No.127555

獏~BAKU~

柊 幸さん

悪い夢を食べてくれるという、空想の生き物「獏(バク)」夢見ることの少なくなった現代。彼らの食べ物も変わったようです。

2010-03-01 23:42:22 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:562   閲覧ユーザー数:562

 

『ねえ、あなたはだあれ?』

 

 少女はあどけない笑顔で私に尋ねた。

 

 あたりは見渡す限りの闇、ただただ暗く静かな闇の世界のなか、少女の体だけが淡い光に包まれ闇の中に浮かんで見えた。

 

『ねぇ、聞こえているの?』

 

 口をとがらせ少女が訴える。私の顔を覗き込むようにして瞬きをする。大きな二重の目がぱちぱちと音を立てそうだ。

 

「聞いてるよ。」 

 

 私はそっと少女に答える。低く響く声、私はこんな声だっただろうか?いや、それよりも私はいったい誰なのだろうか?

 

『聞こえているなら答えてよ。あなたは誰なの?』

 

 少女はじれったそうに足を踏み鳴らした。もっともここの地面は音の立たないふわふわしたものであったが少女は気にする様子もなく花柄の短いスカートのすそを揺らし続けた。

 

「ごめんよ、なぜだか自分が誰なのか思い出せないんだ」

 

 不思議だった。自分が何者であるかもわからないというのに妙に落ち着いている。まるで夢でも見ているように自分の体が優しく包まれているような感じだ。

 

「本当にごめんよ」

 

『ふふふ……別にかまわないわ。ねぇ、私一人でつまらなかったの、どんなことでも、どんなたわいない話でもいいから私に話して』

 

「いいとも、私に話せることなら何でも話すとも」

 

 私は何について話そうかと考える。今の自分のことは何一つ思い出せないというのに、昔のこと家族のことは良く思い出すことができた。青年時代、母親に逆らって家出をしたこと、悪さをして父に殴られたこと、優しかった祖父母のこと・・・

 

 私は淡々と話し続けた。何かにうながされるように次々と言葉が口をついて飛び出してきた。

 

 家族について一通り話し終えると、私は一息ついて少女に訊ねた。

 

「そういえば君のご両親はどうしているんだい?」

 

 私の問いに少女の表情が曇った。しまった、と私は思う。まともな事情でこんな少女が一人でいるわけがないではないか。私はあわてて取り繕った。

 

「いや、別に無理に聞こうとは思わないから言いたくないならいいんだ」

 

『何のことを?』

 

 少女は相変わらずにこりと微笑んで私に訊ね帰す。

 

「何って……いや、何だったか?まぁいいや。そうだまだ君の名前を聞いていなかったね」

 

『だーめ。あなただって答えていないじゃない。私も答えないわ。それよりもっとあなたの周りのことを話して頂戴』 

 

 少女は私の足元にしゃがみこみ私を見上げている。

 

「そうだね」私も少女の隣に腰を下ろす。「私も君と話しているとなんだか楽しいよ」

 

 私は自分の回りを取り巻く友人や環境について話した。少女は聞く一方で一向に自分のことを喋ろうとはしなかったが、それでも楽しかった。自分が誰であるかなど考える心もすでにどこか闇のかなたに消えてしまっていた。

 

 私が思いつく限り全てを話し終えると、少女は満足そうに微笑んだ。

 

『ねえ』

 

「ナンダイ」

 

 私の喋り方に抑揚がない。私は、私とは、ワタシ、わ・た・し……?

 

『もうあなたに残っている記憶(モノ)はなぁい?』

 

「ワタシニ、残ッテイル記憶(モノ)?」

 

 疑問、ワタシ、少女……???

 

「ないっ!私の記憶が、ない!」

 

 そうだ、ワタシは記憶喪失なのだ。自分が誰であるか、ここがどこであるか、家族のこと、周りを取り巻く環境、今までのことが何一つ思い出せない。

 

 孤独、恐怖、心の中にはこの二つだけが大きく膨らんでいく。

 

「なぜ今まで私は忘れていたのだ?この孤独を、この恐怖を、ここはどこだ?!そして、おまえっ!」

 

 私は目の前でくすくす笑い続ける少女を指差し叫んだ。

 

 今まで可愛らしいと思えた少女がいやがおうにも不気味に見えてくる。大きな瞳も小さな口も、三つ編みの髪も、花柄のスカートも、何もかもがこの闇だけの世界にはおかしいほどに不似合いだったというのに……

 

「おまえは何者なんだ、ここはどこなんだ?」

 

 少女が私を見つめる。体中に電気を通されたように痺れて動けない。私は心を見透かすような少女の瞳の中に残酷な獣の光を見た。

 

『ふふふ、もう恐怖が再生したのね、うるさくないように先に食べておいたのに』

 

 少女の小さな口が耳まで裂け大きく開く、鋭い牙と滴る唾液が赤い口内に見て取れる。

 

『大丈夫よそんなに怯えなくても、これは現実の体ではないわ、ただの精神体。だから現実の体には傷ひとつつくことはないの。ただ動くことのない肉の塊になるだけ。ぜんぜん痛くないのよ、安心して……』

 

 少女の口が私の体を蝕む。血は出ない。まるで消しゴムで消されたようにその部分がなくなっていく。足が手が体が、そして・・・・・・(フェイドアウト)

 

 

 

 居眠りをしている会社員の体から大きな獣が降りたった。普通の人間には見ることのできない非現実の動物。夢見ることの少ない現代、彼らの食べるものも多少変わったようだ。獣はまた別の獲物を求めて空を舞う。残された男はただ眠っているだけのようだ。しかしいずれ同僚の誰かが気づくことだろう、本当の彼がすで存在していないと言うことを……

 

END


 
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