第七話 カグヤ
轟音がやみ、異形の断末魔が消え去った後、一瞬の静寂が辺りに訪れた。
いったい、何が起きてどうなったんだろう?
ゆっくりと顔をあげると、そこには――何もない、闇の空間があった。
先ほどまで異形の群れが視界を埋めていたのはウソのようだ。静穏な空気の中、青白く輝く剣を翳した黒髪の青年だけが佇んでいた。
その姿に視線を奪われる。
息が止まりそうなほど心臓が早い。
「レベル2施錠、通常モードにシフト――レベル1」
トツカの声が響いて、剣の輝きが失われる。
「疲れただろう、戻れ、トツカ……音声認識、オフ」
そのままトツカを収納したミコトは、すぐにあたしの方へと駆けてきた。
「無事かっ? テラス!」
「あ、うん、大丈夫」
きょろきょろと見渡すと、どうやら全員無事なようだった。
唯一、ヨミが頭を押さえて起き上った。少しばかりとばっちりをくったらしい……また喧嘩になるのが容易に予測できて、あたしは一瞬身構えた。
が、意外にもヨミは怪訝な顔をしただけだった。
少し首を傾げたが、まあ、諍いがないに越したことはない。
あたしはミコトに向き直った。
「ねえ、今の何……?」
「神剣トツカ、レベル2解除により、開放系第3段階を発動。全方位攻撃によりすべての異形が1.78秒以内に消滅した」
ミコトの代わりにヒルメが淡々と答える。
「異形すべて……?!」
思わず驚いた声が出る。
「神剣トツカは聖槍ハクマユミや私に比べてMAXエネルギー値が格段に高い。だから、マスターへの反動も最大になる」
反動。
先程使った第2段階の反動ですでにあれだけのダメージを受けるのだ。第3段階を開放したミコトへの反動は計り知れない。
もちろんミコトはそんなことおくびにも出さない。でも、きっと体に受けているダメージはかなり大きいはずだ。
ヒルメは話を続けた。
「聖槍ハクマユミは回復力の速さでエネルギー不足を補っている。でも、私のエネルギー値は最も低い、回復力もハクマユミほど速くない。その代わり、私はエネルギー伝達が速い。起動してから間がなかったから先ほどは無理だったが、もう少しすれば開放系第1段階のみで連射可能。反動も最小限で済む」
「……それぞれ特性があるのね」
「ヒルメは遠距離戦闘用です。今のように近距離での戦闘には本来、向いていません」
いつしか傍に来ていたツヌミが言った。
「エネルギー値の高い神剣トツカは前線、回復の早い聖槍ハクマユミを補助、遠方からの援護に梓弓ヒルメ。そういった設定でこの3つを作りましたから」
「これ、ツヌミが作ったのね」
「はい。ですが、基本となる設計図は私のものではありません」
「誰が作ったの?」
「それは――」
ツヌミは一瞬詰まった。
が、ミコトをちらりと見て、すぐに口を開いた。
「始祖の一人、『タカミムスビ』が作ったものです。イザナミと共にタカマハラと防御壁を作り、この街を放射能から守ろうとした機械工学の専門家」
「残りの始祖のうちの一人だね」
ヨミが言う。
「私達の敵は、実はナミが最後ではありません。ナミはクローンですが、他の始祖もそれぞれ違う形でこのタカマハラに残っているのです」
「それがツヌミの言っていたナミよりも上に存在する者なの?」
「ええ」
ツヌミは唇を引き結んだ。
「戻りましょう。こうなってしまった以上、カグヤと下層の一般市民が心配です」
「でも、どうやって?」
首を傾げると、今度はカノが答えた。
「ここはおそらくカグヤと第5層の間にある空間です。天井は防御壁と同じだろうから壊せないけれど、下はいけるでしょう? 先程の感覚からすると、かなり薄いようですし」
「僕の出番ってことだね」
そう言ってヨミが進み出た。
「さあ、いくよ、ハクマユミ」
ヨミが手にした黒塗りの槍がぼんやりと光を帯びる。
「マスターネーム・ツクヨミ、ハクマユミ、緊急事態によりレベル2解除」
「レベル2解除、開放系第3段階までを許可」
初めて聞くハクマユミの声は、男性とも女性ともつかないけれど、歌うように美しい声だった。
「開放系第3段階、湍(はやせ)……『闇淤加美神(くらおかみのかみ)』!」
ヨミの声で視界が一変した。
いくつものガラスが割れる音と共に、目の前に青白い光が戻ってくる。
先ほどのナミの研究室だ。
「レベル2施錠、通常モードにシフト――レベル1」
「ありがとう、ハクマユミ。戻っていいよ……音声認識、オフ」
足元に、ガラスチューブを満たしていたはずの液体が零れている。足を踏み出すと、ガラスを踏みならす乾いた音と共に、ねっとりとした感触が足にからみついてきた。
「ナミは何処?」
「分かりません。見当たらないようですが……」
ツヌミが辺りを見渡し、先の方にあるモニターへと向かう。
何も映っていなかったが、ツヌミが操作し始めると様々な信号が点滅し、警告を示し始めた。
「ああ、大変です……」
「どうしたの、ツヌミ?」
「ミコトを助けるためにカグヤへ入った時、労働者たちにテラスを見られていたようです」
「それが何か問題なの?」
そう聞くと、ツヌミは言いにくそうに漏らした。
「労働者たちにとって、テラス、貴方は救いの神なのですよ」
「……どういう事?」
「いつからか知れないのですが……おそらく、ナギと交流のあった研究者の一人がカグヤに送られた事があったのだと思います。その研究者によって、コードを持つテラスの存在が労働者たちに知られているのです」
「……それは」
「それはいつしか、古代の神話と混同し、予言めいた言葉で言い伝えられることとなりました。美しい女神が閉じられた岩戸を出た時、太陽が再び輝きを取り戻す、というものです。女神は、萌黄色の瞳と淡い金の髪を持つ、美しい少女の姿で現れる、と――」
「……!」
あたしは思わず声を失った。
「労働者はテラス、貴方を見つけた。放射能の恐怖から解放するコードを持つ貴方を。だから、今……カグヤで、反乱が起きました」
「反乱?!」
「カグヤで強制労働を強いられている者達は生産をやめ、労働厩舎を破壊し、指導者に反抗して武器を取りました。おそらく、ナミはそれを治めに行ったものと思います」
蒼白なツヌミ。
カグヤの労働者が反乱を起こした。今、タカマハラが大きく揺らいでいる。
「ね、それって、好都合じゃない? 便乗してついでにタカマハラを乗っ取っちゃおうよ!」
ヨミの楽しそうな声。
「賛成です。この混乱を無にする手はありません」
これはカノ。
「じゃあ、行くか?」
ミコトの問い。
「行きましょう」
あたしは頷いた。
「カグヤへ。この支配を終わらせて、ナミから主導権を奪い取るの」
ようやく見えた、物語の終わり。
あたしたちは強い気持ちでカグヤに向かった。異形を生み出す場所、そして、この街で唯一太陽を知るその場所へ。
それはすべてのはじまりの場所で、おわりの場所であるカグヤへ――
「カグヤへ行くには一度ここを出なくては……実験室ヤマトを突っ切るのが一番早く着きます」
ツヌミの言葉で、全員が弾かれるように行動を開始した。
ヤマト、ときいてカノは自嘲気味に笑った。
「実験室ヤマト、ね……嗚呼、わが故郷……ですか?」
「カノ、茶化すのはやめてください」
「図らずもここにいるのはヤマト出身者ばかりです。貴方も私も、そしてこの3人も」
あたしは、これで最後になって欲しいと思いながらため息をつく。
「カノ。まだ隠してるなら今のうちに話して。ツヌミも。二人だけで理解し合うなんて、不愉快よ」
「不愉快、ですか。新しい表現ですね」
「誤魔化さないで、カノ。しまいに怒るわよ?」
じろりと睨むと、カノは肩を竦めた。
「行けば分かります。今さら真実を知って、挫折するような貴方たちではないでしょう?」
実験室ヤマト。
それはあたしがタカマハラに着いた時、ナミに通された場所だ。
「ここに何があるって言うの?」
「……カグヤへの道はこの奥です」
ツヌミが指し示す通りに資料の山と何に使うのか分からないモニターが並ぶ場所を通過していく。相変わらず薄暗いその場所は、息苦しかった。
そして、細い通路を抜けた先にあったもの。
それは。
「人間を作るチューブ……?」
クローンを作る場所にあったものと同じ、青白い光を放つ液体に満たされたガラスチューブが、整然と並んでいた。
まるで壁のように左右にずらりと並んだそれには、一つ一つ、小さな人間が――赤ん坊が浮いていた。やはり腹の辺りから伸びた細い管が天井に吸い込まれている。
「これは人工子宮です。ほぼ母親の胎内と同じ環境になっており、受精卵の状態から乳歯が生え揃うまでの時期、このチューブの中で人間を育てる事が出来るのです」
カノが近くのチューブに触れながら言う。
その中には、まだ人間とも呼べないような小さな塊が浮いていた。
「貴方たち3人や私達のような研究者は、第3層以下に住む一般民とは違い、このチューブの中で生まれました。選ばれた卵と選ばれた精子を掛け合わせて作られたハイブリッドとして」
「……?」
もう理解しようとするの、辞めようかな。
いやいや、そんなわけにはいかない。自分の事なんだから。
「特に貴方たち3人は、受精卵の状態でコードを埋め込まれています。ある意味で、ナギにコードを増殖させるモノとして利用されたのですよ」
「ごめん、カノ、もう少し分かりやすく言って」
思わず頭を押さえて両手をあげた。
降参。
「ええとですね……要するに貴方たちはちゃんと両親を持って生まれてきたんです。ただし、発生の初期段階を母親の胎内ではなくこの場所で過ごした、というそれだけの話です。そして、貴方たちが原初、たった一つの細胞だった時に、この場所でそのコードを刻まれた」
あたしたちがたった一つの細胞だった時?
それは、いったいいつ?
「誰しも最初は一つの細胞です。それが分裂し、増殖、分化して一つの生命体を作り上げていくのです」
ううん、人間って複雑なんだなあ。体の形を決定し、作っていくプログラムを持っていたり、分裂したり増殖したり。
まあ、でも、あたしはナミのように親が一人しかいない、というわけではないらしい。
ただ幼い時に太陽を取り戻すためのプログラムを埋め込まれただけ。うん、それだけよ。
「カノやツヌミもここで生まれたの?」
「ええ、そうです」
「じゃあ、あたしたちは生まれた時から仲間なんだね」
そう言うと、カノは驚いたように目を大きくし、でも、またいつもの優しい目に戻って眼鏡の奥で穏やかに微笑んだ。
「……そうですね」
どうしてカノもツヌミも悲しそうな顔をしているんだろう?
まだあたしの知らない事があるんだろうか? それとも、今の話をあたしが理解できていないだけ?
「テラス、その心を忘れないで下さい。その優しい心こそが私達に光をもたらす希望――太陽への指標『テラス・コード』」
カノはやっぱり、優しく微笑んだ。
「さあ、行きましょう。カグヤまではもうすぐです」
いつしかあたしたちは青白いチューブが並ぶ道を通り抜けていた。
転送装置が作動し、目の前が淡い光の扉で閉ざされた。
遮光スコープを手渡され、装着する。
カグヤに来るのはこれで3回目だ。1回目はナミに連れられ、2回目はミコトの救出に。
「開きます」
ツヌミの言葉とほぼ同時に目の前に光が溢れ出した。
遮光スコープがあるとはいえ、一瞬目がくらむ。
ゆっくりと目を開いた時、あたしの前の前は緑に染まっていた。
柔らかな風も、溢れる新緑も、弾けんばかりの太陽の光も、この間と変わっていなかった。
しかし、広がっていた草原に、どこにいたのかと思うような数の人が集まってきていた。
「……!」
刺さる様な敵意が群衆から湧き上がっている。歳も性別もバラバラ。纏った服は一様に薄汚れてはいたが、手にした武器――と言ってもこん棒のようなものや小さなナイフが主だが――にも共通点はない。
しかし、彼らは同じものを求めていた。
労働からの解放、そして、異形(オズ)化の恐怖からの離脱。
その願いがもたらす大きなエネルギーに背筋がぞくりとした。
「アマテラスだ!」
あたしたちに最も近い場所にいた男性が叫んだ。
その瞬間、視線が一気に集約する。
何百もの目に見つめられ、あたしは思わず息をとめた。
「本当だ! 伝承は本当だった!」
「これで救われる……!」
口々に歓喜の言葉を叫びながら、こちらへ押し寄せようとする人々。
あたしは、一歩引いた。
無意識の行動だった。
あまりに強い祈りと願いのエネルギーに押され、その期待の重さに押しつぶされそうになったのだ。
「アマテラス!」
「救いを!」
「我らに安心を!」
伸ばされる手、手、手。
人々の目は狂気に満ちている。まるで、ナミがあたしを見る時のように。
「いけません、皆が興奮しています。今、貴方が現れた事で、一種の集団トランス状態に陥っている」
ツヌミがあたしと群衆の間に割って入る。
が、流れ出した願いの勢いは止まらない。
「助けてください、アマテラス!」
「我らが女神……!」
このままでは、あたしたちが押しつぶされてしまう……そう、思った時だった。
凛とした声がカグヤに響き渡った。
「やめろ。女神の持つコードは、君たちカグヤに住む者たちの所有物ではない。静まれ」
絶対的な信念に裏打ちされた、タカマハラ総長の声。
あたしたちを異形に始末させようとした始祖イザナミのクローン。
これを圧倒的なカリスマと呼ぶのだろう。有無を言わせぬ、それでいて強く納得させる安心感を持つ声が群衆の動きをピタリと止めてしまった。
はっとしたあたしたちは、ナミの姿が太陽を透かすように空中に大きく描かれているのを見た。これは、立体映像?
ナミは相変わらず憎らしいほどに整った顔立ちにいやらしい笑みを張りつかせて、こう告げた。
「カグヤはたった今、閉鎖した所だ。君たちはもうそこから出ることなどできない」
「……?!」
あたしたちを、声も出ないほどの衝撃が駆け抜けた。
一瞬にして静まり返るカグヤ。
だが、徐々に人々の間にざわめきが広がっていった。
「だが、私とて鬼ではない。条件次第によっては、君たちを解放してもいいと思っている」
ざわり。
群衆が蠢く。
ああ、一人一人は意志を持った人間なのに、集まるとまるで一個の生命体のようだ。大きな一つの意志を持った生命群体。
代表してツヌミが進み出たが、誰も文句を言わずに彼の行動を見守った。
「一応、尋ねます。ナミ、条件とは何ですか?」
「テラスをこちらに渡しなさい。そうすれば他の全員を解放しよう。無論、カグヤにいた人員も防御壁内へ戻す事にする」
やはり、とカノが呟き、ツヌミは顔を強張らせた。
「そんな手に乗るか! カグヤにいた人たちを見捨てると言ったのは、防御壁の中に引き入れてくれとテラスが言っても聞かなかったのは、いったい誰だ!」
誰が答える前に、ミコトの叫びが響いた。
「俺達の事を異形に殺させようとしておいて、今さら助けるだと? そんな戯言が信じられると思うのか?!」
「ミコト、落ち着いてください。カグヤの皆が動揺します」
見かねてカノが押さえる。
が、ミコトは止まらない。
「何度騙せば気が済むんだよ、実験体の話だって、テラスの代わりに俺がすべて受けたはずだ! それなのに、お前はテラスまで殺す気なのか?!」
実験体? それは、あたしが最初に来たとき、ナミに承諾させられた実験の事?
あたしの代わりにミコトが? いったい、何の話?
「これ以上、誰も殺させない。お前に何も渡すもんか!」
「……そうか、交渉決裂だな」
ナミは狡猾な笑みであたしたちを見下ろした。
まるで、こうなるのが予想できていたかのように。
「では、皆カグヤで朽ち果てるといい。心変わりする、というなら考えてやってもいいが」
そしてナミの虚像は消え去った。
その場に再び静寂が幕を下ろす。
視線が痛い。ツヌミに、あたしに、そしてミコトに刺さるような視線が降り注いでいる。
群衆からぽつりぽつりと声が漏れる。
「なぜ、アマテラスを引き渡さない?」
「そうだ、渡せば私達は助かったのに」
「ナミは助けると言った。それなのに、なぜ耳を貸さなかった?」
「信じられないのはお前達の方だ」
ひとつ、瓦礫が落ちてしまえば、残りが崩れるのは簡単だ。
群衆からは抗議と非難が溢れんばかりに流れ出し、あたしたちに突き刺さった。
「どうして勝手な事を言った?!」
「交渉の権利は、俺達にあったというのに!」
「我らの意志を無視するな!」
豪雨のような糾弾に、あたしはまた一歩、後ずさる。
それを庇うようにミコトが前に進み出る。
「何を言ってるんだ、ナミはもともとお前達を助ける気なんかなかったんだぞ?! 一般人にはテラスのコードを与えずに、見殺しにする気だったんだぞ?!」
「そんな事、ナミは先ほど言っていなかった!」
「そうだ、助けると言ったんだ!」
人々の叫びは、あたしの胸に突き刺さった。
「何を言ってるんだ、助けようとしたのはこのテラスだ! ナミはそれに全く耳を貸さなかったんだぞ?!」
「もし仮にそうでも、今はナミが考えを変えたという可能性だってあったはずだ!」
「あいつの選民思想はそんな生半可なもんじゃない! ここの人間だけでなく、第2層の人間すべてを殺す気でいやがったんだぞ?!」
ミコトの言葉に、さすがに一瞬押し黙った生命群体は、それでもすぐに反撃を開始した。
「だからといって、我々の命を引き換えにここで抵抗して何になる!」
「そうだ、私達の命を無駄にする気か!」
「つまらない意地と先入観で人間を殺していいと思っているのか!」
すでに問題の論点がずれてしまっているのだが、ミコトは叫び続けた。
「それじゃ、自分の命が助かりたいから、といってテラスの命を代わりに潰すのか?! それこそ命の冒涜だ! そんな事、俺が許さない!」
あたしを庇うように立つミコトの背に隠れても逃れ得ぬほどの強い意志が、集団から盛り上がってくる。時に突き刺さるように、時に押しつぶすようにあたしの心を揺さぶる。
不毛な言い争いが目の前で繰り広げられる。
すべて、あたしがナミの誘いを断ってしまったから。カグヤの人を助けるなんて、言いだしてしまったから。
助けようとしていたカグヤの人にこれだけ恨まれて非難されて……あたしはいったい、何をやっているの?
あたしが助けたかったものは何? 嫌だったのは何? 欲しかったのは? 守りたかったものは何?
もう、何も分からなくなってしまっていた。
「いいよ、ミコト」
泣きそうな気持ちを抑えて、ミコトの服の裾をぎゅっと引っ張った。
「もう、いいよ……」
「何言ってんだよ、テラス」
振り返ろうとしたミコトの背に顔を押し当て、腰に手を回すようにして抱きついた。
泣きそうな気持ちをごまかす為に。
あたしはいったい、何を助けようとしていたの? ナミに逆らって、その結果、いったい何を得た? 助けようとしていた人たちに非難され、これからいったいどうしたらいい?
何を信じればいい? どうしたらいい?
あたしはいったい何がしたいの?
このまま逆らうの? 先も見えない大きな力への抵抗を続けて、それに多くの人の命を賭けて、それが何になるの?
「いいんだ、もう。もういいの……」
「な、どうした、テラス」
慌てたミコトの声。
狼狽した彼はそのまま硬直してしまったようだ。
そうやってあたしのために声を張り上げてくれただけですごく嬉しかったから。
「あたし、行く。ナミの所に行くよ。だってそうしないと、みんなが死んじゃう」
カグヤが閉ざされてしまった今、この状況を打開するにはあたしがナミの元へ行くしかない。
あたしの中のコードをどう使うかというのは、その後の問題だ。その前にみんなが死んでしまっては全く意味がない。
「あたし、もう誰も死んでほしくないの。異形にもなってほしくない。だから」
「やめろテラス、そんな事をしたら……」
「あたし、がんばってナミに頼むから。もし必要なら、抵抗だってする。ちゃんとナミが約束守るように、あたし、頑張るから。だから――」
ますます強く額をミコトの背に押しつけて、あたしは絞り出すように言った。
ミコトの体から力が抜けるのが分かる。
ああ、分かってくれたかな?
と、思ったのだが、残念ながらあたしは甘かった。
あたしが油断した一瞬の隙をついて、ミコトはくるりと体を反転させた。
金色の瞳にあたしが映って、吸い込まれそうになる。
「行かせない。絶対、行かせない」
気がつけばミコトの声が耳元に聞こえた。目の前には逞しい胸板があって、背には優しい手が回されていた。
「ナミの元にだけは行くな。頼むから。お前が壊れてしまうんだ、テラス……!」
ミコトの腕の中で、あたしはこんな状況なのに確かな安堵を感じていた。
ヨミに抱きしめられた時とは明らかに違う。この人は、きっとあたしを安心させる何かを持っている。
人々の敵意が酷く遠くに感じられ、喧騒が一枚壁を隔てた向こう側にあるようだ。
「俺は死にかけたんだ。実際、一度死んだと思った。今生きているのは、本当に偶然だ。それと、俺がお前に会いたいと願っていたから――」
震えるような声で囁いたミコトは、いつかのように優しい感触で髪を撫でた。
少しだけ、懐かしい感触。
温かさに触れて、何かが融けかかっている。
「ナミは俺達を人だとは思っていない。ただの、コードを刻んだメモリと一緒だ。どう使ってもいい、入れ物が壊れても、情報だけを取り出せればそれでいい、と」
もうだめだ、頭の中ぐちゃぐちゃ。
何も考えられない。
「そんな奴の所に行ったら、お前は二度と帰ってこられないかもしれない。それだけは、嫌なんだ。やっと会えたのに。ずっとずっと会いたいと思っていて、やっと会えたのに……!」
どうしてこの人はこれほど簡単にあたしの中に入り込んでくるの。
「生きてくれ、テラス。頼むから、生きて、自分だけ犠牲になれば、なんてそんな考えは――許さない」
許さない、という言葉だけは震えていなかった。
ミコトの本気が感じられて、心臓が跳ね上がる。
「生きて、全員でここを出る方法を考えよう。大丈夫だ、絶対に助かるさ。お前は俺達に太陽をもたらす道標なんだから――」
この人の自信はいったいどこから来るんだろう、と何度も繰り返したけれど、それがようやく分かった気がする。
何か根拠があるわけじゃない。信じられる要素なんてどこにもないんだから。
でもミコトは、自分の思いを信じる事が力になり、いつか『真実』へと変貌する事を知っている。諦めない事がいつか成功につながると体で理解している。
だからこんなにも強い――あたしを惹きつけてやまない金色の瞳が強い光を放つのだ。
温かい光があたしの中に灯る。
諦めようとしていた心が昇華して消えていく。
まだ、大丈夫。あたしは戦える。
ここにはあたしもミコトもヨミもいるんだって、そう言ったのも彼だった。それにカノもツヌミもいる。あたしたちが知らないような知識を持つ二人がいれば、打開策を見いだせるかもしれない。
「……ごめんなさい」
ミコトにだけ聞こえるように小さな声で謝った。
その言葉をどうとったのかは分からないが、ミコトはますます強くあたしを抱きしめた。絶対に離さないと、全身で訴えていた。
ミコトにはこれまで何度も助けてもらった。初めて会った時から、タツに襲われた時、ツヌミがタカマハラだと知った時も。時にトツカを振るい、時に優しい言葉をかけ、挫けそうになる度、叱咤し、激励し……彼はとうとうあたしをここまで連れてきた。
彼がどうしてこんなにあたしを気にかけてくれるのか、それとも誰に対してもこうなのかは分からないけれど。
少なくとも、この人だけは最後まで味方なんだろう。
誰が隠し事をして、裏切って、非難するのか、先の見えないこの世界で、ミコトだけは世界の終わりまであたしの傍にいてくれるんだろう。
じゃあ、この人を終焉まで道連れにしても赦されるだろうか?
「ありがとう」
今度は誰にも聞こえないように本当に小さく呟いて、あたしは少しだけ笑った。
ほとんど時間は残されていないだろう。
前回ミコトがカグヤに置き去りにされた時、細胞破壊プログラムが進行して半日でミコトは動けなくなるほどのダメージを受けた。おそらく、ヨミも同じだろう。
彼ら二人はダメージが外在しやすいが、普通の人たちだって放射能の影響を徐々に受けているはず。特に、これまでもカグヤにいた人達の進行度は深刻なはずだ。
その中で、あたしたちはちゃんと全員が助かる方法を模索できる?
もちろん、一人では無理かもしれない。
でも、みんなが同じ意志を持てば。『生きたい』と思ってくれれば、きっと不可能じゃない。だって『信じる事』はいつか『真実』になると、ミコトが教えてくれたから。
いや、すでに皆が同じ願いを持っているんだろう。ただ、方向がバラバラなだけ。
考えろ、テラス。歩みをとめちゃダメ。
――生きなさい
お願い、ナギ。あたしに力を下さい。
「放して、ミコト」
「……駄目だ」
「放してよ」
「駄目だったら駄目だ!」
頑なな声。
この場所を離れるのは少しばかり名残惜しいが、あたしは一喝した。
「いいから、放しなさい!」
そう言って、どん、とミコトを突き放す。
驚いた金色の瞳に、あたしは不敵に笑いかける。
「このままじゃ、カグヤの人たちと話も出来ないわ。それに、全員でここから脱出する方法を考えないと」
ツヌミとカノにもにこりと笑いかける。
「手伝ってくれるわよね、二人とも」
一瞬驚いた顔をした二人だったが、カノは眼鏡の奥の目を細めて、ツヌミは唇の端を少し上げて頷いてくれた。
きっと、大丈夫。あたしとミコトとヨミがいれば――
「……ヨミ?」
先ほどからヨミは全く喋っていない。ずっと俯いてその場に佇んでいるだけだ。
太陽の光を受けて煌めく橙の髪に隠された顔が、うっすらと青ざめているようにも見える。
「ヨミ、どうしたの? 大丈夫?」
近寄って問いかけると、ヨミはふっと銀の瞳をこちらに向けた。
とても体調がよさそうには見えない。いったい、どうして? すでに放射能の影響が出ているというの?!
「……大丈夫、心配しないで。大したことないから」
「全然だいじょうぶそうじゃないよ?!」
「なんでもない。それに、僕よりそこのバカの方がよっぽど辛いはずだけど?」
そう言ってヨミが指したのは、金色の瞳を持つ青年。
「ミコト……?」
彼は全くそんな風には見えないけれど、隠しているんだろうか?
と、思っていたら、ツヌミが大きくため息をついた。
「開放系第3段階を使った反動です。二人とも、本当ならすぐに動けるような状態ではなくなるはずですが……おかしいと思ったら、二人とも我慢してたんですね」
それに続き、カノが珍しく厳しい口調で告げる。
「二人とも今すぐに休みなさい。放射能の影響が強いこの場所で、貴方たちはほとんど動けないはずです」
「俺はまだ大丈夫だ」
「嘘を言いなさい。足元がふらついていますよ」
ぴしゃりとカノに言われ、ミコトは口を噤んだ。
まったく気づかなかった……あたしはまだ、周りが見えていないらしい。
「カノ、二人を休ませて。ツヌミは、カグヤの人たちを落ちつかせて、あたしの話を聞ける状態に出来るかしら?」
「できますが、テラス、いったいどうするつもりですか?」
「とにかく動きなさい! ごちゃごちゃ言う前に行動! これは絶対よ」
そう言うと、カノはいったん眼鏡の奥の目を細めて、ぽつりと言った。
「……テラス、後で話したい事があります。が、今はとりあえず、全員で場所を移動しませんか? もしかすると、うまくいけば助けられる道があるかもしれない」
「本当?!」
「カノ、いったいどこへ向かうつもりで……ああ、あの場所ですか」
ツヌミは質問を途中で終えて、微妙な表情をした。
「あの場所は『タカミムスビ』の本拠地です。正気ですか?」
「ええ。可能性があるとすればあの場所しか残っていない。タカミムスビの事は貴方に任せますよ、ツヌミ。コードの方は……私が、頑張ってみましょう」
また二人で分からない会話をする!
一瞬苛立ったが、後で話したい事がある、と言ったのだ。
今はこの二人に任せ、少しだけ待つしかない。
「ツヌミ、ミコトとヨミを運ぶのに、比較的落ち着いたカグヤの人を2人選んでくれますか? 先に、テラスを連れて移動していますから」
「はい、気を付けてください」
今から向かうのはいったいどんな場所なんだろう。
不安と共に、あたしは天頂の太陽を見つめた。
カグヤはいくつかのスペースに分けられているらしい。植物を育てる場所、動物を育てる場所、人が住む場所、食物を加工する場所。
ずっとカグヤにいたという青年たちは、ミコトとヨミの二人を背負って歩く道中、決して周囲を見ようとはしなかった。今は閑散としているが、普段なら人々が緑の中で労働を強いられていたのだ。きっと、いい思い出なんてないんだろう。
あたしの目にこのカグヤがとても美しい場所に映るのは、まやかしなんだろうか。
カノが導いたのは、不思議な形をした建物だった。
半球のドーム状をした黒光りする建物は、すべての光を遮断するかのように歴然と緑の中に佇んでいた。全く継ぎ目のない完璧な形。見上げるほどの大きさのそれは、この場所に置いて明らかに不自然だった。
「これは何? カノ」
「カグヤ唯一の実験室です。いくらか放射能を遮る事もできます。最上部はドームになっていますから、この大きさなら全員が休む事も出来るでしょう」
「でも、時間はないでしょう?」
「……ええ。ミコトとヨミがこれだけ疲弊しているとなると、この中に逃げ込んだとしてもおそらくリミットは丸一日ほど――その間に、手を打たなくてはいけません」
「さっき、考えがあるって言ってたわよね」
「ええ。うまくいくかどうかわかりませんが……テラス、私とツヌミに命を預けてくれますか?」
その言葉に、あたしは思わず息を呑む。
命を預ける。きっと、それは比喩なんかじゃない。文字通り、カノとツヌミにあたしたちの生死をかける、ということだ。
あたしは一度、逃げだした。
何も教えてくれないカノを疑い、この人のもとを去った。
この世界を知らない事が恐ろしかったからだ。事実を隠蔽されているという状態に耐えきれず、逃げだしたのだ。
「教えて、カノ。今からいったい何をしようとしているの?」
見上げたカノは、初めて会った時から変わらない、眼鏡の奥の優しい瞳であたしを見下ろしていた。
「一か八か、貴方とミコト、ヨミのコードを取り出して、全員に植え付けます。完璧に、とはいかないでしょうが、カグヤの人々の汚染進行を留める時間稼ぎにはなるはずです」
「……出来るの?」
そんな事、遺伝子工学に秀でたナミにしかできないかと思っていた。
「分かりません。が、私も医療分野の専門家です。これまで多くの事を独学で学んできましたし、何より、ナギは私にコードについて多くの資料を残してくれました。もしかすると、こうなってしまう事を予測して」
息が止まりそう。もし、そんな事が出来るなら、ナミに屈する事もない。この街に住むみんなを助ける事が出来る。
本当に、出来るというの?
「それが出来るのなら何故これまでしなかったの?」
「残念ながら出来る、とはとても言いきれませんよ。設備も十分でない、私の専門でもない。人の命をかけるというのに、本来なら私のように中途半端な知識でこんな大それたことをすべきではありません。それは、生命への冒涜です」
もしかすると、あたしはカノに無茶を頼んだのかもしれない。
「カノ」
でも、残された道は他にない。
「何でしょうか、テラス」
「あたし、カノを信じるわ」
この人を信じてみたい。
大怪我したあたしを救ってくれた人。タカマハラにいた頃からナギと懇意だったという街医者。
「あたしとミコトとヨミの、それにカグヤの人みんなの命、全部預けてもいい……?」
それは、とても重いものだから。
あたしだったら背負ったら潰れちゃうくらい、本当に重いものだから。
「ありがとうございます」
街医者は笑った。本当に嬉しそうに。
「テラス、貴方は諦めなかった。ナミに最後まで抵抗しようとした。それが、私に最後の決心を促しました」
「諦めなかったのはミコトよ。あたしは何度も諦めようとしたもの。その度に励ましてくれて、ここまで連れてきてくれた」
そう言うと、カノはくすりと笑った。
「本当に貴方たちはいい兄弟ですね――大丈夫、私もツヌミも全力を尽くします。タカマハラに住まう過去の影を振り払って、皆で太陽を手に入れましょう」
「……じゃあ、最後に一つだけ聞いていい?」
「何でしょうか」
「始祖って……何?」
おそらくそれがあたしたちの最後の敵となるんだろう。
ナミのクローンを作り、タカマハラを支配した『始祖』。タカマハラと防御壁を作り、この街を外界と隔離した5人。
「ツヌミと違って私はナミから直接聞いたわけでなく、あくまですべて推測です。なので、聞き流してくれて構いません」
「それでもいいわ」
「……分かりました」
ちょうどその時、ようやくドームの麓に辿り着いてぐったりとした二人を横たえた。
カグヤにいたという二人の青年は、あたしたちの話を何が何だか分からない、という顔で聞いている。
「中に入るにはツヌミを待たなくてはいけません。ここで立ち話をしてもいいでしょうか」
「いいわよ」
こうしてあたしはようやく、敵の正体を知る事になった。
眩しい太陽の下で。放射能に犯されたフィールドで。
遮光スコープを介してもなお目が焼ける感覚があたしを襲う。太陽のエネルギーというのは段違いだ。
そんな中で、このドームだけが異質。
「今から100年以上も前の話です。とある理由で、外の世界は生命体に害をなす『放射能』に包まれました。ご存知の通り、放射能を浴びると生体を形作る遺伝子が破壊され、形を保つことが困難になります――俗に『異形(オズ)化』と呼ばれるそれで、世界は混乱に陥りました」
カノは静かに語り出した。
「無論、この街の前身となった都市も放射能の被害を受け、消滅するのは時間の問題と思われたのです。当時この都市を抱えていた国家――ああ、貴方は国家という概念を知りませんね。国家というのは土地と人を区切り、そこに支配するモノを置く事で秩序を形成する集団の事です。その国家はすぐに崩壊し、人々は路頭に迷う事になりました」
「その頃、防御壁もタカマハラもなかったのよね」
「ええ……ですが、放射能に満ちた場所で、それでも人々は諦めなかった。そして、いつしか各専門分野のプロフェッショナルが集まって生き残りを模索する一つの組織を形成しました。それが、タカマハラに繋がる組織です」
カノは太陽を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「その時の中心人物は4人――いえ、先ほどナミに訂正されましたから5人ですね。彼らはそれぞれの知識でもって、この防御壁とタカマハラ、そしてカグヤを作り上げました。その5人を当時は『始祖』と呼び、崇めていたようです」
「それがナミやナギだったの?」
「ええ。生物学者イザナミ、機械工学と情報学の専門家タカミムスビ、化学分野に秀でた女性学者ムスヒ、そしてすべてを支配したとされる地質学者ミナカヌシ。彼らは、防御壁とタカマハラの構想を練り上げ、放射能に犯されていない人々だけを集めて、この街を作り上げました。それが今からちょうど102年前の話です」
102年前。このタカマハラが、カグヤが創られたのはそんなにも昔。
「こうして彼らは放射能を遮る防御壁と引き換えに太陽をも失ってしまいました。光のない街で細々と、それでも絶えない異形化と戦いながら生きていくことを選択したのです。ですがしかし、彼らは再び太陽の元を歩く事を諦めていませんでした」
カノはそこでいったん言葉を切った。
「それを後世に託すのなら分かります。後の人々が知性の発展の先に放射能を克服して欲しいと願う事くらいなら。しかし、彼らはそうしなかった。『自分たち自身』で太陽を取り戻したいと考えていたのです」
「……どういう事?」
「ツヌミの言葉からすると、彼らはまだこのタカマハラに存在しています。例えば、ナミはクローン体として今もタカマハラを支配している。つい最近まではナギも同じだった」
「他の人たちもクローンになっているって事?」
「いいえ、おそらく別の形で残っています。その中の機械工学の『タカミムスビ』……私の予見が正しければ、彼はおそらく……」
ところが、カノの言葉が終らないうちに、突然地面が弾かれるように揺れ動いた。
「?!」
「やはりこうなりますね」
カノはあたしを庇いながら目の前のドームに目を細めた。
「早く来てください、ツヌミ――貴方だけが頼りです」
地鳴りと震動が響き渡る床を、多くの人が駆けて来る。
その先頭に立つのはツヌミだ。
「ツヌミ! タカミムスビに存在を気付かれました。すぐに……」
「分かっています。出来る限りで迎撃します」
あたしたちの元に辿り着いたツヌミは、リストバンドからコードを引き出し、ドームの外壁に押し当てた。
ぐにゃり、とその部分の壁がゆがんでコードを呑みこんでいく。
「?!」
「とりあえず、すぐに開けます。長くは持たないでしょうから、全員を中に引き入れる準備を!」
ツヌミの手元に、薄く光る立体映像のキーボードが現れる。いや、映像ではなくあれは感応もするらしい。
その上で両手を躍らせるツヌミ。
「あと12秒……テラス、ヒルメを召喚して、開放系第2段階でこの壁を射抜いてください」
「わ、わかった」
足元のおぼつかない揺れの中、あたしはヒルメを構えた。
「行きますよ……カウント、4、3、2、1……今です、テラス!」
「開放系第2段階、雷(いかづち)……『建御雷神(たけみかづちのかみ)』っ!」
あたしの叫びと共に、ヒルメから凄まじいエネルギーが飛ぶ。
それは漆黒のドームの壁にぶつかり、反発を起こした。
「回路開通まであと8秒、7、6……」
弾けまわる雷の光。
それを見つめるカグヤの人々。
「2、1……開きます! 全員、飛び込んでください!」
ツヌミの声と同時に、先ほどコードを呑みこんだ時と同じようにドームの一部がぐにゃりと歪んで、ぽっかりと穴が顔を出す。
人々は、我先にとその穴に飛び込んでいく。
「残り34秒、カノ、ミコトをお願いします。私はヨミを」
「分かりました」
「テラス、向こう側に飛び込んで全員が抜けきったら、最後にもう一度だけ開放系第2段階を同じ場所に叩きつけてください」
「分かったわ」
カグヤの人が全員穴に飛び込んだのを見届け、カノとツヌミもそれぞれミコトとヨミを背負って飛び込んだ。
そして、あたしも最後にドームに吸い込まれる様にして中へと侵入した。
「今です、テラス、『雷(いかづち)』を!」
「開放系第2段階、雷(いかづち)……『建御雷神(たけみかづちのかみ)』!」
再び視界が真っ白に染まり、凄まじい破裂音がした。
が、光が退くにつれて同時に足元の揺れも収まっていく。
「ありがとうございます、テラス。これでとりあえず侵入は成功しました」
秒単位の正確な指示で全員を中へと引き入れたツヌミは、あたしに向かってにこりと微笑んだ。
そんなツヌミの表情が読み取れる、という事は、この場所にいくらかの光があるという事なのだが。
あたしは遮光スコープを外し、辺りを見渡した。
「ここは、ドームの中?」
「ええ。ドーム最上部のエントランスです。この広さならおそらく全員を落ちつけるだけのスペースがとれると思って。何より、ここは放射能をある程度遮断できます」
ツヌミの言葉通り、ここは非常に広い空間だった。カグヤの労働者、おそらく300人弱だと思うのだが、全員が息をついて座り込んでもまだ空間の半分を占めていない。
全体を円頂状に覆うのは、ドームの外壁を構成するのと同じ素材だった。
「さあ、テラス。時間がありません。ミコトとヨミはカノに任せて、私達は彼らにすべてを説明しなくてはいけませんから」
「……分かったわ」
そう、あたしたちは絶体絶命の危機にさらされている。前に進むしか方法がないのだ。
そのために、全員の意志を一つにまとめ上げる事が必要だった。
あたしに出来るかしら?
「ツヌミ、ここを出る策を簡単に教えてくれる?」
それがどんなものであろうとも、あたしたちは前に進まなくちゃいけないのだけれど。
「……はい」
ツヌミは一瞬、自分の背負う者の重さを確認するように人の波を見渡してからあたしの方に向き
直った。
「カノがどこまで話したか分かりませんが……タカマハラと防御壁を作った始祖は5人います。そのうち、ナミの元となるイザナミとナギの元となるイザナギは生命工学、つまり遺伝子レベルで放射能の汚染に立ち向かおうとしました」
「それは聞いたわ。あと、機械工学の専門家だったタカミムスビっていう人、化学分野の女性学者ムスヒ、それから地質学者ミナカヌシ」
「そうです。機械工学のタカミムスビは、科学のムスヒと協力し、防御壁を作り上げました。また、ミナカヌシはこのタカマハラ全体のシステムと、生活に必要な水・食料を得る手段を」
「それぞれ分担したのね」
「はい。その後、ご存知のように、ナミとナギは自らのクローン体を順に作成する設備を整えました。この街を放射能から解放するという役割を自分の子孫ではなく『自ら』が行おうとしたのです」
ツヌミはひどく悲しそうな顔をしていた。
「しかし、他の始祖も同じ事を考えました。『放射能の克服は自らの手で』と。傲慢な、科学者の考えですね」
「カノは言ったわ。始祖は皆、別の形でこのタカマハラに残存しているって」
「ええ、そうです。ナミとナギはクローンを残しました。そして、機械工学の専門家タカミムスビは――タカマハラのメインサーバー内に情報生命体として今も存在しています」
「情報生命体……?」
あたしが首を傾げると、ツヌミは簡単に説明した。
「はい。タカミムスビは死ぬ間際、自らの意識をコンピューター内に移転させました。つまり、タカミムスビの意識はこの世界からは消え去ってしまったけれど、代わりに今でもこのタカマハラのコンピューターの中に存在するという事です。システムすべてを取り仕切る意志を持つマザーコンピューター、『タカミ』として」
「彼は……タカミムスビは死んでない、って事?」
「ええ、そう言う事になります。先ほどの地震も、私達の存在に気付いた『タカミ』が起こしたものです。おそらく、このカグヤを隔離しているのも彼のはず」
ツヌミの瞳に、強い意志の光が灯った。
「ですから私が、システムに侵入してタカミを倒します。そうすればカグヤから脱出するだけでなくこのタカマハラのシステムをすべて私が掌握できる事になるのです」
「……すごい!」
「ただ問題は、私が『タカミ』に勝てるかどうか、その一点だけ。しかもかなりの時間がかかるでしょうから、それまで放射能の汚染が心配です」
「そこでカノがコードを取り出して放射能への耐性を全員につけさせ、時間を稼ぐ」
「ええ、大まかにいえばそんな作戦です」
あたしにはわからないが、きっとそれは途方もない作戦なんだろう。あのカノが今までずっと躊躇していたんだから。
それに、ツヌミは『タカミ』を倒す、って言ったけど、相手は100年以上前からこのタカマハラを仕切ってきたコンピューター。そうやすやすとやられてくれるはずはないだろう。
それでも、もう前に進むしかない。
「……お願いね、ツヌミ。あなただけが頼りなの」
「ええ、分かっています。全力を尽くします。だからテラス、貴方は人々に希望を与えてください」
あたしは答える代わりに、にこりと微笑んだ。
人々の視線があたしに集中する。
それだけでさっきの敵意の嵐が戻ってくるようで、心臓が抉られる感触に襲われた。
大丈夫、大丈夫。
強い金色の瞳を思い浮かべて自分を落ちつける。震えそうになる手をぎゅっと握りしめて唇を引き結ぶ。
――生きなさい
ナギ、大丈夫よ。あたしはもう、大丈夫。
一度目を閉じて、深く深呼吸。
そして、目を開けると、人々を見渡した。
だいたい300人弱くらい。年齢は様々、男性の方が多いかな。けれど、タカマハラ内の取り決めで20歳以下はいないと聞いた。平均寿命がおよそ40歳というこのタカマハラにおいて、20歳というと人生の約半分にあたる。
先ほどまで殺気立っていた人々は、ツヌミの呼びかけのお陰かだいぶ落ち着いているように見えた。
最初に何て言ったらいいんだろう?
いや、そんな事、決まっている。
「初めまして、みなさん。もうご存知かもしれませんが、あたしはテラスと言います。タカマハラではなく、もっと暗い、下の街で育ちました」
最初にするのは自己紹介、と相場が決まっている。
人ごみがぞわり、とざわめいた。
「皆さんは、わけも分からずあたしの事を救世主だと思っていたかもしれないけれど、それは違います。あたしは、ただの異形狩りです。なんの力もない、一人じゃ何も出来ない一人の人間です」
そう、あたしには何も出来やしないのだ。
今だって、ここから脱出するため、実際に動いているのはカノとツヌミだ。
「でも、あたしは偶然にもこの細胞にあるプログラムを刻んでいました。それは、カグヤに、防御壁の外に蔓延する放射能に対抗できるものです。もちろん、あたしだけじゃない。あたしの兄弟であるミコ……スサノオとツクヨミの二人も同じプログラムを持っています。あたしたち3人がいて、ようやく放射能から身を守るためのプログラムが完成するのです」
いつしか人々は真剣にあたしの話に耳を傾けていた。
「今、カノが……医療分野に従事していた研究員の一人があたしたちに刻まれたプログラムを取り出し、全員に与えられるよう準備を行っています。そして、ツヌミはカグヤを封鎖したメインコンピューターに入り込み、ここから脱出できる用にすると言ってくれました」
伝わるだろうか、カグヤの人々に――あたしの願いが、ツヌミやカノの努力が、ミコトやヨミの強い思いが。
「ですから、少しだけ、あたしたちに時間を下さい。そして、出来る事なら願ってください」
静かなドームにあたしの声が響く。
「生きたいと。生きて、ここから出たいと」
あたしはカノとツヌミを信じている。彼らならきっとこの多くの人々を救えると信じている。
そして、こうやって人を信じる事を教えてくれたのはヨミ。
「願いは力になります。そして、いつか真実へと変貌するでしょう」
これはミコトが教えてくれたことだ。
あたしは一人じゃない。
そして、カグヤのみんなもきっとそれを分かってくれるはずだ。
「本当ならあたしがナミの元へ行くべきでした。たとえあれがナミの虚言だったとしても、最後の可能性にかけなくちゃいけなかったんです」
こんな事を言ったら罵倒されるかと思いきや、会場は静まり返ったままだった。
「信じてもらえるか分かりませんが、ナミはあたしの前ではっきりとカグヤを放棄する事を宣言しました。もちろん、第2層に住む人々もすべて。生き残るのは、第4層の研究者たちだけでいい、と――」
もうあんな気持ちは味わいたくない。
全員で生き残りたい。そう思う事は間違いじゃないはずだ。
きっとすごく苦労するだろう。これまでタカマハラと暗い街を隔てていたものを取り払う事になるのだから。カグヤもなくなって、新しく食料を生産する方法を考えなくちゃいけなくなるだろう。
でも、そんなのは後の話だ。
とにかく、今を生き残る。それが一番大切な事。
「でも、あたしは嫌。可能性があるなら、全員に生きていて欲しいの」
生きてカグヤを出よう。そして、ナミを説得しよう。
説得してだめなら、力ずくでも。
「だからお願いです。『生きたい』と願ってください」
全員の願いが誓いになり、いつか真実へと変わるように。
しん、としたドームに、ぱらぱら、と小さな拍手が漏れた。
それはいつしか大きな渦となって全員を巻き込み、気づけば割れんばかりの拍手が会場を埋め尽くしていた。
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――生きなさい――
それは、少女に残された唯一の言葉だった。
太陽を忘れた街で一人生きる少女が、自らに刻まれたコードを知る。
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