片田舎のあるところに一人の青年がいた。彼には弟や妹やが沢山いて、しかし父母を既に亡くしており家族の生活を支える大黒柱であった。
彼は誠実な青年であった。他人の困っている姿を見ては見過ごせず、また他家の家族に対しても自らの家族と分け隔てないかのように接する男であった。若者の少ないこの地では彼の様な勤勉な若者は尊ばれた。時に彼のその誠意は厚かましいだのお節介だの、或いは本当に家族なわけでもないのに気色悪いと陰口を叩かれたが彼は全く以って気にも留めず誰に対しても誠実であり続けた。その誠実は罪人に対しても惜しげも無く振る舞われる。
例えばある時盗人が出た。人々は総出で盗人を追い、これを捕らえた。皆が乱雑に扱う盗人を憐み彼は裁きが決まるまで自分が世話すると名乗り出た。人々は心配した。彼の家族にはまだまだ幼い者もいる。家族の世話を一手に引き受ける彼にそんな余計な仕事を任せるような真似をしてよいのか。また彼のその有情さに付け込んで盗人が彼を説き落としたりしないか。結局彼の篤い希望により彼が面倒を見ることになった。案の定、盗人は適度に親しくなった頃合いを見て青年に囁きかける。自分は生活苦からこのような真似を働かざるを得なかったのだ。この上公の裁きを受けるようではお先真っ暗、二度とこのような真似はしないからどうか逃がしてはくれまいか。
青年はよく話を聞いた。しかし、人々の懸念など杞憂であると鼻で笑うかのように決して盗人を逃がそうとはしなかった。盗人は苛立ちが募りつい怒った。青年は言う。あなたが生きるのに苦しみ悪事を働かねばならなかったことは悲しいことで大変残念であり僕も同情の余地はあると思っている。だけれど僕は自ら志願してあなたの世話を引き受けた。あなたを逃がすのはこれを投げ出すことに他ならない。あなたの話を聞いた僕がこれを投げ出して、どうしてあなたが悪人ではないと説く者が居よう?
盗人は彼の家の事情を知っていた。そこで不思議と彼は自分が重荷を背負ったままに自ら他の誰でも、それがどんなに薄汚れた者であろうと彼は肩を貸そうとするのではないかと思った。盗人は黙った。夜が明け、日が過ぎ罪人に裁きが下されることとなった。青年は盗人が盗人となった経緯を話し、彼についてきちんと調査をして裁きを下すべきだと人々を説き伏せた。青年の言は受け入れられた。……
青年には恋人がいた。彼女とはいつも仲良し、というわけではなかった。かつてはお互い何も知らぬ仲だった。二人の馴れ初めは、元は女が約束に待ちぼうけを食って退屈にしていた所に青年もまた偶然やって来て、時間を待つために同じ場で暇を過ごしたことだった。青年の方もまた待ちぼうけの挙句相手に約束事を忘れられてそれは後に笑い話となった。女はやがて遅れて母がやって来て二人は別れた。それからである、二人が頻繁に遭遇しはじめ自分たちの意思で逢おうとし始めるのは。
惹かれあって二人は二人でどこへでも出かけた。周りに何もなくとも、山あれば山へ行き、川有れば川へ行く。海があれば海に行くし、時には遠出して隣町まで出かけることもあった。人々は二人を持て囃した。人の世の常である。苦笑しながら二人は通り過ぎる。公然たる仲となり女の両親もいつでも二人が結婚していい準備を整えた。二人は冬が明けるのを待った。冬の明けた三月、二人は結婚した。青年の弟や妹たちは義理の姉が出来たことが嬉しくて仕方がない。
結婚までの二人は奇妙なほど順風満帆であった。女はある時言ったものだ、こんなに退屈な幸せが結婚した後も続く方が正直考えられないわね。皮肉にもその通りとなった。彼女は春先に病に
妻を亡くした後の青年は目に見えて虚脱の中にあった。彼から笑顔が消えた。しかしまるで礎石だけは綺麗に残したように彼の弟や妹たちは誰も流行病に罹ることがなかった。彼もまた同様で身体だけは明らかに釣り合わない程健康そのものであった。彼は虚脱の中にありながら努めて以前の振舞を変えぬよう振る舞った。誰に対しても親切に当たり続けた。とはいえそれが表面的なものであることは誰の眼にも分かることだったのだが。虚ろになった若者は覇気が消え、同情ばかりされるようになった。無用のものであるにもかかわらずだ。
五月に入ってから暫く曇天から雨の日が続いていた。ある日村に一人の若い尼僧がやって来た。たまたま尼僧に道案内を頼まれたのが青年だったので彼が彼女の世話を見ることになった。青年は相変わらず外面上は好青年を演じ続けた。尼僧は黙然と礼節を守りこれに応えた。
雨が降り出したので尼僧はこの辺りの寺社に屋根を借りることにした。青年は寺まで彼女を案内して別れた。その日、青年は寝つけなかった。亡妻の面影などあろうはずもないその尼僧、若き尼の面影が意識の内にちらついて仕方がない。
眠ったが直ぐに目が醒めてしまった、と青年は思った。まだ日が昇ってもいない深夜と夜明けの合間。雨は降っていない。彼は気晴らしに散歩に出た。歩き慣れた郷里を歩く。なお曇って全ては静寂と暗闇の中にあった。穏やかに風の舞う音だけが聞こえている。どこを巡ってもそれだけだった。青年は半ば導かれるようにして寺に至った。見習い小僧が竹箒を持って掃除をしていた。彼は小僧に尼僧の居場所を問うた。小僧はらしくない青年の問いに戸惑いつつも、彼女が山に行く旨を告げていたことを教えた。青年は山に向かった。
青年は薄暗い山道を、しゃにむに上った。山のどこにいるかなど知らない。ただ自身を突き動かす、それは欲望なのか真心なのか、或いは逃避なのか自身にも分からなかったがとにかく突き進んだ。山の動物とは運が良かったのか出会うことは無かった。代わりにひたすら道端の草叢に足を取られて手間取った。
やがてある場所に辿り着いた。山にある滝、川の源泉である泉に。かつて愛した人とここで一時の憩いたことがある。そう思い出した直後影が見え、滝に打たれている尼僧を見た。確として座しやはり黙然と、滝の弾ける水音さえ打ち消すと思えるほどの
彼は無意識のうちに踏み出した。その静謐さに踏み入り犯そうとするように、いっそ堂々と足音を鳴らして。死者に囚われた心を解き放つには、このまま往くしかない。そう無意識に包まれた夢見心地の感情が述べるのを聞いた。別人の眼を介してこの光景を見ているようだった。
泉越しに彼は尼僧と向き合った。そこから少しずつ畔を歩き、やがて滝のすぐ傍らまで来た。彼は衣服を脱ぐことも忘れて滝に逆らって進み始めた。頭から圧し掛かる
すぐ傍らまで来て、圧し潰されるに従う様に膝を付いて、彼は尼僧を抱き着こうとした。その直前に、彼女が拒絶するであろうことに気付き俄かにそれを恐れたがそれを上回る感情の濁流が惑いを押し流した。彼は抱き着いた。尼僧は無抵抗に、無我のままのように静なるままに抱き着かれるに任せた。青年は驚いた。殆ど視界も聞かぬ暗闇と瀑布の内に自分が不用心に乗り込んでいることに遅れて気が付き動揺した。尼僧は何ら青年に構うことも無くただ瞑想の内側にいる。その意味を理解できずに一瞬戸惑うた青年は、暫くしてそれこそ明確な拒絶の証なのだと気付いた。それに気が付いた瞬間から、まさに禁忌に踏み込んだ大いなる裁きが下るのではないかと恐ろしくなって逃げるように瀑布から抜け出した。行きの濁流があれ程までに軽く思えたのが嘘のように瀑布は冷たく酷薄に彼の体を打った。
ほうほうの体で瀑布から抜け出した青年は、そのまま逃げ帰ろうとしてふと後ろめたさから振り返って尼僧を顧みた。尼僧はなおも、先程のことが無かったかのように静謐のままにそこにいた。いっそ神々しいまでに、と彼は思った。その姿は啓示のように彼に自然に染み込んだ。陽が差した。暁闇の閃光が朱く世界を染め上げる。雲は既に彼方に消え、見事な晴れ空の中に太陽が昇っていった。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
約三五〇〇字。二〇一三年四月二十八日完成、最終更新二〇二三年十月十一日