No.115963

アリセミ 第十三話

なにやら急遽料理を作ることになった山県有栖(やまがた ありす)と真田清美(さなだ きよみ)。
女の戦い勃発かッ!?
そんな中 少しづつ明らかになっていく清美の真意。
事態はどう動くのか?

2010-01-02 04:07:30 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:1272   閲覧ユーザー数:1175

 

   第十三話 女たちの会話

 

 

正軒「なぜ料理?」

 

 正軒が当然というべき疑問を口に出す。

 あまりにも唐突すぎるのだ。それまでの会話の流れから、料理のことがでる余地なぞ一つとしてなかった。

 

有栖「なに、お前だって腹が減っているだろうと思ってな。満腹になればイライラする気持ちも治まるだろうし、もっと和やかに話ができるはずだ」

 

正軒「……イヤ大丈夫だよ、今日なんて先輩のおかげで物凄く栄養価の高い昼メシを喰うことができたんだから、アレでもう10年は戦える」

 

 昼休みに有栖から豪華なデコ弁を振舞われている正軒だった。

 しかし、言った傍から

 “ぐぅ~~”

 と腹の虫が鳴く。

 

有栖「食べたものをスグ消化してしまうのは元気な証拠だ」

 

 有栖は、正軒の腹の音を聞いて笑う。

 意見が衝突しているものの、正軒と清美には必要以上に いがみあってほしくはない。

 そんなときこそ料理であった。美味しい食べ物で人間関係を修復するのは山岡士郎の常套手段だ、有栖も今日はその手に あやかることにしたい。

 

清美「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 横から清美が立ち上がった。

 

清美「清美にも調理をさせてください!」

 

有栖「え?」

 

 清美は わりかし本気の目である。

 

清美「本日は、清美の身勝手な振る舞いで正軒さまに多大な迷惑をかけてしまいました。どうかその失態を償うために、腕によりをかけた料理を拵えることで汚名挽回させてくだいませ!」

 

有栖「汚名は返上するもの……」

 

正軒「挽回するのは名誉……」

 

 どうも清美は混乱しているようである。

 それだけ、正軒に許してもらおうとテンパッていることは痛いほどにわかるのであった。

 有栖も そのあたりを視線で正軒に訴えかける。

 

有栖「(正軒…、空気読め、空気読め…!)」

 

 なんやかやで既にツーカーな有栖と正軒、想いは憎たらしいほどにクリーンに伝わり、正軒はふてくされずにはいられない。

 

正軒「…………好きにすれば」

 

清美「あ、ありがとうございます!」

 

 パッと表情を輝かせる清美であった。

 

 

              *

 

 

正軒「…………問題は、ちゃんとした料理が出てくるかどうかだな」

 

 正軒は、自室の洗い場に並ぶ二つの尻を見詰めながら呟いた。

 有栖と清美。

 正軒の借りているアパートの部屋は六畳のワンルームで、炊事場も部屋の片隅に備え付けられた簡易キッチンになっている。だから二人が調理する模様は、逐一正軒の目から確認できるようになっていた。

 思えば、この部屋で女性が調理を行うなど初めてのことである、これはこれでレアなイベントだと思うのだが、正軒はなぜか ちっとも心がときめかなかった。

 

 …イヤ、まあ有栖に関しては、既に昼間のデコ弁で料理の腕の確かさは実証済みである。だからけして「おじいちゃんといっしょ」みたいなオチにはならないはずだ。うん そうだ。

 しかしもう一人の、真田清美に関しては、料理の腕はいまだ未知数。

 しかも彼女は生粋のお嬢様なのである、放っておいたら一生 厨房になど立たなくていい ご身分。

 そんな子が『料理します!』と のたまうのだから、心配にならないと言えばウソになる、が、フォローに入りたくても有栖から『男子 厨房に入ったらブチ殺す』と言われているのだ。怖くて近寄れない。

 よって今、正軒にできることといえば、この不安を抱えたまま二人の尻を見守ることぐらいなのであった。

 一体どうなることやら。

 

 

                 *

 

 

 しかし、そんな正軒の心配とは裏腹に、真田清美は燃え上がっていた。

 

清美「(今こそ、正軒さまに見直していただく絶好の好機!)」

 

 美味しい料理を作って正軒を唸らせれば、もしかしたら その勢いで実家に帰ってきてくれるかもしれなかった。

 実は この清美さん、お嬢様であるのとは裏腹に料理は得意な方である。

 いずれ武田家に嫁ぐ身として花嫁修業の一環に、料理教室へ毎週通っているのだ。

 だから「おじいちゃんといっしょ」みたいなオチにはならないに違いない。

 

清美「(必ず、正軒さまからお褒めの言葉をいただいて見せます!)」

 

 清美が決意を固める その脇で、有栖は既に冷蔵庫の中を検めていた。が、

 

有栖「………困ったな」

 

清美「え?」

 

 いきなり なにやら不穏な発言。

 

清美「ど、どうしたのですか?」

 

有栖「うむ」

 

 

 

 冷蔵庫の中身が まったくない。

 

 

 

 と、有栖は、自軍の不利を伝える伝令兵のような面持ちで言った。

 かくいう正軒宅の冷蔵庫の中身は。

 

 ニンジン。

 ジャガイモ。

 たまねぎ半玉。

 大根の葉っぱの部分。

 パック出しの麦茶。

 パンの耳。

 1/4くらいに減ったバター。

 

 ぐらいなのである。なんとも貧相なラインナップだった。

 

有栖「ほぼ 野菜ではないか…」

 

 しかもいずれもトウのたったクズ野菜。捨てる寸前だったのを八百屋から貰ってきたのが一目でわかる。

 

有栖「予想はしていたが……、やはり どうしようもなく貧相な食生活をしているようだな」

 

 有栖が横目で正軒のことを睨む。正軒は惚けるようにヘタな口笛を吹いていた。

 実家から勘当され、必要最低限の生活費しか支給されない正軒。いつもロクなものを食べてないのは察して知るべしだった。ことあるごとに「食費がどうの」とか、「あと三日間 何を食おう」とか よく言ってたし。

 

清美「あの……、電子レンジは……?」

 

 清美が戸惑いつつも尋ねた。

 たしかに、今の時代どの家庭にも必ず一台あるはずの電化製品が見当たらない。

 

正軒「ん、ないよ そんな贅沢品」

 

有栖「贅沢品て、電子レンジが…」

 

 お前は いつの時代の人間だ?

 

正軒「必要ないだろ そんな。弁当だって冷たいまま食えばいいんだし」

 

有栖「いやしかしだな、冷凍食品とか どうするんだ?さすがにアレにはレンジが必要不可欠だろう?」

 

正軒「冷たいなら冷たいまま食べればいいじゃない」

 

有栖「マリーっぽく言ってるのにゴージャスさがコレッぽっちも感じられないとは珍しい」

 

 どっちにしろロクでもない食生活なのは たしかだった。

 だが、これに困ったのは清美だった。彼女とて料理教室で多くのレパートリーを習ってきたが、さすがに正軒宅の冷蔵庫に入っている食材だけで作れる料理は、どれだけ記憶をたどっても出てこない。

 お料理作戦、早くも難航。

 

清美「仕方ありません、一度 近くのお店に行って、材料を買い揃えて………」

 

有栖「根菜類が多いな。……野菜プディングでも作るか」

 

清美「え?」

 

 早々に諦めた清美に対し、有栖は冷蔵庫にあった貧相な素材だけで即座に作る料理を決定してしまった。

 ニンジン、ジャガイモ、タマネギを、サイコロ大に刻んでいく。その手際の鮮やかなことといったら。

 

正軒「ほほう、やっぱり先輩は色々上手いな」

 

有栖「まあジャガイモがあったからな。それさえあれば料理としての体面はいくらでも保てるが、他にも素材があるのだから使わない手はあるまい」

 

 なんだか余裕の発言。

 

有栖「それから大根の葉は……、あとで醤油で炒っておいてやるか。明日、白ごはんにでも ふりかけて食べるといい」

 

正軒「マジで!サンクス先輩、超嬉しい!」

 

有栖「いや、正直大根の葉とか言ったら それぐらいしか調理のしようがあるまい。お前もそのつもりで買ってきたんじゃないのか?」

 

正軒「いや、ナマでムシャムシャ喰うつもりだった」

 

有栖「ヤギか お前は」

 

正軒「ジャガイモも 芽をつけたままムシャムシャ喰うつもりだった」

 

有栖「やめろよ毒だろジャガイモの芽は!」

 

 などと口を動かす間にも、有栖は 手も しっかり動かして野菜をサイコロ大に切り分けていく。そうして切った野菜を鍋に入れて煮る。レシピを完全に記憶しているのか動作に淀みがなかった。

 

有栖「ウチの父や祖父は人柄か、よく後輩を家に招いてな。それをマネして兄たちも友達を連れてくるものだから、お母さんや お婆ちゃんは毎回 宴会の準備に追われるんだ。しかも大概の場合 予告なしだから、限られた食材で見栄えのよいものを作るっていうことが慣れっこになってしまってな」

 

 有栖も女の子に生まれたからには手伝いをやらされるのは避けられぬことで、そうして母や祖母の後を追っていくうちに料理を覚えたのだった。

 いわば有栖にとっては料理こそが実戦仕込み。

 清美のように料理教室で通りいっぺんのメニューを覚えた人間に対し、不利な状況での凌ぎ方は骨身に染み付いている。

 

 そんな有栖の横で、清美はただオロオロとするだけだった。

 

 剣においては圧倒的優位を占めた清美であったが、台所では立場が大きく逆転。

 

有栖「まったく…、なんで男というのは放っておくと際限なくテキトーになるのか。…栄養バランスとか間違いなく大崩壊してるだろう お前」

 

清美「そ、そうですよねっ、規則正しい生活を取り戻すためにも、一度実家に戻って……」

 

正軒「じゃあ先輩がご飯つくりに来てくれよー、毎日」

 

 唐突な正軒の一言に、有栖の両頬が朱に染まる。

 

有栖「まっ…ッ!?何を言い出すんだッ!?それじゃまるで通い妻じゃないか………!」

 

正軒「通い妻?」

 

有栖「通い妻…………」

 

 清美そっちのけで赤面する二人だった。

 

清美「あうぅぁぅ……!」

 

 清美は、このバカ二名が余人の入り込めない雰囲気を作り出していることに当惑する。

 これでは本当に恋人同士の空気ではないか。

 自分が将来 結婚するはずの人が、既にまったく違う未来を築き始めている、それが今、彼女の目の前にあった。

 清美が我知らずたじろぐと、足元の本の山につまづき、バタバタと崩れる。

 

正軒「うわっ、何やってんだ!」

 

 正軒 大慌て。彼の住む部屋には本棚がなく、畳に本が直置きしてあって、石塔のように積み上げられた本の山が、賽の河原のように いくつも並んでいる。清美が倒してしまったのは そのウチの一山だった。

 

清美「ああ、あの、すみません……」

 

正軒「いいから触んな」

 

 手伝おうとする清美を拒否し、正軒は崩れた本を拾い、また積み上げる。

 

有栖「お前、それ全部読んでるのか?」

 

 有栖が料理の手を止めずに聞いた。この部屋に散乱する本の量は、どうみても200冊はくだらない。

 正軒は、この有栖の素朴な質問に対し、

 

正軒「んや別に、これって“せどり”のために集めた本だし」

 

有栖「せどり?」

 

 セリ科の淡色野菜…。

 

正軒「それはセロリ」

 

 十両より上の相撲取り…。

 

正軒「それは関取」

 

 なかなか当たらなかった。

 

正軒「んー、“せどり”っていうのは、古本屋から安本を買ってきて、その中にある掘り出し物を、欲しい人に高値で売って、その差額分を儲けるっていう商売法のことだよ。場合によっては100円の本が数万で売れることがあるから いい稼ぎになってる」

 

有栖「コレ全部 転売するための?じゃあ別にすべて目を通しているわけじゃないのか?」

 

正軒「いや、読んでるよ?」

 

 どっち なんだよ。

 

正軒「だって ちゃんと内容を理解しておかないと、どれが掘り出し物かなんて わかんないしね」

 

有栖「実家を出てからはアルバイトで生活を工面していると聞いてたが。……こんな風にお金を稼いでいたのか?」

 

正軒「他にもアフォリエイトとかしたり、FXで手堅く儲けたり、あと知り合いに地方誌の出版者さんがいるから、その伝手でライターとかやらせてもらったりね、地元で評判のラーメン屋とかに行って食って感想を書くの」

 

 手広く生きている正軒だった。

 有栖には、半分以上の単語が わからなかったが。

 

有栖「ホントに お前は たくましさが留まるところを……、ん?」

 

 そこで有栖は気が付いた。さっき本を倒した清美が、さっきと依然変わらぬ沈んだ表情で、さっきと変わらぬ体勢のまま動かないことに。

 食材をほとんど有栖に取られ、何もすることがない。仮に食材があったとしても、限られた種類の中で作れるメニューが思い浮かばない彼女は、ただその場に立ち尽くすのみだった。

 

有栖「………………」

 

 有栖、黙考。

 

有栖「…あぁ~~~っと、しまった!野菜プディングを作るのに牛乳がいるのを忘れてた!」

 

 わざとらしいセリフを言い放つ。

 

有栖「というわけで正軒、今すぐ買ってこい」

 

正軒「え?なんで俺?」

 

有栖「いいから!今暇そうなのなんてお前しかおらんだろう!さっさと行って明治のおいしい牛乳を買ってこい!」

 

正軒「それ たしか一番高いヤツ……!」

 

有栖「行けー!」

 

 叩き出すように正軒を送り出す。室内には有栖と清美の二人だけが残った。

 

有栖「……………ま、コレで少しは落ち着くだろう」

 

 うつむく清美を眺めて、有栖が言った。

 

清美「あ、あの、清美は………」

 

有栖「ちょっと手伝ってくれ」

 

 有栖はワザと ぶっきらぼうに言った。

 

有栖「これから私はマッシュルームを炒めないといけないので、代わりに野菜の煮具合を見ていてくれ。充分に柔らかくなったら頃合だからな」

 

清美「は、はあ……」

 

 清美は言われるがままに鍋の前に立つ。

 

有栖「やはり二人いると はかどるな。目の前の作業に集中できる」

 

清美「…………………………ありがとうございます」

 

 清美の、力なき礼の言葉だった。

 

清美「正軒さまに席を外していただいたのは、清美のためなのでしょう?…清美が正軒さまを意識しすぎているから」

 

 グツグツと煮立つ鍋から、煮野菜独特のよい匂いが昇り立つ。

 その隣で有栖が炒めるマッシュルームの焼き音。どちらも食欲をふんだん刺激する。

 

有栖「………正軒は、けっこう心の鋭いところがあるからな」

 

 心が鋭い。

 有栖は、フライパンから目を離さずに言う。

 

有栖「心が鋭いからアイツは、物事の本質を 虚飾抜きに見抜いてしまう。凡人であれば、本質を直接 見るのは あけすけすぎて、真綿でくるんだりオブラートでつつんだりしてしまうものだ。だが正軒の心の鋭さは、そういう肉付けのすべてを刺し貫いて、中の骨子を剥き出しにしてしまう」

 

 ときに その本質が、凡人にとって醜いものの場合もある。

 

有栖「それでもアイツは直視しないと気が済まないんだ。だから あまり気にしないほうがいい。アイツの言葉が ときに厳しくなるのも、アイツの心の鋭さゆえだ」

 

清美「あの……、アナタ様は……、えっと……」

 

有栖「山県有栖だ、修養館高校 三年」

 

清美「す、すみませんッ!…その、有栖さまは、正軒さまとお知り合いになってから………?」

 

有栖「そんなに長い付き合いではない。最初に会ってから まあ一週間といったところか」

 

清美「一週間ッ?たったそれだけの間に、そこまで正軒さまのことを……!」

 

有栖「なんだ、知った風な口を利くと思うか?」

 

清美「とっ、とんでもありません!」

 

 それでも、清美が正軒と接した機会は二年前の試合の時と今日だけ なのだから、ともに過ごした時間となると有栖のほうが やや多い。

 清美は ある事柄を、尋ねるかどうか迷った挙句、結局尋ねた。

 

清美「あの…、有栖さまは、何故正軒さまが剣を辞めてしまったと思いますか?」

 

 それは清美の、武田正軒のすべてに対する疑問といって よかった。

 そもそも彼女は、正軒を剣の道に戻すために今日やってきたのだ。正軒が剣を取らない理由を明らかにするまでは、死んでも戻ることはできない気分だろう。

 

有栖「さっきも言ったろう、心が鋭すぎるからさ」

 

 有栖は流れるように答えた。逡巡する時間、少しもなく。

 

有栖「アイツは心が鋭いから、何をするにも究極を求める。そしてアイツにとっての究極とは『人が殺せるかどうか』だ」

 

清美「究極が、人を殺すこと…」

 

有栖「正軒はことあるごとに言う、『剣とは人を殺すためにあるものだ』と。そして人を殺すことのできない剣は究極ではない、つまり半端なものにすぎない。心の鋭いアイツにとって、半端なものを許すことなんてできないんだ。だからアイツは剣を捨てた、半端にしか極められないものなら、最初から習わない方がマシだとな」

 

 清美は押し黙ってしまった。

 

有栖「私はそんなことはないと思っている。戦乱のない今の時代にも、剣道は人の心を鍛える修養法として立派に価値のあるものだと思う。…だが正軒にとっては それすら おためごかしにしか聞こえないらしい」

 

 有栖の声が途切れると、野菜を煮込むグツグツという音と、マッシュルームを炒めるジャァアアという音しか聞こえなくなる。

 それだと間がもたないので、有栖は再び口を開く。

 

有栖「まあ天才というのにも困ったものだ、私たち凡人には見えないものがクリーンに見えすぎてしまうんだから。…おっと、違ったな、凡人は私一人だ、君を私と一緒くたにしてしまうのは失礼な………」

 

清美「……違います」

 

 清美が久方ぶりに口を開いた。

 その言葉には悲痛な響きがあった、なので有栖はワザとおどけるように、

 

有栖「何を言う、二年前とはいえ、君は正軒に勝ったことがあるのだろう?あのバカ天才に勝てるような人間が凡人などということが………」

 

清美「違うんです。……アレは、清美の実力ではないんです!」

 

有栖「え?」

 

清美「清美はズルをしたんです、卑怯なマネをしたんです。だから、だから……」

 

 清美は、これ以上秘密にしておくことが耐えられないと、これまで語らなかった事実を語り始めた。

 

 二年前、既に正軒は 天賦の才を発揮し、実家の道場で もはや負け知らずとなっていた。それを見て、彼の父親である武田燐太郎は危惧を覚えた。

『息子が天狗になってしまうのではないか?』と。

 まだ十代の始めにして この強さ。このままでは自身の強さに慢心し、鍛錬を怠り、せっかくの才を腐らせてしまうかもしれない。

 それを防ぐためにも、今息子に必要なものは敗北である。息子の慢心を戒め、より高みを目指すようにするためには、上には上がいるということを知るのが一番だと思い至った。

 そのために用意されたのが清美だった。

 自身より年下、しかも女に負けたとなれば、自分の才能を特別視するような考えも改めるだろう。

 そのために正軒の父親は、正軒に秘密で清美を鍛え上げた。

 

有栖「それでは……」

 

 いくら正軒でも勝てるはずがない。正軒の父は正軒の師でもあるのだろう、当然正軒の剣のクセは知りぬいている。それを清美に教え込み、対処法も合わせて授ければ、いかに天才の正軒といえど丸裸の城と同じだった。

 

清美「二年前の正軒さまの敗北は、仕組まれたものだったんです。…そうでなければ清美ごときが正軒さまに勝てるはずがありません!」

 

 それを聞くと同時に、有栖には納得することがあった。

 放課後の教室での闘いで、有栖が清美に言った『本当に正軒より強いのか?』という一言。

 その言葉に清美が逆上したのは、そんな理由があったから……。

 

清美「清美は……、清美は……!」

 

 ついには泣き出してしまう清美。

 両手で目頭を押さえても、涙がボロボロと零れてくる。

 

有栖「おお、おい…!」

 

 これには有栖も慌てた、フライパンの火を止めて、少女の肩を抑える。

 

清美「清美はッ、ダメな女です…ッ!正軒さまの許婚となったとき、相手の方は大変な才能の持ち主だと聞いて とても光栄に感じました!清美は剣が好きだから、きっと正軒さまを支えられる よい伴侶になりたいと……!でもッ、正軒さまは清美のせいで剣を辞めて、今日だって正軒さまは清美のことをまったく見てくれなくて……!」

 

 嗚咽する清美の肩を抱きながら、有栖はこの少女の小ささを思った。

 ああ、そうだ。どんなに剣術に精通しようと、強かろうと。この子は女の子ではないか。きっと不安に押しつぶされそうになりながら ここまで来たに違いないのだ。

 正軒さまに嫌われていたらどうしよう、正軒さまを説得できるのか?

 もし上手くいかなかったら、期待してくれた武田家の人々に どう申し開きすればいいのか。

 そして残酷にも、それらの不安は すべて現実となっている。

 

有栖「ええと……、せ、清美……」

 

 有栖は この少女を何とか慰めようとした。が、清美は その手を振り払い、彼女と正面から向かい合った。

 

清美「山県有栖さまッ!」

 

 そして、膝を屈して土下座する。

 

清美「不躾を承知で お願いいたします!」

 

有栖「えっ、…え?」

 

清美「清美は これから武田家に向かい、正軒さまとの婚約の解消を願い出てきます!」

 

有栖「えええぇぇぇッ!?」

 

 突然の告白に有栖は戸惑った。清美とて、正軒のことを憎からぬと思っているだろうに……。

 

清美「役立たずの清美は身を引きます。……ですから、どうか有栖さま、有栖さまの御力で、正軒さまが剣の道に戻られるように働きかけてください!有栖さまは、たった一週間のうちに正軒さまの お心を理解してしまいました。有栖さまなら、きっと正軒さまの心に 剣への情熱を甦らせることができるはずです。……ですから、ですから………!」

 

 その申し出が、清美にとって どれだけ辛いものかは察すべきであった。

 お嬢様とはいえ、清美は芯の通った強い娘だ。その彼女が、自分の力及ばず他者に解決を委ねるなど、どれほど悔しいことか。

 しかも、その問題は、自身の婚約者に関わること。

 それだけに、清美の血を吐くような決意が、有栖の心にも伝わってくるのだった。

 

清美「武田のご両親には、有栖さまの方が余程 正軒さまに お似合いだと お伝えしておきます。正軒さまを深く理解し、正軒さまの手綱を取ることのできる才女であると………!」

 

 こうなったらテコでも譲りそうにない清美であった。

 問題は、有栖すらも巻き込んで、まったく解決する気配を見せない。

 

             to be continued

 

 追伸

 

正軒「ただいまー、牛乳買ってきた、あとゴム買ってきた!」

 

 正軒はまだ諦めていなかった!


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
6
1

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択