黒が、自分の言をもう一度宰相に言い直している。
リウヒはため息をついて、額に手を当てた。
卓を囲む臣下たちは、不思議なものを見るような目で自分を見ている。
何で言葉が通じないのだろう、わたしは別にジン語を話している訳ではないのに。
いやいや、宰相もジン語ぐらい分かるだろう。ではなぜ通じないのか。
不思議だ。
「なりません!」
ようやっと理解してくれた、白髪の老人が声を強めた。
「大学は伝統ある学問の最高機関です。それをなくせとはどういうおつもりですか」
「そうは言っていないだろう。シラギ、どういう伝え方をしたのだ」
もう一度ため息が出る。
「学問にかかる金の見直しをしたらどうかといったのだ。民の中にも、優秀な人物は一杯いるはずだ、その者たちにも可能性を見出してやりたい」
「金がかかって当たり前のことなのです、勉学とは。それよりもですな、陛下。税を元に戻されたものの、未だに本殿の奥は工事が進められております。予算が…」
「足りないと?」
「左様でございます」
ならば、国王以下重鎮全員で、賃金稼ぎをしてはどうか。中々に楽しいぞ。
口元から出かかった言葉をリウヒは慌てて呑み込んだ。さすがに言える雰囲気ではなかったのである。
「目利きの女官を集めてくれ。別に男でもいい、飾り物や衣に詳しいものを」
「何をなさるおつもりで?」
「先王とショウギの衣と飾り物を売っ払ってしまおう。国宝級の物は手元に残す」
宰相は、ぱっかり口を開けた。シラギや臣下たちも、同じく口を開いた。
いっそすっきりして良いではないか。というリウヒの声は、静寂の中にぽつんと響いた。
それを打ち破ったのは、カグラの笑いだった。
「先王はともかく、ショウギのものは高値で売れるでしょう。衣も簪もふんだんにありますし、陛下のお好みには合わない」
ショウギの元愛人は、クツクツとまだ笑っている。
援軍を得て、リウヒは得意げに顎を上げた。
「それでよいな」
白髪の老人は、まだ呆けたまま頷いた。物を売るという発想がないらしい。
正午の鐘が鳴って、臣下たちは一斉に頭を垂れる。トモキに椅子を引かれて、リウヒは飛び降りた。
「本日の昼餉は本殿で召されてください。政務の前に、スザクの長との面会がございます」
飯ぐらいゆっくり食わせてくれ。
「分かった。トモキは食堂へゆくのだろう」
「はい。では御前失礼します」
丁寧に礼をすると、トモキは急ぎ足で北寮に向かった。リウヒは首をかしげる。
何故、あの兄は最近ちょくちょく北寮の食堂へいくのか。
「ひどい男ですね。主を置いて」
「トモキらしくないな。どうしたのだろう」
後ろからカグラとシラギの声がした。
「何かうまい定食でもあるのだろうか」
陛下はまだまだ、色気より食気のお年頃なのですね、とカグラが苦笑した。
一日の終わり、夕餉の前にリウヒは東宮の小庭園で城下を見下ろす癖がついた。
日没と共に空は様々に色を変えて、大地を彩る。
後ろにはトモキが控えている。
「なあ、トモキ。わたしは王というものは、何でも命令できると思っていたよ」
鶴の一声で、宮廷は動くものだと思っていた。ところがそんなに生易しいものではなかった。今までの慣習がある。長年積み重なった慣例もある。宮は宮なりの規則が存在し、全てはそれに則って動くようである。
流されて、巻かれてしまえば、その方が楽なような気がした。
「もしかしたら先王は国務に疲れ果てて、ショウギに逃げたのかもしれないな」
王なんて、ただ存在していればいい。国を動かすのは別に王でなくてもよいのだ。
逃げた方が楽じゃないか。遊び暮らしても、国は宮がある限り機能する。
それでも、わたしは民に誇られる王でありたいと思う。民が暮らしやすい国作りをするのが、わたしの義務であると思う。
「もし陛下が逃げたりしたら、必ずぼくが追いかけて捕まえますから。ぼくだけじゃない。シラギさまやカグラさま、マイムさん、キャラ、カガミさんも治してもらって一緒に」
あの愉快な仲間と一緒に。
リウヒは声を上げて笑った。
「ならば兄さまもいることだし、海を渡って逃げてやろう。みんなが追いかけてきてくれるなんて、楽しそうじゃないか」
「陛下」
「冗談だよ」
リウヒは振り返り、クスクス笑った。
「ここがわたしの居場所だ」
みんなのいるこの場所。
そしてトモキに近づき、その手を取って歩き始めた。トモキは素直に付いてくる。
「にいちゃん」
やっと言えた。ずっと言いたかった。
案の定、トモキは驚いた顔して固まっている。
その顔に、リウヒはしてやったり、とクスクス笑いを継続した。トモキもつられたように笑った。
「早く帰ろう。腹が減った」
「そうですね」
「今日の夕餉はなんだろう。菜飯じゃないといいけれど」
笑いあう二人は手を繋いで東宮へと向かう。
まるで仲のよい兄妹のように。
太陽はトモキとリウヒの影を濃く地に落として、西に沈みかけていた。
****
足が闇に沈みこむ。意識も引っ張られるように薄れてゆく。
ああ、そうか。
わたしたちはまた、現代に帰るんだ。
ぼんやりとした意識が戻り、リウヒは朦朧とした頭に手を当てた。
かすかな光が遠くに見えて呑気な鳥の鳴き声がうっすら聞こえる。
「動くなよ」
下からくぐもったシギの声が聞こえた。
「しばらくこのままでいい」
「馬鹿」
丁度胸のあたりにあった、オレンジ頭を抱え込む。
「帰って来たんだね…」
「うん」
「本当に帰って来ちゃったんだ…」
「どうでもいいからさ」
押し潰されたようなしかし苛立ったような声が、さらに下から聞こえた。
「頼むからさっさとどいてくれないかな…。君たちは殺人級のバカップルだよ」
古代で過ごしていた二年強と、現代も同じ時間の流れだった。
宮廷跡の森から抜け出した三人は、近くの交番に保護を求め、それからあれよあれよという間に警察に連れて行かされたり、病院に閉じ込められたり、泣き叫んでやってきた両親と再会したりした。
半乱狂で泣き縋る両親に、申し訳なさが募った。
「こめんね、お父さん、お母さん。心配かけて」
「一体、リウヒたちはどこへ行っていたの?」
「覚えていないんだ」
そう言う事にしておこうと、三人で話し合ったのだ。
「なんかすごくややこしくなりそうじゃねえか」
「もしかしたら、またタイムスリップする人が出るかもしれない」
「全て知らぬ存ぜぬで突っ切ろう」
しかし、身に付けていたのは、一千年前の古代の衣だ。それは取り上げられて、どこかの研究機関へと持っていかれたらしい。
ハヅキの簪だけは死守した。だって、おばあちゃんになっても持っていると約束したもの。
神隠しに会っていた大学生三人が、古代の衣装を着てひょっこり帰ってきたことを、メディアは大々的に取り上げた。
特にリウヒは、その名もあってか執拗に追いかけられた。外を出ることもままならない。ひっきりなしに訳の分からない電話はかかってくる。身を寄せている実家の周りには常に報道記者が待ち構えて、出勤する父や買い物に出る母に襲いかかった。
テレビをつければ、マイクを持ったレポーターがなぜか恐ろしげに実況しながら実家を映している。閉口してすぐに切った。
「みないほうがいいよ。すっごく面白いけどね」
電話の向こうでカスガが笑った。
「なんでか知らないけど、小学校の時の文集で書いた将来の夢とか暴露されていたよ。リウヒ、鳥になりたいって書いていたんだね」
「ぎゃー!過去の汚点!」
「一回しか会ったことのない親戚のおじさんがさ、すごく偉そうにぼくのことを語っていたんだ。もう父さんと母さんと大爆笑でさあ」
「カスガ、すごいね。わたし、そんな笑い飛ばすなんてできない…」
リウヒの精神はすっかり参ってしまっている。
父と母に守られているものの、世間の関心が自分に集中している事が恐ろしくてならない。
「大丈夫だよ。じっとしていれば、その内過ぎ去っていくからさ」
「うん…ありがとう」
カスガの電話を切って、すぐにシギにかけた。シギも母親の元にいる。
声が聞きたくなる。声を聞くと会いたくなる。痛切に。
「おれもお前に会いたいよ」
受話器の向こうから、シギの痛々しい声がした。
「あのまま古代で暮らしていた方が良かったのかもな」
「でも、それだったら、わたしの両親に、シギを紹介できないじゃん」
わざと明るい声をだして、リウヒが笑った。
本当は泣きたかった。こんな大騒ぎ、もう嫌だ。シギに会いたい、カスガに会いたい。三人で呑気に笑いながら、旅をしたい。濃く青い空の下を。
カスガが聞いたら、またバカップルと連呼されそうな甘い会話をした後、パソコンを立ち上げた。
避けて通っていたハヅキのことを調べようと思ったのである。
シギもカスガも何か隠しているみたいだった。だけど、ハヅキが何をした人物であったのか知りたい。それがどんなことであろうとも。
その名前は簡単にヒットした。
パソコンの画面を追っていたリウヒの顔が、だんだんと驚愕に変わってゆく。涙がキーボードを濡らしていることすら気が付かなかった。
「嘘でしょう…?」
****
「嘘だろう?」
「嘘じゃねえよ」
「なんで?どうして?あんなにうっとおしいほど、ベタベタしていたバカップルだったのに…」
「リウヒがハヅキを知ったんだよ」
ケータイの向こうのうろたえた声は、ああ…と納得したように変化した。
シギは煙草に火を付けた。
古代であんなに軽く感じた体調は、ニコチンのせいで、また重くだるく沈んでゆく。
「ごめん、別れたい」
つっかえながら、嗚咽とともにかかってきた電話にシギは仰天した。
会って話したいと言うと、会いたくないと言う。
いても経ってもいられずに、玄関前で張っていたマスコミを蹴散らして、リウヒの実家に走ると、ここにも大量の報道陣が詰めかけていた。
「リウヒ!」
呼び鈴を押しても、玄関の戸を叩いても無駄だった。ただ、沈静化していたマスコミを、突いて騒ぎを大きくしただけだった。
メールをしても、電話をしても、うんともすんとも言わない。
理由を説明してくれとのメールに、
「わたしがハヅキに会わなければ、あの子はあんなんにならなかったよね」
とだけ返答が来た。
「それにしたって、一千年前のことじゃないか」
「おれもそう思うよ。だけどきっとリウヒにとっては二年前のことなんだ」
ぼくもちょっと電話をしてみる、と言ってカスガは電話を切った。
あんの馬鹿。本当に自分のことしか考えていない。
壁に凭れて、煙を吐く。
ハヅキは義理の妹と実の兄、なにより祖国を売った大悪人だった。
ジンに渡り、ヤン・チャオをそそのかして、ティエンランに攻めるように仕向けた。溺愛していた愛姫スズを殺されて、傷心のあまり冷血になってしまった新王は、ハヅキの言にのり大軍を率いて小国に攻め入ってくる。
そしてティエンランで最も有名な女王リウヒは、愛する夫シラギを失ったのだ。
ハヅキはその名前よりも、宰相トモキの弟として有名だった。だから、シギも分からなかった。酒場で愛おしそうにリウヒの髪を梳き、自分を燃えるような目で睨みつけてきた、あの少年が、まさか第一の侵略の原因を作った男だとは。
きっと、退学したハヅキは、惚れていたリウヒを探しにジンに行ったのだろう。そこで何があってヤン・チャオと縁を結んだのかは諸説あり、はっきりとは分からない。
だが、リウヒがハヅキに出会わなければ、ジンからの旅人とは言わなければ、もしかしたら侵略はなかったのかもしれない。
全ては一千年前に終わってしまった。
それをあんの馬鹿。
煙草を灰皿に押しつぶして、シギはため息をついた。
別れるつもりなんてサラサラない。
「好きにするがいいさ」
自分の声は、藍色のぼんやりした闇間にぽつりと漂った。
「どうせお前は、おれの元に帰ってくる」
****
以前の蜂の巣をつついたような大報道は、二か月もするとあっさり消えてしまった。
事件や事故は日々起こる。ニュースもワイドショーも世間も、それになぞらって動いてゆく。
現代人はせわしないねぇ。
カスガはのんびりと鼻歌を歌いながら、父親の車を運転している。横の助手席にはリウヒがいた。
目の隈が濃く、顔色も悪い。随分とやつれたようだ。ショックは未だに抜けてないらしい。
「どこに行きたい?今日はリウヒの行きたい所に連れてってあげるよ」
「古代にいきたい」
ハキのない、ぼんやりした声だった。
「一千年前に行きたい」
「行ってどうするの?」
「ハヅキに…」
そのまま黙ってしまった。
「リウヒ、一人で宮廷跡のあの洞窟を捜しに行っていただろう」
リウヒは黙ったままだ。
「ぼくも何度か行ったんだよね。でもあの小道を辿ってもあっさり駐車場に出るだけだったし、洞窟なんか見つからなかった」
「うん…」
「海にでも行こうか」
ウインカーを点滅させ、ハンドルを切りながらカスガが言った。
秋の海は、曇り空のせいかどんより沈んで見えた。人影も全くない。
「結局さ、蔵を漁っても、家系図を調べても思わしいものは出てこなかった」
「そう」
「シギがまた下宿したって聞いた?」
「うん。メールが来た」
ぽつぽつ話しながら、砂浜に腰を下ろす。
「ぼくは大学に戻ることにしたよ。教授も歓迎してくれたしさ」
「そう」
「リウヒはどうするの?」
何も考えていないと首を振った。
会話はそこで止まった。心なしか淋しげな波の音だけが響く。
「リウヒさ」
横を向くと、膝に埋もれるようにして、海を眺めている幼馴染を見た。
「君だって分かっているだろう。歴史が全て真実とは限らないってこと。ハヅキは、もしかしたらジンの王に利用されていたのかもしれない。案外、幸せだったのかもしれない」
「ヤン・チャオに殺されたことが?」
カスガは口をつぐんだ。
「すごく優しい子だったんだ」
近くにあった貝殻を拾って、いじりながらリウヒが言った。
「小さな頃から疎外感を感じていて、寂しかったんだよ。もっと話をきいてあげればよかった」
ぽろぽろと泣き出した。
「わたしが旅にでなければ、あの商家にバイトにいかなければ、あの子に会わなければ、あんなことにはならなかったのに…。ハヅキを知らない人たちから、あんな糞味噌に書かれることもなかったのに」
「大丈夫だよ。きっと転生して、どこかで元気に暮らしているだろう」
藍色の頭を引き寄せて、慰めるように撫でる。
「会いたいな」
わたしを覚えてくれているかな。
しばらく海を眺めて静かに泣いていたリウヒが、顔を上げた。
「ありがとう、カスガ。少し楽になった」
照れたように泣き笑いの顔になった。
「良かった。スザクでご飯でも食べて帰ろうか」
「うん」
ポケットから車のキーを取り出す。それを見た瞬間、リウヒが大声を上げた。
「ああっ!」
「えっ!何っ?どうしたの?」
真っ青になって、キーを凝視している。
まさか、運転したいとか言い出すんじゃないだろうな。発進したとたんに死ぬぞ、きっと。
「カスガ、カスガ。この、これ、これって…!」
「車のカギだけど」
「じゃなくて、このキーホルダーって…」
「ああ、うちの親父って昔から、なんかこういうデザインが好きらしくって。ケータイにもこんな、シャラシャラしたのが付いているんだ」
銀色で三連の大小の輪が連なっており、細長い棒状の飾りと小さな鈴がついている。なんの変哲もない、ただのアクセサリーだ。不満を言えば、シャラシャラしすぎて邪魔で仕方がない。
「えっ?でもいやいや、ええ?」
「どうしたの、リウヒ。さっきからおかしいよ」
リウヒは小さく震えながら、カスガの腕につかまってキーを見ている。
「あのさ…。前世で持っていた物も受け継がれるのかな…」
「それはさすがにないんじゃないか。でも、思い入れの深い物なら、生まれ変わっても執着するかもね」
「カスガぁ…。わたし、駄目だ…」
今度は、子供のようにしゃっくりをあげて泣き出した。薄い肩が激しく震える。
「ああ、もう泣きやんだと思ったら、またおお泣きしだして…。顔が腫れるよ」
雨でも降り出しそうな空の下、カスガは困りきって、藍色の髪をワシワシといつまでも撫でていた。
****
リウヒはアパートの扉の前で、ため息をついて髪をかきあげた。
この扉の向こうには、シギがいる。でも怖くて呼び鈴が押せない。
別れを告げたのは自分なのだ。半年も前に。エロ河童のことだもの、新しい彼女と一緒に仲良く過ごしているの違いない。
わたしはなんでここに来たのかな。謝りにきたんでしょう。例え許してもらえなくても。
外に面している廊下はひんやりと寒かった。コートの襟を掻き合わせ、数歩下がって手すりに凭れた。
ハヅキは、カスガの父に生まれ変わっていた。幸せに年をとって、柔和な顔をしたおじさんは、瞳の色も、髪の毛もハヅキと一緒だった。が、記憶までは引き継がれていなかった。それでいいと思う。カスガの父は、祖国を売った悪人の前世だったと知ったら、ショックを受けるに違いない。だから何も言わなかった。
「リウヒちゃんが、うちに遊びに来るなんて久しぶりだな」
呑気に茶を啜りながら笑った。
「ゆっくりしていきなさいね」
菓子をだしながらおばさんも笑った。
わたしは一千年後に帰ってきたのだ。今更、ハヅキの運命を変えることはできない。でも、ハヅキはハヅキなりの葛藤や考えがあったはずだ。それを知りたいと考えて、カスガと共に、大学のゴリラそっくりの教授の下についている。
古代語を読める能力を重宝されて、忙しい日々を送っていた。
父と母には、全てを話した。
「一千年前のティエンランに行っていたの」
都で暮らしたこと、三人で旅をしたこと、セイリュウヶ原の戦。民の歓声、静かに頭を下げた王女、濃く青かった空。
「初めて、あの王女をすごいと思った。ありがとう、お父さん、お母さん。わたしにリウヒの名前をつけてくれて」
父と母は信じてくれた。そして泣いた。
扉の向こうから物音が聞こえた。体が硬直する。とりあえず隠れようとした瞬間に、扉が開いた。
「あ…」
銜え煙草をしたシギが、目を見開いてこちらを凝視している。戸っ手に手をかけたまま、動かない。リウヒも動けなかった。
「お前…」
逃げようとしたリウヒの手を、シギが掴んで乱暴に引き寄せた。
「何で逃げんだよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい!ちょっと心の準備ができてなくて、シギが女の人と一緒にいたら嫌だし、許してもらえないのも分かっていたし、でもわたしが悪いんだし…!」
パニックになって喚いていたリウヒの口は、シギの唇で塞がれた。
「ああ、そうだ。お前が悪い」
噛み付くようなキスは、煙草の苦い味がした。
「おれがどんな気持ちだったか、全然考えてなかっただろう」
リウヒを離さずに扉を閉める。
「どれだけ待ったと思っているんだ」
唇を離して、上を向けられた。シギの目は強く真っ直ぐにリウヒを射抜いている。
「いいか、次は無いからな。二度と離さねえぞ」
「ごめん…」
息をするのも苦しいほど抱きしめられた。その胸の中でリウヒは涙を流した。申し訳なさと、嬉しさがこみあげて心が捩れる。
「本当にごめんね」
二人の足元で、吸いかけの煙草が不貞腐れたように紫煙をくゆらせていた。
****
あれから二年が経った。
シギは大学に戻らずに、つてを頼って貿易関係の会社に就職した。
リウヒはカスガと一緒に、大学院でティエンランの研究をしている。
三人の関係は相変わらずだ。所構わずリウヒといちゃつき、カスガにバカップルと連呼された。そしてセイリュウヶ原や、海へと連れまわされたが、あの悲しい声はもう聞こえなかった。
そのカスガに彼女が出来た。教授の娘でいつの間にかくっついていたとリウヒが言った。
「ゴリラの娘はやっぱりゴリラなのか」
「全然。赤毛の可愛い子でさ。なんと高校生」
「は、犯罪者…」
「昔はカスガに大切な人ができるなんて耐えられなかったけど、不思議なもんだね。すごく嬉しいんだ。大人になったのかな」
「お前のここは全く成長しないけどな」
ぺラリと胸元を覗くとエロ河童と殴られた。
小雨が降る中、シギは小さなビルの階段を上って、ふと窓ガラスに映る自分を見た。違和感なくなじんでいるスーツ姿に苦笑する。この体に古代の服を着ていた時もあった、と感慨深く思いながら、黒い扉を開けた。
こじんまりとしたバーの奥でリウヒが手を振っている。カスガもいる。
お仕事お疲れ。カスガ久しぶりだな。賑やかに挨拶をして席に着いたときに、リウヒが喜々としながら鞄を探った。
「ね、知ってる?愛姫スズの墓が発見されたの」
「ニュースで見たぞ。骨を元にCGで復元してるんだろう?」
「すでに入手済みであります!公開は明後日になると思うけどねー。じゃーん」
ぺらっと差し出された写真を何気なく見たシギは、飲んでいたビールを盛大に吹いた。
「ちょっと!なにするの、汚いな!」
「あまりにも美人で、びっくりしたんじゃないの」
前の席に座っているカスガが笑う。
「こ、こ、こ。これ…!」
「だから、愛姫スズだって。年の頃は二十歳前後で、身長百五十センチくらい。ちっちゃい子だったんだね」
「ヤン・チャオが百八十くらいあったから、大小カップルだったんだね」
「んなことは、どうでもいい!これ、ワカじゃねえか!」
リウヒとカスガは、きょとんと顔を見合わせていたが、誰それ?と同時に首を傾げた。
「おれが最後にバイトしていた所にいた女の子だよ…」
見間違いなんかじゃない、数か月間、毎日顔を合わしていた。ほとんど呆然として写真を見ながら、シギは話し始めた。雇い主の下で働くものだと言っていた、可愛らしい不思議な少女。リウヒを見つけ出してくれた少女。あの子…殺されたんだ…。
「闇者って呼ばれる集団がいたんだ。金次第でどんな依頼もこなす連中だったらしい」
カスガが何故か声を低める。目は血走って、心なしか鼻が広がっていた。
「ジュズも金持ちそうだったな」
「ヤン・チャオは、愛姫スズを失って、自棄になってハヅキの提案に乗ったんだよな。だけど、その愛姫が闇者だったら…目的はなんだったんだ…」
こうしちゃおれないと、カスガは腰を上げた。
「大学に戻る!お金は立て替えといて!お休み!」
慌しく出て行ってしまった。
「お前は行かなくていいのかよ」
「そんなひどい顔しているのに、放っておけないよ」
そうか。そんな顔をしているのか、おれは。
「案外、幸せだったかもだよ。この子」
写真を見ながらリウヒが言った。
「ヤン・チャオに笑っちゃうくらい愛されていてさ。滅茶苦茶に仲が良かったみたい。しってる?ジンでは溺愛している彼女とか奥さんのことを、愛姫っていうんだよ。ヤン・チャオと愛姫スズからきた言葉なんだ」
「…好きな人がいるっていっていたんだ」
その写真は、精巧に出来ているものの、やはり本人の方が数倍可愛い。
「怖くて優しい人だと言っていた。その人とはどうなったんだろう…」
もしかしたら、ワカは仕事で近づいたターゲットを、本気で好きになってしまったのかもしれない。それとも、全て演技だったのかもしれない。シギには分からない。が、前者であればいいと願う。
つかの間でも幸せならば。
「この子が闇者で、愛姫の死が仕組まれたものだったら、黒幕はなにが狙いだったんだろう。もし、ティエンラン侵略なら、ハヅキだけが原因じゃない…」
しばらく考えるように、一点を見つめていたリウヒは息を吐いて、気分を切り替えたらしい。甘えたように身を寄せた。その肩に手を回す。
「わたしね」
「うん」
「歴史ってあそこに行くまでは、ただ年表を覚えればいいものだと思っていた。でも、違うんだね。色んな人たちのドラマが積み重なってできるものなんだね。調べれば調べるほど面白い。本当は、直接その時代に行ってこの目でみたり、本人にインタビューしたいんだけど。今更になって、あの時のカスガの気持ちがすごく良く分かる」
「お前の口からそんな言葉がでるとは、思ってもいなかったよ」
クスクスと二人は笑った。
「明日さ、どっか行きたいところあるか」
絡まる指を優しく愛撫しながら聞いた。久しぶりに二人で過ごす休日だ。渡すものもある。
「カスガ曰くの、バカップルコースがいいな」
「了解」
薄暗い店の片隅で、蕩けるようなキスを交わす。うっすらとかかるジャズや、グラスの音や、人々の会話を遠くに聞きながら。
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ティエンランシリーズ第三巻。
現代っ子三人が古代にタイムスリップ!
輪廻転生、二人のリウヒの物語。
「嘘でしょう…?」
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