねん」
詩緒が言いそえる。
「布団はお客用のがあるし、男物の寝巻きとかも。だから心配しなくてええよ。あと、ウチらはな、いざとなったら悪い人を叩きのめすぐらいのことはできるのやで。護身術はいちおう義務になっとるから」
「ははあ……なるほど」
長谷川氏はややひきつった笑みを浮かべてうなずいた。
やがて、三十分も経たないうちにビールを二本分は確実に空けた詩緒は、絶好調になり始めてきた。
詩緒は長谷川氏の隣りに座り、ほとんど身体をくっつけんばかりの距離に迫っていた。畳敷きの和室ならではの攻勢である。
「ハセガワもヨシヒコもなんか発音しにくいな。『ヨシちゃん』とかじゃ、だめか?」
「だ、だめってことはありませんが……」
「じゃあ、とりあえずヨシちゃんや。さあヨシちゃん、そのコップの中身を軽く空けるのや。一気にいくんや」
「あ、あの……」
長谷川氏の視線がわたしに助けを求めるようにさまよう。
わたしは仕方なく、すこし威厳を込めた声を出してみる。
「詩緒。社会の大先輩に対して、態度がすこし馴れ馴れしいんじゃないの?」
「はあ? 馴れ馴れのどこが悪いねん? 親しく振るまうってことやろ、要するに。人間関係ちゅうのは、どっちかが馴れ馴れしくせな進行しないもんやねん。いつまでたってもしゃひ……しゃちほこばったままや。尾張名古屋のしゃひほこや」
詩緒の場合、人間関係にとどまらず、脳の溶解も進行しているようだ。
「進行のペースが速過ぎるんじゃない? もう少しゆっくりステップアップしてみたら?」
「ひっひっひ、ウチはねえ、みかけによらず男性的なんよ? 一気に高みにかけ登って、ヨロコビの絶頂を目指すんよ」
「……あんた、何言ってるのか自分で分ってる?」
「分ってるちゅうに。ウチの灰色の脳細胞はまだまだ活発に動いているのやぞ、ワトソン君」
「どこがよ」
最近、寝しなになにか本を読みたいというので、海外の推理小説を何冊か貸しているのだが、登場人物がごちゃごちゃになっているようだ。
すでに血中アルコール濃度が上昇しつつあると見え、頬を薄ピンクに染めた詩緒の眼つきはふわふわとした感じだ。
「ふむ、しゃあない。ヨシちゃんとの馴れ馴れは一時停止してあげるわ」
詩緒はようやく長谷川氏から身体を離して、畳の上に座りなおす。
「……それにしても、五十七歳の誕生日をこういう形で迎えることになるとは、思ってもいませんでした」
長谷川氏が微笑んで言う。
「でも、お二人のおかげで、ジャンプのあとの自分と世界の間の隙間みたいなものがすこし埋まったような気がします」
「隙間……ですか」
「ええ。これは実際にジャンプを経験してみないと分らないかもしれませんね。頭の中では、自分は三年分の時を飛び越えたんだ、ということは分かっているんですが、実際に転送センターから、自分の住んでいた街、そして家に戻ってみても、その三年分のズレというものの実体がどうもよく分らない。周りでいろんなものが変わっている。でも変わっていないものもある。一方で、自分は何も変わってないはずなのに、もしかすると何かが変わってしまっているのかもしれない……。そんなことを考えていると、自分というものがよく分からなくなってくるような……そんな感じだったんです」
と、黙って聞いていた詩緒が、ふたたび長谷川氏の腕を抱え込むようにした。
「だいじょうぶや、ヨシちゃん」
「え?」
「ウチの知ってるヨシちゃんは、ここから始まる。だから三年時間が飛んでたって、だいじょうぶや。ウチにとっては今日からのヨシちゃんなんやから」
詩緒は、長谷川氏の二の腕に頬を押し付けたまま、言う。
「この次に会うたら、それはもっとはっきりする。その次に会えば、もっと。どんどんステップアップして、馴れ馴れや」
「……ありがとう、詩緒さん」
「うん!」
詩緒が元気よくうなずき、身体を起こす。
「ほいじゃ、めでたく話がまとまったところで、あらためて祝杯をあげまひょう。ほら、今日子さんも」
「はいはい」
わたしたちは、詩緒が満たしてくれたコップをもう一度、重ね合わせた。
行くところまで行ってダウンした詩緒を二階の部屋のベッドに放り込んだ後、ふたたび客間に戻ると、長谷川氏がわたしに向かって訊ねた。
「彼女……詩緒さんは、関西からおひとりでこちらに来られているのですか?」
「来ているというよりは、残ってるんです。いまのこの時間に」
わたしは座り直しながら答えた。
「あの子の家族は、五年先に飛んでいます。正確に言うと、ジャンプから三年近く経ってますから、あと二年先ということになりますが」
「……なにか事情が?」
「あの子の弟さんが心臓の病気で。ただ、その手術にはいろいろと高度な設備が必要で、しかも順番待ちらしいんです。それで、ご両親と一緒に……その間、詩緒はこの仕事で稼いで、すこしでも手術の費用の足しにしたいんだそうです」
「…………」
「でも、場合によってさらに先にジャンプしなきゃならないことになるかもしれません。病院だって、常に同じ体制を保てるかどうか分らないわけですし、極端なことを言えば、執刀するお医者さんがもし亡くなりでもしたら状況がひっくり返りますから」
「なるほど……」
わたしはグラスの中に残っていた水割りを飲み干し、言葉を継いだ。
「たぶん、タイムトラックジャンプという技術自体は画期的なものなんでしょう。たとえ未来への一方通行とはいっても時間を超えることができるんですから。けれど……わたし、功罪もそれぞれあるような気がします」
「そうですね。沢見さんのご意見はもっともだと思いますよ」
アルコールのせいで多少顔が赤くなっていたが、長谷川氏の口調は相変わらずおだやかだった。
「この技術によって解決された問題もいろいろありますが……人と人のつながりが破壊されてしまったという風に考える人も少なくないかもしれませんね。仕事の仲間とか、友人とか、家族とかね。ただ、別の考え方をすれば、もし破壊されたなら、その程度の絆でしかなかったのかもしれない……とも言えます。ちなみに、今日会社から連絡をよこしたのは、わたしのかつての部下でしたけれども、話しているうちに完全に赤の他人……いや、もう初めから全然知らなかった人間だったような気がしてきましたね。自分の三年間の空白というのを、あれですこし実感したように思います」
「……そうですか」
かつての部下、しかも三年の年月を経た人間。一方で、長谷川さんの主観時間はたった二日しか経っていない。二人の間の感覚的な距離というのは相当なものだったのだろう。
「いずれにせよ、こういう飛躍的な技術革新に対する評価というものは、短期間では難しいものですよ。核兵器などは典型的な例です。核戦争による人類滅亡のリスクをもたらした一方で、抑止力としての作用は大国間の戦争による大量殺人を防いでいるとも言える。トラックジャンプはまだ歴史が浅い技術です。わたしのようにこのジャンプというものを経験した人間がもっと増えないと、その実体が明らかになって来ないでしょう」
そこで、長谷川氏は深いため息をついた。
「実は、亡くなった家内も治療技術の進展を期待してのジャンプをしてはどうか、と言われていました。ですが、家内は結局それを断りました。未来において治療が可能になるかどうかは分らないのだし、ジャンプの間にわたしにもしもの事があれば、もう二度と会えない。それならこのまま一緒にわたしと時を過ごしたい、と……」
「…………」
「ですが、わたしはいまだにそれで良かったのか、と思っています。むしろ家内が助かる可能性があったのなら、ジャンプに賭けてみるべきだったのはないかと……」
「でも、奥様はそれで満足されていたのでは?」
「おそらくはね。そう信じるしかない、と思っていますが。でも本当のところは分らない。そういう風に考えてしまうこと自体、家内に対する裏切りのような気もしますが、こういう感情は理屈ではどうにもなりませんのでね」
長谷川氏のグラスをもつ手がかすかに震えているのに気づき、わたしはうなだれた。私的なことに踏み込みすぎたかもしれない。
「すいません……余計なことを」
「いいえ、何かの参考になれば幸いです。あなた自身、このジャンプ技術がもたらした状況と個人的に向き合わなければならない立場なのでしょうからね」
「……!」
「そうなのでしょう? 分りますよ。年の功というやつですが」
長谷川氏は柔らかく微笑み、わたしの手元にあった空のグラスをとった。
「薄めでもう一杯つくりましょうか?」
「あ、すいません……」
彼が馴れた手つきでグラスに氷を入れ、ボトルからウィスキーを注ぐのを見つめながら、わたしはついに自分の話を始めてしまう。
「……実は、わたしの父が、一年間隔でジャンプを継続的にしていて、仕事で大きなプロジェクトを抱えているんですが、父の役割は、定期的に全体の成果を確認して、プロジェクトの方向性について大局的な判断するということらしくて」
「では、プロジェクトのトップの立場ということですね」
「さあ、そのあたりは内容がわたしにはよく分からないんですが……とにかく年に一度、その確認作業と状況判断をしてはまたジャンプするというのを繰り返しているんです。他の人の仕事の成果が出ないと、父の仕事は進まないので、その間はジャンプして、できるだけ長期間にわたってプロジェクトに係わるようにしろということみたいです」
「つまり、それがお父様にしかできないような難しい仕事なのでしょうね」
「……かもしれません」
わたしはうなずいた。
「でも、当然のことながら父の時間は飛び飛びになって、わたしよりも歳をとるのが遅くなります。もう今の段階でわたしと父の生理的な年齢差は十五年ぐらいです。このまま今の仕事を続けていけば、いつか父のほうが若くなってしまうでしょう」
「…………」
「実はその父親に明日、会いに行くんです。わたしの誕生日ごとに会う約束なので。これは、わたしがそうするように約束させたんです。向こうからしてみれば、迷惑かもしれませんけど……わざわざこっちが確実に歳をとっているってことを知らせに行くようなものですから。実際、ときどき言い合いになってしまうことさえあります」
長谷川氏が、水割りの入ったグラスをわたしに手渡す。
「でも……お父様にとってみれば、あなたとの面会は錯綜する時間の中での、ただひとつの道しるべ……さきほどあなたがおっしゃった話でいえば、一里塚にあたるのかもしれませんよ。ご自分でおっしゃっていたじゃないですか、区切りにきちんと向き合うことが大切だと」
「……そうですね」
「今日のこの場と同じです。こういう言い方はひどく無責任かもしれませんが、わたしのような人間に、こうして得難い時間を与えてくださったあなたなら、お父様と一緒に過ごす短い時間をもっと楽しむことがおできになるのではないですか? そうしているうちに、何か伝わるものがあるかもしれない」
「……はい」
「では、まだ明日までには時間がありますが、あなたの誕生日を祝して、もう一度乾杯させていただきましょう。正式には、この言葉は明日お父様に言っていただくのでしょうけれどね。一種の予行演習です」
長谷川氏がグラスを差し出す。。
「あらためて、お誕生日おめでとう、今日子さん」
「……ありがとうございます」
わたしは頭を下げながらグラスを打ち合わせた。
5
いつもとは違う、静かなエンジン音とかすかな振動。やはり大型の乗用車の後部座席というのは乗り心地がいい。
「しかし……こういうめぐり合わせになるとは思いませんでしたよ。なんなんですかね、いったい」
運転席の武岡くんがしきりにバックミラー越しに疑惑の視線を飛ばしてくるが、わたしは気づかないふりをする。
「さあね。今日のわたしは仕事は休み。そして、わたし個人の立場で転送センターに行く……JTTJにとってのお客様。ただそれだけのことよ」
「それはそうなんですが……」
もっとも、JTTJの社用車を使いたいなんて注文はわたし自身は出してないけれど。
「ま、余計なことは考えないで、お仕事に専念してくださいな、運転手さん」
「……恐れ入ります」
と、スーツのポケットの中で携帯端末が鳴った。詩緒からだった。
「どうしたの?」
『どうしたもなんも、こんな早う出るなんて聞いてへんからびっくりしたで。いまどこ、飛行機?』
「飛行機は携帯は通じないでしょ。羽田に向かってるところよ」
『あ、そか。帰りは夜?』
「まあ、そうね。夕方よりは遅くなるでしょうね。でも今日中には帰るから。時間はまたあとで連絡する」
『了解。ウチ、今日はヨシちゃんと一緒に出かける予定やけど、今日子さんよりは早く戻るで』
なんとなく予想通りの展開ではある。朝食のときに何やらひそひそと話をしていたのはそういう相談だったのだろうか。
「……あんまり迷惑かけないのよ」
『あれっ、ヤキモチかいな』
思わず溜め息が出る。
「まあ、とにかく気をつけてね。それじゃ」
あの二人は親子というにはすこし離れているが、祖父と孫というのはあり得ない。なかなか微妙な年齢差だ。でもまあ、そういう友人関係というのも、なかなか面白いものかもしれない。
「わたし、ちょっと休むから。羽田に着いたら起こして」
「……はーい」
武岡くんが、なんとなく面白くなさそうな調子で返事をするが、気にせずにわたしはシートにもたれ、まぶたを閉じた。
「沢見さん、起きてください。そろそろ着きますよ」
「ああ……うん」
眼をあけると、なんとなく飛行機が前に傾いているのが分る。エンジンも着陸前特有の無気味な唸り声を上げている。
わたしは倒していたシートの位置をもとに戻した。窓の外をみると、瀬戸内の海が見えた。そして、ここからは分らないが、飛行機の前方には埋め立てによって作られた人工島が姿を現しているはずだ。
やがて、着陸態勢に入るとのアナウンスが流れ、エンジン音の金属的な唸りがさらに大きくなった。窓の外の空がどんどんと低くなる。そして、地面がせりあがってきたところで床から軽い衝撃。
『……本機は明石JTTJ転送センター空港に到着いたしました』
飛行機から降りて荷物検査を受けてから、到着ロビーに入った。そこから先は転送センターへの入場ゲートしかない。この空港は転送センター専用であり、ほかに行き場所はないのだ。
いま飛行機から降りたばかりの人が、入場ゲートに列をなしている。彼らはジャンプをする当人、もしくはその家族や知人たちだ。中にはここに来る前に別れを済ませて来ている人たちもいるだろう。いずれにしても、彼らは遅くとも十数時間後はこのいまの時間の流れから跳躍し、数年後の未来へと自分の肉体と人生を預けることになるのだ。
中には看護師に付き添われて車椅子で移動している人もいる。詩緒の弟さんと同様、未来の医療技術の発展に希望をかけてジャンプをするのだろう。
わたしは人々の群れから眼を逸らし、一緒についてきていた武岡くんに言った。
「それじゃ、ここまででいいから。長旅、お疲れ様でした」
「えっ、でもここから先も手続きがありますし、一人だと大変ですよ」
「知ってる。でも、いいの。なんなら、この件であなたに指示を出してる人に訊いてみなさいな」
「はあ……」
武岡くんはまた疑わしそうな顔つきをしながらも携帯を出し、わたしからすこし離れて通話をはじめたが、やがて戻ってきて言った。
「すいません。なんか余計なことだったようで。それじゃ、ぼくはここで失礼します」
「はい、お疲れさま」
わたしは引き上げていく彼をにこやかに見送ってやった。それにしても、JTTJの人材の配置のしかたには今ひとつ問題があるような気がする。
念のためすこし間をおいてから、わたしはロビーを横切って、一般入場者のゲートからすこし離れたJTTJ職員専用通路の入り口に向かう。
監視員のいるゲート前でIDを提示したあと、ふたたび荷物検査とボディーチェックその他の入場手続きをする。荷物といっても父のために作ってきたご飯のおかずの類いなのだが、それでも検査の過程には手抜きはない。
すべてのチェックが終了して、ようやくセンターの区画内へと入る。だがそれでも、一般者の手続きに比べれば相当に簡単なほうだ。
センターの内部は左右に窓がまったくなく、無味乾燥な番号が刻まれただけの扉が並ぶ通路が延々と続く。はじめて来た人間には到底把握できない人工の迷宮だ。エレベータを乗り継いで地下に向かい、チェックゲートを何度も通り抜けた末に、最後の関門にたどりつく。もっとも、そこは関門というほどの場所ではない。IDを交換するための受付のようなものだ。
「沢見今日子です。沢見副所長に面会にきました」
「うけたまわっております」
受付の女性は、去年と同じ人だった。彼女は五年ほど前からここの担当になっているが、名前は知らない。ただ、一年ごとに顔を見ているので、そのたびにああ、あの人だ、と顔を思い出すだけだ。
彼女はわたしのIDカードを受け取ると、PCに向かって操作をし、それから色の異なるゲスト用のカードをわたしに手渡した。
「沢見副所長は、二三一七号室におられます。このカードはその部屋にだけ使えるようになっていますので、ご注意ください」
「分りました」
わたしは会釈をして受付から離れ、奥の通路に向かった。
ようやく目的の部屋の前にたどりつく。
扉に取り付けられているロックシステムにカードを通すと、すぐにロックが手動で開錠される。二重のドアが順に開き、わたしは部屋の中へと進む。
「…………」
デスクや棚、事務機器など、ひとつひとつは洗練されたデザインなのだが、部屋全体としてはどことなく雑然としている雰囲気は相変わらずだ。
そして、デスクの前の椅子に座っている長身の男性が、悪いことをしていたところを見つかったような表情で、わたしを見つめていた。洗いざらしのシャツとジーンズに、形だけJTTJの半袖制服を前を開いたままはおっている。
「や……どうも」
「ああ、うん」
これが一年ぶりに再会した親子が交わす言葉だろうか。もっとも、むこうにしてみれば一ヶ月そこそこというところなのだろうが。
「……会社の車なんかよこさなくたって良かったのに」
「うん? ああ……なんかのついでだってことで、山崎が手配してくれたらしいな」
あごに薄く無精ひげを生やした父は無頓着な口調で言う。
「まあ、彼もいろいろと気を使ってくれているんだよ」
山崎氏はこの転送センターの所長だ。JTTJの前身の研究組織に父と同期で入った人だが、いまではもう六十近い。ジャンプを重ねている父とはそれだけの年齢差が出てしまっているということだ。
わたしは軽くため息をつき、接客用のテーブルの上に手提げ袋を置く。
「これ、適当にあっためて食べて」
「……ああ、ありがとう。いつも悪いな」
このあたりで、『いつまでも食べられるとは思わないでよ』とかイヤミを言ってしまうのがいつものパターンなのだが、今回はやめた。『もっと楽しんで』という長谷川氏のあのアドバイスはまだ耳の中に残っている。
それにしても、この年に一度の再会をもっと楽しむためにはどうすれば、いいのか。なかなか難しい……。
なんとなく視線をさまよわせているうちに、ふと近くの棚の上に置いてあるモノが目にとまった。
「…………」
わたしは棚に近づいてそれを取ろうとしたが、とどかない。と、父がわたしの後ろから腕を伸ばして取ってくれた。
「なんだ。これが、どうかしたか?」
父は人の頭ほどもあるその地球儀をわたしに手渡してくれた。
「うん。いや、ちょっとね……これ、昔からあったよね?」
「ああ。幼稚園ぐらいのときに親父が買ってくれたんだ。なんか知らんが、幼稚園ぐらいのときに俺がどうしても欲しいって言ったらしくてな。この先のお年玉を全部帳消しにしてもいいから、欲しいと」
「へえ……けっこう高いもんじゃないの、こういうのって」
「まあ、子供の買い物としては高かったろうな。こうして見ても、材質はわりと良さそうだし。でも、ずっとそのままこうして残ってるんだから、いい買い物だったのかもしれない」
「そうだね……」
わたしはその地球儀をテーブルの上において軽くほこりを払い、回してみた。
「……ね、ここに日付変更線ってあるじゃない」
「ん? ああ、あるな」
「これって、どういう理屈でここにあるの?」
「それは簡単さ。グリニッジ標準時で正午になったとき、全地球の日付が同じになるってことに決めたからだよ」
父は地球儀を回し、グリニッジ子午線を正面の位置にする。
「こうすると、グリニッジの反対側の東経・西経百八十度、つまり日付変更線が、太陽からみて裏側、夜中の午前零時になるだろう?」
「うん」
「例えば、その全世界で同じになった日付を、八月三十一日だとする。その一分後、地球がこう動いて日付変更線からちょっと西にずれたところが午前零時になる。そしたら、午前零時一分になった日付変更線から、その午前零時の場所までの狭い間の日付は、どうなる?」
「それは……九月一日?」
「ご名答。その直前まで全地球が同じ八月三十一日だったんだから、時間が経ってこうやって地球が回転して日付変更線が東に動いていくと、そこから午前零時の場所までの間は九月一日の領域になる。それがだんだんと扇を拡げるように大きくなっていって、半周すると」
地球儀がまた回され、日付変更線が正面に来る。
「今度はグリニッジ天文台が真夜中の午前零時になる。そうすると、そこから日付変更線までの東側の半分は九月一日。そして西側の半分はまだ八月三十一日。そして、さらに地球が回っていって、もう一度日付変更線が真夜中の午前零時になると、また全世界がすべて同じ九月一日になる」
「あ、じゃあ、日付が変わる場所ってほんとは二箇所ってことか。日付変更線と、それから夜中の午前零時の場所ね」
「そうだ。本来の言葉のニュアンスで言えば、真夜中の午前零時になる場所こそが『日付変更』の線なんだ。それはこの地球儀の軸受けを支えている金具のように太陽と正反対の位置に固定された線だが、いわゆる日付変更線は地球の動きと同期してメーターの針のように動いていく『日付変更開始線』とでも呼ぶべきものなのさ。だから、線の位置自体はどこでもいい。この明石、東経百三十五度を日付変更線にしたってかまいやしない。ただ、いまの国際標準はグリニッジ子午線の反対側になってるというだけだ」
「なんだ……そう言われるとけっこう簡単な話なんだね。さすがは沢見紘一郎博士、世界でいちばん時間のことが分ってる人だけあるわ」
「何言ってるんだよ」
父は困ったような、照れたような笑顔を浮かべる。
「ぼくより偉い学者や研究者はたくさんいる。ただ、たまたまそういう研究の積み重ねの最後のところの一押しをできたというだけのことだ。幸運なめぐり合わせだったのさ」
そして、その結果としてJTTJの基幹計画の面倒を見続ける羽目になってしまったのだ。それが果たして幸運だったのかどうか。
でも、いまはそれは言わないでおこう。
「しかし、こんな話を今日子とすることになるとはな……妙な気分だよ」
「そう? でも、これでも父さんの娘ですからね。こういうことにも興味が湧くのよ」
わたしはくすりと笑った。
「それに、たまには日本標準時の気持ちも考えないとダメかなって思うしね」
「……なんだそりゃ。よく分らんな」
「いいの、わたしが分かれば」
「そうか……」
父はわたしの頭に手をおいた。
「お前にしてみれば、ぼくのほうこそ、わけの分からん父親だよな。すまないと思ってる」
「うん。ほんと、わけが分からない。でも、いいんだ。こういう父親をもつっていうのも、なかなか悪くないよ……いま、そう思った。日付変更線のことをすらすらっと娘に説明できる父親なんて、そうはいないよ」
「…………」
「今日は、すこしゆっくり話をしたいな。さっきみたいな、父さんの昔のこととかね。そういう話、あんまりしたことなかったし」
「……そうだな。そういう話も、悪くないな」
父は微笑んだ。
「でも、その前にいちおう言わせてくれ。これもけじめというやつだからな」
父の腕がわたしの身体を抱き寄せる。ほんのすこしだけ、汗の匂いがした。
「今日子。誕生日、おめでとう。いつまでも、この調子で元気でな」
「……ありがとう」
いつもと違って、今日はわりと素直にこの言葉を返すことができたような気がする。
これも長谷川氏との『予行演習』のおかげだろうか?
6
日が暮れて真っ暗になった頃、家に帰りついた。
「ただいま」
玄関の引き戸を開けると、とたんに詩緒が奥から飛び出してくた。
「おかえりー!」
まるで子供だな、と思いつつも、わたしは手提げの紙袋を渡す。
「これ、おみやげの明石焼き。長谷川さんの分もあるから、それはとっておいてよ」
「うん、分った。明日にでもとどけるわ……それよりな、ちょっとこっちに来てや」
詩緒がまだ靴を脱ぎかけているわたしの手をぐいぐいと引っ張る。
「なによ、どうしたの?」
「こっちもおみやげがあるんや。ヨシちゃんとお買い物行ってきてな、そこでええもん見つけたんよ」
ダイニングに入ると、テーブルの上にリボンをかけた小振りの箱が置いてある。
「これ……いちおうな、バースデープレゼントや。ヨシちゃんとウチで半分こづつ出し合ったんやけどな」
「そんな、わざわざ気を使ってくれて……」
「とにかく、開けてみてや」
「はいはい」
わたしはリボンを解き、包み紙をはがして箱を開けた。
すると、中から出てきたのは……なんと、地球儀だった。ただ、父のそれに比べるとかなり小さめで、テニスボールぐらいの大きさだ。
「これはな、ただの地球儀やないんやで」
詩緒が、台座についていたボタンらしきものを押すと、その小さな地球がゆっくりと回り始め、その中からは明るい感じのメロディーが流れ始めた。
「オルゴール……なんだ」
「そう。これはなんや、昔よく流行った曲らしいで。『小さな世界』っていうんやて。ヨシちゃんが教えてくれた」
「そっか……小さな世界、か」
まさにその小さな世界が、曲にあわせてくるくると回り続ける。
「詩緒、もしかして……昨日のあの話?」
「そうや。なんとなく思いつきやったんけどな。でも、ただの地球儀じゃ芸がない思うてたら、そういうオルゴールがあるてヨシちゃんが教えてくれて……都心でそういう専門の店で探してきたんやで。どうや?」
「ああ、うん……ありがとう。なんか、すごい嬉しいよ。長谷川さんにも、あとでお礼言わなくちゃ」
「良かった、気に入ってくれて」
詩緒がにっこりと嬉しそうに笑う。
「そういえば、日付変更線の話、あとで説明してあげるよ。父さんに訊いてきた」
「ええ? お父はんにあの話したの?」
「うん。わたしなんかよりはかなりマシな説明をしてくれたよ」
わたしはすこし頬がゆるむのを感じた。
「おかげで、いろいろ助かった」
「……どういうことや?」
「いいの。ありがとう、詩緒。このオルゴール、大切にするからね」
わたしは詩緒の頭を抱き寄せた。
「これは、わたしの区切りの日にふさわしいプレゼントよ」
「そか……良かった」
詩緒の細い腕がわたしの背中にからまった。
「苦労したかいがあったで」
夜、ベッドに入る前に、月に一度の作業を行った。本棚のいちばん上に置いてある箱をとり、中から過去のカレンダーを取り出す。正確に言うと、それは破りとったカレンダーのページの端を順々に接着テープでつないだもので、お経のように折りたたまれた形でつながっている。
それぞれのページの日ごとの数字はすべて月初から月末まで横線で消され、週ごとに蛇のようにのたうちながら一本の線になっている。そして、さらに隣のページと接続され、何十ページにもわたる長い線を形作っているのだ。
昨日までの分の八月のページを破りとり、このカレンダーの束の端につなぐ。これで七月と八月が接続された。
いったい、なんのためにこんな儀式めいたことを始めたのか、自分でもう忘れてしまった。でも、こういうことはいったん始めると、途中でやめると何かよくないことが起きるような気がして、やめられないものなのだ。ある種のおまじないになってしまっているのかもしれない。
でも、とわたしは枕元に置いた地球儀のオルゴールを見て思う。
もしかすると、いつかはこのおまじないは要らなくなるのかもしれない。なぜかというと、今朝は久し振りにカレンダーに線を引くのを忘れてしまったからだ。むろん、帰ってきたときに思い出して今日の分を引いておいたのだが。
何かが、わたしの中でほんの少しだけ変わったのかもしれない。あるいは、ささいなきっかけで、わたしはいままでのわたしから脱け出ることができるのかもしれない……そんな気がした。
わたしは部屋の明かりを消し、ベッドに入って小さくつぶやいた。
「……おやすみ、父さん」
(終)
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未来への一方通行のタイムトラベル,「タイムトラックジャンプ」が実用化された社会。時を旅する人々に関わる仕事をして暮らしている沢見今日子は,一年に一度ある場所へと旅をする。それは彼女にとって大切な人に会うためのイベントだった……。