シギに会いたい。
リウヒは粗末なベッドの上で、枕を抱えた。昔、ハヅキが使っていたベッドだった。
わたしは卑怯者だな。
枕を抱く手に力を込める。何も言わなくても、自分の気持ちは伝わっていると思っていた。シギは、ちゃんと言葉に出して、大好きだと言ってくれた。でもわたしが口に出したのは、醜い嫉妬の言葉だけだった。
次に会ったら、絶対に好きだと言おう。あの時の態度を謝ろう。例え、許してもらえなくても。もう好きじゃないと思われていなくても。
税が跳ねあがって、ユキノさんの暮らしも随分つましくなった。トモキが宮廷に入った時から支払われていた金は、すべてハヅキの学費に回していたそうだ。ところが、いきなりそれが止まった。ハヅキは大学にいることができず、退学することになったと手紙が来た。
「一度、母さんの様子を見ようと思ったのだけど、里心が付いてしまうから諦めます。いろいろと心配かけて、ごめんね。本当にごめん。少し旅にでます。帰ってきたら、必ず母さんに会いに行くから、それまでお元気で。兄さんとリウヒによろしく」
[あの子ったら…]
その手紙を読みながら、ユキノさんは泣いた。リウヒも泣いた。
あの時、まっすぐ大学を訪ねればよかった。もしくはハヅキがここにくれば、会うことができたのに。
[都で…子守りの仕事をしていた時に、ハヅキがそこの家庭教師をしていたんです。とても優しくていい子だった]
ユキノさんは、目を丸くしてしばらくリウヒを見ていたが、大きな息を吐いた。
[…あなたは…リウヒは、本当に不思議な子ね。とことん、この家と縁があるのね]
[本当に]
だけども、会ってわたしは、どうするつもりだったんだろう。今、心の中はシギでいっぱいだ。
小さく息を吐いて、枕を抱えたまま窓を見た。と、その目が驚愕に見開いた。人が窓辺に立っている。
…泥棒だ!
ところが、体が動かない。魅入られたように、黒い人影を凝視するだけだ。
[静かニ。危害は加えまセン]
女の子の声だった。驚きが二倍になる。月明かりにぼんやり照らされたのは、やはり可愛い少女だった。黒っぽいぴったりした服を着ている。その子は人差し指を口の前で立て、低く小さな声をだした。
[リウヒサンデスネ?]
なんでわたしの名前を知っている!だが、顔はコクコクと頷いた。
[シギサンから伝言を言付かっていマス]
驚きは更に倍増した。なんでシギが、なんであんたが、なんでこの子が。
[会いたい、滅茶苦茶に会いたい、ト]
混乱する頭の中で、それはクルクルと回る。
ああ、シギ。涙が出てきた。止まらずに後から後から溢れてくる。
[シギサンに、伝えたいこと、ありまスカ?]
[ある]
涙に濡れた声が出た。
[馬鹿って]
それから
[シギにすごく会いたいって伝えて]
少女は、了解したという風に頷くと、にっこり笑って窓の外に飛び降りた。
ここ、二階なのに!慌てて、窓から外をのぞいたが、誰もいなかった。ただ月だけがひっそりと輝いていた。
****
扉の向こうからひっそりとした声がする。叩こうとした手を止めて、シギは聞き耳を立てた。
[アナンさまったら、そんなことをしてらっしゃったの。あの子らしいやら、呆れるやら]
老女のクスクス笑う声が聞こえる。
[王女サマは、そこで王になると宣言しまシタ。イランが海賊に紛れ、実際に聞いたので間違いありまセン。ただ、次期が来ていないとみなサマに止められていまシタ]
[筋書き通り進んでいるのね、元王子は誤算だったけれど]
[宰相サマにも報告はしておりマス]
なんなんだ、こいつらは。シギの背筋を冷や汗が伝う。
[ただ、そノ…。変な男が王女サマたちを付け回しているようデ…。接触はしていないのですが、なぜか王女サマたちが現れる所に先回りしているんデス]
[害は有りそうなの]
[なんとも言えまセン]
カスガだ。冷汗は止まらない。御寒もしてきた。
[邪魔だと判断したら、消してちょうだい]
[はイ。ジュズサマ]
つい、シギの喉が鳴った。扉の向こうの声がぴたりと止まる。慌てて、ドアを叩いた。
[朝餉をお持ちいたしました]
ワカはいつものように盆を受け取ると「どモ」にっこり笑った。奥に見える老女は、何かを思案するように明後日を見ている。
台所に戻ったシギは、全身にびっしょりと汗をかいている事に気が付いた。
なんなんだ、あの会話は。あの老女は、あの少女は。回転する頭の中で、先ほどの会話を反芻する。王女はただ、踊らされているだけなのか。利用されているだけなのか。それにしても、あの老女は何者だ。いやいや、それよりも、カスガがヤバい。消すとは殺すという意味ではないか…。そしてワカは、お使いを頼まれた子供のように、返事をした。
だいたい、あの子も何者だ。
リウヒを探すと約束したものの、何事もなかったように毎日を送っている少女を疑問に思い、老女の部屋を出たワカを付けたことがある。お休みなサイ、と退出した少女は、歩きながらおもむろに服を脱ぎ始めた。思わず口に手を当てたシギに気付く事もなく、出現したのは体にぴったりとフィットした黒装束だった。
脱いだ服を廊下の一角にほると、長い焦げ茶色の髪をポニーテールに括った。そして、無造作に窓から飛び出した。
人間業ではなかった。まるでボールを投げるようなきれいな曲線を描いて、少女はあまりにも身軽に飛んで行った。
夢でも見ているのかな…。非現実さに窓から呆然と見送りながら思ったが、少女が脱ぎ捨てた衣はそこにあった。翌朝のワカは、普段通りの呑気な顔をしていた。
[シギ]
当の少女に突然、顔を覗きこまれ、動揺のためシギは椅子から転げ落ちた。
[ななな、なにかな?なんなのかなっ?]
尻持ちをついている男をきょとんと見ていたワカは、しゃがんでその耳に口をつけた。
[リウヒサンが見つかりまシタ]
ワカの顔を見る。至近距離で目が合った。少女はにっこりと笑う。
[シシの村にいマス。中年の女性と二人で暮らしていまシタ。伝言の返事ももらってきまシタ]
[なんて…?]
心臓が跳ねた。ドキドキして止まらない。つい、ワカの肩を掴んでしまった。
[馬鹿、ト]
あまりの脱力感に、シギがべちょ、と崩れた。
馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。あのあんぽんたんめ。
[もう一つ、もう一つありマス!]
慰めるようにワカが肩を叩く。
[シギにすごく会いたいっテ。泣いていまシタ]
ああ、リウヒ。目の前の床に水滴が落ちた。なんのことはない、自分の涙だった。
[あの…、こんな時になんなんですが、あなたは何者なんでスカ…?それにあの人は、名前も、顔もそっくりでシタ…]
王女に、とは言わなかった。少女の顔は、疑いとおそれの表情が入り混じっている。
[おれも、あいつも、ただの旅人だ]
それよりも。シギは、顔を拭い壁に背をもたせて、ワカを凝視した。
[お前も、あの奥方も、何者だ]
色眼鏡で見れば、小さい頃テレビで見た戦闘ものの、悪役ボスと子分のようだった。
[…あたしはただの雇われている者で、あの方はその雇い主デス]
[何を企んでいる]
[それは言えまセン。知らなくていいことだってアル。あまり知り過ぎると、あたしハ…]
その顔が、苦しそうに歪む。沈黙が流れた。
なんにせよ、とシギが小さな声を出した。ワカが顔を上げる。
[リウヒを見つけ出してくれてありがとう。ものすげえ感謝してる]
なんのこれシキ。ワカがにっこりと笑った。
****
シラギの手を取ってしげしげと見ているリウヒに、もうよいだろう、と苦笑が落ちる。
「武人の手とは、美しいものだな」
大きくてゴツゴツした、その手はとても安心感がある。自分の小さくて頼りない手とは大違いだ。手を合わせてみると、倍近くあった。
「はじめて言われたな、手を褒められるなど」
どうやら、トモキに再会時抱きついてから、触れられる恐怖は消え去ってしまったらしい。それが嬉しくて堪らず、リウヒはここ最近、いつもの仲間にべたべたと触りまくっている。みなは苦笑しつつ喜んだ。キャラやトモキには何かと言えば抱きつく様になったし、マイムは、からかいを含めてリウヒを抱きしめ、何回か胸の谷間で死にそうになった。わたしも大人になったら、あんなにふくよかな胸になるのだろうかと、湯浴みの度に、自分のものを見るのだが、残念ながらこれ以上成長してくれそうになかった。
カガミの腹にも触らせてもらった。案外硬くてびっくりした。
「ここに詰まっているのは脂肪じゃないんだよ。限りない知識と希望がつまっているんだ」
酔ったオヤジの戯言は
「なるほど、ではカガミさんの腹をかっさけば、素晴らしいものが見られるのですね」
カグラの感心した皮肉で打ち返された。
そのカグラは誰もいない宿の一室で、微笑みながらリウヒを膝の上に乗せて甘く囁いた。
「夢の世界に行ってみたいと思いませんか」
そこにけたたましく扉を開けて黒と金が乱入し、シラギはリウヒを抱き上げ、マイムは銀髪を殴った。
「幼児虐待、色魔退散!この外道!」
馬鹿じゃないの。あんた馬鹿じゃないの。殴る事はないでしょう。言い合いをしている二人を部屋に残し、シラギはさっさと下に降りる。
「なあ、シラギ。夢の世界ってなんだ。それにマイムはなんであんなに怒っているんだ」
「リウヒはまだ知らなくていい」
危ないところだったと一人ごちて、シラギがリウヒを下ろすとトモキとキャラが駆けてきた。
「ねえ、旅芸人が港に来ているんだって」
「リウヒもいこう。シラギさまもどうですか?」
「行っておいで。ただし、気を付けて」
三人ははしゃいだ声で返事をして、じゃれながら走っていった。その後ろ姿をシラギは、宿の戸に凭れて見送っていたが、小さな笑みを浮かべると、中に入って行った。
****
扉の中に入ると、窓際に老女が椅子に座って茶を飲んでいた。ただそれだけなのに、絵になっている。
[そろそろ、また旅に出ようかと思いまして]
バイトで培った精一杯の愛想笑いをしながらシギは言った。
[今までとてもお世話になって申し訳ないのですが、明日にでも発とうと思っているのです]
[あなたのお国はどちらだったかしら]
[ジンです]
[まあ。そうだったの。ヤン・チャオはお元気?]
誰それー!いやいや、まてまて、知っているはずだ。かなり重要な人物だ。今まで勉強した二年前の知識を必死で繰る。しかし、焦ったシギの頭は空回りを続け、結局思い出せなかった。
[げ…元気です、多分]
そう。老女はゆったりと微笑むと、傍で控えていたワカにティーカップを渡した。
[残念ね。一生懸命働いてくれたから、心名残もあるのだけど…。明日は、ワカ、あなたお見送りして差し上げなさい]
ワカは一瞬顔を引き攣らせたが、はイ、と素直に返事をした。
その後、台所に来た少女を捕まえヤン・チャオとは誰かと聞いた。
[ジン国の第三王子デス。なんでそんなこと聞いたんだロ…?]
思い出した。冷血王!ティエンランに攻め入ってきた王だ。でもあの老女となんの関連性があるんだ。ああ、もっと歴史を勉強していれば、カスガがここにいれば。
[シギは、明日、本当にここを出て行くんデスカ]
[ああ。あいつに会いに行く]
もう、待ってられない。居場所が分かったら、ここにいる理由もなかったし、なんとなく薄気味悪さも感じていた。
[どんな人?]
好奇心に輝く少女の顔は、いつかの王女の顔とダブった。恋に恋する顔は、みな一様に同じなのだろうか。
[我儘で、自分と飯の事しか考えていない色気皆無な女だよ]
小さく笑って答えるシギに、ワカは目を丸くした。
[それは中々に、苦労しそうデスネ…]
[まったくだ。お前の好きな人はどんなだ?]
[怖い人デス]
少女も小さく笑った。
[でも、優しい人]
思い出したのか、顔がほんのり赤くなる。
[お前も苦労しそうだな]
[まったくデス]
二人は顔を見合せて、クスクス笑った。
翌朝。旅立つシギにワカも、トホトホと付いてきた。見送りの割には、ずっと一緒にいる。その顔は、悩むように歪んでいた。
[お前、どこまで付いてくる気だよ。あんまり遠くなると、帰りが大変だろ]
シギが苦笑すると、ワカは仕方なさそうに止まった。
[じゃあ、ここデ…。あの、最後にお願いがあるのデスガ]
なんだよ。キョトンとするシギに、思い余ったように顔を上げた。
[シギが身につけているものを一つくだサイ。何もなければ指でも目ん玉でもかまいまセン]
[どんなお願いそれ!]
驚愕して身を引くシギに対し、ワカは真剣だった。
[何でもいいんデス。お願いシマス!]
そんな事言われても…。困ったように体に手を巡らす。ふと触ったのは首から下がっているクロスのネックレスだった。別れた女にもらったものだが、気に入っていた品だ。指よりはマシか。おしい気もしたが、ぶちりと引きちぎって少女に渡す。ワカは喜ぶと思いきや、安堵の息を吐いて、それを受け取った。
[ありがとうございマス。お元気デ。道中の無事を祈ってマス]
[ワカも元気で]
にっこり笑う少女に手をあげて応え、シギは踵を返して歩き始めた。
****
男の姿が見えなくなると、ワカは笑顔を引っ込めた。そして、道脇の雑木林の中に入ってゆく。そこには、短髪黒髪の端正な顔をした男が木にもたれ掛かっていた。
「どうしてあの男を殺らなかった」
「申し訳ありまセン…。でも、計画には無害だと判断しまシタ。いたずらに人を殺すのハ…」
男の手が下から上へなぎ払われる。乾いた音がして、ワカの頬が打たれた。
「だからお前は、いつまでたっても半人前なんだ」
おっかねー。クスクス。上の木々から声がする。
「どうすんだ。おれが行ってこようか」
「ワカ。本当にあの男は、無害なんだろうな」
「はイ。自信をもって言えマス」
「なにかあったら、半殺しじゃあすまねえぞ。…そういうことで、あれは放っておいていい。お前ら、先に行け。おれはこいつを説教してから追いかける」
もう結局イランはワカに甘いんだから。あー酒飲みてー。木々が揺らめく音がして、二つの気配が消えた。
俯いているままのワカの頬を、男の指が這った。
「痛かったか」
「痛かったデス」
打たれた頬は、ジンジンと痺れている。その内腫れてくるだろう。指はしばらく頬を撫でていたが、顎に回り持ち上げられた。ワカの顔が上がる。短髪の男…イランと目が合った。底冷えのするような目だった。
「どうしてあの男を殺らなかった」
もう一度、同じ事を聞かれた。
「情が湧いたか。それとも惚れたか」
「…少しだけ、情が移ってしまいまシタ」
会いたい。ただその言葉だけで男と女は泣いた。それを見た時、ワカは仰天を通り越して感動してしまった。
「ジュズサマには、消したと伝えマス」
これもあるシ、と男が首から引きちぎった、けったいな飾り物を見せた。
「雇い主に嘘の報告をするつもりか。そこまで執着しているのか」
「嘘も必要な時があるでショウ?そう教えてくれたのはあなたデス。それに、あの男は恋人に会うために出て行きまシタ」
「ふん」
「イラン」
顎にかかっていた男の手を取り、自分の口にそっと付けた。
「あなただけが、あたしの全てなんデス。それは分かってくだサイ」
「当たり前だ。おれがそういう風に教育したからな」
そして認めてもらいたいんなら。イランはその手を、勢いよく横に払った。反射的にワカの体がビクリと跳ねる。
「仕事で結果を残せ」
口の端を歪めて言い残すと、去っていった。
ワカはぽつねんと雑木林の中に立っていたが、涙をこらえると跳ねるように駆けだした。
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