――ごめんなさい。
暗がりの中で誰かの声が響く。ひどく小さな声で、誰も聞くことは無いが、たしかにその声は、そう言っていた。
――ごめんなさい。
何度も、何度も、その声は謝罪を繰り返す。
どうして謝るのか、何を謝るのか、何も分からなかった。その声は……少女のその声は、何も伝えず、ただ同じ言葉を繰り返す。
許して欲しいわけではない。
だけど、せめて……
【薫】「っ……っはぁ……」
飛び起きてみれば、窓から朝日が差し込んでいて、薫の体は寝台の上で横たわっていた。
鳥の泣き声ももう聞こえない季節。少し寒い朝。
部屋の中でも、薫の吐く息は白く色づいて、消えていく。
いつもの事のように寝台から起き上がって、服を着替えて、部屋の扉を開ける。
いつものように、黒い扇を片手に持ちながら、薫はその部屋を出る。
【薫】「決めたよ。”私(あたし)”――」
その一言と共に。
【一刀】「ん、ん~~!」
背筋を伸ばすように手を突き上げて、すとんと落とせば、ぼやけていた意識が徐々に鮮明になっていく。
洛陽が陥落してから数ヶ月。
漢は天子の行方と共に、その歴史に幕を閉じた。
そして、同時に、長く言われ続けてきた乱世が幕を開ける。
あの戦で、大きな名声こそ得られなかったものの、黄巾の乱での活躍もあり、それでも曹操という人物が他者より劣っていることにはならなかった。
他勢力はといえば、洛陽の民を受け入れた馬騰と劉備がその力を伸ばし、一つの勢力として確立した。また、雪蓮こと孫策の勢力も、あの戦乱の中で手に入れた玉璽を示し、袁術からの独立を成した。総大将を務めていた袁紹はその名声をさらに伸ばし、公孫賛もまた趙雲の離脱という戦力の低下はあったものの、汜水関での武功を糧に勢いを取り戻していた。
形だけ見れば、一つ抜けていた華琳に、諸侯の面々が追いついてきたようにも思えるが、その勢いを考えると、楽観視していられないことは明らかだった。
【凪】「隊長、今日の稽古はどうしますか?」
ストレッチのように体を伸ばしていると、後ろから凪の声が聞こえてきた。
変化があったのは、何も大局的なものばかりでもなかった。
凪がこうして俺の武の向上に協力してくれているのは、以前その場所にいた琥珀が、拒絶したからだ。
【一刀】「あぁ、頼むよ。凪」
【凪】「はい、隊長」
教え方で言えば、凪のほうが断然うまい。
体に入ってくる感覚が実感できるほど、その成果はすごかった。
だが、やはり琥珀の事が気になってしまう。
琥珀のほうがいいというわけではなくて、どうして急にやりたくないと言い出したのか。
最初こそ嫌だといわれてしまったが、それ以降は普通に付き合ってくれていたのに。
【凪】「はぁっ!」
【一刀】「くっ」
凪の一撃を受けるたびに、思考が現実に引き戻される。
考え事をしている場合ではない。
【一刀】「でやぁっ!」
刃を潰してはいるが、使っているのは本物の鉄剣。
思い切り振ることが出来るようになったのは、戦を……殺し合いを経験したせいだろう。迷いが即終わりを意味している世界なのだから、怪我で済む程度の武器なら迷うことは無い。
――凪との稽古が終って、俺は陳留へときていた。
政務の事で寄ったのだが、少しずつ変化している街を見てみたくなった。
聞こえる店主の叫び声で耳が痛くなるほどに、活気はさらに増していた。
よく晴れた空で、この町みたいに、明るい太陽が昇っている。
がやがやとした街の中を進んでいって、とある店の前で立ち止まった。
【一刀】「…………」
ずいぶん懐かしく思えるほどに、そこはずいぶん昔に行ったきりに思えた。
その店は、初めて薫と出会って、春蘭に見つかって、秋蘭につれられて、華琳と話した場所だ。
始めの薫と春蘭のやり取りを思い出すだけで、噴出しそうになる。
おかしな話だと、今なら笑える。
記憶を辿っていくように、懐かしさに身を任せながら、俺は視線を動かしていく。
店の次は表通り。あの時はまだ不審者扱いだったから、春蘭もずいぶん乱暴だった。……乱暴なのは今も変わらないか。
その後、その大きな道を歩いていって。
【一刀】「あれ……」
【???】「…………」
そこには、一人の人間がいた。
大きな衣を纏っていて、年齢どころか、性別すらわからない。
占い師のようで、小さな卓を置き、地に座り込んで何かを覗いている。
別段おかしなことはなくて、街が大きくなれば、それだけ商いの種類も増える。
当たり前の事なのだが、どの占い師は、どうしてか目が離せなかった。
どこかで逢ったことがあるような気がして仕方が無い。
だが、いくら思い返しても、こんな怪しげな人物に心当たりなんて無くて、結局は分からないまま。
【???】「見ていかれますかな」
突然、話し出した声は、ひどく嗄れていた。
【一刀】「え、あ、あぁ……そうだな」
声をかけられた以上、そう答える以外になくて、俺はその占い師の前に立つ。
【???】「ふむ…………」
占い師は何もせず、ただじっとこちらを見ている。
焦れ始めてくるところで、占い師のため息が流れて、俺は踏みとどまった。
【???】「ずいぶんと、変わった相を持っておる」
【一刀】「相?」
思わず出た専門用語らしきものを、無意識にたずねていた。
【???】「これは……破滅……栄光……いや」
独り言のように、占い師は結果を伝えず、ただ呟くばかりだ。
【一刀】「どうなんですか?」
【???】「…………大局に、惑わされぬよう」
【一刀】「――え」
前振りが一切無くて、占い師はこっちが準備する前に話し始める。
【???】「大局に逆らえば破滅が訪れ、大局に従えば地獄がまちうけよう」
聞きなれない言葉に、俺はただ戸惑うしかなかった。
【???】「救いは、お主自身と忘れることのなきように……」
【一刀】「俺自身……?」
俺の問いかけは、返事を受けることなく中空に霧散して、占い師は……
【一刀】「え、いない……?」
ふと俯いた一瞬。その間に、占い師の姿はなくなっていた。
立ち尽くす俺に残ったのは、変なやりきれなさと、意図さえ分からない疑問だった。
――数日後、許昌
陳留から戻った俺が最初に言いつけられた任務。それが――
【一刀】「なんでお前と買出しなんだ……」
【薫】「まぁまぁ~。どうせ暇なんだし」
洛陽の一件以来、治安は驚くほどに向上していた。
やはりあれだけの戦の後ともなれば、賊も下手には動けないらしく、その分俺が暇になっているわけなんだが。
【一刀】「なんでお前まで暇なんだよ」
【薫】「だって、稟とか風とかが仕事全部もってっちゃうんだもん」
それはまぁ、分からなくもない。正直あの二人の有能さは異常だった。
霞や華雄なども加入があったが、ふたりには悪いがおそらくあの二人のほうが影響は大きいだろう。
【一刀】「お前……がんばれよ」
【薫】「なんかすっごいむかついたっ!」
【一刀】「ははは」
こうして暇なもの同士、ゆっくり買物できるのも悪くないが、正直少し切なかった。
そうして、夕方くらいまでかかって、ようやく在庫がつきかけている物を補充し終わり、一日の仕事が終ろうとしていた。
【一刀】「やっぱ、ここなんだよな」
【薫】「……まぁね~」
少しの風が吹いている。寒いと涼しい、どちらともいえる風。
振り返れば、こちらでは薫が一番付き合いが長いんだよな。
数分でしかないけど、その数分も、随分大きく感じられるものだ。
【薫】「あんたに話しとく事あったりするんだけど、聞く?」
【一刀】「聞いて欲しいんだろ?」
【薫】「あはは♪そうかもね~」
今日の買出し、俺を指名してきたのは薫だった。
終ってから、ちょっといいかと言って、ここへつれてきたのも薫。
【一刀】「お前また変になってるぞ?大丈夫か?」
【薫】「うん?そんなことないよ」
否定はしているものの、いつもなら反発するような発言が全部スルーされている。
わざとなら嫌われていると思っても仕方ないだろうが、ならこんな場所には呼び出したりしないだろう。
【薫】「えっとね」
それっぽく仕切りなおして、薫が話し始めた。
【薫】「あたし……」
時刻は、夕方。
昼と夜の間。
茜色の空は、黒へと変わっていく。
【一刀】「……?」
疑問と同時に、俺は、嫌な予感が止まらなかった。
さっきまで見ていた薫の顔が見えない。
薫は顔を伏せている。
俺に、何かを見せないように。
【薫】「…………」
黙ったまま、立ち上がって――
【薫】「ここ、出て行くよ♪」
――……。
【一刀】「……は?」
本当に、そうとし言えなかった。
笑って振り向いた薫の瞳は、赤色ではなかったから。
けれど、それを言及しようとした瞬間。
【一刀】「――ぐっ……!」
薫の後ろから、突風みたいに、青い風が流れてくる。
【薫】「あたしね、一刀。全部教えてもらったんだよ。もう一人のあたしにさ」
風が吹く中で、薫は平然と言葉を続ける。
【薫】「あんたが天の国とかじゃなくて、違う場所から来たんだって事も知ってるよ」
【一刀】「な、お前――!」
なんとか片目を開けて薫を見据えるけれど、それでもはっきりとは見させてくれない。
口元は笑っている。口調も明るいのに。
【薫】「あんたが、華琳を……琥珀を……”『魏』”の皆を、好きだってことも」
知っているはずの無い、国の名前。
【薫】「なんであんたが、いきなりあたしの字まで知ってたのかって事も」
最初に会ったときに、話したこと。だけど、薫はほとんど理解はしていなかった。
【薫】「だからね、一刀」
薫は元気に、いつものように、明るく、俺の名前を呼ぶ。
【一刀】「待て、かお――」
【薫】「――あたしが、それを”遺して”あげるから。だから……」
風が弱くなって、ようやく開いた目が捕らえたのは――
【薫】「――さよなら」
――片方だけが金色で、片方だけが赤色で、笑いながら濡れた、薫の瞳だった。
最後の言葉が消えていくと同時に、薫の姿は、城壁から消えて、その場にはただ夜空の暗さだけが残っていた。
――カヲルソラ第3章・覇道編
――『さよなら』
【一刀】「――っ!?」
頭の中に流れた声で、飛び起きるように目が覚めた。
息を切らしながら、周囲を眺めると、部屋には誰もいない。
早朝の自室に誰かがいるはずも無くて、安心したように、ため息がでる。
夢にまで出てくるほどに、あれは強烈だった。
あまりに突然すぎて、その瞬間は理解できないでいたが、こうして時間が経ってくると、実感が少しずつ出てくる。
あれから、薫は姿を消した。
当然、華琳にも報告して、捜索もして、それでも薫は見つからなかった。
そのことを聞いた華琳の顔は少し沈んでいたものの、どこか納得している様子でもあって、それが何故だかすごく落ち着かない。
なんでそんなに落ち着いていられるんだ、なんて詰め寄ってしまうほどに。
しかし、今考えれば、それも軽率だっただろう。華琳だってショックを受けていないはずがなかったんだ。
重い体を強引に寝台から起こし、上着を着て、外へ出る。
がちゃりとした音が随分大きく聞こえた気がした。
【一刀】「…………え」
【琥珀】「…………」
開いた先には、随分久しぶりに思える小さな体があった。
【琥珀】「…………こっちに来い」
【一刀】「え?……お、おい、琥珀?」
口調だけ聞けば以前に戻ったように思えるが、その表情は相変わらず少し伏せていて、目が合うことはなく、軽く茹で上がっていた。
朝からなんなんだと思いながら、琥珀についていくこと数分。
どんどん歩いていく琥珀は、城を出て、街を抜けて、ついには城壁までやってきた。
【一刀】「…………華琳?」
そこまでつれてこられて、俺が目にしたのは、華琳の背中だった。
確認するように琥珀に目を移すと、呼んでるとだけ、小さく答えた。
逃げないように言われているのか、俺が前へ歩きだしても、琥珀はその場から動かなかった。
【一刀】「どうしたんだ、琥珀まで使って」
【華琳】「あなたを呼ぶには最適でしょう?」
遠くを眺めたまま、華琳の声は少し笑っていた。
【華琳】「薫の事だけれど」
【一刀】「あぁ」
どこか予想はしていた。
今のタイミングで俺が呼ばれるなんて他に見当たらないからだ。
【華琳】「あの子は、今は涼州にいるそうよ」
【一刀】「見つかったのか!?」
【華琳】「えぇ、もっとも目撃した時の薫の向かっていた方角と日数から計算しての事らしいけれど」
【一刀】「涼州……馬騰のところか」
【華琳】「えぇ」
少し間をあけて、華琳は言葉の続きを話す。
【華琳】「一刀」
【一刀】「うん?」
大方の予想はつく。
【華琳】「薫を追いなさい」
【一刀】「…………」
【華琳】「馬騰には使者を出すわ。一時的な同盟とでもすればいいでしょう」
俺を呼んでから初めて見せた顔は、ひどく真剣で、それが余計に俺の返事を鈍らせる。
【一刀】「…………華琳」
【華琳】「……いえ、いいわ。私も少しあせっていたのかもしれないわね。明日までに考えておきなさい。ここに残らないといけない理由があるのなら、そちらを優先しなさい」
これは、任務じゃない。
臣下がひとり抜けた。いわば裏切った。そういうことだ。
それが涼州にむかっているんだから、薫を知っている幹部クラスならある程度考える余地はあるだろうが、知らない者達からすれば、曹操を裏切り、馬騰に付いたとしか思えない構図だ。
俺が薫のところへ向かうことにためらう理由は二つ。
一つは、その裏切りに拍車をかけてしまうんじゃないのか。
ここで天の遣いが司馬懿を追うことで、どんな影響がでるかわかったものではない。最悪、曹操は天に見放されたなんて風潮がでてしまうかもしれない。
華琳にとっては、それはどう考えても不利だ。それらを押しのけてでも薫を追うことが本当に正しいのか。
もう一つは、今も後ろで待っている琥珀の事だ。
洛陽の後から、明らかに様子が変わっている琥珀。気にならないといえば嘘だ。
ただでさえ琥珀は以前から気になることが多かったのに。
【一刀】「わかった」
それが分かったのか、華琳は時間をくれた。
結論は明日でいい。
あとがき
ここが言っていた分岐点です。
⇒薫の跡を追う
⇒許昌に残る
の選択肢ですが、上で薫シナリオ。下で琥珀シナリオです。
悩みましたが、やっぱりTINAMIにはどちらか片方だけにしようと思います。
希望あればコメントのほうにでもお願いします。
上がらなかったほうを希望する方は僕のHPまで来てください(テラ宣伝
ではでは~
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なんか章が変わるたびにタイトルが変わっている気がするが、こまけぇこt(ry
共通√なんてやりましたけど実質この1話のみです。
まぁ、今までの話全部とこのお話が共通だとおもってください。