「ふぅ~。これで終わりっ、と……」
案件をまとめた書類を机の上に放り、ほっと一息。
窓を見上げれば、外はもう暗闇に覆われてしまっている。大体昼過ぎ辺りから竹簡(この国を動かすのに必要な案件がぎっしりと記されている)が山のように積まれた机に向かったのだから、凡そ6時間ほど政務に没頭したことになる。我ながら大した集中力だ。最初は柄ではないと自嘲していた“王”という職務も何時しか滞りなく熟せるようになっていた。
「というか、あのおっぱいはどこにいったんだよ……」
この国には珍奇なことに二人の王が居る。一人は人々から天の御使いと崇められ、多くの女性から愛される三国一のモテ男ことこの俺、北郷一刀。そしてもう一人は、大徳の王者と民から慕われ、また蜀の至宝と謳われるおっぱいを持つ中山靖王劉勝の末裔、劉備玄徳。真名は桃香。
彼女とは戦乱の世を共に走り抜けた。一介の義勇軍だった俺たちであったが、幾重もの激闘の末、今ではこの蜀の地を治めるまでに至っている。
まあ、そんな蜀ルートの大円団から半年あまりが経ち、俺と桃香は政務に忙殺されていた。平和になったこの大陸で蜀という国をより良く発展させるべく、二人の蜀王は尽力しているのだ。……あ、いや、そうだったとうべきか。
「桃香のやつ……最近気が抜けてるんじゃないか?」
最初は桃香と二人一緒に政務に励んでいた。だが確か夕暮れ頃だったか、彼女は少し気分転換をしてくると言って出ていったきり、そのまま戻ってこなかったのだ。そうすると彼女に振り分けた仕事は滞ってしまう。仕方がないので桃香の分も俺が全て片づけたのだが……。
「その分早く終わったような気がするのが悲しいな。本当なら二人で分けてやった方が早いだろうに……」
彼女、要領が悪いからな。きっと今日も桃香は仕事をサボる気などなかったのだろう。純粋に気分転換をするつもりで席を立ち、フラフラと散歩でもしている途中なにか興味の引かれる出来ごとに遭遇してしまい、まだ仕事が残っていることも忘れ夢中になってしまったのだろう。
「桃香が不甲斐ない分、オラがしっかりせねば……」
そうさ、俺がしっかりしていればいい。この国も、この国に住まう民も、皆俺が―――
「……って、やっぱ柄じゃないわ。そういうの。今の俺、真面目すぎ。なんかもっとこう、いつも女の子にエッチなことばかりしているのが北郷一刀の本当の姿ではないだろうか?
―――よし、決めた! 今から月にエッチな悪戯をしてとても困らせてやろう!」
胸に大きな大志を抱いた俺は勢いよく立ち上がり、
「一刀、行きまぁーす!」
月の元へと駆け―――
「させるか!」
「ぐあぁっ!?」
だせなかった。俺は頭頂部をなにかとても固いモノで殴打され、もんどり打って床に倒れ込む。
「ヒィイ……さ、刺さった! 今頭にぐさって何かが刺さったよ!? ぐぁあああ! なんかめっちゃ痛いんですけど!? ぱねぇ! マジぱねぇんですけど!?」
「はぁ……まったく、大げさな男ね。ちょっとその辺にあった剣で突っ込みを入れただけじゃない」
「死ぬわ!」
力の限り叫ぶ。全然大げさではない。というか、突っ込みの道具に剣を選んだ時点で俺に対しての明確な殺意が感じられる。さっきのは突っ込みではなくただの暴力だった。
「大丈夫。訓練用だから刃は付いてないわ」
「ええっ!? そういう問題!? いや、そもそも大丈夫じゃないからね!? たくさん出血してるから! さっきかダラダラと凄い勢いで出血してるからね! もう、鮮血の北郷さんだよ!」
どこかの侯爵家の一人息子(オリジナル)のように、今の俺は血に染まってしまっている。……返り血ではなく自分の血で。これ、ホント大丈夫なのだろうか? 引き裂かれてしまった頭皮とか……。
「うっさいわねぇ……! アンタが月にちょっかい出そうとするのがいけないんじゃない!」
「う、ぐっ……!」
それを言われると返す言葉が無い。何せ俺はあのいたいけな少女のお尻を撫で回し、羞恥に染まったチャーミングなオデコにチッスをしてやろうと画策していだ。だから目の前の少女、メイドの詠ちゃんが怒り心頭なのも無理はないというもの。何せ、彼女は月のことが世界で一番好きなのだから。
「あー。もしかしてさっきの妄言を聞いていたのかな? いやだなぁー、あんなの冗談に決まっているじゃないか。俺が月を困らせるようなことをするわけがないだろう?」
「ぜんっっっっぜん、信用できないわ!」
「なぜにホワイ!?」
一刀両断されてしまった! なぜだ? 最近は女の子にちょっかいかけることなく真面目に王の職務を全うしているというのに……!
「そうして溜まりに溜まった欲望を月で発散させようって魂胆なのね? 言っとくけど月は愛紗とか翠みたいな体力バカとは違うのよ! 華奢な女の子なんだからアンタみたいな性欲魔人の相手が務まるわけないでしょう! 大体紫苑や桔梗みたいに年中発情している淫乱女がいるんだからそっちを襲いなさいよ!」
「ヒデェ言いぐさだなぁ、おい!」
まあ、確かに。愛紗や翠って一晩中アレしても元気有り余っているさ。紫苑や桔梗なんかも最近は盛りのついた犬や猫じゃないんだから、と俺に思わせてしまうほどにアレな感じだよ。俺も俺で股の下のナニは国士無双ではあるさ。だけど、だけどさ。だからってそこまで言うことないじゃないかなぁ……?
というか、考えていることを読まないでほしい。
「ふん。やっぱり月を向かわせないで正解だったわね。危うくこの変態に月が穢されるところだったわ」
「変態言われた!? まだ続くんだ、罵倒! ―――この毒舌メイド詠ちゃんめ!」
「ちょっと!? ボクのこと変な風に呼ばないでよ!」
眉を吊り上げる詠。
この子は俺の顔を見る度いつもこうして罵倒してくる。どうしてそこまで俺を嫌うのかと思うほどだ。しかし俺も馴れたもので、彼女の言葉にいちいち腹を立てることなどない。最近では逆に気持いいくらいだ。
あ、いや、変な勘違いをして貰っては困るので一応付け足しておくが、敗軍の将であることに引け目を感じることなく、この国のトップである俺に対してもズバッと言いたいこと言う彼女の姿勢は気持ちいいなぁ、とそういうことである。
「ん? なんだ、もしかして食事を持ってきてくれたの?」
よく見れば、眼鏡っ子メイド詠ちゃんはカートを押していた。台の上には出来たてなのだろう、湯気の上がる美味しそうな料理が乗せられている。
「ふ、ふん! べ、別にアンタの為なんかじゃないんだからね! 月がアンタは政務で忙しそうだから、部屋まで食事を持って行ってあげようって言うから……! だっ、だから変な勘違いするんじゃないわよ!?」
……ツンデレ、キタ━━(゚∀゚)━━!!!
「――てっ、なに嬉しそうな顔してるのよ!? 勘違いするなって言ってるでしょうがっ……!!」
「ふっ。馬鹿だな、詠ちゃんは。男とは常に勘違いする生き物なのだよ。特に女の子のことなら尚更さ!」
そうさ。男とは、ちょっと優しくされたらすぐのその女の子のことを好きになっちゃうし、ちょっといい顔されると『この子、俺のこと好きなんじゃね?』とか思ってしまう哀れな生き物なのだ!
「アンタが詠ちゃん言うな!
……そう言えば、そうだったわね。アンタは自分のこと男前で、高身長で、仕事ができて、腕っ節も強くて女の子にモテモテだと思っているんだったわよね……」
そう言うと、彼女は憐れむような視線を送ってくる。
―――だが待ってほしい。
顔の良し悪しはその人の主観が入るので千差万別であり、俺が彼女の趣味に合わないと言うならわかる。あと腕っ節も関羽や張飛などの一騎当千の猛者を見た後では決して強いとは言えない。まあ、それはいいさ。
だが、彼女の言い方だと俺がまるで、チビで仕事が出来なくてしかも非モテみたいじゃないか!
否、断じて否!
俺はこの世界に来る前、聖フランチェスカ学園の身体測定で身長を測ったときには175cm以上あった。これは真実だ。だから俺が高身長というのは妄想ではないし、それに今さっき桃香の分までちゃんと仕事やっていたのだ。だから、仕事できないわけじゃ無い筈である。
でも……え? 俺、モテないの? すみません。てっきり蜀陣営は俺のハーレムで、全員“俺の嫁”だと思っていました……。
「うぉおお! なんかめっちゃ恥ずかしい! 俺ってやつは、もの凄い勘違い野郎じゃないか!?」
ドス! ドス! ドス! ドス――――!!
「きゃあ! ちょっとアンタ、そんなに机に頭を殴打して……本当に死ぬわよ!」
「う、うぅ……動揺し過ぎて、目の前が真っ白になってきた……」
「いや、単に血の流し過ぎで、意識が堕ちかけているだけじゃないの?」
詠ちゃんはすっと近づくと、メイド服の前掛けについた不思議なポッケから清潔な手拭いを取り出し、傷口に当ててくれる。
「ま、まさか―――高身長で仕事は出来るけど、不細工で弱っちくて非モテな俺を介抱してくれるのかい?
詠ちゃん、キミはなんて優しい子なんだ! はっ! まさか天使の生まれ変わり?
わぉ! こりゃー、マザー・テレサも吃驚だぜ! ハッハッハー!
……貴女のこと、好きになっていいですか? というかもう愛してる!」
何故かハイになり、とてもテンションの上がった俺は訳の解らないことをくちばしってしまう。くそう、優しい詠ちゃんにお礼を言いたいのに、体が思うようにならない。なんてもどかしいんだ……。
「ああもう、五月蠅いわね! 耳元で意味の解らない言葉を羅列しないで! ……それにしても、頭を打った影響でおかしくなったのかしら? 普段からキモい奴だったけど今はそれに輪を掛けてキモいわ。
……あれ? どんどん手拭いが赤黒く染まっていく―――血が止まらない!? え、これ以上はマズイんじゃないかしら……? 本当の本当に死んじゃうんじゃないの!? ちょっ、アンタしっかりしなさいよ!?」
「僕は死にましぇーん。詠ちゃん、貴女が好きだからっ!」
「んなアホなこと言っとる場合かぁーーーー!!!」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「はむ……もぐもぐ――――ごくっ……。うん、美味しい。月は相変わらず料理が上手だなぁー」
なんとか一命を取り留めた俺は、月の真心こもった手料理に舌鼓を打っていた。
「ふん、当然よ! 月はいつもアンタの為に料理の練習を欠かさない―――って、そんなわけないじゃない! なんで月がアンタみたいな変態に『美味しいよ』って言って貰いたいが為に指に幾つも傷を付けながら料理の練習をしなくちゃいけないのよ! バッカじゃないの!?」
「す、すいません……」
あれ? どうして美味しいよ、って褒めたのに俺は彼女に罵倒されているのだろう? なんだか非常に理不尽な怒りをぶつけられているような気がするのだが、俺の気のせいだろうか?
「まあ、月がせっかく作ってくれた料理を不味いなんて言ったら、今度こそ息の根を止めていたけど」
「ひぇええ……!」
ガクガク、ブルブル―――
なんでだろう? 体は震え、とても恐怖を感じている。少し前の記憶が飛んでしまっている為、何故詠ちゃんに此処まで恐怖を抱くのかはわからない。
何故か瀕死の重傷を負って倒れていた俺は、詠ちゃんに介抱され今に至る。その時に何かあったのだろうか? その……なんか、俺と詠ちゃんの上下関係を決める決定的な何かが……。何故かは解らないが、そんな気がした。
「アンタなに怯えているのよ。―――ほら、さっさと食べなさいよ! 片付けられないでしょうが!」
「イエス、マム!」
急いで箸を動かす。……そうか、どうして詠ちゃんが食事中ずっと俺の近くに居るのかと思っていたが、食器を早く片付けたかったからなのか。折角の月の手料理だし、もっと味わって食べたかったのだが、詠ちゃんを待たせちゃ悪いし、手早く片付けてしまおう。
ああ、でもやっぱり月が作ってくれた料理は美味しいな♪ やっぱり一番のスパイスは月の溢れんばかりの俺に対する愛情かな、エヘヘ♪
「キモいわねぇ……。なにニヤニヤしているのよ……。ほんとキモいわ」
「あ、あの、さっきから扱いが酷過ぎやしませんか!?」
流石にいつもはここまで酷い扱いは受けてはいない。精々なんの唐突もなく『死ね、馬鹿!』と言われる位である。普段、詠ちゃんはこんな理不尽な行いはしない筈なのだが……。
「ふ、ふん!」
彼女は顔を背けてしまう。
チラ、チラチラ―――
「?」
しかし、箸を動かす俺にチラチラと探るような視線を送ってくる。何なのだろう? 今日の詠ちゃんはとても様子がおかしい。
「な、なんでしょうか……?」
「何でもないわよ! 休んでないで、さっさと食べなさいよ、馬鹿!」
「あ、うん……」
何でもないと言われてしまったら、俺にはどうすることも出来ない。だから、少しでも早く食べ終えようと箸を動かすのだが……。
「ん? あれ……?」
「なによ、どうしたのよ?」
「いや、この冷菜。一品だけなんか他と味付けの仕方が微妙に違うんじゃないかなって思って」
「そ、そう? 気の所為じゃないの? ア、アンタの舌なんて当てにならないし……!」
何故か詠ちゃんの挙動がおかしくなる。
頬はほのかに赤く染まり、いつも凛とした声は完全に上擦ってしまっている。視線は泳ぎ、そわそわと落ち着きがない様子はとても彼女らしくない。それに、何気にエプロンの裾を両手でぎゅっと握りしめているのが少し可愛かった。
「……もしかして。これ、詠ちゃんが作ったの?」
「――っ!? なななななななな、なんでそう思うのよ!?」
俺の指摘を受け、元々羞恥に染まっていた詠ちゃんの顔が、ボッ、と火がついたように真っ赤になっていく。
「とても解りやすい反応をありがとう。……いやまあ、だだの勘なんだけどね。なんとなくこれを食べているときにキミの視線が俺に集中してくるのが解かったからさ。だからもしかしてこれ、詠ちゃんが作ったんじゃないかなって」
「ち、ちちち違うわよ! なんで私がアンタの為に料理を作らないといけないのよ!? ば、馬鹿じゃないの! ほんと馬っっっ鹿じゃないの!」
「うおっ!?」
詠ちゃんがテレた!?
……まったく。馬鹿だなぁ詠ちゃんは、そんな真っ赤な顔でバカ馬鹿と連呼されてもこっちはニヤニヤしちゃうだけだってのに! しかし、萌える! 萌えぇー、テレテレのツンデレ眼鏡メイド詠ちゃん、萌えぇえーー!!!
「どわ! ―――って、痛いじゃないか。なぜビンタ……?」
「うっさいわね! アンタのそのニヤけ面がキモムカつくのよ!」
パチーンと、全力でビンタされた俺。
頬は涙目になる程痛む。だがしかし今の俺には、そんなの関係ねぇー! うおぉおおお! ガン見! 照れてなんだかとてもイジマシイ詠ちゃんの麗姿をこの目に焼き付けるのだ!
「――って、なに見てんのよ! ちょっ、止めなさいよ!? ボクを視姦するな!」
「何をそんなに怒って―――ああ、そうかまだ料理の感想をいってなかったもんね。そうかそうか、だからそんなに怒っているんだ?
うん。とっても美味しかったよ。詠ちゃんの料理を食べたのは初めてだけど、キミ、料理上手なんだね」
「だからボクじゃないって言ってるでしょ!? ……アンタ、ちょっと右の頬もだしなさいよ!」
「―――ええっ!? ちょっ、左の頬を腫らせただけじゃ満足しないって言うんですか!?」
俺の左の頬は彼女の放った強烈な平手打ちによってヒリヒリと赤く腫れ上がってしまっている。その上、まだ無事な右の頬も痛めつけようというのか!? お、鬼だ!
「あら、よく言うじゃない。頬を叩かれたらもう片方も差し出せって」
「言わないよ!?」
ま、拙い。これ以上やられたら、新しい世界に目覚めてしまいそうだ……。
「待って! 取り敢えず落ち着こう! 人間、話し合えば解り合えるから!」
「喧しい! とっとと殴らせなさい!」
「どわぁああ!」
結局殴られた。しかも、頬を抉ったのは平手ではなく固く握られた拳だった。
スナップのきいたいいフックブローだったぜ……。
………………………………。
…………。
「…………さっきはごめん、なさい」
「えっ?」
食事を終え、ズズズッとお茶を飲んでいると、詠ちゃんがそんなことを呟いた。
「な、なによ! その意外なものを見たような顔は!?」
いやだって、詠ちゃんがいつも蛆虫のように忌み嫌う俺に対してとても殊勝な顔をして謝罪しているのだ。この世界で、これほど意外なものはない。
「ボクだって悪かったと思ってるのよ? ……その、何度も殴ったりして……。アンタがムカつくことが原因だったとしても、ちょっとはボクにも非があったと思うし……。だ、だからちゃんと謝っているんじゃないの! アンタも素直に受け取りなさいよ!」
「お、おう……」
詠ちゃんは謝罪するときであっても強気なメイドさんである。流石はツン子ちゃん。今日も見事なくらいにツンデレっている。
「?」
しかし、先ほどの強気な言葉とは裏腹に、詠ちゃんはあっちゃーまたやっちまったー、とでも言いたげに頭を抱えてしまう。
「ど、どうした? なんか今の詠ちゃんからは悲哀が漂っているけど?」
「あ、アンタが詠ちゃん言うなっての! ―――ふん! 別に何でもないわよ、何でも………」
とてもそうは見えない。
チラ、ソワソワ、チラチラ、モジモジ―――
これ程落ち着きのない詠ちゃんは珍しい。本当に何があったのだろう?
「む?」
ピーンと来た。
伝えたい言葉がある、でも勇気が無くて言い出すことができない。―――まるで、そんな自分の不甲斐なさを呪い、唇を噛み俯むいてしまった憂いの表情。そして、スカートの裾をぎゅっと握り、モジモジと腿を擦らせる彼女らしくない落ち着きのない立ち居振る舞い。その二つの様子から、俺にはこうピーンと来るものがあった。
「詠ちゃん――」
俺は出来るだけ優しい表情をつくり、彼女にこう切り出した。
「あのさ。今日はもういいからさ。明日も早いんだろ、だからもう休みないよ? ありがとう、わざわざ食事を運んできてくれて。
月と詠ちゃんが作ってくれた料理はとっても美味し―――ああそうだ。詠ちゃんが作ってくれたんじゃなかったんだよね。月とあと一人。俺の為に手料理を振舞ってくれた優しい女の子にありがとう美味しかったって伝えてくれるかな?」
「―――な゛っ!?」
詠ちゃんの態度から彼女が持ってきてくれた料理が月と詠ちゃん二人の合作であることは明確だった。でも恥ずかしがり屋の詠ちゃんがそのことを素直に認めるのは難しいだろう。これ以上『なんでボクがアンタなんかの為に料理を作んないといけないのよ!』というやり取りをするのは不毛だ。だから、彼女の主張を肯定しつつ、第三者の女の子にお礼を伝えてくれという形で詠ちゃんに間接的にお礼を言ったのだ。これならば詠ちゃんも納得し、心置きなくこの場を去れることだろう。
ふふふ、我ながら冴えているな。さあ、詠ちゃん。いつまでも我慢せず、存分にアレをしてくればいい。
「……な、なんでアンタはそんなに―――のよ……。これじゃ、意地張ってるボクが馬鹿みたいじゃない……」
ん? 何か肝心なところが聞き取れなかったな。詠ちゃんは『そんなに――』の次に何と言ったのだろう?
……いやまあ、別にいいか。
「馬鹿じゃないさ。まあ、詠ちゃんは女の子だから言い出し難いのは解るけど、我慢は体によくない。早く済ませてくるといいよ」
「………………は? 我慢? 済ませる?」
「ん? うん?」
俺の言葉を聞き、なぜか詠ちゃんは首を傾げてしまう。そして、俺もつられるように首を傾げた。なんだろう。なにか絶望的に話が噛み合っていないような気がしてきた。
「ちょっと待って。ボクにはアンタが何を言いたいのか解らないわ。……でも、アンタがとんでもない勘違いをしているのは解る」
「あれ、おかしいな。この空気の読める男、北郷一刀が……。もしかして読み間違えたか……?」
馬鹿な。そんな筈はない。そんなギャルゲの主人公じゃないのだから、女の子の機微が読めないなんてことはない筈だ。これじゃあ、まるで俺が鈍感な朴念仁みたいじゃないか。
「……アンタ、何を考えていたのか言ってみなさいよ」
「え、ええ? いや、それはどうなんだろう……」
言わぬがお互いの為と、そんな気がする。というか、今考えていたことを言ったら俺は彼女から酷いお仕置きを受けてしまう等の未来予想ができるのだが……。
「怒らないから言ってご覧なさい」
「それ、怒ることが前提ってことだよね!?」
俺は詠ちゃんを真っ正面から見据える。う、うぅ……。これは何を言っても引かない目だ。基本的に意地っ張りな詠ちゃんなことだ。きっと白状するまで解放してはくれないんだろうな……。
「ほら、早くしなさいよ」
「わ、わかったよ……」
こうなっては仕方がない。俺も正直に白状するとしよう。
さっきまでの詠ちゃんは、モジモジとまるで何かを我慢するように落ち着きがなく。そして、頬は赤く染まり恥ずかしげに俯く様子は俺に何かを言いたげであった。いつもはビシッと言いたいことを言う彼女が、これほどまでに逡巡する理由。それは、女の子が言い辛いようなとても恥ずかしいことなのだろうという予想ができる。
では、女の子が口にすることを躊躇してしまうほど恥ずかしいものとはなんだ? いやなに、そんな難しく考える必要はないだろう。答えを出すのは簡単だ。なぜなら、そんなものは一つしかないからである。
つまり、詠ちゃんは―――
「ウンコを我慢しているんだよな?」
「そんなわけねぇだろ!」
グサッ、ダクダクダク――――
あれ? いつの間にか肩に何かが生えているぞ。ああ、これは見覚えがある。俺がさっきまで使っていたチョップスティックじゃないか。……え、でもどうしてチョップスティックが俺の肩から生えているんだろう?
アハハハ、可笑しいな、なんだかチョップスティックが突き刺さった辺りの感覚が無くなってきたぞ。それに肩から赤黒い液体が凄い勢いで噴き出してくるよ。うわぁー、すごぉーい。おもしろぉーい……。
「………………え? あれ?」
―――俺、箸を突き刺されたのか!?
「酷い、怒らないって言ったのに! 嘘吐き! 詠ちゃんの嘘吐きぃ……!!」
「黙りなさい! アンタ、もしかしてさっきからずっとボクがウンコを我慢していると思ってたんじゃないでしょうね!?」
「うん」
俺は素直に頷く。……違うのか?
「こ、この……! 人の気も知らないで! 鈍感! 馬鹿! おたんこなす! 誰がウンコなんか我慢するかっ! 乙女心を踏み躙る阿呆は死んでしまえ! この朴念仁がぁああーー!!!」
グリ、グリグリ、グリグリグリグリ―――
「ぐぁああぁああぁあ!!! ――――ちょっ、まっ……! 突き刺した箸をグリグリしないで!? ら、らめぇ! そこ、掻き回しちゃらめなのぉ……! 裂けちゃう! そんなに激しくされたら大事なところ裂けちゃうのぉおおぉおおぉーーーう!?!?!?」
一度は俺の制止を聞いてくれたのか、グリグリするのを止めてくれたチョップスティックではあったが
『―――裂けちゃうのぉ』の“のぉー”の辺りからまたグリグリが再開され、俺を激しく痛めつける。かつて俺はこれ程の痛みを体験したことは無かった。
人って、あまりに痛覚を刺激されると痛みで失神も出来ないんだね……。
「……ボクが言うのもなんだけど、アンタよくこの状況でしょうもないこと言ってふざけていられるわよね。自ら苦行に首を突っ込んでいくその姿勢、ちょっと尊敬しちゃうわ」
「ふっ、まあな」
「なに得意げな顔してるのよ、別に褒めてないからね!?
―――というか、ここまでされたのに怒る様子が一つも無いなんて、……もしかしてアンタって痛いのが良いの?」
「なんでやねん!」
「いや、その返し意味分かんないから!?」
どうやらこの世界の人間には関西弁の突っ込みは通じないらしい。だが、意味が分からないと言いながらも詠ちゃんは突き刺さった箸を抜き、俺をチョップスティックから解放してくれる。――って、うわ、傷口が黒く変色してるし……。
「ゼェ、ハア―――ゼェ、ハア―――ハア……そ、それにしても酷い目にあった……」
「はぁ……。なんでいつもこうなるのよ……。
―――それもこれも、アンタがウンコウンコ言うからぁ……!!!」
凄まれる。詠ちゃんの顔はまるで般若のようであった。
「いや、むしろ、連呼しているのはキミの方じゃ―――」
俺は一回しか言っていない。
「あ゛あ゛っ!?」
「済みませんでした!」
一旦宙を舞い、落下の加速を利用し勢いよく額を床に擦り付ける。俺の17個ある必殺技の一つ、ジャンピング土下座である。
「はぁ……。
もう行くわ。アンタの相手なんかしてたら、時間を無駄に消費するだけだもの」
詠ちゃんは土下座をする俺を一瞥。冷めた目で見下ろすと、小さな溜め息を一つ吐いた。そして、背を向け食器の乗ったカートを押して“足早”に部屋を出ていってしまう。
俺は彼女のそんな後姿を眺めていることしか出来なかった―――
「そうか、やっぱり我慢していたんだね。なら、さっさと行けばよかったのに……」
彼女の背中を見送り、一人愚痴る。
今日、凄くイライラしていた原因はきっと、ずっとウンコを我慢していた為なのだろう。そうかそうだったのか、と俺が頷いていると……。
―――スパーン、と脳天を一閃された。
「……? あれ、どうして戻ってきたのさ?」
振り返れば、部屋を出ていった筈の詠ちゃんが仁王立ちしていた。そして、その手には何時ぞや彼女にあげたハリセンが握られている。
「よく考えたら、あの状況でアンタの前から居なくなれば、ボクがまるで我慢できずにウンコをしに行ったみたいじゃない、そんなのありえないわ!」
違うのだろうか?
「―――あぐっ!」
またもハリセンで一閃される。
「やっぱりそう思っていたのね!? まったく、戻って来て正解だったわ!」
「いや、大丈夫だって。俺、そういうの気にしないから――――ぐえ!?」
だからヤセ我慢せずに行ってきなよ、と言い終える前にハリセンが炸裂し、言葉を切った。
「アンタちょっとしつこいわよ! どれだけウンコの話を引っ張るのよ!」
漏らしたりしたりしたらそれこそ大惨事だと思い、厠に行くことを推奨しているだけなのだが……。
「わかったよ。まあ、そこまで言うのならこの話は終わりにしよう」
というか、ウンコをしに行ったと思われるのは嫌なのに、ウンコウンコと連呼するのはいいのだろうか? さっきから相当ウンコという単語を口にしていると思う。うぅ~む。難しいな、乙女心。
「………………ねぇ?」
「なに?」
「……アンタあんなにされて、怒らないの?」
「なにを?」
「なにを―――って!? ボクがあれだけアンタに酷いことをしたのになんとも思わないのかって聞いてるの!
……今だってこれで何度も叩いているし、どうしてアンタはそんなのほほんとしてるのよ……」
詠ちゃんはそう言うと、ハリセンを掲げて見せた。
「酷いこと、ねぇ……」
もしかして、彼女はこのことが気になって戻ってきたのだろうか? ―――そうかもしれないな。この子は一見暴力的に見えるかもしれないが、本当は心根の優しい女の子なのだ。だから先ほどのこと、やり過ぎたと後悔しているのかもしれない。だが、これは俺にも責任がある。彼女をからかうのが面白くて、ついつい度が過ぎてしまうのだ。だから、それが彼女が必要以上に俺に手を出す要因となっているだ。
「ぷぷっ」
それにしたって、ここに戻ってくる口実が“俺にウンコをしに行ったと思われるのが嫌”なんだものな。それ、何気にけっこう笑えるんですけど……。
「ちょっ、なに笑っているのよ?」
「別に。ただ、詠ちゃんは優しい女の子なんだなって再認識していただけだよ」
「はあっ!? ……い、意味分かんない! アンタ、やっぱり馬鹿なんじゃないの!?」
「酷いな。怒ってないって言っているのに馬鹿呼ばわりだなんて。……ああ、もしかして、怒っていた方が都合がいい?」
「べ、別に……。ただ、怒っているならちゃんと怒っているっていいなさいってこと! さっきのウンコの話じゃないけど、なんでも溜めこむのは体によくないわよ」
「じゃあ、怒ってる」
きっと怒らせたことに対してのお詫びと称して、なにかをしてくれるつもりなのだろう。ここは彼女の好きにさせてあげるべきかな。……でも、もっと綺麗な例え話はなかったのだろうか? さっきのウンコの例え話は最悪だ。なんとなくあの話で言いくるめられることに若干の抵抗があった。
「じゃあって何よ。じゃあって……」
肩をすくめて見せる。そう不満そうに言われても……これ以上どうしろと?
大体、そんな潤んだ瞳で俺を見上げる詠ちゃんのいじらしい姿を見せられて心に怒りの感情を抱いていろということ自体無理な相談なのさ。それに俺、フェミニストだし。基本的に女性に対して強く出れないんだよね。
「……ふん、まあそれはいいわ。……え、えっと。正直、いくらアンタが変態だからって、さっきはやり過ぎたかなってそう思っているの……ボクだって、その……多少の罪悪感を抱かなくもいのよ。だ、だから―――」
「だから?」
「……その、お詫びと言ってはなんだけど、一つだけ。一つだけならアンタのお願いを聞いてあげてもいいわ」
想定通り。さっきは鈍感だの朴念仁だのおたんこなすだのと散々言われたが、これが俺の真の実力である。
女性の機微を読むことなど容易い、とまでは言わないが、人並みに察することくらいは出来る。そうさ。俺はギャルゲに出てくる間抜けな鈍感男とは違うのだ。
「ふぅん。一つだけのお願いか……何でもいいの?」
「え、ええ。でもボクが実現可能なことにしなさいよ? 後、あまり無茶なお願いも禁止。……そ、それから、これは勘違いして欲しくないんだけど、別にアンタに気があるからこんなことするんじゃないんだからね? あんなに酷いことをして嫌われたらどうしようとか、全然考えてないんですからねっ!」
「ああ、大丈夫。勿論わかっているよ」
当然だろう。詠ちゃんは月一筋の男なんて全然興味ありません子ちゃんなのだ。そんな彼女に気を持たれているなんて愚考。三国一の勘違い男。この北郷一刀でもしないさ。彼女とは、友人にはなれたとは思うがそれ以上の関係への発展はないだろう。だから詠ちゃん、キミも安心してくれ。
「わ、わかっているならいいのよ……」
「?」
なんだか急に元気が無くなったな。なぜだろう。直前まで機嫌がよくなりつつあったというのに。
ああ、もしかしてまた波が押し寄せてきたのか? きっとそうだ。ウンコを我慢しているとき、ある一定の期間波が引いたように楽になるのだけど、その期間が過ぎると荒波が押し寄せてくるように便意が来る。きっと詠ちゃんも今そんな状況なのだろう。一進一退の攻防、というわけだな。
「……アンタ、今またウンコのこと考えていない?」
「まさか。俺の思考はいつも爽やかですけど? そんな排泄物のことなんて考てるわけがない」
危ない危ない。もう少しで気取られるところだった。……まったく、鋭すぎるぜ、詠ちゃん。
「……ふん、まあいいわ。それより、さっさとお願いを言いなさいよ」
「ああ、お願いね。はいはい、わかってますよ。……というか、別にお詫びとかいいんだけどなぁ……。まあ、それで詠ちゃんの気が晴れるって言うのなら協力するけどさ」
しかし、うぅ~む。お願いね。何が良いだろう? そんな急に言われても、別に人にやって貰いたいことなんて思い付かない。そりゃー、願望の一つや二つはあるが、基本的に自分自身で叶えるしかないものしか持っていないし……。
「むむむ……」
「なによ? 何も思いつかないっていうの? よく考えて。何か一つくらいあるでしょ? その、ボクにしか出来ないようなこととか」
「そうだな。じゃあ、脱げよ」
「は?」
「今夜はお前を寝かせな――――ぶはっ!? じょっ、冗談じゃないか!? ウイットに富んだジョークですよ!?」
だから、そのおもむろに持ち上げた凶器(椅子)を床に下ろして欲しい。というか、ハリセンで一度叩いたんだからもういいじゃないか。一つのボケに対して突っ込みは一度までにするべきだ。
「ばばば、馬鹿じゃないの!? お願いを聞いてやるとは言ったけど、なんでボクがアンタなんかに抱かれないといけないのよ!? まったく、どれだけ最低なお願いごとをするのよ!? もうほんと最悪! なんなのよこの朴念仁は……!」
こ、此処まで酷評を受けるとは……。しかも、全然ウケなかったし。ウイット過ぎて詠ちゃんには理解できなかったか? というか、まさか本気で抱かせろと言っているのだと思われているじゃないだろうな? ちょっと考えたら本気じゃないとわかると思うのだが……。
俺は女の子の友達にはセクハラはするが、本番行為を求めたりはしない。そんなことをしたらそのことはもう友達ではいられなくなってしまうからだ。一度肌を重ねてしまえば二人はもう男と女。男女関係を結んだ二人に友情は成立しないというのが俺の持論だ。
大体、ウンコを我慢している女を求めるわけがない。抱いている途中、もしかしたら暴発して、俺までウンコ塗れになる危険性があるじゃないか。そもそも一番の被害を受けるのはきっと俺だ。悪いがスカトロ趣味はない。
「最後のもう一度だけ聞いてあげる。よく考えて、倫理や道徳の観念に基づいたお願いごとを言ってみなさい」
「あ、ああ。わかった。……ちょっと待ってくれ、考えをまとめるから」
流石にこれ以上ふざけるのはアレなので、真面目に考えるとしよう。
そうだなぁ。何をお願いすればいいだろう―――あ、そうだ今、甘い物を食べたいかも! 政務に追われ、ずっと頭を使っていたから体が糖分を求めている。だから、お菓子作りをお願いして見ればいいんじゃないかな? これならば、きっと詠ちゃんも文句を言わないだろう。
「なにか甘いものを作って欲しいな。愛情がたっぷり籠った詠ちゃんお手製の甘味を所望します!」
「え、そんなのでいいの? 愛情云々は置いておくとして、そんな簡単なものでいいの?」
「いや、置いとかないでくれ!? そこ、一番重要だから!?」
しかし、俺の言い分は華麗にスルーされ、話は続いていく。
「……うん。でも抱かせろなんてお願いごとをされるよりはいいか。これならボクにも叶えてあげることができるし。
―――それで、ボクにどういう甘味を作って欲しいのよ?」
「そうだなぁ―――」
季節は冬の真っ盛り。吐く息は白く染まり、冷たい空気がこの身を震わせる。そんな時期に女の子から贈られるに相応しき一品とはなんだろう?
冬の寒さを和らげてくれる温かい甘味……タイ焼きやお汁粉か? それに、たこ焼きなんかも加えてもいいかもしれない。
―――思い付くのは以前に居た世界で食べたものばかり。もう未練は断ち切ったと思っていたんだけどね。意外にセンチな北郷さんはこうして時折、遠き故郷を思い出す。
ああ、思い出したらまた食べたくなってきた。
……そうだ。どうせだから、詠ちゃんに元居た世界の食べ物をリクエストしてみようかな。完全に再現するのは難しいかもしれないが、ある程度の複製はこの世界で手に入る食材でも可能な筈だ。そうして懐かしい味に舌鼓を打ちつつ。もう手の届かない生まれ故郷に思いを馳せるのもいいかもしれない。
でもタイ焼きやお汁粉か……。悪くはないが、如何せん色気が足りない。折角の女の子からプレゼントを贈られるというドキドキイベントなのだから、もっとこう色っぽい何かがいいな。いや、別にタイ焼きやお汁粉を否定するわけではないのだが……。美味しいよね、タイ焼きもお汁粉も。
「……あ、そうだ」
そうだ、丁度いいのがあるじゃないか。
過去の俺はお菓子メーカーの陰謀と敬遠していたが、今これほどピッタリなものはない。それに、男の子が女の子から贈られてこれほど嬉しいモノはないんじゃないかな?
そして、俺の妄想は爆発していく―――
放課後。少女は悴む指に白い息を吹きかけながらも茜色に染まった校門で意中の相手をいまかいまかと待ち侘びる。ドキドキと高鳴る胸を押さえながら―――
『あっ』
少年の顔を雑踏とする校門の中で見つけ、少女は思わず声を上げた。少女の心の中で、幾つもの想いが交差していく―――。
気になるアイツの横顔を眺め続けた日々、アイツの何気ない言葉に一喜一憂してしまった過去の自分。そして、溢れる想いを押さえきれず、一歩踏み出そうと決心したあの日のことを……。
もう見ているだけなんてイヤ。傍に居るだけじゃ満足できない。裡に秘め、育ててきたこの大切な想い、今日こそアイツに伝えるんだ。
そう決心し、この場に立ったというのに――――少女の身体は強張り、思うように動いてはくれない。少年の元へと駆け寄る為の一歩が、どうしても踏み出せないでいるのだ。
ど、どうしよう、と少女が逡巡していると、
『え?』
少年が少女の存在に気付き、少女の元へと駆け寄ってくるではないか。
『……よ、よう。まだ残ってたんだ?』
『……う、うん』
ぎこちなく挨拶を交わす二人を人ごみは通り過ぎていく。彼ら群衆は、もう少女の目には映らない。少女の濡れた瞳は真っ直ぐに少年の顔を見つめていた。
『きょ、今日は……なんかみんなすごく浮足立ってたよね……』
『そ、そうだな。まあ、仕様がないだろ。年に一度のビックイベントなんだからさ……』
『そ、そうだよね』
『お、おう……』
『………○○くんは、もう誰かに貰ったりしたの?』
『べ、別に貰ってねぇけど?』
『……そ、そうなんだ。へ、へぇー。○○くん、モテると思うんだけどな。……やっぱり本命だと渡しづらいのかな……?』
『べ、別にモテねぇよ! ……というかさ。そういうお前こそどうなんだよ?』
『わたし?』
『あ、ああ。もう誰かに渡したりしたのかよ?』
『うん、あげたよ』
『―――っ!?』
『義理だけど』
『――って、義理かよ……。なんだよ、驚かすなっての……』
『女の子の友達と交換したり、お兄ちゃんにあげたり……。でも、どうして○○くんがそんなに驚くのかな? わたしが誰かにあげたりしていたらおかしい?』
『いや、別におかしくはねぇよ! ……ただ、おかしいっていうかさ……。なんつーかその、ほっとしたっていうか……』
『え?』
『と、とにかく! 俺、お前が俺以外の誰かに渡すのは嫌だったんだよ! ……その、嫉妬しちゃうじゃん!
いやまあ、お前がどうしよがお前の勝手なんだけどさ! ……だけど。なんか、嫌だったんだよ……』
そう言うと、少年はプイッと顔を背けてしまう。
『……そ、そうなんだ』
夕日に照らされた少年の横顔は、なんだか照れくさそうだな、とそんな感慨を抱かせる。
『う、うん……』
『『…………………』』
言葉は途切れ、二人は黙りこんでしまう。両者は俯き、沈黙がこの場を支配する。しかし、それはとても心地の良いものだった。
今ならできる。――そう感じた少女は勇気を振り絞り、これまでどうしても踏み出せなかった一歩をようやく踏み出したのだった。
『あ、あの!』
『う、うん?』
『ここにチョコがあります! 昨日、頑張って作った手作りです!』
『そ、そっか』
『本命です』
『へ、へぇー』
気のない返事をしながらも、少年の視線は少女が大事そうに抱える小さな紙箱に向かっていた。
そして、
『これ、受け取って貰えますか? わたし、○○くんのことが―――』
少女の言葉を噛み締めるように、少年はじっとその場に立ち尽くす。だが、すぐにその表情は笑顔となり、
『ああ、勿論。ありがとう、うれしいよ。俺もお前のことが―――』
こう、少女の言葉に紡いだのだった……。
……………………………。
……………。
―――以上、妄想終了。
いやぁ~。なんていうかもう、
「最高です!」
「きゃっ! な、なによいきなり……」
「甘酸っぺぇ~! なんだよこの甘酸っい青春模様! なんか、人生エンジョイしてる感じだよねぇ~!」
そう。これこそ、年に一度、丁度この季節に行われる冬の一大イベント。
その名も、
「バレンタインデー!!!」
「は? ばれんたいんでー?」
「詠ちゃん、俺はキミにバレンタインチョコを所望するよ!」
「ば、ばれんたいんちょこ?」
「うん。……あ、そうだ。ついでに俺にチョコを渡すときには『今日はバレンタインだけど、どうせアンタのことだから一個も貰えなかったんでしょ? しょっ、しょうがないわね! そんな可哀そうなアンタの為にボクが一肌脱いであげるわ! ほ、ほら! これ、受け取りなさいよ? ……か、勘違いしないでよ! 言っとくけど、義理よ義理! 別にアンタの為に用意したわけじゃないんだからね!? その……、たまたま友達と一緒に作ろうって話になって、ボクはそれに付き合っただけなんだから! 別に渡す相手もいないし、捨てるのも勿体ないからアンタにあげるわ!』 ―――って言ってくれ」
完璧だ! 完璧なツンデレさんだ! そして、このセリフは詠ちゃんに似合い過ぎる!
「……ごめん、もう一度言ってくれる? 長過ぎて何を言ってるのか理解できなかったわ」
なんだと? いつもは聞き逃しなどしない頭のいい詠ちゃんが……。やっぱり今日はらしくないな。
「じゃあ、もう一度言うぞ。
『今日はバレンタインだけど、どうせアンタのことだから一個も貰えなかったんでしょ? しょっ、しょうがないわね! そんな可哀そうなアンタの為にボクが一肌脱いであげるわ! ほ、ほら! これ、受け取りなさいよ? ……か、勘違いしないでよ! 言っとくけど、義理よ義理! 別にアンタの為に用意したわけじゃないんだからね!? その……、たまたま友達と一緒に作ろうって話になって、ボクはそれに付き合っただけなんだから! 別に渡す相手もいないし、捨てるのも勿体ないからアンタにあげるわ!』
―――って言いながら俺にチョコを渡して欲しいんだ。因みに、友達以上恋人未満の幼馴染みたいな感じで頼む。なんかこう、変な意地張っちゃって素直になれない雰囲気を醸し出してさ。詠ちゃんなら簡単だろ? なにせ素でやればいいんだから」
「突っ込みどころが多すぎてどうしてやろうかと思うのだけど、ボクが言いたいのはこの一言だけだわ。
―――アンタ、キモい!」
「ええっ!? まさかのダメ出し!? そんなぁ!? ノリノリだったじゃないですか、お菓子作り!?」
「そうだけど。でも、さっきのアンタがあまりにもキモ過ぎて言わずにはいられなかったのよ。
大体、ばれんたいんちょこ、だっけ? そんなの聞いたことないけど、もしかして天の世界のものなんじゃないでしょうね?」
「ああ」
「ああって……。簡単に頷いてくれるわね……。
それで、一応聞くけど。ばれんたいんちょことやらの材料はなんなのよ?」
「ん? ……えっと、カカオ、かな」
あとは、砂糖やココアバター。それに粉乳だったっけ?
「それはどこで手に入るの?」
「ガ、ガーナ?」
俺が知っているカカオの原産地はガーナだ。
太古のマヤ人も食したと言われるカカオ。西欧に持ち帰ったのはかの有名なクリストファー・コロンブスであり、1500年以降、スペインやフランスでもカカオの栽培は開始される。
その後、黄金海岸と呼ばれる現在のガーナ周辺に栽培面積を拡大することで19世紀には沢山のチョコレートが生産されるようになったんだったよな……。
「そもそもどうやって作るのよ?」
「……さあ?」
そんなのは知らん。女の子が手作りと謳うバレンタインチョコだって、基本的に既製のチョコ板を湯銭で溶かして型に流し込むだけだろう? そんな、原料からの製造方法なんて俺が知るわけねぇじゃん。
「さ、さあって……。アンタねぇ、そんなんでどうやって作れっていうのよ?」
「気合い。もしくは俺への愛。
ほら、よく言うだろ? 『これが愛のなせるわざなのか!?』って。人間、なんだって為せば成ると思うんだ」
「なるわけねぇだろ!? アンタが作り方を知らないっていう天の世界の食べ物を、ボクがどうやって作るのよ!? ―――あんたばかぁ??」
「で、ですよねぇー。無理ですよねぇー」
詠ちゃんのドッキドキ、ラブラブバレンタイン大作戦。
―――開始前に、早くも頓挫しました。
その後、詠ちゃんへのお願いは鳥の肝臓をつかった手料理を振舞って貰うことに決まる。肝臓に多く含まれている鉄分や葉酸には造血を助ける作用があり、彼女の激しい突っ込みによって失われた血液は十二分に補われることになる。そのお陰で、今の僕の体調は頗るよくなりました。
「もぐもぐもぐ。うむ。やっぱり詠ちゃんの料理は美味しいね」
「――う゛!?
か、勘違いしてるようだから一応言っとくけど、ボクはアンタのことなんてなんとも思ってないんだからねぇえええーーー!!!」
終わり
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2月14日はもう過ぎてしまいましたが、バレンタインにまつわる話を投稿します。
基本的にキャラ崩壊しているので悪しからず。