王が書類に抹印を押すと宰相に渡した。
これで本日の政務は終了したが、重要な課題が残されている。
「さて、陛下」
宰相が声を上げると、部屋の空気が一斉に攻撃態勢へと入った。
かしこまってそこにいる重鎮―三老師の大師、大傅、大保、五大臣の仁大臣、義大臣、礼大臣、智大臣、信大臣は目を爛々と輝かせる。三将軍は、右将軍は複雑な顔をして俯き、中将軍は我関せずとばかりに明後日を見ており、左将軍はニヤニヤと笑ったままだ。
そして親愛なる国王陛下は、宰相が見ても分かりやすいほど、身がまえた。
またその話を持ち出すのか、と顔に書いてある。
当たり前だ、国家の一大事である。
「ご夫君の件ですが」
途端に陛下は耳を塞いだ。後ろに控えていたお付きのトモキが剥がそうとする。
「陛下。世継を作られるのも王の仕事ですぞ」
早く夫を迎えて子供をつくれ。
最近、彼らはやれ世継だ、夫君だ、結婚だ、と口を酸っぱくして王に進言している。
愛すべき国王に万が一のことがあれば、血を引き継ぐものは責任を放棄して呑気に海賊なんぞやってしかも国王である妹を浚いまでした元王子しかいない。血を絶やさないためにも、早く夫を迎えて子供をつくってほしい。
それが宰相の、否、宮の切実な願いだった。
「幸い、西のクズハにも、東のジンにも、北のチャルカにも独身王子はおります」
「いずれかを夫君に迎え入れれば、強力な結びつきができましょうぞ」
「わしとしてはクズハのアオイさまをお勧めいたしまする」
「なんと、その王子はまだ十四ではないか。ジンはどうじゃ、第三王子ヤン・チャオさまは二十一で陛下とお年も近い」
「病弱王子と有名な方であろう。わたしは反対です、チャルカはいかがでしょう」
「わしゃあ、あの国自体が嫌いじゃあ」
「それともこの宮からお選びなさるか」
「三将軍は揃いも揃ってまだ伴侶を娶っておりませぬ」
「わたくしはご遠慮いたします。可愛い恋人に八つ裂きにされてしまうのでね」
口々に好き勝手なことを言っていた重鎮たちは、揃ってぶっすりと不貞腐れている陛下を見た。
「さあ、陛下」
「お好きな方をどうぞ」
「ただし、長官以上で」
しかし、王はため息をつくだけだ。
「そんな、‘子をとろ、子とろ’じゃあるまいし」
聞いたことのない単語に目を点にした彼らだったが、トモキの説明を聞いていきり立った。
「村子供の遊びとは訳が違うのですぞ!」
「分かった、分かった、悪かった」
再びため息をついて、王は宰相を見た。
「少し考えさせてくれ。重大なことだとはわたしも理解しているつもりだ」
「は」
王が海から帰ってきて二週間、ほぼ毎日こんなやりとりが交わされている。
「他には?」
「以上でございます」
「では、これにて政務を終了する。皆の者、本日も御苦労であった」
トモキが椅子を引くと、小柄な王は飛び降りた。起立し礼をする重鎮らを尻目に退出した後、室内は重いため息の嵐が吹いた。
「陛下のお気持ちを察しないではないが…」
学問を司る智大臣が髭をしごきながら息を吐く。
「わたしとしては、もう少しこの状態でも良いと思うのですがね」
外交を司る義大臣も疲れたように襟を正した。
「お主は、陛下を餌として見ているだけであろう。豊かな国の美貌の女王なぞ、他国から見れば葱しょった鴨であるからの」
農水産を司る信大臣が呆れたように言った。
「大きな出来事があれば、人が動く。人が動けば金も動く。わしは早く夫君を迎えてほしいわい」
財務を司る仁大臣は額の汗を拭いながら、呟いた。
「いきなりという訳にはいきません。こちらも準備しなければならないことがありますし」
宮廷の礼を司る礼大臣が口に手を当て一人ごちた。
「…お先に失礼いたします…」
ひっそりとした声が聞こえて男が一人退出したが、しばらくは誰も気が付かなかった。
「おや、中将軍はどこへ行かれた」
「先ほど出ていかれたようです。わたしも用がございますので、これにて失礼いたします」
右将軍はそっけなく言うと、左将軍と共に部屋を出ていった。
老人と中年は、今度はなさけない、とため息をついた。
「あの三人がわれらの期待の星であるというのに」
「黒と白はまだいい。問題はダイゴ殿じゃ」
宮廷兵を統べる右将軍、海軍を統べる左将軍に比べて、城下や町村の奉行を統括するいわば警察のようなものの頂点にたつ中将軍は、役職を含め存在自体が地味である。そして現中将軍、ダイゴは陰鬱な青年だった。かつての黒将軍の陰気さをかき集めて団子にして増幅させたような、そんな独特な雰囲気を放っていた。後ろに鬼火でもひきつれていそうな感じである。
めったに口を開かず、笑わない。
「わたしも明るい方ではないが、ダイゴ殿の引力には驚くことがある」
直訳すれば、シラギでさえも辟易しているその中将軍は、勿論友人もおらず、親しい者もいなかったが、仕事はキッチリとこなし、定時にはさっさと室へ引っ込んだ。
「陛下にはお幸せになってもらいたいのう…」
三老が一人、大保がポツリと言うと、室内は静寂となった。
海千万山千万、宮廷の権力の荒波を掻い潜り、汚れきった彼らにとって、十七歳の少女は当初都合の良い存在にすぎないと思われていた。世間を知らない小娘は傀儡には格好の道具だったのである。
ところがその小娘は、たった二年とはいえ世界を見、自ずから考えることを学び、駒を自覚しながらも国を憂いて王に立った。宰相や大臣らと喧嘩もどきの言い合いをし、三老師にすらも歯向かった。
ただ抹印すればいい書類も一々確認し、おかしければその原因を突き止めた。思うように動いてくれない小娘に苛立ちを隠せなかった長官たちは、だが次の言葉に大変な衝撃を受けた。
「国は王一人で成り立っているものではない。勿論宮だけで成り立っているものでもない。畑を耕し、稲を刈り、商売をする、この地に民が生活をしているからこそ、成り立っているものだ。わたしたちは民が暮らしやすいように取り計らう存在に過ぎない。そして王とは、国の代表者に過ぎないとわたしは思う」
反発する老人らに国王はにっこりと笑った。
「では聞くが、お前たちが食するものは誰が作っておる?その衣は、沓は、住居は、椅子は、誰が作った?民であろう。我々は一人で何もかもが出来る訳ではいない。民がいなければ、何もできない赤子同然。それを肝に銘じ職に当たってほしい」
感銘を受けた者もいれば、下界に染まりおって、と口汚く罵る者もいた。
だが、小娘は狡猾だった。分からないことがあれば素直に聞くし、一々の仕事に関心を持ち、あっけらかんと賞賛した。
気が付けば年端もいかぬ王に重鎮たちは骨を抜かれて、我が子同然の愛情を注いだ。決定づけたのは王が浚われたあの事件である。
心労のあまり三老は揃って寝込み、ダイゴすらも暗部を叱咤して必死に捜索活動を行った。王がいない、それも心配だったが、リウヒという少女の存在が消えたのは耐えがたい苦痛であった。
半年後に帰ってきた少女を見た途端、心から安堵したことは本人たちも驚きであり苦笑以外の何ものでもなかった。
「別に三将軍でなくとも、うちにも息子がおるし…」
「信大臣。浅ましい奴」
「なにをおっしゃる。選択肢は広い方が良いではないか」
「一度、宴を催すか」
窓の外、遠くを見ながら宰相が言った。
「我こそはと思う相手をお目通りさせよう。まあ、陛下は嫌がるかも知れぬが、これも国の為だ」
****
ぼんやりとした月が夜空に浮かんでいる。
西国渡りのグラスを手に取り、月明かりに透かしてみた。中の透明な液体が揺らめき、切り子模様が僅かに光った。
リウヒから贈られたシラギの特別な杯である。もっともシラギだけではなく、あの愉快な連中も押し頂いている。
「美しい杯だと、さぞかし酒もうまかろう」
そう言ってリウヒは笑った。
いつからあの娘を愛するようになったのだろうか。十五も年下の、生まれた時から知っている娘を。
最初は全くそのような気持ちはなかった。
まだ少年だった頃、赤子のリウヒを抱いてトモキの家へいった。東宮へ戻り、老人の戯れで闇へと落ちてゆく幼子をシラギはただ眺めていただけだった。そして己の手で、どうにかするわけでもなく、トモキを東宮に連れてきた。
できることなら、あの時へ戻って当時の自分を殴り殺してしまいたい。
外の世界を旅している間、リウヒはただ守るべき存在に過ぎなかった。しかし、一緒にいた仲間と、旅は確実にシラギを変えてゆき、そこにリウヒがポンと入ってきた。
セイリュウヶ原の戦前日。
「勇気づけのおまじない」といって少女は、柔らかい唇を重ねてきた。その瞬間にやられてしまったといっていい。まじないはてきめんに効いた。
翌日の原でシラギは、ただただ、リウヒの為だけに剣をふるった。
かつての部下を相手に。
後日、リウヒは単にカグラに騙されていただけで、口づけのなんたるやを知らず、全てを知った後は真っ赤な顔をして、シラギの目線から逃げるようになったが。
小さな国王が誕生して半年後、今度はその大切な国王が自分の不手際で浚われた。死にたいほど後悔し、眠れないほど捜索したが、発見して連れ戻したのは、友人の優男だった。
しかも。
シラギは深いため息をついた。
リウヒは、命を助けてもらったというアナンの船に乗っていた、橙頭の男の部屋に夜な夜な通った。寝室に「キジの部屋にいってきます」と書置きをのこして。
橙男は嫌がっているように振舞うが、実は嬉しいことをシラギは知っていた。
それくらい分かる。
そして血相変えて迎えに行くと、もう少しだけ、とリウヒはタダをこねた。
「何か間違いがあったらどうすのです」
結局は部屋を追い出されて、不貞腐れつつ歩くリウヒを諌めると
「わたしはそれを望んでいる」
そう言って、嬉しそうに笑った。木刀で横っ面を殴られたような衝撃を受けた。
まったくシラギの事は目に入っていない。
「そういう時こそ、黒将軍の出番ですのに。悲しみに沈んでいる陛下の身も心もお慰めして差し上げなさい」
銀髪の友人は嫌らしい笑みを浮かべて、シラギをけしかけるが、口八丁手八丁のカグラとは違うのだ。はじめてこの男がうらやましいと思った。
今回の旅で、少しはリウヒの気が紛れるといいのだが。
目線をグラスに落とす。
中の酒はとうに無くなっていた。
どれほど時が経った頃だろうか。
その口八丁手八丁の友人、カグラが
「一人寂しく過ごされている黒将軍をお慰めしようかと思いまして」
にこやかに笑いながら、勝手知ったるとばかりに入ってきた。
「どうせ酒目当てなのだろう」
「ご名答。ティエンランが誇る右将軍は、家に様々な酒を置いていらっしゃる」
銀髪の友人とその恋人は、タダ酒目当てにしょっちゅう室に押し掛けてくる。
「今日は、マイムは一緒ではないのか」
「来る時はきますし、来ない時はこないでしょう」
たまには男同士で過ごすのもいいものですよ、とカグラは杯を掲げた。卓を囲んで果物をつまみにちびちび飲む。
友人というものは、特に何を話すわけでもなくとも、気を使わなくていいものだとシラギはこの男との関係から学んだ。親密な時間はゆったりと流れて、思い出したように会話がポツン、ポツンとこぼれる。
「アナンは未だに捕まらないのか」
海賊の頭領など呼び捨てで十分だ。しかも大切な国王を浚った罪人である。
「今の海軍では、まだまだ難しいですね。お陰さまで予算は多く頂いたので、大船と大砲は購入しました。三ヶ月後にはティエンランにくるでしょう」
あの馬鹿元王子のせいで、リウヒはチンピラに恋をしてしまった。
「しかし…宰相たちはどうも調子に乗っているように思えてなりません」
「あれでも必死なのだろう。逆効果だとは思うがな」
「不思議でならないのです、何故シラギは陛下と距離をおくのです?こういう時こそあなたの出番ですのに。悲しんでいる陛下の身も心もお慰めしてさしあげなさい」
ずいと迫ってくるカグラに、シラギは身を引いた。
「…今日は随分と饒舌だな、白将軍」
「これでも友人を心配しているのですよ、黒将軍」
その割には、紫色の瞳の奥は面白がっている。
「慰め方ならわたくしがお教えしましょうか。いま、ここで」
がっしりと手を握られて、シラギは本気で狼狽した。
「結構だ!」
「遠慮なさらずともよいではないですか…」
「遠慮ではない、頼む、止めてくれ!」
丁度その頃。シラギ邸の横の小路を通りかかった女官は、奇妙な悲鳴を聞いた。まさか黒将軍の口から出たそれとは思いもしなかった女は物怪の類だと勘違いしたらしい、しばらくその道は出るという噂が立った。
****
「陛下、睡眠はきちんと取っておられないようですね」
医師の声にリウヒは首を振った。
「眠れない」
寝てしまえば、あの夢を見てしまう。
「眠りたくない」
心配そうに覗きこんだ担当医、ナカツは小さくそうですか、と呟いた。
政務が終わるとリウヒはすぐに東宮へ戻る。毎日のようにナカツの診査を受ける。
もう気に入りの小庭園へでることもなくなった。
あそこはキジを思い出す。
想いを打ち明けた。何度も名を呼んだ。
強く抱きしめられて、貪るように口づけをし、別れを告げられ男は去っていった。
十日も前のことだ。
ぽっかり空いた心の穴に、今度は今更のように受けた虐待の恐怖が襲ってきた。王の責任を放棄し、兄に流された後悔も、全てひっくるめて津波のごとく押し寄せてくる。
昼間は仕事があるから、まだいい。問題は夜だった。
リンたちやトモキも北寮の自室には戻らず、寝殿に泊まり込んでくれる。その寝殿の周りは警備兵で固められている。
終わったことだ、ここは安全な場所だ、みんながいる、守られている、だから心配をかけてはいけない…思えば思うほど、反動なのだろう、恐怖はさらに押し寄せた。
「しっかり食事を召しあがられて、寝ていただかないと陛下のお身体は悲鳴を上げてしまいます」
「うん、ありがとう」
身体のあちらこちらにある痣は、大分薄れてきている。
散々理由を聞かれたが、リウヒは兄に受けた凌辱の後だとは口にしなかった。
口にすることすら恐怖だった。
全てを抱え込んで消してしまおう、それが最良だと思い込んでいた。
「リウヒさま」
トモキが笑顔で入ってきた。
「本日の夕餉は、陛下の大好きな栗飯ですよ。三杯でも四杯でもお代りをなさってくださいね」
「トモキったら」
笑ったつもりだったが、トモキは一瞬だけ悲しそうな顔をした。きっと笑顔をつくることに失敗して歪んだように見えたのだろう。
****
トモキは明らかに憔悴しきってシラギを見上げた。
「あの男が去ってからずっとなんです。ぼくらや医師にも何も言わないし…」
トモキだけではない、国王付き女官の三人娘も痛々しい顔をしている。
「食欲もなくなっております」
「よく、ぼおっとされております」
「朝方は、いつも泣きはらした目をされております」
心底心配なのだろう。いつもの元気がない。
「あの海賊船で何があったんだろう…。みんないい人たちで、アナンさまも良い方だったのに、どうして痣なんか…」
カグラと海軍医師も、宮廷に戻った時は蒼白な顔をしていた。
そのリウヒの体を自分は抱きつぶすところだった。
心も体も深く傷ついていたリウヒを。
心配のあまり、様子を見にきたシラギは、寝殿の前で足止めを食らった。
「陛下はお目通りできないのか」
「夕餉まで人払いをされております」
「そうか」
トモキや三人娘や、自分たちでさえ、今のリウヒは拒否をする。
「あの、黒将軍さま」
小さな声でリンが提案した。
「陛下と夕餉を召しあがられてはいかがでしょうか。トモキさまと三人で過ごされれば、少しは気が晴れるのではないかと…」
「ああ、リンさん。それはいいですね。ぜひ、お願いします。シラギさま」
トモキも縋るような目で見つめてくる。
願ってもいない申出にシラギも頷いた。
「だが、わたしに陛下を笑わせる術など持っていない。あまり期待しないでくれ」
「はい、勿論」
トモキは大真面目に返した。
「誰もシラギさまに、そんな高度な技を求めてはおりませんから」
「珍しいな、黒将軍」
東宮の室に入ってきたリウヒは僅かに目を見開いた。
「夕餉を共にするなど初めてではないのか」
椅子から立ち上がったシラギを見上げる目のふちには濃い隈が出来ている。
「外を旅している時は、よく一緒に食べていたではないですか」
「ああ」
席につきながら、思い出したようにリウヒの顔が柔らかくなった。
「そうだったな」
「また、みんなで旅をしたいものですね」
トモキが笑顔で言う。
「行きたいな。きっと昔と違った目線で国を見ることができるだろうな」
「無理です。陛下の身に関して宮は過敏になっております。旅など宰相たちが許可するわけがありません」
言ってしまってから、シラギはしまったと思った。
案の定、リウヒはしょんぼりと項垂れて、トモキは言葉を失って口を開閉するだけだ。
気まずい空気が流れた。
「そっそう言えば、面白い噂を聞きましたの!」
場を助けるように三人が娘の一人、シンが裏返った声を上げた。
「中将軍さまが猫をお拾いになったのですって。それで夜な夜な赤ちゃん言葉で話しかけていらっしゃるそうですわよ」
「へえ、あのダイゴが」
リウヒが小さく笑った。
「その光景を見てみたいものだな。今度、邸を訪ねてみようか」
「陛下。若い娘が男の家に押し掛けるとは何事です。もっと慎みをお持ち下さい。あの時もそうでした、橙頭のチンピラの部屋へ寝殿を抜け出して通っていたではないですか。だいたい、あんなゲスで野蛮な男…」
「やめろ!」
激したようにリウヒが立ちあがった。燃えるような瞳でシラギを睨みつけている。
「キジを悪く言うな!シラギは何も知らないくせに!」
そのまま走って部屋を出ていってしまった。慌ててシラギもその後を追う。
「…シラギさまが」
部屋に取り残されたトモキが困ったように頭を掻いた。
「あそこまで不器用だとは思ってもいなかった」
三人娘も深く同意するように、揃って何度も頷いた。
「申し訳ございません、陛下。心ないことを申し上げてしまいました」
東宮の小庭園でリウヒは立ち止まったが、シラギを振り向いてくれない。
「お許しください」
「許さない」
険を含んだ返事が返ってきた。
「何も知らないくせに…。兄さまがどんなに怖かったか…。キジがいてくれたから、わたしは…」
「陛下が話してくれなければ、わたしたちは何も知り得ません。あの船で何があったのですか」
やはりリウヒはアナンに、酷い目にあわされていたのだろうか。
「…つらいことがあった」
でも、と言葉を続けた。
「楽しいこともあった。たくさん」
「陛下」
横に立つと、リウヒが僅かに身を引いた。シラギの存在を恐れるように。もしかして、昔のように触れられる事に恐怖を感じているのだろうか。もしかしてアナンは…。
「シラギ」
「どうされました」
「…いや、何でもない。悪かったな、お前が心配してくれているのは、よく分かっている。ただ、ちょっと言葉が過ぎるだけで」
「申し訳ございません」
「謝らなくていいよ。分かっているんだ。みんなが心配してくれることも、早く夫を迎えて子を生まなくてはいけないことも、…わたしの想いは永遠に叶わないことも」
鼻を啜って、リウヒは無理やり笑った。
「早く東宮に帰ろう。夕餉の途中だった」
そう言って歩き出した。
「陛下」
「なんだ」
「ダイゴ殿の猫なのですが…」
二人の去った後の小庭園では冷たい風が吹いて、緩やかに秋の訪れを告げていた。
****
あの小娘。
自国の国王陛下を忌々しくモクレンは思っている。
尊敬し敬愛している男が、その小娘に夢中なのだ。言葉に出さなくても態度で分かる。あの男に関しては。
宮廷軍の上部は、一応の血統と圧倒的な実力で決まる。
若き右将軍が誕生した時、モクレンはまだ中学に通っていた。父の方針で剣技を幼いころから教わっていた少女は、興味本位で見物に行った。
陰気で黒髪の男を初めて見た時は、その顔の小奇麗さに驚いたものだ。
シラギはあっという間に当時の右将軍だったモクレンの父を叩きのめし、その位を頂いた。
驚きは素直な尊敬に変わった。
才があると言われつつ、嫌々やっていた剣を猛特訓するようになった。大学の勉強も死に物狂いでこなした。ただ、右将軍の傍に居たいがために並みいる猛者を蹴散らして、若干二十一歳、しかも初の女性が副将軍に就いた。
気が付けば、尊敬は慕情に変わっていた。
誤算だったのは同僚もシラギを気に入っていた事だ。
老人のくせに元気いっぱいのタカトオは、事あるごとに孫だの何だのをシラギに進めている。
勝気なモクレンも、負けるものかと自らをお勧めしてしまう。
結果、恋愛にも結婚にも人間にすらも興味のないシラギにうるさがれた。
そして騒ぎが起こった。
恋しい男はその後始末に翻弄され、一年後に姿を見せなくなった。
宰相は病気だと言い、見舞いを希望すると面会できないと断られた。
「おかしいではないか。今までそんな事は一度もなかったのに」
「わしもそう思うぞ。あのジジイ何か企んでおるな」
ジジイがジジイ言うなと思ったが、口には出さなかった。
さらにその一年後。
副将軍二人は仰天した。晴天の霹靂と言っていい。
尊敬し慕っている男と、セイリュウヶ原で対峙するはめになったのだ。
「冗談じゃない、わしの大事な未来の孫婿に歯向かえと言うのか」
「タカトオ殿、さりげなく妄想を挟まないで頂きたい。わたしの将来の夫だ」
「その言葉、そっくりお前さんに返すわ」
しかし、誰が不在の右将軍の代わりをするのだ。
「アカ殿だ」
「ああ、あのブタ…」
ショウギの腰巾着、尊敬の欠片も抱けない男だった。
「あんな奴に使われるくらいなら、寝返って王女側についてやろうか」
「わしもそう思っていたところじゃ。なんじゃ、初めて意見が合ったな」
その戦でのシラギを、モクレンは今でも思い出す事が出来る。
血飛沫を上げて戦う男は、美しかった。まるで鬼神のように猛々しかった。
だから、寝返る声を上げた。瞬時にタカトオも反応した。
上意の礼をする王女を通り越して、モクレンはシラギだけを見つめていた。
あの男が欲しい。はっきりとそう思う。自分の美しさは自負している。男たちはモクレンの美貌と剣技を褒め称えたし、緋色の波打つ髪は人目を引くことに一役買った。
ところが。
「シラギはいるか」
当の小娘がやってきた。一応国王なので、礼を取ろうとすると手で制された。
「おお、陛下。お久しぶりですな。黒将軍さまは席を外されています。すぐに戻られるかと思いますが…」
「タカトオも元気そうだな」
リウヒがにっこりと笑う。小娘は日に日に美しくなってきている。当たり前だろう、最上級の暮らしをしているのだ。
「元気ですとも。そうじゃ、陛下。ご夫君の席はまだ空いていますかな?わしの孫で、ぜひ陛下にお目通りをしたいという者がおりますが」
「その話は、宰相たちから散々言われている。勘弁してくれ」
クスクスと笑う。そうそう、早く夫君を娶ってくれ。そうなれば、あの男は…。
「リウヒ」
言った瞬間、口に手を当てた恋しいシラギは慌てて言い直した。
「…陛下、どうされました」
その声の柔らかいこと。胸がチリチリする。
「あのな…」
シラギの袖をひっぱり、その耳にひそひそと囁いた。男の顔が赤く、しかし喜んでいるのが分かる。
やめてほしい。いい歳をして子供ぶるのは。恥ずかしくないのか。それとも男が喜ぶのを分かってやっているのか。天然だったらたいしたものだ。
「一人で行くのが駄目だというなら同行しろ」
「今日、行かれるのですか?」
二人は楽しそうに話している。
やめてほしい。ここ、政務室。仕事をするところなのだ。
「トモキは今日、図書に籠って調べ物をしているし」
「喜んで御同行させていただきます」
「お話中、失礼いたします」
もう我慢できない。帰れ小娘陛下。
書類を持って立ち上がると、リウヒはハッとしたようにシラギを離した。
「すまない、仕事中に邪魔したな。また後で」
失礼する、と退出する小娘に礼をする。
「…後で、なにかあるのですか?」
「お前には関係のないことだ。それより何なのだ」
明らかに不機嫌な声で聞いてくる。悲しくなる、わたしは何も悪いことをしていないのに。
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ティエンランシリーズ第四巻。
新米女王リウヒと黒将軍シラギが結婚するまでの物語。
「陛下。世継を作られるのも王の仕事ですぞ」
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