(江東の花嫁 転)
新国家『晋』が興ってから二年。
その間、完全に平穏が保たれたわけではないが、大きな騒乱に発展するような出来事は何もなかった。
北郷一刀を中心とした国造りもようやく安定し始めたかにみえた。
十五になった史上最年少の宰相である司馬懿こと天音も美しく成長をし、周囲からその美貌を羨む声が上がっていた。
当の本人は宰相としての役割を黙々と果たしつつ、北郷王朝第二代皇帝となる孫和の世話も蓮華と共にしていた。
「なんだか、あの子って孫和のところにいる時だけ嬉しそうにしているわね」
禁軍を統括する左将軍である氷蓮は同じ禁軍を統括する右将軍である華琳の娘の一人である曹彰こと華楠(かなん)と鍛錬をしている時にもらした。
「いいじゃないの。仇の息子とあそこまで親密になるってことは別に悪いことないと思うけど?」
鍛錬用の剣で打ち合いながら華楠が言うと氷蓮もそんなものかと思った。
事実、他の者にたいしては未だに無愛想な天音だが、孫和と蓮華の前だけではかなり感情を表すようになっていた。
「それに一刀様だって気にしていないみたいだし」
「パパはどちらかといえば気に入るいらない以前の問題よ」
おそらく状況が許せるのであれば自分の娘として育てようとしていたのではないか。
命を狙われているとわかっていても自分の知っている父親ならば受け入れようとしたに違いなかった。
「ねぇ氷蓮」
「なによ」
「あんたの父上様は本当に変わっているわね」
「それは褒めているの?」
「どちらかといえば褒めている方だよ。うちなんか年がら年中どこにいるのかわかりもしないさ」
華楠達の父親は自分達の所に留まることなど一年を通して数日あればいいほうだった。
そのためか、幼い頃からそれに慣れてしまっている華楠達は父親の顔を思い出すのに一苦労をしていた。
「それに」
「それに?」
「いつも傍にいてくれるのが羨ましいよ」
若くして高位についても父親からの愛情が欲しいと願う華楠の気持ちは氷蓮も痛いほど判っていた。
「私も孫和様のお妃目指そうかな」
「孫和は暴力的な女は好みじゃないわよ」
「なんですって!」
不適な笑みを浮かべる氷蓮に対して華楠は怒りを爆発させて剣を振り回していく。
「冗談よ。そんなに怒ること?」
「あんたはいつも一言余計なのよ」
「はいはい、それは悪かったわね」
軽く挑発しながら華楠の攻撃を受け流していく氷蓮。
そこへ彩琳が血相を変えて走ってきた。
「あ、姉上!華楠さん!」
二人は打ち合いをやめて立ち止まって激しく肩を揺らす彩琳の方を見た。
「どうしたの、彩琳さん」
「そうよ。せっかく面白くなってきたのに」
「あんたね」
氷蓮に食ってかかろうとした華楠だったが、それよりも彩琳の様子がおかしかったため、ぐっと我慢をして冷静さを取り戻した。
「それでどうしたの?」
息が落ち着くまで二人が待って彩琳に何事かを聞いた。
顔を上げた彩琳は今にでも泣き出しそうなだったため、重大なことが起こったと二人は感じ取った。
「父上が…………」
「パパがどうしたの?」
「父上が…………お倒れになったのです」
「「なんですって!」」
思わず手に持っていた剣を落とし、氷蓮は彩琳の肩を強く掴んだ。
「どういうことよ!」
「急に眩暈を感じられて、そのまま政務中にお倒れになったのです」
「それで今は?」
「すぐに蓮華様達が寝台へ運んだそうです」
ぐったりとしている父親の姿に激しく動揺した彩琳は気がおかしくなりかけたが、蓮華に励まされ氷蓮を呼んでくるようにと言われここにやってきたのだった。
「わかったわ。すぐに行くから。華楠、あんたは医者を呼んできて」
「わ、わかった」
慌しく鍛錬場を出て行く華楠を見送ると、今にでも崩れ落ちそうな妹に活を入れて励ましていく。
「しっかりしなさい。きっとただの疲れよ」
「しかし…………」
「ほら、そう悪い方ばかり考える余裕があるならば出来ることをするのよ」
「姉上…………」
冷静に自分を励ましてくれる姉の言葉に彩琳は頷くことしかできなかった。
「大丈夫よ。パパは今まで何度も死にかけたって聞いたけど、その度に生き抜いていたんだから」
「そ、そうですね」
自分の情けない姿を見せればそれだけで一刀に余計な心配をかけさせてしまうと思い、いつまでもそんな姿を見せているわけにはいかなかった。
「それでママはそばにいるの?」
「はい。雪蓮様はずっとお傍にいます」
「そう。なら私達が慌てる必要はないわ」
氷蓮にとって母親である雪蓮は超えられない壁であると同時に、絶対的な信頼をもっていた。
彼女がいる限り、一刀はどんな困難でも乗り越える事が出来ると信じていた。
「とにかく、私達もパパが元気になるように落ち着いて行動するのよ」
「は、はい」
だが彩琳は一つ勘違いしていた。
氷蓮は彼女が思っているほど冷静でいたわけではなかった。
いますぐにでも駆けつけたいという想いを必死になって押さえつけていた。
そうしなければ彩琳だけではなく他の妹達が知った時に騒ぎを収める者がいなくなってしまうからだった。
「とりあえず尚華達には私から話すから安心しなさい」
「わかりました。それと姉上」
「なに?」
「取り乱して申し訳ございませんでした」
氷蓮がいてくれる喜びを改めてかみしめる彩琳。
それに対して姉として氷蓮は妹の頭を何度も撫でていく。
「あんた達のお姉ちゃんを甘く見ないでよ♪」
本当は彩琳以上に動揺してと言いたかったが、彩琳が安心した笑顔を見せたためそれを呑み込んだ。
「まったく大袈裟なんだから」
そう寝台の上で愚痴る一刀。
眩暈を起こして倒れたがしばらくしてすぐに体調は回復したため起き上がろうとしたが、雪蓮と蓮華に強烈に反対された。
「何を言っているの。倒れたのよ」
「そりゃあそうだけど、少し休んだらよくなったよ」
「それでもダメよ。一刀ったらこのところあまり休んでないでしょう?」
毎日多忙な一刀は呉の大都督時代に採用した七日に一度の休みをこの国でも採用していたが、その休みの日以外は朝から夜遅くまでほとんど働き詰めだった。
税収制度の見直しや国立の学校を設立して子供であれば誰も教育を受けられるように体制を整えたりとやる事はいくらでもあった。
「でも、今日中にまとめないといけないやつだってあるんだぞ」
「そんなのは私達でどうにかするわよ。お願いだから休んで欲しいの」
必死に訴える蓮華に一刀は言い返すことが出来なくなり、大人しく寝台の中に戻った。
「強情だな」
「当たり前よ。誰を心配していると思っているの?」
皇帝としての責務を必要以上に感じて背負っている一刀の姿は蓮華達からすればどこか不安を覚えさせていた。
「私達もいるのだから一人で頑張らないで」
「蓮華……」
「とにかく今は休んでいる事。もし抜け出したりしたら司馬懿に言いつけるから」
それだけを言い残してあとは雪蓮と月達に任せて蓮華は部屋を出て行ってしまった。
「まったく、私達に余計な心配をかけないで欲しいわね」
「悪かったって。でも、二年になるけど未だに救えない人達もいる。だから頑張らないとって思ったんだ」
彼の優しさを十二分に知っている雪蓮達だが、それで自分をないがしろにしていいわけがなかった。
「一刀、この国の全員を救うことなんて出来ないとは言わないわ。でも、どうしても救えない者だっているのよ。どんなに頑張ってもね」
「それじゃあ皇帝になった意味がないじゃないか」
天音のような者を増やしてはならない。
常にそれを考えている一刀にとって自分の苦労など考慮するほどではないと思っていた。
「でも倒れてしまえば何もできないわよ」
「そうだけど……」
「私達の言葉を理解できるならしばらく休みなさい」
「お義兄さま、私からもお願いします」
月は一刀が倒れたと聞いたとき、取り乱すことはしなかった。
一緒に昼餉を作っていた詠達は何度も知らせにきた者に問い詰めていた。
気丈にも月は詠達を宥めると、すぐに一刀の元に向かって休めるように準備をしていた。
「お義兄さまに何かあれば私は嫌です」
「月……」
「私も蓮華さんと同じ気持ちです。もしお休みにならなければ叱りますから」
一刀が元気になるのであれば月はなんでもするつもりでいた。
未だに一刀に対する恩を返しきれていないと思っている月。
命を永らえさせただけではなく、自分のことを愛してくれて大切な愛娘をも授かった喜びが月の中には深く刻み込まれていた。
「月にそこまで言われたら従うしかないな」
手を伸ばして月の髪に触れる一刀は苦笑した。
彼からすれば月達に恩を返せやそれ以前に恩を与えたとは思っていなかった。
乱世が終わっていなかった頃、北郷の姓を与え義理の妹にしたこともただ彼女と詠を守りたかっただった。
そして今もこうして自分を心配してくれる月がいてくれるのが嬉しかった。
「まったく月に余計な心配をかけないでよ」
それまで黙っていた詠が複雑な表情で一刀に文句をぶつけていく。
彼女は月以上に動揺をしていたが、一刀の前ではいつものツンな部分を出していた。
「詠にも心配かけて悪かったな」
「ボクは心配なんかしてないわよ」
「でも詠ちゃん、凄く泣きそうだったよ?」
「ゆ、ゆえ、それは言わないでよ」
月の言葉にさらに複雑な表情になっていく詠に、一刀と雪蓮は思わず笑ってしまった。
「な、なんで笑うのよ。このバカ!」
顔を紅くして怒る詠だが、一刀が笑っている姿に一安心をしていた。
「でもこうして北郷の姓を持つ者だけがここにいるのも珍しいわね」
「そうだな」
一刀、雪蓮、月、詠。
元から名乗っていた一刀とそんな彼と共に生きていこうと決め、自ら孫策を捨てた雪蓮。
戦の生贄から救うために天の御遣いの義理の妹として生きることになった月と詠。
一刀を除けばそれぞれに理由があり、それを受け入れて生きている。
「まぁ義理とはいえ手を出した一刀の種馬ぶりには未だに感心するわね」
「そ、それを言われると……」
成り行きで月と詠を抱いた時、後悔などはどこにもなかった。
「まったくよ。ボクだけならまだしも月まであんたの毒牙が伸びたと思うと、今更ながら呆れて物が言えないわね」
「その割には月より多く俺と閨を共にしていたじゃないか」
「あ、あんたが強引に引き込んだんでしょう!」
月なしで何度か一刀と閨を共にしたことを思い出した詠はムキになって自分から誘ったなどないと否定をする。
「まぁ元気になったら今回のお詫びでたくさんお礼をしてあげるよ」
「し、しなくていいわよ」
一刀と詠のやりとりを見ていた雪蓮と月は笑いをかみ締めていた。
それと同時にこんな何でもないことで賑やかになるのも一刀がいてくれるからだと二人は思っていた。
「お義姉さま」
「な~に」
「私達はお義兄さまがいてくれなければダメですね」
「どうしてそう思うの?」
「私はずっとお義兄さまに守られてきました。そしてそれに縋っている自分がいるのです」
月からすればそれが一刀に余計な重荷になっているのではないかと思っていた。
だがそう思いながらも離れなれないでいる自分がいて戸惑いを覚えたこともあった。
「一刀はそんなことを思ってなんかないわよ。考えているとしたら可愛いお嫁さんがいつもいてくれて嬉しいってことぐらいよ」
「へぅ……」
年を重ねても未だに幼さが残っている月は両手を頬に当てて顔を紅くした。
月の言うように自分達には一刀がいて当たり前だった。
「それで月はどうしたいの?」
「お義兄さまのためなら何でもします」
ささやかながもそれが自分が受けた恩を返す唯一つの方法だった。
それに北郷の姓をもっていること何の遠慮もなく一刀の傍にいられる。
特権意識など月にはなかったが、それでも自分達を今になっても守ってくれていると思うと嬉しくなる。
「それじゃあ私がいない時は月と詠に任せてもいいかしら?」
「はい。しっかりとお義兄さまを見ています」
義姉妹としてまた愛する夫の妻同士としての二人の関係は今もなお良好だった。
その様子を口論していた一刀と詠もいつの間にかやめて見守っては微笑んでいた。
「まぁ仕方ないわね。月がああ言っているからボクもあんたをしっかり監視してあげるわ」
「厠もか?」
「殴ってもいい?」
「一応病人だぞ」
「眩暈起こしてすぐに元気そうにしているあんたを病人扱いできると思う?」
拳を握ってみせる詠に一刀は両手を合わせてあっさりと降伏した。
「でも、大丈夫かな」
「何がよ?」
「だっていろいろとやることがあるんだぞ。休んでいいのか正直困っているんだ」
「安心しなさい。あんたより優秀な人なんていくらでもいるわよ」
特に華琳の実務能力は一刀のそれを遥かに超えており、朝廷にとって一刀がしばらく休養していても問題はなかった。
「華琳でもわからないことだってあるだろう?」
「じゃあその言葉を本人の前で同じように言ってみたら」
冷笑されるならまだしも、絶で頸を飛ばされかねないと思った一刀は政務に復帰することを諦めた。
「安心しなさい。誰もあんたを除け者にしてしようなんて思っていないわよ。だから信じなさい」
「そうだな」
自分一人の力などたかがしていることを痛感させられる一刀。
今は一人ではなく多くの者達が彼と共に未来に向かって歩んでいる。
一人が困れば全員で助け合う。
それが詠達からすれば当たり前であり一刀のように考えすぎるようなものではなかった。
「そ、それにボクも一緒にいてあげるから安心しなさい」
「詠?」
「し、仕方ないでしょう。あんたを監視していないとまた無茶をするじゃない」
妙に顔を紅くしている詠だが、彼が今よりも酷い状況になってしまったとき自分を励ますことなの不可能だった。
今回ですら月がいなければ自分は動揺するだけで何もできなかった。
(ボクってこんなにもこいつがいないとダメなんだ)
声に出してそんなことを言えば恥ずかしくて悶絶してしまうことでも、心の中では素直に思える詠。
月の幸せだけではなく自分にも幸せを与えてくれた一刀が大好きだった。
「まったく、ボクはダメね」
「詠?」
「なんでもないわよ」
一刀に見えないように口元を手で押さえて笑みをこぼしていく。
「それじゃあお茶をお持ちしますからしばらく待っていてください」
「逃げたらわかっているわよね?」
月と詠がそう言って部屋を出て行くと残されたのは一刀と雪蓮だった。
二人とも一言も発することなく、雪蓮は一刀に背を向けるように寝台に座った。
そして一刀の手の上にそっと自分の手を重ねていく。
「心配させないで」
小さな声でそうつぶやく雪蓮。
「ごめん」
彼女の手を握り返していく一刀は自分のせいで心配をかけたことを謝った。
手と手からお互いの温もりを感じあう二人はその後もただ静かに時が流れるのを気にすることなくそのままでいようとした。
そこへ勢いよく入り口の扉が開いてそこには今にでも泣きそうな表情を浮かべている恋と走ってきたのか肩を揺らしている風、それと霞が立っていた。
「ご主人さま」
寝台に駆け寄っていく恋のために雪蓮は場所を譲った。
恋は感謝をする余裕もないままに一刀の前に膝をついて彼の手を握った。
「ご主人さま……死んだらダメ」
「おいおい、俺はそう簡単には死なないぞ。それに少し疲れていただけだからもう少し休んでいれば良くなるよ」
「本当?」
「ああ。俺が嘘をついたことあるか?」
「(フルフル)」
恋の頭に手を伸ばして優しく何度も撫でる一刀の笑顔を見ても、恋は不安が消えることはなかった。
「大丈夫ですよ、恋ちゃん」
「せや。一刀がウチらを遺してどこにいくちゅうねん」
風と霞も寝台の傍にやってくると恋を安心させようとした。
二人の言葉を聞いて恋は一刀を見上げる。
「二人の言うとおりだ。俺はどこにもいかないよ」
彼女の大好きな笑顔と手から伝わってくる温もりを感じることで頷くと、寝台の上に登って一刀に甘えるようにしがみついてきた。
その姿は一児の母親になっても変わらず、誰もが微笑ましく見守っていた。
「せやけど、きぃつけなあかんで」
「そうだな。二人にも迷惑をかけてすまない」
「お兄さんは少し頑張りすぎです。風としては心配で心配で眠れませんよ」
そう言いつつ瞼を閉じていく。
「言ってる傍から寝るな」
「おお、お兄さんの言葉を聞いているとつい眠ってしまいそうになりましたよ」
「俺は催眠師かよ」
風は薄っすらと笑みを浮かべると寝台の上に腰掛けていく。
「それにしても一刀が眩暈で倒れるなんてな……」
「あのな、一応言っておくけど、俺は普通の人だぞ」
「夜はケダモノやろう?」
「…………誰がだよ?」
「一刀♪」
面白そうに言う霞の表情を見ているときっと彼の妻達の誰かが酒の肴として話しているのだろうと推測を立てたが、誰かまでは検討をつけるつもりはなかった。
「ウチは一刀なら問題ないで」
「もしかして霞、結婚をしないのは一刀のこと……」
「ウチがそんな簡単に諦めらると思う?」
「ないわね」
雪蓮も霞の性格を知っているため、一刀から親友と言われてもその内側では一人の女として見て欲しいと思っているのだろうと思った。
「だから末席でええからウチをもろうてや♪」
「あのな……」
屈託のない笑顔を見せる霞。
一刀も彼女のことは好きだったし、もし月達を保護した時一緒にいれば間違いなく娶っていた。
だが、彼女は華琳の元にいき、離れていた長い時間の中で一刀の好きは変化をしてしまった。
「なぁ雪蓮」
「なに?」
「今度、酒に眠り薬でも入れて呑ませてのええか?」
「死なない程度ならいいわよ」
雪蓮と霞の物騒この上ない会話を聞いて一刀はため息を漏らしてしまった。
「ご主人さま?」
「なんでもないよ。恋がいてくれるから俺も安心だ」
「?」
一刀は純粋無垢なのは恋だけだろうと思った。
それに対して恋も自分がいることで一刀が安心できるということが嬉しく、ふわっとした優しい微笑みを浮かべた。
「おやおや、風もいるのに恋ちゃんばかりですか」
やや拗ねたように愚痴る風に一刀は手招きをすると、寝台に登って恋と反対側に座ってまるで子猫のようにじゃれていく。
「やはりお兄さんと触れると風としてはこの上なく幸せを感じますよ」
「恋も同じ」
もし尻尾があれば嬉しそうに振っているだろうと雪蓮と霞は思った。
「なんかこうして見ていると、ホンマ、一刀は女たらしで種馬やな」
「そりゃあそうよ。一刀から女たらしと種馬を取り除いたらつまんないわよ」
「俺ってそんなにつまらないのか……」
軽く落ち込む一刀を見て雪蓮は笑みを浮かべる。
「でも、そんな一刀だから大好きよ♪」
「喜んでいいのかそれ?」
「もちろん?」
「なんで疑問系なんだよ」
彼らにとってそれだけでも十分に笑いが生まれていた。
一刀にしても雪蓮にしてもそれが日常の中の一コマだった。
「ええなぁ。ウチも仲間にしてほしいわ」
親友だけでは物足りない霞は不満をぶつけるがその表情は笑顔だった。
「霞だって俺にとっては大切だぞ」
「せやからウチが望んでるのはそういうことやないんや」
「じゃあなんだよ?」
さっきから答えを言っているのにも関わらず、まったくわかっていない一刀に霞は半分呆れていた。
「なぁ雪蓮」
「そういう男なのよ、一刀って」
「せやな。なんかウチ、可哀想やな」
「だからなんだよ?」
ここまで言ってわからないままでいる天の御遣い。
「一回だけ言うたるわ。風、恋、ちとええか?」
「仕方ないですね」
「ご主人さまだから」
風と恋も仕方ないといった感じで一刀から名残惜しそうに離れて霞に場所を空けた。
「一刀、少しの間だけでええから目、閉じてくれるか?」
「何か変なことをするんじゃないだろうな?」
「いっぺん、しばこうか?」
「冗談です。言うとおりにします」
慌てて瞼を閉じて何をされるのだろうかとほんの少し不安に思いながら待つ。
「ええか、絶対開けたらあかんで」
「はいはい」
霞は雪蓮の方を見て申し訳なさそうな表情を浮かべると、雪蓮は納得をしているといわんばかりに頷いた。
そして霞は珍しく緊張をしながら一刀の唇に自分の唇を重ねた。
ほんの一瞬ではなくほんの少しの間、唇同士が触れ合いやがてゆっくりと離れていった。
「霞?」
「どや、ウチが言いたいことはわかったか?」
新婚旅行のときに断られても諦めることのできなかった霞。
三国という枠がなくなり一つの国になった今だからこそ、もう一度、霞は自分の中に積もっている一刀への想いを唇を通して伝えた。
「二十年近い想いをそろそろ受け取ってほしいんや」
彼の子が欲しくないとは言わない。
だが、今の親友という関係よりも夫婦という関係になりたかった。
少しでも一刀の傍にいたい。
神速と謳われる以上に愛する者の温もりが欲しかった。
「もしダメならウチは泣くで」
「どうしてもなのか?」
「うちの最後の夢なんや。一刀に貰われるのが」
雪蓮達がいる中で堂々と答える霞。
自分の想いを真っ直ぐにぶつけるからこそ告白というものは意味があることを雪蓮達も知っていた。
これ以上の側室をもたないと決めたことは霞も知っていた。
「ウチは法を犯してでも一刀が大好きや。ウチがこんなことしたら真似する奴も出てくるかもしれへん。その時はウチの頸を刎ねて止めさせてくれたらええ」
それだけの覚悟はすでにしてある。
霞は死をかけてでも一刀といたいと願っている。
「雪蓮」
「な~に?」
真剣な表情で雪蓮の方を見る一刀。
「俺ってやっぱりダメな皇帝かな?」
「私が言えることはもしここで霞を否定しても私はあなたを見下したりはしないわ。霞だってそうでしょう?」
「できればそれは避けてほしいんやけどな」
霞が笑って見せると一刀は彼女の腕を掴んで自分のほうへ引き込んだ。
そして包み込むようにして彼女を抱きしめた。
「とりあえず今はこれで我慢してくれないか?」
「どういう意味や?」
「俺はきっと最低な男だと思う。自分で決めたことを破りたいって思っている。でも、破れは霞を死なせてしまうかもしれない」
「ウチはあんたに殺されるなら本望やで?」
洛陽で自分の想いを打ち明けて口付けまでした霞。
それ以前からも一刀のことを気にしていた彼女の女としての望み。
それが得られるのであれば死すら彼女にとって幸福なものに変わっていく。
「華琳や桃香を納得させる言い訳を考えるから待っててくれないか?」
「ええで。ウチは今まで待ったんや。何年かかろうとも待ったるわ」
自分で決めたことを破ることは華琳達からすれば信頼を落とすようなものだった。
それでも彼女の長年にわたって募らせた想いを考えると断れなくなっていた。
「仕方ないわね。私がとりあえず助け舟を出してあげるわ」
「雪蓮?」
「そこまで一刀を想って一人身を貫いたのよ。男としては受け入れないとダメよ」
「いいのか?雪蓮達はそれで」
風や恋の方を見ると雪蓮の意見に賛同するように頷いていた。
「ただし、それ相応の覚悟をしておきなさいね」
たたで済むはずはないと雪蓮は半ば脅しているように言ったが、一刀はその覚悟が怖くて霞を手放そうとは思わなかった。
翌日になって見舞いにやってきた華琳と桃香、それに天音は特に一刀が霞を娶る事についてこれといって苦言を言わなかった。
「霞ならそうするとは思っていたわ」
華琳も霞の一刀に対する想いに気づいていたが国が分かれていた時に風ばかりか霞までも手放すほど余裕などなかった。
だが今であれば霞は自分の家臣であっても全体的に見れば一刀の家臣であるため反対も賛成もしなかった。
「まぁ一つ言えば一刀が決めたことをどうするかってことよ」
明言しただけで正式な法として定めていないため、最終判断は一刀に任せることにした。
桃香も霞がそうなら自分のところからも誰か側室にと考えたが、そうなってしまえば収拾がつかなくなることがわかっていたため黙っていた。
「司馬懿の意見はどうかしら?」
宰相としての意見を求めると、天音は黙って一刀の顔を見た。
彼女にとってどうでもいいことだったが、仮にも自分が仲良くしている孫和の父親であるため仕方なく意見を言うことにした。
「別にしたいならしてもいいと思う」
天音は素っ気無く答えると持っていた書簡に視線を戻った。
「ということよ。これであなたは誰に気兼ねすることなく霞を娶れるわね」
私を娶らなかったのにいい度胸ねと鋭い視線を向けながらもその表情は柔らかった。
「ただし今後は一切の例外を認めないわよ。霞だからこそ私は認めるだけであって他の者であれば反対をするわ」
「ああ。許してくれてありがとう」
自分の我侭で華琳達に不愉快な思いをさせているのではないかと一刀は思った。
だが、彼が思っている以上に華琳は実のところ不愉快ではあった。
だから多少のいたずら心が生まれていた。
「私も放浪癖のある主人を捨てて新しい男でも探そうかしら」
「華琳が浮気だなんて想像できないな」
「あら、私だって女よ。娘をたくさん産んでも女としてこんなに放置されると持て余すのよね」
一晩ぐらい付き合えと言わんばかりに寝台の方に近づいていく華琳。
それに気づいた桃香もそれに続くべきかどうかで悩んでいた。
「どう、一刀」
「な、何が?」
「私を欲しいとは思わない?」
「今はないよ」
即答する一刀に華琳は一瞬、ムッとしたがそれを声に出さずに行動に出した。
何も言わずに寝台にあがり、一刀に問答無用の口付けをした。
「か、華琳さん……?」
「これぐらいの罰ぐらい受けなさい。私から霞を奪っていくのだから」
わずかばかりに頬を紅くしている華琳。
彼女はそれだけを済ませると政務に戻ると言って桃香と天音を連れて部屋を出て行った。
一人残された一刀は自分のやっていることに後悔しないように、また華琳達に対する感謝を忘れることなくこれからしっかりしていこうと思った。
「そういえば小腹が空いたな」
粥や薬湯しか口にしていないせいか、空腹を訴える自分のお腹のために何か食べようと寝台を抜け出そうとした。
するとそれと同時に部屋の入り口が開いて冥琳と祭が入ってきた。
「何をしておるのじゃ、お主は?」
「いや、ちょっと小腹が空いたんで何か食べようと思ってね」
「なら儂が何か持ってくる。冥琳、しっかり見張っておくのじゃぞ」
冥琳にそう言って部屋を出て行った祭。
部屋から出ることに失敗した一刀は仕方なく寝台に戻りその上に座った。
「なんだか監禁されている気分だよ」
「仕方ないでしょう。旦那様が倒れたというだけでも大騒ぎだったのですから」
一刀の為にお茶を淹れる冥琳も彼が倒れたと知った時、表面的には冷静を装っていたが心穏やかではなかった。
「特に私達にとっては大切な旦那様であり父上様なのですから」
呉の者達からすれば他の二国以上に一刀の存在は大きく、自分達の人生を左右するほどのものだった。
冥琳からお茶を受け取り一刀は一口呑んでいく。
「俺ってもしかして皆に物凄く迷惑かけてる?」
「ええ。私達が取り乱してしまうほどに」
ひどくおかしそうに微笑む冥琳。
生きているからこそこうして微笑むことも出来る。
冗談のように聞こえてもそれは彼女の本心でもあることを一刀は申し訳なく思った。
「だから私達を安心させて欲しいから安静にしていただいているのですよ」
「そうだな。ごめんな、冥琳」
常に目の前に凛として立ち、目標としていた冥琳が自分の愛妻の一人となり幸せな余生を送っている。
政にはもはや関わることなく穏やかな日々を過ごしているだけに、一刀とこうしている時間が何よりも嬉しかった。
「そういえば新しい側室を迎えると聞きましたけれど本当ですか?」
「まぁ諸事情につきそうなったんだけどね」
冥琳も雪蓮から事情を聞いていたため一刀ならそれもありえるかと思って納得していた。
「まぁ今回ばかりは私も目を瞑ることにします。ただし、次、同じようなことがあれば北郷一刀は自分で決めたことも守れないのかと誰もが落胆するでしょうね」
「肝に銘じておくよ」
「よろしい」
穏やかな笑顔で一刀を見る冥琳に一刀はこれ以上のことがないことをしっかりと伝えた。
「今も思うことがあるんだ」
一刀はお茶を呑んだ後そんなことを言い始めた。
「俺は冥琳のようになりたいってずっと思っていた。誰かの為に何かをしたいってずっと理想としていたんだ」
「今の旦那様は私を超えていると思いますよ」
「自分ではわからないよ。ただ、俺は何一つ冥琳にお礼もしていないから」
呉のためにと一刀に何かと教育を施してくれた冥琳にそれらしき恩返しができているのかと思っていた。
冥琳からすれば十分以上にその恩を返してもらっているが、彼女自身は恩を返してもらおうとは思っていなかった。
当たり前のことを当たり前にしただけだと思っていた。
「大丈夫です。私や雪蓮、それに蓮華様達も数え切れないほどのお礼を頂いています。それに、あまり欲張ると罰が当たりますから」
「頂いたって……俺、何かしたのか?」
「秘密です」
凛とした冥琳も好きだったが今のように愛する者と共に生きている柔らかな冥琳も一刀は好きだった。
「冥琳」
「はい?」
「今の俺は冥琳から見て皇帝として何かできているかな?」
「頂点に立つ者としてみるのであればまだまだ不十分。されど後数年すれば誰もが認める立派な皇帝になれるでしょうね」
厳しくも温かい言葉を冥琳は一刀にかける。
「せめて孫和が成人するまでは頑張らないとダメかな」
「そうですね。少なくとも十五年は頑張っていただかないと」
「安心して隠居もできないか」
そう言って二人は笑いあう。
そして結婚してからよく笑顔を見せるようになった冥琳の変わらない笑顔に見とれる一刀。
「なんだか不思議な気分だよ」
「不思議な気分とは?」
「俺がこの世界にきて二十年だっていうのに、それ以前からずっといるような気持ちになる時があるんだ」
天の御遣いとしてこの世界に来たからこそ彼女達に出会い愛し合うこともできた。
もし初めからこの世界に生を受けていたら今のようにはなっていないだろうと思っていた。
「きっとそれだけこの世界にいることが当たり前なんだって思うんだ」
「旦那様……」
「だからきっとこの世界で死ぬんだって」
死を口にした一刀の表情は穏やかなものだった。
それを見て冥琳は一瞬、悪寒のようなものを感じた。
まるでもうすぐ死ぬかもしれないというような一刀の口調に冥琳は席を立って彼の隣に座った。
そして何も言わずに抱きしめた。
「冥琳?」
「死など口にするなど不吉です」
「そりゃあそうだけど、俺達はみんな不老不死じゃないんだからいつかは死ぬんだぞ」
「それでも口にすれば死が旦那様を捕まえにきます」
一刀の言うようにいつかは自分達も死ぬ。
だが、だからこそその最後の一瞬まで口にすることなく幸せに生きていた。
病で身体を蝕んでいた時、それで死ぬのも運命だと思っていたとき、一刀によって救われた冥琳はそれ以降、死を口にすることは避けるようになった。
「私は今の幸せが長く続いて欲しいと思っています。でも、その幸せは旦那様がいなければ成立しないのです」
彼を愛し愛される関係の者達が思うこと。
それを改めて口にしている冥琳。
「皇帝だろうが、大都督だろうが、私達の愛している北郷一刀の代わりに幸せを与えられる者などいないのです」
もし死の影が一刀を包み込もうとするならば冥琳は自分の知略の全てを持って防ぐつもりでいる。
彼女が生きる意味を感じているために。
「今の私は弱い女です。そうさせたのは誰でもない旦那様だということをお忘れなく」
「冥琳が弱いだなんて……。でも、俺も気をつけるよ。ありがとう、冥琳」
彼女を抱きしめるとそっと唇を重ねた。
そして今ここで感じる全ては現実であることを一刀は改めて感じていた。
「元気になったら皆でどこか行こうか」
「そうですね。たまにはよろしいでしょう」
「氷蓮達にも迷惑をかけたから何かしてもいいかな」
「きっと喜びますよ」
誰もが一刀を愛しているのだからと冥琳は声に出さずに言葉にした。
「とりあえず祭さんのことだから酒は百薬の長って言って持ってくるからよろしく」
「はあ。まったくあの方は年を重ねていくほど言い訳が達者になっていきますから困っているのですが」
「祭さんらしいな」
「あとでそれ相応の褒美をいただけるのであれば一任されましょう」
「よろしく」
そう言って二人は再び唇を重ねて笑いあった。
だが運命は彼らの味方をしなかった。
しばらくして体調が回復したため霞との式を執り行おうとした日、いつまで経っても起きてこない一刀を見に行った月と詠は床に倒れている一刀を見つけた。
すぐに医者に容態を見せたが、そこから齎されたのは彼女達の心を凍らすに十分だった。
「次に御倒れになったら覚悟してくだされ」
医者の見立てではかなり衰弱しており、また病の原因がまったくわからなかった。
一刀も苦しんでいる様子を彼女達に見せていなかったため、すでに死病にとりつかれていたのだった。
「どういうことよ」
誰もがあまりにも唐突なことで言葉が出せない中、雪蓮は医者に対して射殺すような視線をぶつけながら近寄っていく。
「あんたは医者でしょう。医者は病人を治すのが仕事よね。じゃあどうして一刀を治すことができないの!」
「ヒィッ!」
雪蓮は医者の襟元を掴み挙げて容赦のない怒りをぶつけていく。
「お、お姉様!」
「雪蓮、落ち着きなさい」
蓮華と冥琳によって辛うじて医者は絞め殺されずに済んだが、それでも危機が去ったわけではなかった。
雪蓮の代わりに祭が前に出て医者にこう言った。
「儂はこの中で年長者であるから病にかかってそれが死病じゃと言われても文句は言わぬ。だがの、こやつは……儂らの夫はまだ儂よし若い。死病で死んでいいはずがないのじゃ」
「し、しかし」
「しかしではないわ!」
祭は雪蓮と同じように医者を締め上げる。
「よいか。儂の命を差し出してもよい。この者をどんなことをしてでも治せ。さもなくはお主を含めた国中の医者を一人一人血祭りにあげるぞ」
雪蓮以上の殺気を医者にぶつけると、医者はもはや頷くことしか出来なかった。
そしてそれが何の意味もないことを祭は知っていながらも手の力を緩めて医者を降ろした。
「すまぬの。ちと大人げがなかったわい。じゃがなここにおる者はみな、この男のことを心底愛しておるのじゃ。無駄だとわかっていても最後まで手を尽くしてくれるのかの」
いつもの口調に戻って頭を下げる祭に医者も最善を尽くすと約束した。
祭はそれでも怒りを納めていない雪蓮の方を見て優しく諭した。
「一刀は大丈夫じゃ。きっとよくなるから今は落ち着きなされ」
「…………」
「これまでも一刀は何度となく死地から蘇ったのじゃ。儂らが信じてやらぬでは本人も帰ってこぬぞ」
そのことを誰よりも理解しているはずの雪蓮がこの状態では自分まで怒りを面に出す事は出来ないと祭は思った。
だから年長者らしく一度だけの怒りをあらわにして後は押さえにまわることにした。
「ごめん……祭」
「謝るほどでもなかろう。それよりも儂らはどんなことをしても一刀を救うつもりじゃ。その間、一刀の傍にいてもらえますかの」
「いいの?」
「当然。それに雪蓮様がいなければ目覚めた時、一番に抱きしめることも出来ませぬぞ」
笑顔を見せながら言う祭の言葉に雪蓮もわずかばかり表情が柔らかくなった。
母親の孫堅を失ってからというもの常に自分を支えてくれた大切な仲間であり、年の離れた親友と思っている祭はいつでも冥琳と二人で自分の後ろを守ってくれていることに感謝をした。
冥琳と祭との関係を一刀に話したとき、絆が凄いなと羨ましがられたこともあった。
雪蓮は自分一人が苦しみ悲しんでいるわけではないことを理解し、ようやく怒りを納めることが出来た。
「とりあえず名医と呼ばれる者は片っ端から呼んでおるが」
「うちの放浪医者はまだ所在がわかっていないわ」
国一番の名医ですらその者の医術の足元にも及ばないと思われる華琳の旦那である華陀がいればいかなる病でもすぐに治癒できると信じているが、今回に限ってその所在がわからないでいた。
「まったく、肝心な時にいないなんて」
華琳は呆れてものが言えないといった感じだった。
桂花や春蘭達には縄で縛り付けてでも連れてくるようにと命を下しているため、捕まえればすぐにでも戻ってこられるだろうと思った。
「しかしほとんどの者を捜索に出しているため、残っている者までをさらに捜索には出せないわ」
今、江陵城には最低限の人員しかないかった。
幼い娘達は城内に残って父親が回復することを祈っており、魏将や蜀将はもちろん、呉の者も雪蓮、冥琳、祭、蓮華と幾人かを除いて出払っていた。
国政は天音と華琳、それに桃香、稟、朱里、穏がなんとか切り盛りしていた。
「武官も親衛隊の恋と美影だけだし警備にも少し不安があるわ」
もっとも賊ごときなら恋や美影だけでも十分に対処できる。
だが、もしこの期を好機と見て反乱を起こす者がいれば最悪の事態を迎えることになる。
「禁軍の二人も出ておるからの」
氷蓮と華楠も近場に出かけているとはいえ城に残っていないことが蓮華達をより不安にさせていた。
「大丈夫よ。もし反乱なんか起こしたら私が一人残らず潰してあげるわ」
今の雪蓮を制御できるのはおそらく一刀だけだろう。
それだけにもし反乱を起こせば容赦のない攻撃がそれらを襲う。
雪蓮は本気だった。
逆を言えばこの期に不満分子を一掃できる。
内心では誰か起こさないかと期待をしなくもなかった。
「雪蓮、貴女がそこまで気にしなくとも誰も反乱など企てないわ」
「どうしてわかるのよ?」
「そうね。貴女の言い方をすれば女の勘かしら?」
冥琳は意味ありげに微笑んだ。
「冥琳、もしかしなくても何かした?」
「何もしていないわ。ただ、そういうことを考えていそうな者は予め手を打っておいたと言うべきかしら」
国政に関わっていなくても一刀のために出来る事はいくらでもある。
冥琳からすればせっかくの一刀を中心とした新しい国をつまらない理由で火種を作りたくなかったため、思春や明命などに事前調査をして手を打っていた。
「冥琳、貴女。引退をするのは早すぎたんじゃない?」
「残念ながらそうは思っていないわ。今の暮らしは貴女に引っ張りまわされていた日々よりも充実しているわ」
「ひどい言われようね」
「事実でしょう?」
冥琳からすれば雪蓮に引っ張りまわされた日々も退屈をすることなく楽しい日々だった。
だがそれ以上に今のように穏やかに毎日を過ごしていることのほうが彼女は充実感があった。
「だから安心して旦那様の傍にいなさい。貴女が動けない間は私達が動く」
「そうじゃの。この老体も鞭を打って頑張るかの」
雪蓮を信じ共に歩んできた大切な二人。
その二人にとって雪蓮はかけがえのない存在であり、一刀同様にいつまでも一緒に未来へ歩んで生きたいと思っていた。
どれほど歳月が流れようとも三人の絆は消えることも弱まることもなかった。
雪蓮達がそうしている間、天音は何事もないように政務をこなしていた。
それに対して不満の声を上げる者もいたが国政を滞らすことができないため、面と向かって文句を言う者はほぼいなかった。
一人を除いて。
「冷徹宰相ね」
そう正面から声に出して言ったのは華琳だった。
天音の才能を認めており、周囲が慌しくしている中でもただ一人、いつも通りでいるその姿に皮肉を込めて華琳は口にした。
「まぁ仇が死ねかもしれないから貴女にとってはどうでもいいことかしらね」
「か、華琳さん……」
華琳達と共に政務をこなしていた桃香は慌てて華琳に注意を払ったが、彼女はそんなことはおかまいなしだった。
「いいわよね。いつまでも過去に囚われて前を見ないなんて。一刀もよくこんな小娘を宰相になんか任じたわね」
常識な発想ではとても真似などできるものではなかった一刀の行動に華琳は賞賛すると同時に無計画性なのではなと思っていた。
「まぁ一刀の息子に上手く取り入っているみたいだし、ゆくゆくはこの国を乗っ取るのかしら?」
「華琳さん」
華琳と天音の間に不穏な空気が流れても桃香にはどうすることもできなかった。
「まぁその時は私達が全力で阻止するわ。この国は一刀とその血を受け継いでいる者が収めるべき国なのだから」
「…………煩い」
そこで初めて天音は口を開いた。
そして鋭い視線を不適な笑みを浮かべている華琳にぶつけた。
「あら、何か言いたいことでもあるの?それとも本心を見抜かれたから言い訳でもいうのかしら?」
どこまでも挑発をするかのように話す華琳。
天音は持っていた筆を置くと立ち上がった。
「何も知らないのに……」
「そうね。貴女が何を考えているなんて知らないわ」
「私は…………あいつが死ぬなんて許さない」
「自分の手で仇を討ちたいなら今が好機よ」
まるで反乱を煽っているような言い方をする華琳だが、もし本当にそんなことをしようとするならば容赦なく頸を刎ねるつもりでいた。
「あいつはずっと生きて私が背負った苦しみに感じていないといけない。だから病で死ぬなんて許さない」
一刀が生きているからこそ彼女は仇をいつでも討てる。
しかしこの二年で彼女はいくらでもその好機があったのにも関わらず、一度として一刀に刃を向けたことがなかった。
素っ気無い態度をとっても、何度も話しかけてきたり一緒に食事をしたりもした。
そうしているうちに、天音は一刀が自分の兄を直接手にかけていないのに死んだことを彼のせいにしている自分の小ささに気づかされた。
「あいつに約束した。孫和をずっと守るって。でも、あいつが死んだら私は生きる意味がない」
死を覚悟して一刀に憎しみをぶつけていた天音だが、その憎しみすら自分のことのように受け止めている一刀がわからなかった。
「だから……だから…………」
天音は必死になって泣かないようにしていた。
その姿を見て華琳はこの娘もまた一刀をいつのまにか大切な存在としているのだろうと思った。
他人の苦しみを自分の苦しみにしている一刀の愚かまでも優しさが凍り付いていた天音の心に暖かな光を照らしていたのだと。
「悪かったわね。貴女はそこまで考えていたのね」
天音の傍にいき必死になって堪えている彼女を優しく抱きしめた。
まるで自分の娘のように何度も髪を撫でていく。
「大丈夫よ。あの男は無責任なことは一度たりともしていないわ。貴女の復讐のために生きてくれるわ」
「…………」
「だから一人で我慢しなくていいのよ。私や桃香もいる。貴女が心のよりどころにしている孫和もいるわ。だから我慢することなんてないわよ」
優しく諭す華琳。
一つの国になった今、一人で悩み苦しむことなどしなくていい。
誰にでも気兼ねなく相談すればいいのだ。
それが国中に広がれば、争いなど起こることもそれによって生まれる悲しみもなくなる。
北郷一刀と共にそんな世界を望んでいる華琳達。
「一段落したら様子を見に行くわよ。いいわね?」
天音は小さく頷くと華琳は桃香の方を見て安堵の表情を浮かべた。
桃香も同じような気持ちになっていた。
「それにしても一刀はどうして黙っていたのかしら」
ここまで病状が悪化しているのであれば何らかの反応があってもおかしくなかった。
「普通病にかかっているならばわかるはずなのに」
「我慢していたのでしょうか?」
「そんなはずはないわ。それに我慢しているならば雪蓮達が一番に気づくはずよ。一刀に関しては雪蓮の右に出るものがいないのだから」
その雪蓮ですら気づかなかったほどということは一刀自身もまったく気づきもしなかったことになる。
「華陀がいれば……」
国中を探しているがどこにもいないのか未だに報告が届いていない。
一刀を病から一度治しており、もし一刀を救える者がいれば華陀を置いて他にいなかった。
「天運が尽きるのが先か、それとも華陀が先かね」
「きっと間に合います。それに一刀さんは今までどんな困難も乗り越えてきたんですから」
「桃香って気楽ね」
「そ、そんなことはないですよ。私だって本当は華陀さんを探しにいきたいです。でも、私には私の役目がありますから」
王としては凡庸でも人としては一刀と同等、もしかすればそれ以上の徳を持っている桃香も自分の成すべきことが何かをしっかりと理解していた。
「貴女も随分と成長したわね」
「まだまだです」
桃香の成長を嬉しく思う華琳。
「とにかく一刀が元気になるまでしっかりとこの国を守るわよ。それが今の私達の出来る精一杯よ」
「はい」
「さあ、二人ともさっさと仕事を済ませていつまでも眠っている一刀のところにいくわよ」
桃香と天音は頷き、自分達のやるべきことを再開し始めた。
(一刀、あなたはまだ死ぬべき人ではないのよ)
これからも自分達を導いてくれる。
そう信じているからこそ華琳は彼に膝をついた。
だからこそ一刀には生き続ける義務と責任があった。
華琳は自分のなすべきことをするために席に戻った。
幾日も過ぎていくが一刀は目覚めることもなく、雪蓮達を精神的な疲労感に誘っていた。
そしてそんな中で月が倒れそれに付き添っている詠も疲労感を隠せないでいた。
「お姉様、少し休まれてはどうですか?」
「大丈夫よ。それよりも貴女の方が大変でしょう?」
孫和の育児だけではなく呉王としての政務もあり何かと忙しい日々を送っていた。
そして一刀を見守っている時間もあり睡眠を削っていた蓮華も雪蓮と同じぐらい疲労していた。
「少しは休みなさい。ここは私がいるから」
自分にはこうして一刀の傍にいることしかできないため、他の者にまで負担をかけさせたくなかった雪蓮だが、蓮華は顔を横に振って好意を断った。
「私も一刀の妻です。だからお姉様も少しは私達に任せてください」
眠ったままの一刀を見守る姉妹。
寝台の傍には恋が一刀の手に自分の手を重ねて眠っており、風も椅子に座って眠っていた。
静けさだけが彼女達を包み込んでいた。
「ねぇ蓮華」
「はい?」
「一刀ったらひどいのよ。少し胸が垂れてきてないかなんて言うのよ」
「それだけお姉様が祭に近づいているってことでは?」
「祭ほど垂れてないわよ」
冗談ぽく言う雪蓮に蓮華は微笑む。
「でもそれだけ一刀と一緒にいるんだなあって思ったの」
「そうですね」
出会った当初はここまで一刀を愛するとは思ってもいなかった。
自分から種を蒔いたが、気づいた時には彼が愛しく感じていた。
「一刀に触れられるたびに胸がきゅってなったわ。抱きしめられている時なんて、ああ、この人に愛されているんだって全身で感じたわ」
「私もです。でも、一刀はその、少しばかり元気すぎだと思います」
「恐るべし天の力かしら」
そんな彼女達を虜にしなくてはならない存在になっている一刀は目の前で眠ったまま。
それがどこか儚く夢を見ているように思えた。
目が覚めればいつもの元気な一刀が雪蓮達に笑顔を向けている。
「一刀……」
雪蓮は立ち上がり一刀の身体を起こしていく。
「お、お姉様?」
「少し一刀と散歩をしてくるわ」
「し、しかし、一刀は……」
眠ったままの一刀を背負っていく雪蓮。
「ごしゅじんさま……?」
眠っていた恋もそれに目を覚ました。
「恋、少しだけ一刀を借りるわ。いいかしら?」
「…………雪蓮」
「うん?」
「ご主人さま、お願い」
恋のその言葉の意味を理解できたのはおそらく雪蓮だけだった。
言った本人ですらなぜそのようなことを言ったのかわかっていなかった。
「大丈夫。私は最後まで一刀の傍にいるから」
それだけを言い残して雪蓮は蓮華と恋に休むようにと付け加えて一刀を背負ったまま部屋を出て行った。
深夜の城内は静けさが漂っていた。
華琳達もすでに就寝しており、警備にあたっている兵士が幾人か起きているだけだった。
そんな中で雪蓮は庭のベンチに座り、一刀に膝枕をして寝かせた。
「静かな夜ね」
雲ひとつなく星々と三日月が夜空に輝いていた。
「ねぇ一刀。私はね今、すごく怒っているのよ。どうしてかわかる?」
答えなど返ってこないことはわかっていたが、それでもしばらく待った。
「あなたが私を置いていこうとしているからよ。あれだけ約束をしているのに置いていこうとしているあなたが憎いのよ」
ゆっくりと穏やかな口調で眠る一刀に話してかけていく雪蓮。
愛しそうに髪を撫でるその動きは月の輝きに照らされた月姫のように思えた。
「憎いのに……こんなに憎いのに……大好きなの……。あなたのことが大好きで愛しているのよ」
雪蓮の目から涙が溢れていく。
止めることの出来ない涙の雫。
「一刀……私がこの世でただ一人、弱くさせる男。私をただの女にさせることのできる男」
永遠に続くと思われた幸せな日々。
それがこうもあっさりと終焉を迎えようとしているのかと思うと、雪蓮は我慢など出来そうになかった。
「早く目を覚ましなさいよ。そうして私を強く抱きしめなさい。あなたの成すがままに私はこの身を捧げるわ。だから起きなさいよ」
滑り落ちるようにベンチから落ちた雪蓮は一刀を抱きしめた。
強く、強く、そして何度も交わされる口付け。
妖艶さなどそこにはなくただ温もりを求めるかのように貪っているただの女がそこにいた。
「ほら、一刀の大好きな胸よ。まだ垂れてなんかないんだから」
何を言っても反応を見せない一刀に雪蓮は身体の震えが収まらなかった。
一刀が救われるのであれば自分がその代わりになってもいい。
どんな罰を受けてもいい。
ただ愛する人に生きてほしいと願う。
「一刀……、私はこんなにも弱い女なのよ。あなたのせいなんだから。だからその責任は取りなさいよ」
最後まで二人が年老いてその役目を終えるその日まで一緒にいるのだ。
それが雪蓮が孫策という名を捨ててまで添い遂げたいと今でも思っている一刀に対する要求だった。
「私はここにいるのよ。あなたがいる場所はここなのよ」
必死になって訴える雪蓮。
無駄だとわかっていても自分の想いが眠る一刀に届くのならば何度でも言う。
唇同士を重ねあい、胸に一刀の顔を深く埋めたりと何度も繰り返す。
「もし天の国に戻るって言うのなら今度は私が追いかけるわ。何百年何千年かかってもあなたを見つけ出してこう言ってあげる」
眠る一刀の顔を前にして雪蓮は涙ながら穏やかな口調でこう言った。
「北郷一刀。あなたを心から愛しているわ。だからあなたも私を心から愛しなさい」
それだけで雪蓮は恋心を初めて知った少女のように胸を弾ませ、そして幸せに満ちた笑顔で一刀に抱きつくであろう。
だが、現実は彼女を悲しみへ誘っていた。
「愛しているわ、一刀」
何度も同じことを口にする雪蓮だが、それは夜の庭に溶けていくだけだった。
いつしか雪蓮は一刀を抱きしめたまま眠っていた。
目覚めた時、それは眠る前と何一つ変わることはなかったと思われた。
「一刀……?」
「なんだか柔らかいなあって思ったら雪蓮の胸だったんだな」
目を覚ました一刀はそう言って甘えるように雪蓮の胸に顔を埋めていく。
「やっぱり雪蓮の胸が一番いいな」
「バカ。それなら垂れているなんて言わないでよ」
「そんなこと言ったか?俺としては嬉しいんだよ」
声は小さくとも間違いなく一刀の声に雪蓮はついいつもどおりの口調で言い返していた。
「冥琳や祭さん、それに蓮華達のもいいけどこうして安心できるのは雪蓮だからだよ」
「そんなこといっても私の機嫌は直らないわよ」
「ならこのまま聞いてくれるかな」
「何よ?」
二人はお互いを抱きしめあう。
春先とはいえ微かに冷たい風が吹いていたが彼らの温もりを取り払う事は出来なかった。
「たぶん俺は死ぬと思う」
「どうして?」
「夢を見たんだ。誰もが幸せで笑顔が絶えない毎日を俺は望んでいたんだ。それが今、叶ってこれ以上望むものがなくなったんだ。そうしたら、夢の中で誰かがこう言ったんだ。もう満足かってね」
一刀は実際、満足していた。
これ以上の幸せなどありえなかった。
「満足しているって答えたら急に身体中が苦しくなったんだ。きっと神様ってやつが俺に寿命が尽きたんだって言いに来たんだろうな」
「まだダメよ」
「雪蓮?」
「寿命なんてまだきてないわ。だから傍にいなさいよ」
華陀がくれば死病なんてものは消し飛ぶはず。
そうすれば一刀の寿命はさらに延びて、お互い老人になるまで生きることが出来る。
それなのに一刀はまるでその運命を受け入れるかのような清々しさを感じさせていた。
「私の許可なく死ぬなんて許さないわよ」
「許可がいるのか」
「それ以外は許さないんだから」
起き上がることもせずただ一刀の温もりと声を間近で感じていたい雪蓮はさらに密着させていく。
「雪蓮」
「何よ?」
「雪蓮は俺の雪蓮だよな?」
「いきなり何よ?」
「いいから。答えてくれ」
一刀も少しでも離れたくない想いが強く雪蓮に負けじと彼女を強く抱き寄せていく。
「そうよ。私はあなたのものよ。あなただけが自由に何でもすることができるのよ」
「ならもっとこうしていてもいいよな?」
「もちろんよ。あなたが望むなら何だってしてあげる」
天の国に一緒に言ってほしいと言えばそうする。
雪蓮の生きる場所は一刀の隣なのだと何度も確認をする。
「俺の大切な雪蓮、愛しているよ……」
「私の大切な旦那様、愛しているわ」
二人はそう言って口付けを交わす。
柔らかく何度も繰り返す口付け。
雪蓮は涙が再び溢れてきた。
それが終わると一刀はまるで眠るかのように瞼を閉じて雪蓮の胸の中に顔を埋めていった。
翌日。
昼前に一刀が再び意識を取り戻した。
城に残留する者は誰もが安堵する中、一刀はこう言った。
「孫和と天音を呼んできてくれないか」
一刀の言葉を聞いて蓮華が二人を連れてきた。
「まずは孫和、お前に真名を授ける。一の矢と書いてかずやとする」
「一矢?」
蓮華が答え、彼女に抱かれている孫和は不思議そうに彼の父親の方を見ていた。
一刀が自分の最後の子供につける最後の真名。
「次に天音」
「?」
「孫和……一矢と夫婦になってもらえるかな?」
「えっ?」
天音は一刀が何を言っているのか理解できなかった。
確かに彼との約束で一矢を守ることがあるが夫婦になるなど思ってもいなかった。
それこそ冗談だと思ったが一刀は本気だった。
「きっと一矢はしっかり者の誰かが傍にいなければダメだと思う。俺のようにね」
一刀には雪蓮が、一矢には天音がいてほしいと思っていた。
そうすることで道を外れることなく、また過ちを犯してもすぐに直すことが出来る。
一刀からすればせめてもの罪滅ぼしのようなものだった。
「どうして私なの?」
「天音だからさ」
それのどこが答えなのかわからない天音。
「一矢が成人して皇帝になってもずっと傍で支えてやってくれ。そして、愛してあげてほしい。仇の息子のお嫁さんになるのは嫌かもしれないけど、頼むよ」
「…………一つだけ聞いていい?」
「いいよ」
天音は一矢の方を見てから一刀の方を見た。
その目は二年前に感じた憎しみや悲しみとは違い、どこか違ったものを感じさせていた。
「死ぬの?」
「さあ、どうだろう。でも、万が一のことがあるかもしれないからな」
万が一。
その言葉に室内が一瞬ざわめいた。
「どうかな、天音」
「…………わかった。そうしろというならそうする。でも一つだけ条件がある」
「なんだ?」
「孫和…………一矢には私一人だけ。あんたみたいにたくさんいたらきっと殺しちゃうから」
側室を認めない発言に一刀達は天音が意外にも独占欲が強いなあと思った。
天音からすれば余計な後継者争いなどを起こしたくないだけだったが、本心では自分だけに愛情を注いでほしかった。
かつて彼女の家族が彼女に注いだ愛情のように。
「わかった。みんなも聞いての通り、ここに一矢と天音の婚儀が成立したってことで一つよろしく」
こうしてあっさりと決まってしまった第二代皇帝とその妃。
どちらもまだ幼く将来どうなるかわからなかったが一刀が認めた以上、反対を唱える者はいなかった。
「少し眠るよ。何だか酷く眠い」
そう言って一刀が寝台に横になると雪蓮、月、詠だけを残してあとの者達は黙って部屋を出て行った。
ほとんどの者が退出したのを確認すると一刀は雪蓮達の方を見て微笑んだ。
「月」
「はい」
「仮に俺がこのまま治らなくて死ぬことがあれば子供達のことを頼むよ」
「お義兄さま!」
まるで後事を託すような一刀の言い方に月は悲しみが溢れていく。
「月は誰よりも優しくてそれでいてしっかりしているよ。だから氷蓮達が暴走しないようにしっかりと支えてあげて欲しいんだ」
「お義兄さま……」
「俺は月や詠達を救えたことが凄く誇りに思っているんだぞ。こんな俺でも誰かを助けることができたんだってな。だからこれからも月らしく生きてくれないか?」
一刀からすれば可愛い妹そのものだった月。
だが数多くの娘達に溢れんばかりの慈愛を与えていることを一刀達は知っていた。
自分達の母親には時々、反抗することはあっても月には決してそのような態度をとらなかった。
それだけに月の存在は彼女達には大きく、敬愛する心があった。
「仮の話だからそんな辛そうな表情をしないでくれよ。月は笑っているほうが似合うから」
「お義兄さま……」
必死になって涙を堪え笑顔を作る月。
手を伸ばして彼女の頬を優しく撫でる一刀は彼女がいる限り、何も自分達の家庭に問題はないだろうと思った。
「詠」
「なによ」
「あんまりツンツンしすぎると恵にも影響が出るからほどほどにな」
「あんたがもっとまともな性格ならボクはこんなにも苦労なんてしなかったわよ」
月を守るように常に一緒にいた詠。
自分達を意味もなく助けた一刀を何度となく不審に思いながらもメイドとして彼の身の回りの世話をしていた。
毒矢で倒れた時も赤壁の戦いの後に倒れた時も、詠は彼の存在がどれだけ自分にとって大きなものなのか嫌というほど感じた。
そして月と一緒に愛された時、身体の中から月といるときと違った幸福感というものが生まれた。
「俺がいなくなっても寂しくて泣くなよ」
「はあ?なんであんたがいなくなったら寂しくて泣かないとダメなのよ。冗談じゃないわ」
「うわ、ちょっと傷ついたな」
「知らないわよ」
こんな時でもいつも通りになってしまう一刀と詠。
だが、詠の表情は悲しみに染まっていた。
「あんたはボクや月を遺していく無責任な男だなんて正直がっかりよ」
「謝っても許してくれない?」
「許さないわよ。ボク達を助けたのなら最後まで傍にいなさいよ。ボクをもっと大好きだって言いなさいよ。それが責任を取ることなんでしょう?」
我慢できなくなった詠の目からは涙の雫が零れ落ちていく。
常に月を優先させていた詠が初めて自分だけを指定してきた。
どこまでも不器用でどこまでも素直になれない詠は自分の言葉で一刀を求めた。
「そうだな。生きている限り俺は月や詠を愛した責任を取らないとな」
「そうよ。だからさっさとよくなりなさいよ。そうしたらあんたが好きなことなんでもしてあげるわ」
泣き声だけは出さないようにと必死になって我慢する詠に月はそっと抱きしめた。
「詠ちゃん、大丈夫だから。お義兄さまはずっと私達といてくれるから」
「ゆえ……」
二人の様子を見て一刀はまだ生きたいと思った。
月が詠を落ち着かせると言って部屋を出て行き、残されたのは雪蓮だけだった。
「二十年か」
「そうね」
二人が最初に出会ってから二十年。
その間にたくさんのことがあった。
何度も死にかけたこともあった。
それでも一刀と雪蓮は共に手を取り合って未来へと進んでいった。
「なんだか不思議な気分だよ」
「不思議って?」
「この世界の人間じゃない俺がこうしてみんなと生きている。それでいてたくさんの娘達もいる。現実なのにどこか夢のような気がしてね」
一刀からすればこれは夢で目が覚めれば元の世界にいる。
そして何もかもが夢だったと気づく。
雪蓮も冥琳も祭達もいない世界で生きていく。
「大丈夫よ。誰が何と言ってもあなたは私達と生きている。あなたの子供達も確かにいるわ」
「そうだな。これは現実なんだよな」
「もっと現実だってわかりたいのならいくらでも協力するわよ?」
「それは今度にしてくれよ」
笑みがこぼれる一刀だがその表情はどことなく影がかかっていた。
雪蓮は椅子から離れて一刀の眠る寝台へ潜り込んでいく。
「お、おいおい」
「今日は一緒に寝てあげる。一刀が余計なこと考えないで安心して眠れるようにね♪」
本能で雪蓮は悟っていた。
一刀はもうすぐ自分の手の届かない所へ行くと。
それならば最後一瞬まで一刀の温もりを感じていたかった。
「こうしていると凄く安心するわ♪」
「蓮華達が見たら絶対に怒ると思うけどな……」
「その時はいいわけよろしくね♪」
「俺なのか?」
嬉しそうに一刀を抱きしめていく雪蓮。
それに対して一刀はため息をついた。
「ねぇ一刀」
「うん?」
「生まれ変わっても私が見つけてあげるから今度は私だけを愛してよ?」
「雪蓮だけをか?」
一夫一妻なら早い者勝ちだろうにと思った一刀だが、自分でもその相手が雪蓮だったらいいなあと思った。
「その時は雪蓮だけを愛するよ」
「本当?」
「ああ。本当だ。その代わりずっと傍にいてくれよ?」
生きている間や死んだ後と限定しない、まさに永遠。
「もちろんよ♪北郷雪蓮は北郷一刀と永遠に一緒よ♪」
今生の別れがきてもその想いは誰にも渡さない。
自分だけの大切な宝物。
「それを聞いて安心した?」
「ああ。今日はいい夢を見れそうだよ」
「それじゃあ一刀の夢にお邪魔しようかしら♪」
「どうぞ」
二人は笑いあい自然と会話がなくなっていった。
そして一度、今までのどの口付けよりも軽く触れ合うだけの口付けをした。
「それじゃあお休み、雪蓮」
「おやすみ、一刀」
それからほどなくして一刀は寝台から起き上がることも出来なくなった。
結局、国中を探してもどこにも華陀はいなかった。
それがどういう意味を示しているかは容易に誰もが理解できた。
後に華陀は一刀が危篤状態であることを遠い異郷の地で聞いて戻ろうとしたが結果的には間に合わなかった。
そして怒り狂った華琳が泣きながら彼がいなかったことに文句を言って泣き崩れることになった。
そんな中で一刀はこうなることを感じていたのか、後事を託すためにいくつかの遺言を書いており、それを天音から全員に言い渡した。
「一つ、葬儀は簡素なものにすること。一つ、孫和を第二代皇帝とし成人した暁には司馬仲達を正式に皇后に迎える。一つ、後追いは固く禁ずる。一つ、喪は三日までとする。一つ…………」
天音は感情がぶれることなく淡々と一刀が見ている前で遺言を発表していく。
その姿に誰もが静かに視線を外すことなくしっかりと彼女を見ていた。
一刀の娘達は様々な反応をしていた。
氷蓮と楽、莉春は気丈に直立不動をしていたが、他の妹達、特に尚華は彩琳に支えてもらっていなければ立てないほど涙で心まで濡らしていた。
「一つ、今後、北郷の姓は一切受け継ぐことは禁ずる。以上が遺言」
言い終わった天音は遺言を丁寧に机の上に置いて一刀の方を見た。
満足そうに頷く一刀。
「ありがとう…………天音」
こうなるのなら彼女の仇を今討たせてもいいかなと思ってしまうほど一刀は穏やかな気持ちになっていた。
「そういえば…………雪蓮と霞はどうしたんだ?」
いるはずの雪蓮と霞がどこにもいなかった。
最後まで一緒にいてくれるものだと思っていただけに意外だと思っていた一刀だった。
「もう少しだけ待って」
「待てるかな……」
弱々しい笑みを浮かべる一刀を見れなくなったのか、天音は背を向けた。
一刀は自分でも今日逝くだろうと感じていた。
だからこそ彼が知る限りの大切な人達をここに集めていた。
自分の最後の我侭。
「待たないと私が無理やりにでも待たせる」
「そうしてくれ」
一刀自身はもはや気力があまり残っていなかった。
最後の瞬間に雪蓮の姿が見れないのは悔いが残る。
残された時間の中で可能な限りの延命を続けていく。
「一刀」
そこへ蓮華を初めとする一刀の愛妻達や愛娘達が寝台の前にやってきて声をかけていた。
「パパ」
「父上、お気を確かに」
「父上様、死んではダメです」
「ちちうえ~」
「おとさん」
口々に一刀に声をかける愛娘達。
「一刀、しっかり」
「旦那様」
「一刀」
「一刀様」
愛妻達も何度も一刀を呼び続ける。
この世に一刀を留まらせようと必死になっていた。
彼女達にとって一刀が遠くに行ってしまうのは自分の死よりも恐怖するものであり、失ってしまえば埋めることのできない喪失感が待っていた。
ゆっくりと時間を掛けて薄れていく意識の中で一刀は蓮華達の間から眩い光景が見えた。
「雪蓮……」
その声に反応した蓮華達はゆっくりと後ろを振り向くと、部屋の入り口が開いておりそこにはウェディングドレスを身にまとっている雪蓮と霞が立っていた。
「お姉様……」
「霞」
蓮華は自分の姉と霞がどうしてそのような姿をしているか理解した。
それと同時に、自分達は雪蓮に遠く及ばないことを改めて思い知らされた。
誰も何も言わずに雪蓮が歩いていく姿を見ていた。
一刀と雪蓮が結婚式を挙げたときのように、彼女達は化粧を施しあの時と何一つ変わることのない姿だった。
蓮華達も道を開けると、雪蓮とそれに少し遅れて歩いていく霞はそこを通っていき一刀の前に立った。
「一刀」
優しく穏やかな口調で寝台の上に横たわっている一刀の名を呼ぶ。
「誰よりもあなたを愛しているわ」
「俺もだよ……」
「一刀」
「霞……凄く似合っているよ」
霞は照れくさそうにしていた。
「霞、先にしていいわよ」
「ええんか?」
「一刀もそれを望んでいるわ」
霞は雪蓮に感謝をして前に出る。
そしてどこにそんな力が残されているのか、一刀は時間を掛けて身体を起こしていく。
その姿を見て蓮華と氷蓮が手助けをしようとしたがそれを冥琳と祭によって止められた。
「誓いの口付けをしなさい」
雪蓮にそう言われた二人。
起き上がっているだけで精一杯の一刀に配慮して霞は自分から顔を近づけていき、誓いの口付けを交わした。
「これでウチも一刀のお嫁さんやな」
「ああ……。これからよろしくな」
笑顔で答える一刀に霞も笑顔で頷く。
「こんなウチの我侭を聞いてくれてありがとうな」
もはや彼の子を宿すことなどない霞だが、こうして夫婦になっただけで十分だった。
彼女の最後の望みが叶えられたのだから。
「一刀、これを霞にはめてあげなさい」
雪蓮は小さな木箱の蓋を開けて一刀に差し出した。
そこには銀色に輝く指輪が入っていた。
ゆっくりと時間をかけてその指輪を手にすると、霞は左手を差し出してきた。
「これが俺のできる精一杯だ」
霞の左手の薬指に指輪がはめられた。
「これで霞も俺と夫婦だよ」
「そうやな」
一刀の人となりを知る者であれば自分をもと思う者もいる。
だがどのような思いで霞を娶ったか、今の二人を見ていれば理解できた。
霞は満足したかのように一刀から離れて雪蓮のために道をつくった。
それに対して雪蓮は何も言わずただ軽く頭を傾けただけで、そのまま一刀の前に進み出た。
「凄く綺麗だ」
「当たり前よ。あなたの花嫁になるのだから」
髪を束ねヴェールに包まれている雪蓮の表情は今までの中で最も美しくそして華やかなものだった。
同性の蓮華達ですらそんな雪蓮に思わず見惚れてしまっていた。
寝台の前で膝をつく雪蓮。
「北郷雪蓮は生涯、北郷一刀の妻として愛し続けることをここに誓約するわ」
「俺も約束するよ。雪蓮を生涯愛し続ける」
両手を伸ばしていく一刀に雪蓮もまた両手を伸ばしていき、二人は抱きしめあっていく。
二人は別れが目の前に迫っているにもかかわらず、結婚したあの日のように幸せな表情を浮かべていた。
「ありがとう、雪蓮」
「お礼なんていらないわよ。私が欲しいのは天下でも国でもないわ。あなたが一番欲しいの」
そのために孫策の名を捨てた。
何の後悔もためらいもなく。
ただ一人の男を愛したいがためだけに。
そしてそれを確認するかのように二人は口付けを交わす。
「やっぱり雪蓮が一番だな」
「当然よ♪」
「なぁ雪蓮……」
「な~に」
「平和になったらみんなで…………しあわせを…………」
声が小さくなっていく一刀。
それと同時に雪蓮を抱きしめていた両手が落ちていく。
「みんなで…………のんび…………そう…………」
そう言うと穏やかな表情で雪蓮にもたれていった。
「………………」
聞こえていた声は消え、呼吸する音も途切れた。
静寂が部屋の中を支配していく。
天の御遣いとして江東の小覇王と共に天下に羽ばたき、そして平和な世の中を勝ち取った。
乱世が終わると同時に愛する者達と添い遂げ、その結晶を数多く残した。
そしてまるで全てをやり遂げたかのようにその終焉を迎えた。
一刀を寝台に寝かせると雪蓮は涙を流すことなく凛とした表情で蓮華達の方を振り返った。
「皇帝陛下は今、天に還ったわ。これより孫和を第二代皇帝とし、成人するまで私、北郷雪蓮がその代理を執り行うことにする。文句があれば今のうちに言いなさい。さもなければ今後、一切の文句は受け付けないから」
誰もが一番悲しんでいいはずの人物がその悲しみにを振り払うかのように立っている姿に息を呑んだ。
「私は異議なしよ」
一番に声を上げたのはやはり華琳だった。
一人がそうすれば後に続く者は出てくるのが必然であり、誰も反対をすることはなかった。
「ありがとう。みんな」
雪蓮は深々と頭を下げた。
かつて美羽の下にたときでも形式的にも頭を余り下げなかった雪蓮はただ一度だけ、心からの感謝を込めて頭を下げた。
北郷一刀はもういない。
だが、彼の遺した物は彼女達全員の中にあった。
そして再び一刀に膝をつき、動くことのない手を握って溢れんばかりの愛情を込めてこう言った。
「おやすみなさい。私の旦那様」
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第三幕です。
ここからさらに急展開を迎えます。
最後までお付き合いのほどよろしくお願いいたします。