ゴザが飼い葉をやり終えて、牧場に出ると策に凭れぼんやりしているキキの姿が見えた。
遠くを見ている。
珊瑚の簪に結われた浅葱の髪がゆるりと風になびいて、どことなく寂しそうな後ろ姿だった。
「お嬢さん」
声をかけると振り返って微笑んだ。
「ゴザ」
ゴザはキキのこの笑顔が好きだった。ひっそりと小さな野花が咲くような笑み。
「都を眺めていたんですか」
横に立つと、キキも再び遠くへ目を転じた。
「ええ」
遥か彼方には山の中腹に建つ宮廷と白壁に囲まれた都の姿が見える。
かつて、あの宮で大勢の女官にかしずかれて過ごしていたと言ったら、キキはどんな顔をするだろうか。
全く面白くない日々だった。
自慢の母は汚い老人を相手に遊び暮らし、周りの宮廷人はどいつもこいつもきれいな言葉を吐きながら、自分を見下していた。
どんなに上辺を取り繕っても、すぐに分かる。敏感に分かる。
そしてゴザは破滅の日を恐れていた。
その日は呆気なく突然やってきて、一人外の世界に放り出された。
悪者になってしまった母の息子を世間は拒否した。
どこへ行っても、右も左も前も後も。
生きることが、否、ちっぽけな自分の矜持を守ることがこんなに大変なことだとは思わなかった。
憎しみは成長し、誰かのせいにしなければ気が狂いそうだった。
例えば勝手に見逃した銀髪とか、今は王として君臨しているチビだとか。
結局ゴザの企みはあっさりかわされ、さらなる屈辱を感じただけだった。
助けてくれたのは不思議な少年少女と、このキキたちだった。
今、ゴザはキキ一家の従者として働いている。
報酬は飯だけだったが、人として、それも頼れる人として見てくれる彼女らに感謝していた。
贅沢な暮しをしているから幸せとは限らない。
生活はギリギリでも穏やかに過ごせるこの日々をゴザは愛おしく思っていた。
「ねえ、ゴザ」
「はい、お嬢さん」
「昔話に付き合ってくれない?」
「喜んで」
鳥が呑気な声で鳴きながら、青空を横切って行く。
その下でキキは可愛い声で語り始めた。
あたしたちはね、昔、あの都に住んでいたの。
父さまと母さまとお手伝いさんと、子守りのお姉さんと何と家庭教師までいたのよ。
子守りのお姉さんの名前はリウヒっていったの。
ゴザが顔を上げた。キキが笑う。
違うわ、国王陛下じゃない。だってあたしたちのリウヒは、ジンからの旅人でここの言葉を話せなかったんだから。
あたしたちが教えてあげたのよ。
リウヒは、それまでの子守りの人たちとは全然違った。大人の目線で押しつける人じゃなくて、こちらまで下りてきて一緒に遊んでくれたわ。
言葉が話せなかったというのもあるんでしょうね。
あたしたちは、そんなリウヒが大好きだった。毎日、来るのを待ちわびていたくらいよ。
ランたちなんか、将来だれがリウヒと結婚するかで喧嘩していたほどだからね。
でもね、有力な好敵手が現れたの。
家庭教師のハヅキよ。最初はリウヒにものすごく冷たかったくせに。
一回、リウヒを無理やり着飾らせたことがあったの。髪を結って、化粧をさせて、母さまの衣を着させて。本当に変身だったわ。まるで宮廷のお姫さまみたいだった。
その姿を見て、ハヅキは言った。
君、すごくきれいだって。
リウヒは恥ずかしそうにお礼を言ったわ。
あたし、あの光景を忘れられない。桃色の空気が二人から立ち上って、すごく幸せな、こそばゆいような感じがしたの。それからハヅキの態度は一転、リウヒにとても優しくなった。
光の差し込む子供部屋で、風通しの良いお庭で、二人の醸し出す桃色の空気はゆるゆると流れていたわ。
ずっとそんな毎日が続くと思っていた。永遠に続くと思っていた。
だけど、突然ある日、リウヒは旅に出るって言いだしたの。
あたしたちは怒った。裏切られたし、自分たちを置いてどこかへ行くなんて許せなかった。だから、お別れもしなかった。部屋に閉じこもって、五人で怒りと悲しみのあまり泣いていたわ。
今では後悔している。最後にさようならくらい言いたかった。
人一人いなくなっただけで、空気って変わるのね。幸せな桃色は、灰色になってしばらくとても苦しかった。
リウヒさえ帰ってくれれば、また美しい日常に戻れる、早く帰ってきてって毎日願ったわ。
ところが、今度は生活が大変になった。あの女が…税を上げて、父さまの仕事もうまくいかなくなって。
まず、ハヅキがいなくなった。次にお手伝いさんが消えた。最後に父さまが失踪した。
母さまは何も言わなかったけど、港に愛人がいたのですって。その人の所に行ったみたい。
あたしたちを捨てて。
父さまはとんでもないお土産を残してくれたわ。借金よ。銀五十枚。
たった衣一枚の値段を返済する当ても、あたしたちは無かった。だから逃げたの。都から。
夜遅くだったわ。山の上に大きな赤い月がぽっかり浮いていて、涙が出そうになった。
どうしてあたしたちはこんな目にあっているのに、月は呑気に浮いているんだろうって思った。
後はゴザも知っているとおりよ。母さまの遠縁を辿って、この小さな牧場にいるわ。
借金も返せたし、ランは宮廷兵として宮へ行ったし、お金はないけどみんな元気に過ごしているし。
新しい王さまはいい人だわ。あっという間に税を元通りにしてくれて、都の治安もよくなったみたい。
「でもね」
キキの目線は、以前都に注がれたままだ。
「こぼれてしまった水はもう元には戻らないし、過ぎ去った日々も返らないのよ」
その焦げ茶の瞳から涙がこぼれた。ゆっくりと頬を伝って一瞬ためらった後、滴り落ちた。
「ショウギが憎いわ。あの女のせいで…」
そこから先は、言葉にならなかった。
痛いな。胸がものすごく痛い。
その女はゴザの母だった。
だけど、母だけが悪いのか。なんだか、宮は都合の悪いことは全て母のせいにして、王を盛りたてている気がする。大体、税をあげろと言ったのは、宰相ではないか。
言えない。言ってどうにもなることではない。変わりに違う言葉が出た。
「おれは…ショウギに感謝します」
キキが振り返って、ゴザを見た。気分を悪くしたように眉をひそめている。
「大変な苦労をしたお嬢さんには失礼ですが、…お嬢さんたちが都を出なかったら、あの町で物盗りに合わなかったら、おれはお嬢さんたちに出会えなかった」
こんなに穏やかで愛しい日々を知らないまま、どこかで行き倒れていたかもしれない。
「まあ、ゴザ…」
顰められていた眉はほどかれて、キキは泣き笑いの顔になった。
「姉さん、ゴザ。何しているの?」
振り返るとクジャクが包みを手にして立っていた。
「あなた、また何か貰って来たの?」
「うん、牛肉だよ。すごいだろう。肉屋の娘がこっそりくれたんだ」
得意げになっているクジャクは、だれがどう見ても美少年で、よく村の娘やおかみさんから、家庭的な貢物をされている。
「女なんて簡単だよ。目とか髪とか肌とかを、さりげなく褒めればイチコロさ。不細工だったら、優しいとか明るいとか雰囲気を褒めればいいんだ」
「クジャクったら」
呆れるキキの横で、ゴザは小さく笑った。
「結局、どの女もリウヒ以上の奴なんていない。ねえ、お腹が空いたよ、ご飯の用意をしよう」
三人で小屋のような家に入りながらゴザはやっと納得した。
しょっちゅう会話に出てくるリウヒという人物は、あのチビのことだと思っていた。母が実権を握っていた二年と少し、王女は外の世界に出ていたからだ。
その度に胸がチクチクした。きっと嫉妬をしていたのだろう。
が、今日初めて赤の他人だということを知った。安堵と同時にゴザは苦笑する。
この家族を自分は思っている以上に愛している事に気が付いたからだ。
ずっと一緒に居たいな。永遠にこの愛おしい日々を過ごしていたい。
所詮、夢だとは分かっている。
永遠に続く日などないことは分かっている。
それでも。
かまどの火は、ゴザに同調するわけでもなく、ただ淡々と燃えている。
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ティエンランシリーズ番外編。
ゴザは一巻で謀反を起こした王の愛人ショウギの息子。
四巻の「The way it is」でキキたちに出会いました。
ちなみにキキたち五人姉弟は三巻の「The biginng of the story」で現代リウヒがベビーシッターをしていた子供たち。