リコの前に差し伸べられた、真白き少女の手。その指先からは確かな力が感じられた。精神論では無く、妙な圧迫感を伴う…………その指を向けられる事に対する、物理的な圧迫感だ。
だから、というわけでは無いが、差し伸べられたその手を前に、リコは躊躇した。
「どうした?」
薄笑みを浮かべていた少女はいっそ面白げに口角を上げた。
「どう転んでも、我がお前に危害を加える事は有り得ん。それに、月並みな台詞だがな。お前をどうにかする事が目的なら、街ごと消滅させている」
後半の言葉の規模が何となく把握しづらかったが、前半部分に関しては、それは確かにその通りで、その事に対して躊躇を覚えているわけではない。
その手に触れる事で、何かが変わってしまう様な気がしたからだ。自分という存在の何かが決定的に変わってしまう様な、そんな気が。
それは恐ろしい事だった。
曰く、人は自分が自分で無くなった時に死ぬ。齢を重ね、脳が萎縮し、血管は朽ち、些細な拍動の変化に耐え切れず…………肉体的な限界の果てには、当然死が待っている。だが、肉体的な死は問題では無いという考え方も有る。つまり、精神的に死んだ時に、人は死ぬのだと。
リコは眼の前の少女を視た。見下ろせる位置に有る、妹のコハルよりも低い位置にくる頭。そして、こちらを見据える眼。その眼は異様だった。人間と比べて何がどう違う、というわけでは無い。言ってみれば、犬の眼だとて、機能の問題を横に置けば、人間とそう大差有る訳では無い。その点に関して言えば、犬などと比較にならないくらいに人間らしい眼をしていた。だが、視ているものが恐らく違う。それはもう、根本的な違いなのだろう。人間と犬は同じ物を見ても、認識の加減は全く異なる。だが、そういう次元で語れない程に、少女と普通の人間が視ているものには違いが有る様な気がした。
だから、リコの懸念を話したところで、恐らく眼の前の少女は理解出来ないだろう。少女は、人間では無いのだから。
「…………そうね」
それは、色々な意味を混めた言葉だ。恐怖と決意と諦観が入り混じっていた。
だが、結果的にリコは少女の手を取った。
その行動に、少女は少し呆気に取られた様で、もしかしたら、リコが先ほど考えた少女像はもう少し異なるものなのかもしれない。少女は知恵を持っており、知恵を持つならば理解は生じるはずなのだから。
ともあれ、リコと少女の手は重なった。
その瞬間。
全てが白く染まった。
足を付けていたはずのフローリングは無機質な白に変貌していた。青空を遮っていた天上は底抜けの白に染まっていた。上下左右、何処が終点と知れぬほどに白かった。軽い眩暈すら覚えるほどに、天と地の境目すら判らぬほどに、世界は単純なものへと変化していた。
「な、なに? これ…………」
言ったが、これと似た物をリコは既に知っていた。瞬時に記憶が過去の記憶を呼び覚ます。例えば、昨日、エリーの屋敷で遭遇した図書館の様な空間など、まさにこれと同質で有るように感じた。
「仮想空間だ。主様は作る術を知らぬだろうから、私が作った」
少女の、リコに対する呼び方が変わっていた。それは明らかに上下関係を想起させる表現だったが…………
「仮想空間?」
今は取りあえず、より気になる方を質問する事にした。
「本来の空間とは位相を異にする、現実的では無い空間の事さ。視てみるが良い」
「人? でも…………なに、アレ。凄い…………」
それは、人型をした白い何か。背景の白と同化しているため、すぐには気が付かなかった。だが、それはそこら中に居た。空間を埋め尽くすかの如く、大都心のスクランブル交差点の如く、恐ろしい数のそれが、上下左右何処までも埋め尽くされている。
「アレは人間だ。主様と同じ、人間だ」
「嘘。アンタからみれば、私ってあんな感じなの?」
うら若き乙女としては軽くショックだ。
欧米人は日本人と他のアジア人の違いが判らない、という話を思い出した。それと同じ事だろうか。リコだって、同じ犬種の犬を見分ける事は出来ないし、あるいはそういう事なのだろうかと考えたが、
「そういう事では無い。ただ、ここでは用意に認識の齟齬が生じるという事だ。そしてそれが修正される事はそもそも有り得ない。主様も我も、アレを認識しているようで、実は認識していない。しかし、確かにあの様な存在は存在している。認識の齟齬が発生する事でそうなってしまうのだ」
あの白い人型は、現実世界に存在する人間の情報が表面化しただけなのだぞ、と少女は言った。リコは縦横無尽に歩き回るそれらの存在が、自分と同じ人間である事など信じられなかったが、それよりも1つ、疑問が浮かぶ。
「あの…………人達って、ここに居る事をどう思ってるの? パニックになったりしないわけ?」
「世界に投影されている本体の情報が一人歩きしているだけだ。アレ自身は本体と繋がっては居るが、本体の方には何の自覚も無い」
心配する必要は無い、と少女は眼を細めた。
「アレを主様と我が認識することなど一生ありえないが、仮に認識したとすれば、その正体が鮮明になるのだろう」
その言葉を反芻して、しばし黙考。後に、
「…………正直全く良く判らないけど、凄いどうでも良い存在って事? あの白い人達は」
「正に、その通り。奴等が存在するという前提。存在を同定するための推論。起こりうる結果。そうしたものは、アレ等には不要であるが、考え方としては間違って居ない」
白い人型の何かに対して、路上に転がる石ころを視る以下の視線を向けて少女は、
「アレは、現実世界とは切り離されたこの世界では、恐らく最も意味の無い重要物だろうな」
「意味が無いのに、重要?」
「アレ等を組み込む事で、この仮想空間は完成を視る。故に必須。しかし、その本質から考えれば、それは別に代用が利いてしまうものに他ならない。仮想空間を構成するために必要とする選択的要素の1つにしか過ぎないからだ。故に無意味」
「…………あー、なるほどね。どうでも良いって事だけは分かったわ」
「それだけ分かれば十分だ。流石、主様は理解が早い」
もう良いか? と少女は了解を求めてきた。
「まあ、概ね、ね」
とはいえ、実質的には何一つ理解出来ていないのだが。だが、それもそもそもどうでも良い事では有った。
それよりも。
「契約ってのは、どうなわけよ」
それが肝であり、こんな良く判らない空間まで用意したのだった。それに、リコとしてはその『契約』とやらに不安がある。気が変わらないうちに、さっさと終わらせたかった。契約書にサインをする時は注意深く、良く読んで。しかし、そんな書面が存在するはずが無く、互いの信頼のみが有効な契約だ。信頼など、無きに等しいのにも関わらず。
だが、
「もう終わっているさ、主様」
少女は事も無げに答えた。主様、の部分にことさら強調を込めて。
なるほどやはり、とリコは思う。呼び方が変わっているのは、やはりそういう事だったか、と。
そして、自身に何の変化も無い事を確認して、胸を撫で下ろす。実際、既に契約とやらが交わされている可能性に気が付きつつも、少女から明言されない限り不安だった。
「契約が交わされた事により、我と主様の本質はこれで1つとなった」
「本質?」
「パーソナリティの根源。存在の基盤」
「ん…………?」
「何、小難しく考える必要は無い」
パチン、と少女が指を鳴らすと、白い空間は消失した。
見回すまでも無く、リコの部屋だ。なんだか、物凄い安心感が有った。あの空間があまりにも日常とかけ離れすぎていて、精神への負担が大き過ぎたせいだろう。
ふぅ、と一息ついて、リコはその場にしゃがみこんだ。真白き少女はその場に浮かんでいた。
「…………え、浮いてる!?」
思わず二度視してしまった。少女は足を組んで、地上一メートル当たりを浮遊していた。だが、やはりその異様に長い髪の毛が重力の…………いや、世界のあらゆる世界に影響を受けて居るとは思えなかった。
今まで色々な超常現象を目の当たりにしてきたが、素で浮いている、意思疎通の可能な存在は初めてだった。人間と同型であるだけに、妙な違和感があった。
リコの驚きに対し、少女は苦笑した。
「私は人間では無いのだぞ、主様。契約を交わした今の状態ならば、街1つ破壊することくらい容易い」
まあ、それでも元の状態から考えれば10分の1程度の力でしか無いのだが、と少女は続けたのだが、リコには聞こえなかった。
街1つ破壊出来る化物が隣で浮いている姿というのは実にシュールなものだったし、一体この少女はどんな経緯で自分と契約を果たす事になったのだろうかと気になったが、思考は途中で中断された。
テーブルの上に置いてある携帯が(マナーモード)反応を示したからだ。
サブディスプレイにはメールの着信を示すマークがあった。同時に、現在時刻を確認してみたが、驚くべき事に契約とやらを交わすために白い空間に居た間の時間がカウントされていなかった。
いや、どうだろうか。緊張状態にあったために長い間あの空間に居たように錯覚しているだけだろうか。少なくとも10分は居た様に感じたが、どう多く見積もっても2分程度しか経っていない様だった。
「…………やれやれだわ」
時間すら曖昧になったとすれば、一体自分の何を信じるべきなのだろうか。
などという哲学的な問答は置いておくとして、さて、メールの相手は思い通りの人物だった。明日、合う事を了承してくれた。リコの胸に、やや熱いものが生じる。それはリコがこの世で、家族以外に最も信頼している人間だった。…………ちなみに、ヤカの事は家族として数えている。
やや嬉しそうな表情をしているリコを視て、少女は不審そうな顔をしたが、特に言及して来なかった。
「主様よ。取りあえず、今日はもう寝させてもらうぞ」
「…………は?」
話はこれからだろうとか、まだ昼だとか、色々な言葉が浮かんでは消えて、結局何も言えなかった。
そして、
「案ずるな。まだ機では無い、というだけの事だ。あの化物相手にでは、図るべき機は図っておかないと意味が無いのだ」
などと勝手な事を言って、そして、その姿が徐々に消えていって…………。
「そぉい!」
空中に浮かんでいた少女の足を掴んで無理矢理引き摺り下ろすと、消えかかっていた少女の体が元に戻った。
なんだろう。なんだか妙な事を叫びながら行動してしまった様な気がするが、結果オーライだから何も問題は無い様な気もする。
「…………何をする、主様よ」
「いや、なんか色々聞かせてよ」
「その内、嫌でも知る事になる。今知る必要は無いさ…………」
気だるげな声で、果てしなく面倒臭そうな顔をして、少女は寝転がった。
「仮想空間の構築で疲れたんだ。頼むから寝かせてくれ」
「む…………」
本気で疲れているようだったので、これ以上の追求はやめておいた方が良いのかもしれない、とリコは思った。いずれ教えてくれるとも言っている。機を図る、とも言っていたが、それが何を意味するのかは分からない。だが、機は熟すもの故に、待たなければ当然意味が無い。
「使用が無いわね」
そう言って、リコは少女の頭に手をかけた。
「これから頼むわよ。私、まだ死にたくないんだからね」
頭を撫でられた事が、余程意外だったのか、しばらく呆気に取られた顔で少女は固まっていた。だが、やがて微笑み、救われるな、と呟いた。そして、
「ふん…………主様次第、さ」
リコの手の下で、少女は安らかな眠りに付こうとしていた。その姿は徐々に見えなくなっていき。
だが、運命とは当然の様に残酷だった。
またしてもドアが開いて、少女のこめかみを痛打した。しかも、リコが頭に手を置いていたために、衝撃は何処にも逃がされること無く全てこめかみに伝わってしまった。
「おりょぅ? 何かに引っかかったぁ?」
またしてもヤカがそこに立っていた。
「ヤカ…………あんた…………」
恐ろしいまでの空気クラッシャーぶりを披露したヤカだった。
「え、なになに? なんでそんな怖い顔してんのほんと怖い」
ヤカは若干引き気味に身体を縮こまらせた。それを視て、溜息を付かざるを無い。無理も無い。ヤカには当然、少女の姿が見え無いのだから。
「いや…………トイレにしては随分長かったじゃないのよ」
もちろん、あまり早く戻られても困っていたわけだが。それにしても、トイレに立ってから15分は経過している。髪を直していたとか、そんなわけでも無いだろう。ヤカの髪の毛はあの長さでセットしなくても大丈夫という謎の神秘を秘めているのだから。
「アイス持って来たのアイス」
どうやら、わざわざ家まで戻ってアイスを取ってきたらしい。なんとも欲望に忠実な事だった。
リコの前に1つ置いて、ヤカはどんどん食べ始める。
こめかみを痛打した少女は横に2回転した後、殴打部を押さえて身体を震わせていた。
「………………あー」
両者共、互いが視えないはずなのに、何故こうも相性が悪いのだろうか、とリコはコメントに困って何の意味も無い母音を吐き出したのだった。
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リコは少女と契約を交わす。
導かれた世界は白が埋め尽くす不可思議な世界だった。