さて、どうするか。
こちらは闇の中、堅城の天守の一角で、一人座す男の低いつぶやきが口から外に漏れずに消える。
多少の勝利を得た事で調子に乗った式姫たちが、再び正面から押し寄せてくれれば苦労は無いが、あの手並みを見る限り、そんな愚行は期待できない、では空から来るか、地下を掘ってくるか、巨石等を投げ込んでくるような大雑把な攻撃を仕掛けてくるか、南の山脈から来るか……。
その中で一番厄介なのは南の山脈伝いに攻め寄せられる事か。 仙人峠を失い、自分の監視の目も、陰火による防衛も出来なくなった事で、最も手薄な部分ではある。
とはいえ、険しい山脈は相手も兵を展開するには不向き、そして、こちらの山脈と城壁を接する地は骸骨兵団による防衛線の範囲に入っている、旧二の丸、三の丸の地より防備としては劣るが、十分に対応は可能。
「仙人峠の一戦で、確かにこちらの戦力や防御陣はかなりの痛手を被った、だが、こちらの優位はまだ動かぬ」
そもそも、こちらが城に拠って守り、式姫や人の側が攻め寄せている、そんなうわべの事から、こちらを籠城側と見る方が誤り。
状況を見れば、他の地域との連携を断たれ、時間の経過と共に不利になっていくだけの式姫たちの方が寧ろ籠城側とすら言える、自分たちは堅固な防壁に依って奴らをあしらいつつ、式姫や人の弱体化を待てば良い……地の利と天の時を得ている、極めて有利な状況。
ただ、能動的に動かせる戦力が自身の手元に無い事から、こちらから打てる手が限られるのもまた事実。
妖怪共は強気を崩さないが、退却する式姫を追って返り討ちに遭った一つ目入道やヒザマ、仙人峠防衛を任せて置いた蝦蟇を始め、堅城落城後に、この領域を妖の領域として盤石な物とする為に各地に散った妖たち、漆黒の森に巣食い猟師や樵を恐怖に陥れた大百足、広大な沼沢地を制し、人の漁の道を断った磯女、山の民を殲滅せんとした雪入道、それら名だたる面々すら式姫たちに滅ぼされてしまった事で、自由に動ける、力ある妖はかなり手薄になってしまっている。
「困ったものだな」
守る分には、現状でも大した問題はない、だが機を掴んだ時に攻勢に転じられないというのは、やはり片手落ちの感は否めない。
元々、自分は堅城とその周辺の守りを固め、妖どもは攻めと、大雑把ではあるが役割分担を決めてしまった事が、ここにきて足を引っ張っている。
この位大きく役割を分離しさえすれば互いの接点と軋轢は最小に留められ、それぞれの得意を生かした形で共闘できるだろう、という妥協の産物ではあった。 それも堅城を落とすまではそれなりに上手く行ったのだが、あ奴らの自尊心の高さや、人からの提案を受け入れられぬ高慢さや頑迷さが、堅城に対する勝利によって更に表に出るようになってしまい、それらに足を引っ張られる事もしばしば。
まぁ、古から苦を共に出来る者はそれなりにいるが、楽を共に出来る者は稀というのは、古来よく言われる事。
「まして妖相手では……か」
そうつぶやく男の口元にほろ苦い笑みが浮かぶ。
奴らの狙いは見え透いている、式姫との戦が終わった後は、儂を排除して、完全に妖の手でこの地を制圧する事。
今は共通の敵がいる為に共闘が続いているが、恐らくその方針に変わりあるまい。
だがまぁ、それはこちらも同じ事。
いつまでも化け物どもとつるむ気はこちらにも無い。
「呉越同舟とは良く言った物だが」
どちらが夫差で、どちらが勾践となるか。
奴らに対して、有効な力となりうるあれを、一刻も早く確保せねばならぬ。
男は悩まし気な目で、中空で燃える炎を見上げた。
「急がねばならん……だが」
仙人峠を失った、この痛手をどう補うか。
すべらかな岩肌が揺れる明かりを美妙に弾く。
その光源は炎に包まれた車輪であった。
支える物も、曳くものも無いというのに倒れもせず、からからと回りながら地を進む、怪しの車輪。
「人の掘った穴倉など、と最初は思ったが、あの骨人形共が居らんと、この地が斯様に居心地よいとは思わなんだわ」
「ほんにのう、日が差さず、何よりこの中にはいまだに人共の欲望の気が渦巻いて居って空気が旨い」
一つ鶴嘴を振るう度に、金出ろ金出ろと一念を込めて拡げに拡げたこの空間、我らの住処としてこの上ない。
そんな妖の声を聞きながら、車輪は中央に座す、普段、堅城の奥の間で妖の代表として人の男と交渉する役を負っている美しい乙女の前でその身を止めた。
「輪入道、戻った」
経でも読ませたら、清少納言辺りが喜びそうな豊かな響きの声は、こしきに当たる場所に付いた禿頭の顔から発せられていた。
その声に、周囲の雑談が、ぴたりと止まる。
輪入道はそんな周囲を見渡して、低く笑った。
「この穴倉が我らの新しい拠点か?」
一城の主から、随分とまぁ陋屋への転落よな、そう呟きながらくつくつと低く笑う声に、乙女も苦笑する。
「一時の事だ。 それより、気骨の折れる連絡任務ご苦労であった。それで、あちらはどうだ?」
あの男とやりあっている時の乙女の声音とは違う、低い男の声がそれに応えた、輪入道と名乗った妖は、それには特に驚いた様子も見せず、言葉を返した。
「火龍は未だ動かず、そして商都の方は人や、助力する式姫共の抵抗が強く、水龍の封には未だ近付くことも出来ぬそうじゃ」
「ふ……ん、火龍の目覚めで壊滅した霊域から逃れた連中が、水龍の封を守ろうと商都に結集してしまった以上、仕方ない事か」
万全の準備を整えた狩の予定が、全く不手際だったな。
低い乙女の言葉に、輪入道は低く唸った。
「奴らを我らの押さえた堅城の方に追い込み、殲滅するという話が、かなりの人数に逆方向への逃走を許してしまった失策が効いておるな……退路を塞ぐ役を果たすはずだった火龍の制御が予想以上に難しかったようじゃが」
「あ奴には珍しい事だが……龍の力はそれだけ強大という事か」
ふ、とため息とともに言葉を切った乙女に向け、輪入道は報告を続けた。
「とはいえ、あの地を我らの手中に収めるという大目的は達成された、全くの失敗ではない。 何より、あの社を封じる手立てにも目途が立ったそうじゃ」
多少の誤算はあっても、我らが勝利は動かぬわ。
「ほぉ、流石の手並みだ……」
だが、ならばこそ……何故。
その美しい顔に苛立ちの色を浮かべ、彼女は頭を振った。
「龍の制御が出来ぬのはまだ判る、だが、火龍は確かに一度は目覚め、大いなる破壊をあの地にもたらした、それがなぜ急に眠りに就き、未だにそのままなのだ」
目覚めに十分な力は龍脈を通して注がれている筈……それが何故?
「それは奴も掴みかねておった、理由が判らぬと……ただ、そう、原因かどうかは分からぬが、気に掛かる事はある、とは言うておった」
「何じゃ?」
勢い込む彼女を押しとどめるように、輪入道はぎしり、とその重厚な体を小さく軋ませてから、言葉を続けた。
「どうもあの地では、気に食わぬ音がほんの時折するような気がする、と」
「音?その音が何かの呪の旋律になっておるとか、そういう事か?」
「儂はその音とやらを確認しておらぬで、何とも言えぬが、話はそう単純な物では無かろうよ」
木、火、土、金、水……全て自然の営みはそれぞれの音を持っている、天地自然のそれらを精妙に組み合わせ呪を編むなどというのも、術に長けた者なら出来ない話ではない。
だが、それならば奴程の妖は必ず気が付く筈、その「音」とやらは、そうではないという事なんじゃろう。
「いずれにせよ、奴以外では龍の制御は出来ぬであろう、今は任せて待つしかあるまい」
輪入道の言は正論である、乙女の姿をした妖は何かを飲み込むように大きく息をついた。
「そちらは了解した、して、奴めは我らの次の動きに関しては、何か言うておったか?」
ああ、と口にした輪入道の顔が、自嘲の色を一瞬浮かべる。
「最悪でも、火龍が動けるようになるまでは、式姫をこの地にて抑えて置いて欲しいと、それと構えてあの人間には油断せぬように、だそうだ」
その言葉に乙女の顔が露骨な不快の色を浮かべた。
「押さえておけだと、勝利しろではなく、押さえて……我らが敗北するとでも言いたいのか、奴は」
舐めた事を……。
その言葉に、周囲の妖からも同調するような強い言葉が上がる、それらを、どこか冷めた目で見ながら、輪入道は低く落ち着いた声を発した。
「そうじゃな、勝てば済む話よ……だが、まぁ式姫は我らとて余裕を持って勝てる相手では無い、それだけ用心して掛かって欲しいと言いたかったのじゃろう」
それにな、そう呟きながら輪入道が視線を巡らす。
「仙人峠が式姫に奪い返されたという我らの失態は、既に世上に派手に喧伝されておって、当然あやつらにも伝わっておる、それはまぁ、多少の懸念は示されても仕方あるまい」
何かの間違いで、こんな話が商都にまで伝わってみよ、人どもの士気は更に上がり、我らの目的達成に支障を来す事になりかねん。
「……あれは!」
「そう、あの人間が守ると豪語しておった土地の話じゃ、蝦蟇めの事があるにせよ、我らの責任という話ではないが」
外から見る目は、そんな事は斟酌せぬ、式姫どもが勝ち、我らは負けたという事実が残るのみよ。
反論できぬ事実を仮借なく突き付けられることが不快であるのは、人も妖も大差ない。
内訌する怒りを孕み、空気が相応に刺々しくなってきた事を感じ取り、輪入道はさりげなく話題を転じた。
「そうそう、一つ聞きたかったのだが、式姫に対する備えとして、堅城は奴が、そして我らだけでこちらの廃坑跡をそれぞれ完全に分離して守備するというのは、奴とお主の談合の結果か?」
「そうじゃ、堅城前での戦と、その後の追撃戦や、仙人峠での戦の結果を見るに、やはり奴の考える戦の形と我らのそれは大きく違いすぎる」
組むよりは、完全に別々に動いた方が良さそうじゃという事で合意した。
それを聞いた輪入道の顔が、わずかに懸念の色を浮かべる。
「成程な、単純に式姫との戦を考えるだけなら良い判断だとは思うが、我ら全員が『あの城』から離れてしまうのは、ちと悪手ではないか?」
それに対し、判っていると言いたげに頷いて、乙女はその清楚なつくりの顔に似合わぬ、邪悪と言っていい笑顔を浮かべた。
「何、奴も我らの目があると、コソコソと悪さをするのも大変そうじゃでな、少し羽を伸ばさせてやった方が、奴が秘密に進めておる『仕事』も捗るじゃろうよ」
事あるごとに筋の悪い嫌味を言いに行っていたのも、奴の様子を探りつつ、その行動の自由を時折は妨害する意味もあってしていた事。
「今頃奴は、さぞ解放感に包まれておろうよ、まして、式姫どもという第二の圧力が掛かってくれば、奴の仕事も捗ろうという物さ」
そして急げば、いかに油断ならぬ奴でも尻尾の一つも出す、それが自然の情という物。
「ふ……そういう事か、では、我らは一刻も早く果実が実るのを待つとしようか」
磐座の前に静かに座していたおつのは、不意に上空から吹いてきた風に目を向けた。
彼女の周囲で思い思いに過ごしていた三つ足烏達が、時ならぬ風に驚き、身を避けるように一斉に空に飛び立つ。
かなりの高速で飛来してきた身を着地に適した速度まで落とすための力強い翼の羽ばたき。
それに向かっておつのは大きく手を振った。
「鞍馬ちゃーん、急いでどうしたのー?」
「ちょっと様子を見にね、おつの君、どうだ仙人峠と庭の力の連携は?」
これは差し入れ、と差し出された風呂敷包みを受け取りながら、おつのは笑顔を返した。
「順調順調、やっぱりお山の神様は里から力を得てなんぼだよねー、庭の力にしても、ご主人様だけだと受けきれない分を、がっちりと受け入れてくれるだけの強大な磐座があると、気の道がしっかりするよね、こう、大黒柱が立った感じ? そしてこのお山の力も気の道を通じて里に、そして庭まで還流していく、そんな良い循環が回りだしてるからねー、近いうちに、庭とこの山の間はかなり妖怪さんたちには住み辛い世界になっていくんじゃないかなー」
「そうか、何よりだ……おつの君には済まないが、その辺りが今少し安定するまで、もう少しここで押さえの役をお願いしたい」
「その辺はおつのちゃんの本領だから、なーんにも気にしなくていいよー、こうして差し入れの上げ膳据え膳までやってもらえる時点で至れり尽くせりだよ」
いただきまーす、と鞍馬が持参した風呂敷包みから、竹の皮で包まれたお結びを一つ手にして、それにかぶりついたおつのの顔が、ぱっと明るくなる。
「しぐれ煮を混ぜ込んだご飯だね、それにしても美味しい茸だね、一味うま味が出てる感じだし、この時期にって事は干した奴だよねー、もしかして鞍馬ちゃん秘蔵の一品かなー?」
「まぁそんな所だよ、山の楽しみ方は随分と極めつくす時間があったからね」
尤も、そんな山の幸の楽しみ方も、自分の場合は戦陣に持参しやすい、長期保存が効き、軽量で戻すのが簡単な保存食の研究や、食用や薬用になる山菜の調査などになってしまっていたのは皮肉な話。
おつのの言う、干した茸が一味増すなどというのは、知らず得られた余禄のような物に過ぎない。
今にして思えば、世捨て人を気取り、知など空しいと言いながら、自分はずっと何かを知ろうとする営みを絶やすことは無かった。
(『軍師』の鞍馬というのは、つくづく未練がましい奴だな)
だが、その未練のお陰で、自分が今ここに居るというなら、それはそれで悪くは無かったのだろう。
「それとおつの君、こちらから堅城の様子を探るというのは?」
おしゃべりで鳴らす彼女だが、何かを食べながらしゃべり続けるような行儀の悪いことはしない、無言で手を振るおつのの顔を見て、鞍馬は僅かにため息をついた。
「矢張り駄目か」
「無理だねー、あちらも道を開けっ放しだと、今度は逆にここから霊的な力でちょっかい掛けられるのは判り切ってるからね、ぴたっと閉じちゃってる感じで、押しても引いても叩いても、何の音沙汰もない感じだねー」
それだけ言って、おつのは残ったおむすびを口にした。
「そうか……まぁ、逆にこの山に再び陰火を送り込むような動きは無いと判断できるだけ良しとするか」
その言葉に頷き返し、おつのは美味な食事に、再び舌鼓を打ち始めた。
ややあって、満足げな声を上げた彼女が手を合わせた。
「ふい、ご馳走様でした、梅干しのおにぎりもすごく美味しかったよー、あれって遠征の時にこうめちゃんが持たせてくれた物なんだよね、なんでも彼女がお母さんから教わった秘伝の漬け方らしいんだけど、いい味の出し方知ってるよね、私もう、梅おにぎりと言ったらこうめちゃんの梅じゃないと何かものたりなーーいって感じになっちゃったんだよね、あれが無くなっちゃう前に勝って庭に帰らないとねー」
「ふむ……こうめ君か、私はまだ面識は無いんだが、おつの君はその少女を知っているのだったね」
主が保護しているという少女……彼女との出会いが、彼をあの困難極まる道を歩ませる契機となった。
「うん、と言っても、私もそんなにはね、こうめちゃんの事が知りたいなら、天狗ちゃんや狛犬ちゃん達の方が詳しいよ」
彼女の祖父に従っていた式姫たち、小烏丸、天女、悪鬼、狛犬、白兎、そして天狗。
「いや、そこまで詮索する気はないんだ、どちらかというと、おつの君のような、彼女とちょっと時間を共にした、という程度の人の印象を先に聞きたくてね」
それほど詳しく話を聞けた訳ではないが、彼とこうめが出会った時の事は大体把握している。
妖に追われ、彼の館に逃げ込んだこうめと式姫、そしてそれを匿い、式姫たちの主となる事を選び、戦いに身を投じた主。
普通に考えれば命の危機に際し、他に手段はないとして、彼は戦いに身を投じたとしか見えない。
それは確かにそうだったんだろう……だがそれだけだったとは、どうしても鞍馬には思えなかった。
何かもう一つ、その戦場での一瞬の中で、彼をここまで歩ませてきた力となった何かがあった筈。
それこそが、その少女の存在だったのではないのか。
であれば……長き付き合いのある存在から彼女の詳細を聞くより、わずかな時間を共にしただけの存在からの印象の中にこそ、彼女の何かが見えるのでは無かろうか。
ふぅん、とそんな鞍馬の思いを知ってか知らずか、おつのは鞍馬の持参した折り詰めやおむすびを包んでいた竹の皮を丁寧に風呂敷で包みながら口を開いた。
「そうだねぇ、こうめちゃんかぁ、食べる事、特におむすびが大好きで後はお昼寝と遊ぶ事が大好きな、ちょっと変わった口調の、可愛い陰陽師の卵。 なのに勉強が嫌いで家事の類も苦手かな……と色々あるけど」
多分鞍馬ちゃんの聞きたいことは、そういう事じゃないよね。
茶飲み話程度に、印象を聞きたかっただけだが、流石にこの大天狗の目を誤魔化すことは出来なかったか。
無言で頷く鞍馬に頷き返し、竹筒の水を少し口にしてから、おつのは視線を庭のある方に向けた。
「……あの子は、哀しいくらい強い子」
■輪入道
式姫の庭で何かと印象深い敵妖というとこのおじさま出てくる庭師も多いかと思います
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