ふと気がつくと、雲一つなかったきれいな青空はいつの間にか、黄昏色に染まっていた。
それに気がついたのは、卓上に差し込む光が、オレンジ色に代わっていたからだ。
随分と集中していたらしい。時間の流れにすら気がつかないなんて。
地平線の向こうの空と、現在の空の色合いからして、あと数時間ほどで夜の帳が訪れるだろうか。
ならばまだ、その時ではない。
品質の良い花と、その辺に生えていた薬草をすり鉢に放り込み、ごりごりとかき回す。
時間まで、もうしばらく、薬を作る作業をすることにした。
満月の光だけが、辺りを照らす。
そんな時刻に出歩くような人間は、大体が限られている。
酔っぱらいか、ならず者。
前者は絡んできたり、その辺で迷惑かまわず鼾をかいて寝てしまう。ある意味では迷惑極まりない奴らだが、相当のことがなければこちらに関しては無害と言ってもいいだろう。
問題は後者だ。ならず者、と一口に言っても、単なる盗賊から始まり、山賊といった集団から、恐喝、強盗、詐欺をするのを生業とする輩は、大抵顔が知れてしまっているので、ギルドなり国なりから賞金を掛けられ、追われる身だ。捕まっても大抵は反省などせず、シャバに出た瞬間、また同じことを繰り返す。
度が過ぎれば、重罪人扱いされて、運が悪ければ見せしめの後に死刑だ。犯罪者は皆死刑にしてしまえばいい、などという意見も最近出始めているそうだが、犯罪人といえども理由があって致し方なくやっている場合もある。ちょこっと窃盗した輩に対してもそれを適用するとしたら、それは人権云々に関わることだ。
そんなこんなで犯罪に対する取り締まりの強化に関しては、それぞれの村町で行えというのが国の方針となった。故に刑罰が緩やかなところもあれば、子どもであろうとも容赦なく刑に処する所もあるらしい。このあたりに関しては、意見を述べろと言われてもなんとも言えない。
なぜなら自分は後者の立場の人間であり、また盗賊連中とは一線引いた先に踏み込んでしまっている人種だからだ。
そして今日もまた、夜闇に紛れ、暗躍する。
「にょほっ。確かにこのお屋敷のお宝、いただいていくわっ」
右手人差し指にギラギラと悪趣味に輝く宝石をたっぷり使ったネックレスを引っかけ、くるくると回しながら、たんっと、窓枠から身軽に飛び降りる。
着地時、いつもより両足に負荷がかかった。それもそのはず。左肩にずっしりと食い込む布袋の中には、たんまりと宝石やら貴金属が詰め込まれている。自分の格好――猫耳付きの赤いフードに、身軽に動くことを限界まで追求した露出の多い同じく赤の衣装――と合わせて見ると、さながら時期を早まった女サンタクロースのようだ。
「おえっ! おえおえおえーっ! 吐いているんじゃないぞ! 追いかけろと言っているんだ!」
先ほど飛び降りた窓の向こうから、そんな声がする。急いで退散しないと、このお屋敷に常駐している傭兵だのなんだのが大挙して押し寄せてきてしまう。
いっそげーいっそげーと、危機感の欠片もない言葉をハミングするかのように口ずさみながら、屋敷の塀を飛び越えて、町へと駆けだす。
「待ちやがれってんだ! この泥棒猫がー!」
待てと言われて待つ輩など、もうこの世の中にいないだろう。
月明かりの届かない、入り組んだ路地へと飛び込んだ。ここでちょろちょろとネズミのように逃げ回ってある程度やっこさんを撒いたら、とっとと帰るとするか。
怒声だの罵声だのの声が、だんだん遠ざかる。
もう撒いたかな? と走ってきた方を振り返った。どうにか今日も追っ手を撒いて逃げ切れそうだ。
そのまま数歩、後ろ向きのまま歩く。
とすっ。
背中がなにかにあたった。
ん? と思う。
今自分が通っている道は障害物のない一本道だ。しいて言えば上方には洗濯物が干されていて、空の色を伺い見ることができないが、それは地上においては関係ない――いきなりパンツが落ちてきたとかいうなら話は別だが――それはともかく、本来なら数歩どころか数十歩歩いても、なにかにぶつかることなどありえない。
まさか、と思いながら首だけ後ろに向けた。
そこに立っていたのは、疲弊した顔をした男だ。ぴちょん、と水滴が落ちるような音が足元からして、恐る恐る視線を下に向けると、男はどうやら負傷しているらしく、左腕をかばっている。しかし驚いたのはその先、左手に、剣が握られており、それが金属特有のそれとは違う輝きを、月明かりに反射させていたからだ。
途端、鼻につんとくる、血の匂い。そして――
「うにゃっ!」
糸が切れた操り人形のように、男がいきなり倒れ込んできた。
「お、重い……」
伊達にいつもくそ思い金品を盗っては運んでいないつもりでいたが、それは無機物に限ってのことであり、こうした生物に関しては全く経験などない。
かといってこのまま打ち捨てていくにしてもな……。
しばらく逡巡した後、先ほど盗んできた品の入った袋を、血の滲む地面に捨てた。
暖かい、空気。ハーブ、あるいは薬草の、匂い。
遅れて、自分の体から僅かに血の匂いと、お日様に干された乾いた布の匂いがした。
そっと、目を開ける。
まず視界に入ったのは、木製の天井だった。首を動かして、周囲を見渡すと、自分が寝かされているらしいベッドの右手に、燦々と太陽の暖かい光が入り込んでくる窓がある。反対側には得体のしれない乾燥したなにかが入った小瓶が所狭しと陳列した棚。その手前に、薬の調合のために使う、使い込まれて大分古びている専用の卓上。その上に分厚い本が一冊。
寝たままの状態で得られた情報はそこまでだ。危険はないと判断し、痛みを訴える体を無視し、起き上がる。
掛けられていた布団がずれて、その下に横たえられていた自分の体が露わになる。上半身は包帯をグルグルに巻かれた姿で、下はというと最後の記憶のまま、革製のズボンを履いていた。
どういうことなんだ、と左手を額に当てる。
その腕にも幾重に渡って包帯が厳重に巻かれており、ほんのすこしだけ消毒液の匂いがした。
寝ていた時に確認したとうり、それ以外にはなんにもない質素な部屋。自分でここに来たという記憶は一切ない。
必死に記憶を辿っていく。
最初に浮かんできたのは酒場での出来事だった。
いつものように、そこで依頼の書かれたメモを渡された。依頼者の名前、成功したときの報酬、ターゲットの詳細を記憶し、その紙を飲んでいた酒に浸し、テーブルに備わっていたランプで燃やす。それは証拠を残さないのと同時、依頼を承るという合図。
前払い金を受け取り、闇市に赴き、適当に今夜必要なものを見繕い、夜を待って、ターゲットのいる屋敷に忍び込んだ。そこからターゲットの部屋に入り、殺害するまでそんなに時間は掛からなかったと思う。
ずいぶん警備の薄い家だったな、という感想を残し、死体となったターゲットの部屋を後にしようとした途端、突如、天井からいきなり襲撃された。
自分が殺したのは、ターゲットの影武者であり、当の本人はとっくに別の場所へと逃げられていると知ったのはその数分後。
天井だけでなく、壁からもいきなりずばーんと現れて、大分手こずったが、なんとか切り伏せて脱出した。そこまでに侵入したときの倍以上の時間が掛かったことは言うまでもない。
予想外の不意打ちに、容赦のない追い打ち、全員返り討ちにするために大怪我まで負って、結局ターゲット暗殺は未遂に終わったという、思い出すだけでも気が滅入るほどの散々な結果だった。
その後、屋敷から命からがら逃げた自分を執拗なまでに追いかけて来た奴らも打ち倒し、一旦路地裏に入ったところで――
ぎしっ。
はっと、現実に意識が戻る。部屋の奥、棚が備え付けられている壁の向こうから、木が重みで軋んだような、そんな音がした。
ベッドの傍らに、記憶が途切れる寸前まで自分の左手に存在していた、剣がきれいに拭かれて立てかけてあったので、それを手に取る。
その音が止み、部屋の扉が開かれた瞬間。
抜刀。パン粥の入った器と小瓶の乗ったお盆を手に持って入って来た相手の首筋に、その刃を向けた。
相手の目が、一瞬驚きと恐怖に見開かれる。
「うっ……にゃっ…!」
下手に動けば簡単に皮膚が裂け、そこから血が容易に流れ出る。そんなところに剣に限らず刃物を当てられたら、誰であっても動きを止める。
普通ならそうなるはずなのだが、相手には危機感というものが欠如しているのだろうか。器用に両手で持っていたお盆を片手に持つと、首筋に刃が当てられているにも関わらず、気にした様子なく、開いた方の手を自分に伸ばす。
「あーっ、無理して動いたでしょー! 血が滲んじゃってるじゃない!」
つんつんと、血が出ているらしい部分を突かれる。細い指で的確に突かれたらしい。痛みが全身に痺れのように走った。
声にならない悲鳴が上がり、思わず持っていた剣を落とす。
落とした拍子に、剣の切っ先が床を引っ掻いた。
「にゃー! こらあ! 床に傷をつけるなあああ!」
ずびしずびしずびしいっと、またも傷口にピンポイントで突き攻撃がヒットする。
「っっ、分かったすまなかった! 頼むからそれ痛い、やめてくれ!」
「なら、とっととベッドに戻ること! あとこのパン粥と薬を残さず食す! いいわね!」
びしいと、先ほどまで自分を突いていた指を眼前に突き出し、ついでに左手に持っていたお盆を腹の部分にずいっと出される。
こくこくと頷いてお盆を受け取ると、あとで様子見に来るからね、と言い残し、部屋を後にして階段を下りて行った。
同時に、先ほどまでのプチ騒ぎが嘘のように静まり返る。
いきなりの慌ただしい出来事にしばし呆然とした後、出来立てらしいパン粥の匂いにつられてか、空腹を訴えるように腹がなった。
しゅる、と音を立てて、きつく腕に巻かれていた包帯を解かれた。
その下にあったはずの傷は、跡も残らず、きれいに治癒したようだ。
少女の細い指が、背中の方の包帯も解く。そちらの方も腕と同じく完治しているだろう。自分の体のことだ。自分で見なくとも、また少女に言われなくとも分かる。
「うにゃ、もう大丈夫そう。あんな酷い怪我だったのに、野性的な治癒力だね」
ふんふーんと鼻歌交じりで他の部分の包帯も解き、くしゃくしゃぺっ、と、使い終わった包帯は、ベッドの側にあるごみ箱に打ち捨てられた。
「……そこは奇跡的、と言わないか?」
溜息交じりでそう問う。
「だって………まあいいや」
「なんだよ。中途半端に言葉を切られると、逆に気になるだろう」
「踏み込んだことを訊くことになるでしょ」
そう言って、少女はごみ箱の向こう、壁に立てかけるように置いてある、使い込まれた剣へと視線を送る。
ああ、そういうことか。
ここに来て、十日ほど、自分はこの少女の元で世話になった。
その間、お互いなにも言わずとも、なにをするべきか、なにをしないで言わないでおくべきか、というのはまるで熟年夫婦のような空気の伝達で通じていた。暗黙の了承とでもいうのだろうか。交わした言葉も、互いに関係する内容のみだった。なぜ自分が大怪我を負っていたのかも、血に塗れた剣を手にしていたのか、この少女は訊いてこなかったし、またこの少女も、なぜたった一人で小さな薬屋を経営しているのか、夜な夜な皆が寝静まる時間にこそこそと出かけているのか、といったことに関しても自分は訊かなかった。
別に訊いたって構わないのかもしれない。そしてそれに対して真実を語るのかもしれないし、もしかしたら嘘をつくかもしれない。あくまで受け取る側がどう対応するかによるのだろう。けれどお互いそれをしないのは、どうしてだろうか。
踏み込めば、帰れなくなるからか? 知ればもっと知りたくなってしまうからだろうか?
それとも――不思議な運命の偶然が引き起こしたこの縁が、関係が、訊いた途端、壊れてしまうのが怖いから?
少女が両の手を後ろに回して、踵をとんとんと叩いた。その軽い音に意識が引き寄せられ、考えるのを途中放棄して、少女を伺い見る。
ふっ、と、少女が微笑む。
そして、恐る恐るといった風におずおずと口が動く。
「ねえ、帰る場所は、あるの?」
たかだか十日ほど来なかっただけで、随分と久しぶりに感じる馴染の酒場の古びた扉を開く。
久方ぶりに嗅いだ、酒、煙草、それから法で取り締まりを受けている筈の、いわゆるクスリの匂いが、物理的に殴り掛かってきたように鼻孔に流れ込んできて、思わず一瞬、息を止めた。
いっそ外に出ようかとも思ったのだが、いつもの席、酒場の一番奥にランプが灯っているのが見えて、踵を返しかけた足をそちらに向ける。
どかっと、乱暴に座ると、どこから現れたのか向かい側の席に、見慣れた黒コートの男が座った。
「ご無沙汰ですね。生きてましたか」
にこにことしながら、黒縁の眼鏡をくいっと上にあげる仕草をし、男は言う。
相変わらず表情から中身が読めない奴だ。いつものことだが。
「死んでほしかったか、おい」
抑揚のない声音でそう返す。
「そんな滅相もない。あ、可愛い子との同棲生活はいかがでした?」
「覗きか、いい趣味してんな。今すぐここでその首切ってやろうか」
「お断りしますね。早速ですがお仕事の時間です」
「勝手だな、お前」
まあこれもいつものことだ。
そうしてこいつの流れに乗せられて仕事を請け負ってターゲットを殺して報酬をもらうのが今までのパターンだった。
――ねえ、帰る場所は、あるの?
ふと、そんな声がどこかからした。そしてそれと同時に、小さな疑問が、頭をよぎる。
これから先、以前と同じように、また裏の仕事を請け負って暮らす日々に帰るべきなのだろうか。
殺しとは無縁の別の生活。そんな言葉がふっと脳裏に浮かぶ。
想像してみようかと、連想するようにその光景を思い浮かべようとした。
途端、ランプの炎が大きく揺らめいた気がして、反射的に首を左に傾ける。
間発入れずに先ほどまで頭があった場所に、ナイフが数本飛んでいき、背後の壁に突き刺さった。
「やっぱり、首、切られたかったか」
「ジョークですよ。鈍っていなかったようでなによりです」
そう言って、いそいそと、懐からターゲットの情報と報酬の内容について書かれたいつもの小さな四つ折りの紙を取り出し、こちらに差し出してくる。
「ふたつあります。お好きな方を」
あからさまに疲れたというような溜息をついてやってから、適当に、なにも考えずに片方を抜き取った。
「あら、以外。魅惑的な熟女より、成長期真っ盛りの少女がお好みでしたか」
「なんの話だ」
「お仕事の話です」
「関係があるとは思えないな」
「関係ならきちんとありますよ」
四つ折りにされたそれを破きそうな手つきで開く。
「今回のターゲットは、手癖の悪い泥棒猫の退治ですよ」
ちりっと、首筋に針でも刺されたような刺激を感じて、そっと手を当てた。
数回、指先でその部分を擦ってみるが、特になにかがあるわけでもない。
命でも狙われているのだろうか。それで首にそんな違和感を感じたのだろうか。
思い当たる節を探そうとして、やめた。
それは思い浮かんだのが、先刻までついそこにいた彼の姿だったからだ。
らしくない。まったくもって、自分らしくない。
無意識のうちに眉根を寄せて、自分自身に自己嫌悪した。
それほどまでに、十日ほどの、ほんの少しの間に、随分と彼の存在は自分の中で大きくなっていたようだ。
けれど今ここに彼はいない。
――ねえ、帰る場所は、あるの?
僅かな好奇心とちょびっとの勇気に後押しされて出た言葉だった。
たったそれだけの言葉を口にするだけで、声は震え、どもりそうになりながら、つまりそうになりながら、それでもなんとか紡いだ言葉。
声帯から発せられて、部屋の空気を揺らし、彼の鼓膜を振るわせて、言葉の意味を咀嚼するまでに、そう時間はかからなかったはずだ。
一秒が一分にも感じるような時間の流れがもどかしく、また少しだけ怖くも感じながら、彼の反応を待つ。
ようやく、伏せられていた目がこちらを向いた。視線と視線が交わる。
「……殺し屋の俺に、帰る場所はあるのか?」
そう帰ってきた答えに、すぐに答えることができなかった。
気がついた時にはベッドに座っていた彼は自分のすぐ側を通って、部屋を出た後で。
微かに彼の残り香と、耳の中で妙に長く反響しつづける閉じた際に鳴った扉の音が残った。
しばらくの間、なにが起こったのか分からなくて、それから遅れて脳が現在の状況を理解したとき、自分自身に憤りを覚えた。
彼と出会って、ここに連れてくるまでの道中で、もしかしたらという疑念はあった。血痕が残る剣を所持していたことで、疑念はほぼ確信に変わって。
でも、この十日の間、殺し屋としての彼とは別の面の彼を私は見ていた。
どんな経緯があって殺しの道に入ったのかなんて、私は知らない。でも、見ていて思うのは、彼自身決して望んで殺しをしていないということ――それでも殺しをするということは、なんらかの理由があるのだろうけれど――彼がなにを思ってなにを感じているのか、私にはわからない。そりゃそうか。人間なんて、自分自身のことすら理解できない生き物なのだから。
それでも、誰かと打ち解けようとするのは、関わろうとするのは、近くに居たいと思うのは、きっと、相手を理解したいからに他ならなくて。
だからもしそう打ち明けられたとしても、私は彼を受け入れようと思った。それなのに。
湧き上がる怒りの感情を抑えきれなくて、壁に思いっきり拳を叩きつける。何度も何度も。
手が、痛い。そう感じられるようになった頃、ようやく私は振り上げていた手を降ろした。
こんなことをしていたって、何になる?
特に意識せず、自然と窓の方見る。こちらの心情なんか構うことなく、憎たらしいぐらい――いや、もういっそ清々しいくらい雲一つなく澄みきった空の果て、空と地上が交わる境界線の向こう側から、南の国で採れるオレンジのような色が押し迫り始めていた。
ああ、もうすぐ夜がやってくる。これが昨日までなら、二人分の食事を作り、なんてことはない話をして、銭湯に行って寝ているのだけれど、もうその生活の流れは二度とできないような気がした。
なぜだかわからないけれど、もう一度、彼に会っていつものように他愛のない話がしたい。
そう、話がしたい。どうでもいいような話を、今、とても、無性にしたい。
くすんだベージュのカーテンを閉め、外部からの視線を遮断する。それからこのところ、こそこそと取り出していたあの衣装を取り出す。
私の方からも話をしよう。嘘偽りのない本当の姿で。
なぜだろう。胸の中が、悪い意味でスッとするような、そんな感じがした。
あれはまだ物心つく前に起こったことだったと思う。
曖昧な言葉使いなのは、それの記憶自体、靄がかったように鮮明に思い出すことができないというのもある。その当時、世界は戦乱の中で、俺の周りには似たような境遇の孤児が多かったから、そういうものなんだと半ば諦めに近いような心持でいたんだと思う。その結果が、いい加減とも適当とも言えるような今の性格と生活だが、別にそれでいいと思っていた。
話を戻そう。幼かった俺は、いきなり起こった出来事に付いていけなかった。
俺の両親、父と母はそれなりに裕福な家庭の一人息子と一人娘で、政略結婚だかなんだか知らんが親の都合で結婚し、俺を生んだ。思い出せる限りでは、下町のような小汚く狭い家ではなく、どこぞの画商から買ったのか、そこそこセンスのいい絵も所々に飾ってあったりして、一般家庭よりはいい暮らしをしていたんだろう。
だが、なにをどうしたのか、どうも両親の両親、つまり俺にとっては爺さん婆さんと呼ばれるのが、新たに起こした事業でなにかやらかしたらしい。詳しい内容は分からないが、それで裏社会の人間に目を付けられて、切り伏せられた。そしてその手は両親にも向けられた。
目の前で、柔らかかった体が硬くなり、いつも俺の頭を撫でてくれていた暖かい手が冷えていくのを、俺は間近で見て、そして感じていた。そのとき、俺の中で大事ななにかが壊れてしまったらしい。泣きもせず、怖がりもせず、ただぼんやりと両親だったものを見つめていた俺に、そいつは声を掛けた。
なんと言われてなんと答えたのか、本当のことを言うと、実は思い出せない。
気がついたら、俺は人を殺す術を身につけていて、それを生業とするようになっていた。
あっという間、というには随分中身のない人生だと、自分のことながら笑ってしまう。
しかし人生の転機とやらは、突然なんの前触れもなく訪れてくれるものだ。
珍しく、仕事でヘマをして死にかけていた俺を、表では薬屋を経営する少女が、なんの因果でそうなったのか助けてくれた。
それは俺の生命という意味でも、肉体面での怪我というのもあるが、もしかしたらこの延々と死ぬまで人を殺す日々から俺を助けてもくれたんじゃないかと思う。
運命の巡り合わせというものは、取りようによっては善にも悪にもなるものだ。
けれど、神様とやらは意地悪な奴だ。巧妙にも分かりにくく二重にも三重にも包んで投下してくるなんて。
おかげでその意図に気づいた時には、こんなことになっちまっていたじゃねえか。
腕を動かす度に、連動して右手が痛む。
感情の赴くままに力加減なく壁を叩いたのだから、そりゃ痛んだって当たり前だ。自分でも驚くほど相当の力でやったらしく、気がついた時には手が真っ赤に腫れてしまっていた。手袋の下は応急処置を施した状態になっているものの、これは一朝一夕で治るものではないだろう。それでも自家製の特効薬を使ったので、幾分腫れも痛みも治まりつつはあるものの、動かそうとすると、まだ鈍い痛みが走る。
そんなこんなで、猫耳を思わせる形状の赤いフードがついた丈が随分短いポンチョ風の赤い上着に、綿のようなふわふわしたものを裾にあしらった真っ赤なスカートを揺らしながら、当てもなく路地裏を歩いていた。
言い表せない何かに急かされるようにして、彼にもう一度会うために着替えてここまで来たはいいものの、特になんの手がかりもなく感覚で突っ走って出てきたようなものだ。彼がどこにいるのか皆目見当もつかない。我ながらアホか、と思う。
けれど、なぜだろうか。根拠はないのだが、ここに来れば彼に会えるような気がしたのだ。
表通りの喧騒が、全く聞こえない場所まで、のんびりとした歩調で歩いてく。
ふとあるところまで来て、一旦元来た道を戻り、曲がり角を曲がる。
月の光も届かない、暗がりのそこ。数歩歩いた地面に、もうとっくに乾いて茶色くなった血の跡が残っていた。
「引き受けて貰えますね?」
その言葉には二つの意味が込められている。
情報を提供し賃金も出すのだから、確実に実行しろ、という意味が一つ。
十日前、俺は同じく提供された情報を元にターゲットの元まで行ったものの、結局失敗したという黒星がついてしまった。故に、もう一つの意味としては、次はないという意味もあるのだろう。
それは言われなくとも、また言わずとも分かっている。むしろ前回の失敗で消されなかったこと自体、この世界では奇跡に近い。裏社会では情報の持つ力というものは絶大なものだ。
例えば何々が誰々を殺そうと画策している、という情報があったとしよう。その何々はなぜ誰々を殺そうとするのか、その身辺の情報を集めればどういう経緯でそう至ったのか、という情報が得られる。また誰々の方もなぜ殺されるような原因を生み出したのか調べれば、布団を叩けば埃が舞い出てくるように、実に様々な情報が大なり小なり出てくる。そこから自分たちにとって有益となり得る情報をより集めることで、ほんの些細な情報からも、事態をひっくり返してお釣りがくるような結果を生み出すことができるのだ。そう、背景を知れば、全体が見える。
だからこそ、裏社会の組織の者はいつだって死と隣り合わせだ。組織の情報はその組織に組みする者しか知りえない。故にスパイなどという行為を働き、情報を売ることを生業とする輩も中にはいるが、それが露見したときのリスクが高く、実際、それで長生きした奴はどれほどいるだろうか。
つまり、仕事の成功は組織の繁栄に繋がり、失敗は組織への忠誠を裏切る行為になるということだ。
仕事をこなしたという証拠はターゲットの首を持ちかえった場合のみ。仕事の情報は証拠を残さず実行するのが基本だ。
基本、なのだが。
「……このターゲット」
「しっ! 誰かに聞かれたらどうするんですか」
「……それを防止するためにこんな臭くて煩い酒場にいるんだろうが。ひそひそ話すほうがむしろ聞き耳立てられるだろう」
「……それもそうですね。で、なんです?」
「情報が少ない。内容に意義を唱えたい。俺をおちょくんのもいい加減にしろ」
「最後以外はちゃんとお答えしましょう。情報が少ない、とは?」
再度、渡された小さな四つ折りだった紙に目を通す。
そこに書かれている情報は、はっきり言って少ない。これは紙に書いて寄越すより、もう口で伝えてしまった方が手っ取り早いし手間も省けるんじゃないかと思うくらいにだ。
「まず外見。少女っぽい、猫。なんだこれは」
「猫を思わせる格好をしていたからじゃないですか? いつも猫耳のフードを被っているそうですよ」
「次、目撃情報及び所在地。神出鬼没、故に不明ってどういうことだ」
「うーん、猫ですからねえ。あちこち点々としてるんでしょうね。路地裏にでもいるんじゃありません?」
「依頼として提示する時点で、ターゲットの位置を特定できてないって、おかしいだろ」
「知りません。適当にそれらしいのに出会ったら、さくっと殺っちゃってください。ほら、とっとと燃やして承諾してくださいよ」
「…………」
思わず紙を、思いっきりぐしゃっと握りつぶしてしまった。
いい加減にもほどがあるだろう、この仕事。
まるで、ありもしないおとぎ話の真相を確かめて来いと言っているようなものじゃないか。
「……残念ながら、有象無象の類ではありません。実際、こちらも物質的な被害を受けているんですよ」
そう言われ、しぶしぶ握り潰した紙から視線を相手に向けてやる。視線で、その話の続きを促す。
「幸いにも、組織の情報書類には今の所手を出された様子はないですが、持ち出されていないからといって、目を通していないとは限りません。どうも主に盗みを生業としているようで、金品宝石類を数点盗られました。他でも類似した事件が起こっていることから同一犯であるだろうとは見当がついているのですが」
「換金したならそこから足がつくだろう。その線は?」
「無駄でした。行商人か、旅人にでも売っているのか、はたまた溜め込んでいるのか知りませんが、侵入されて盗られたことまでは分かるのに、その先が全く」
お手上げ状態です。そう言い、両手をひらひらと振って、まさにその様を表現された。
ここまでの会話に疲れたのだろうか、目を瞑ると、脳から疲労が感じられる。
正直に言って、そんなもん知るか、と投げ出したいが、もうここまで内情を知ってしまった以上、後戻りはできない。
渋々、握りつぶした紙を、そっとランプに近づける。
ちりちりと紙の先が黒く焦げて、見る見る内にそこから火が移り、灰になっていく。
「では、頼みましたよ」
その言葉を背に受けて、夜の街へと、酒場から出た。
私が思い出せる限りで、一番古い記憶というのは、まだ物心つくかつかない頃に、顔すら覚えていない両親に手を引かれてどことも知れぬ道を歩いた。というものだ。
それから先の記憶に両親の姿はなく、常に、でもなかったけれど側に居てくれたのは薬屋を経営する祖母だった。
裕福というわけでもなく、かといって貧乏というわけでもない。しかし我が儘を言えるような生活ではなかった日々。
特に色鮮やかに色濃く残る刺激的な思い出はなく、ただ静かに淡々と、祖母に薬の調合の仕方を教わりながら、一日の殆どを薬屋の中で過ごした。
こんな毎日が、祖母が死んで私がここを引き継いだ後も、ずっと続いていくのだろう。
遠い遠い、おぼろげながらもそんな風に確定していそうな将来を想いながら過ごす私の儚い夢は、ようやく歳が二桁台に入ったその年に思い改めることとなった。
祖母に頼まれるまでもなく、率先して店の手伝いをしていた早朝のこと。港にほど近く、海が目の前に見えるところに構えていた小さな店は、主人の毎日の手入れによって潮風に耐え、老朽化にもめげないでいたのだろう。毎朝、外側の窓ふきから始めて、店内の掃除、二階に続く階段の掃除、そして自室、祖母の部屋と日課のように続けていた私の耳にそれが入ったのは、偶然だったのか。それとも単に掃除に身が入っておらず、たまたま気がそっちに向いてしまったからなのだろうか。
路地裏の一角にある貯水場から掃除に使う分だけの真水を汲み、その中に使い込んで大分ボロボロになった雑巾をぶち込んで、つま先までピンと伸ばしながら隅から隅まで窓を拭いていた時だ。
同年代の子供たちが、店の前の道をなんだかわからない笑い声だの悲鳴だのを上げながら、ふざけた戯れのごとき遊びをかましつつやってきた。
甲高い声に、内心軽蔑にも近い感情を抱いた私は、そのままとっとと通り過ぎてどっかに行ってくんないかなと本気で念じながら、真水に放り込んだ雑巾を渾身の力を込めて絞り上げ、窓ふきを再開しようとしたのだが、その時、その言葉は私の耳に飛び込んだ。
「俺さー、将来親の跡継いで店経営するの嫌なんだ」
ピタリ、という効果音がついても可笑しくないほどに、窓を拭く私の手は止まった。
「ずっと見てきたからわかるんだけど、酒場の仕事ってさ、大変なんだよなー。手伝いとかしてるから、なおさら。親なんか継げ継げ煩いし。どうせなら冒険者とか傭兵とかそっちの道を行きたいんだよ、俺」
「えええー、危ないよそれー。いつどうなるかわからないじゃん」
「そこがいいんだよ。分かり切ったような決められた感じの人生より、断然退屈しないし面白そうだろ。それに――」
完全に私の全ての神経は、彼の放つ言葉に注がれていた。いつになく聴覚を研ぎ澄まし、続きを聞き逃さないよう、それこそ手に持つ雑巾のザラザラした感触にまで気が回らないほどまでに、感覚なんか消し飛んでしまったくらいに、聞き耳を立てる。
「それに、親の跡ってさ、自分のものじゃないじゃん。誰かの道を歩くのってさ、楽だけどそれは自分の力で得たものじゃないだろ。誰かの得たもので生きるやり方なんて、俺はやだね」
ざああっと、今まで私の中で流れていた何かが、そう音を立てて足元へと流れていく感覚がした。血の気が引く、とはこのことなのだろうか。
体に力が入らなくなって、でも倒れるのは意地でも嫌だと思い、なんとか窓枠にしがみつく形で立ち続ける。そうしている間に、彼らは通り過ぎて行った。
どんな表情をしていたのだろう。
形だけ窓ふきを終えて店内に入ったら、祖母が体調が悪いのなら今日は一日大人しくしててもいいと声を掛けてきた。
大丈夫だとだけ言って、いつものように掃除の続きをしたのだけれど、どうしても先ほどの彼の言葉が脳内で反芻される。
――親の跡ってさ、自分のものじゃないじゃん。誰かの道を歩くのってさ、楽だけどそれは自分の力で得たものじゃないだろ。誰かの得たもので生きるやり方なんて、俺はやだね。
店内をそっと見渡す。
窓際の、おじいちゃんおばあちゃんが薬を受け取るまでの間、腰掛けて休憩している小さな丸椅子。使い込まれて、その年季を感じさせる味を持ったカウンター。その奥の薬ビンが置かれた同じく古びた大きな机。壁際の調合書や、今まで訪れたお客さんの薬の記録が大量に入った本棚。その上に吊るされた、乾燥させた薬草たち。
二階も似たようなもので、それらはどれも私が得たものではない。全て、祖母が私の生まれる前から長い年月を掛けて手に入れたものたちだ。
その中で私は生きてきた。祖母の得たもので、生きてきた。
私が得たものは、この中にはなにもない。
肉体が住む場所も精神の居場所も、どちらも祖母から与えられたもの。いや、与えられたのは、それから数年経って祖母が亡くなってからだ。遺言には、私にこの店を任せるから、幸せに生きてほしい、とあった。
そういえば両親はどうなってしまったのか最期まで教えてくれなかったな。結局事故だったのか病気だったのかはたまたそれ以外でいなくなったのか、もう私には知る術がない。
そうして一人になって、祖母が遺していった薬屋をいつかのように見つめていて思った。
私自身の、本当の居場所はどこにあるのだろう、と。
他から見れば、この店がそうなのかもしれない。けれどそれはあくまで他人からの視点であり、またその情報には信憑性というものはない。得た情報は自分で取捨選択するもの。結局のところ、自分の問題は自分で解決するしかないのだ。相談というのは他の感覚情報を入手する手段であり、答えではない。
結果、私はある結論を出した。大雑把で、叶うかもわからない曖昧なものであったが、指針も目標もなにもないよりはマシだ。
そして運命というものは不思議なもので、その夜、港町には雪が降った。珍しいことではない。この港町は、年中雪に覆われたライラックという島国にほど近いところにあるのだから、寒い時期になればだいたい降るときゃ降る。
そんな夜に、私は一匹の猫を拾った。それが私の、絶対目立った証拠は残さない、世にも不思議な――自警団などの治安維持隊には傍迷惑な、怪盗業の始まりだった。
当たってほしくない予感というものは、大抵当たってしまうのは何故だろう。
猫といえば路地裏だろ、という何ともいい加減な同僚の言葉を真に受けた、というわけでもないが、当てもなくとりあえず散歩気分でふらついたところ、大通りから随分離れた洗濯物が昼夜問わずで空を覆い隠さんと干されているそこ、視界を遮るものは特にない小道に、小さな人影がゆらゆらと動いているのが見えた。
よくよく凝視してみると、月明かりに照らされたその影、小さな頭身の頭には猫耳を模したようなものがある。即、俺は数刻前の会話を思い出す。
――まず外見。少女っぽい、猫。なんだこれは。
――猫を思わせる格好をしていたからじゃないですか? いつも猫耳のフードを被っているそうですよ。
そっと、足音を殺して近づいていく。暗がりに紛れ込んでしまっているが、その小柄な後ろ姿が身にまとっているものを見て、確信に変わる。
――適当にそれらしいのに出会ったら、さくっと殺っちゃってください。
まさかたまたま歩いていたところに、偶然現れてくれるとは思っていなかった。
まだ相手はこちらの存在に気がついていない。好機とはまさにこのことだ。足音は殺し切れても、鞘から剣を抜く際に生じる無機質な摩擦音はどうしても抑えきれない。チャンスは一回。一気に相手との間合いを踏み込み、その勢いのままふわふわとしたフードの下の首を切り落としにかかる。
「――――?」
寸前のところで相手が気がつく。だが、こちらを認識させる前に終わらせられる、はずだった。
気まぐれな潮風が、路地裏に吹き込む。
それと剣筋を躱そうとした相手の動きにつられて、猫耳の付いたフードが揺れ落ちる。
その下に現れた顔は、つい半刻前まで目にしていた少女のもので、無理矢理勢いを殺して狙いを首から背後の壁へと変えた。
無機質な金属が固い石壁に衝突する派手な音が、静かな路地裏に響き渡る。
「……どうして」
「あ、やっと会えた」
「……なんでなんだよ」
「この状態、出会った頃とほぼ同じ感じだね」
あの時は、自分は大怪我を負っていて、介抱したこの少女を敵かなにかと勘違いした結果でああしてしまった。だが、今は状況が違う。
少女は紛れもなくターゲットで、俺は殺し屋。請け負った仕事は最後まで完遂しなければならない。そう、最後まで。
「やっぱりそっちの人だったんだ」
「わかってて、助けたのか」
「そんな気はしてただけ」
「こんな結末になるって、考えなかったのか」
「でも、君は理由なくばんばん人を殺すような性格じゃないでしょ」
傍から見れば異常な光景なのかもしれない。いつの間にか俺の首筋には、いつ取り出して突きつけられたのか定かではないが、なまくらというには綺麗な輝きを放つ短剣が添えられている。俺も俺でいつでも首を切り落とせる状態にあるのだから、硬直状態といえばそうなのだが。そんな中で、世間話でもするかのようなゆるい流れで話す俺たちは、常人と比べてちょっと感覚がおかしいのだろう。
「私を殺してほしいって依頼があったのかな。溜め込んで使わないものを、ちょっと拝借しただけなのに」
「盗みに入ったところがまずかったな。俺を雇ってくれてるところの資料庫に入っただろ」
「図書館みたいなとこ? 自分たちの世界を守るためとはいえ、ちょっとやり方が乱暴な気がするけどね」
「読んだのか」
「知的好奇心は満たすために存在するんだよ」
「好奇心は身を滅ぼすという言葉、知ってるか?」
「……私は誰にも殺せない。君であっても、私を殺すことはできないよ」
「生憎、俺は仕事に手を抜かない主義なんだ。容赦はしない」
これ以上のお喋りは無駄だ。そう判断し、なんらかのきっかけですぐさま切り落とせるよう、握り込んだ剣の柄になおさら力を込める。
なぜかそこで、ふわりと少女が笑った。
「小恋、私は此処よ」
途端、急激に周囲の温度が上がり出す。まるで火の中にいるように感じて、思わず一旦少女から距離を取る。
少女の赤い髪、女サンタを思わせる赤い服が熱に煽られて激しく舞う。
先ほどまで確かに黒かったはずの少女の足元の影は真っ赤に染まって、そこから何かが這い出てきた。
それを見て、化け猫という言葉が、俺の脳裏に浮かぶ。
というのも、それがどうみても普段見慣れている両手で抱きかかえられる大きさを優に超えており、全身が炎で構成されていたからだ。
汗が止めどなく流れ出す。至近距離にいる少女にはなんの影響もないのか、汗をかくどころか、普通の猫にそうするように喉の辺りを撫でてやっている。
そしてようやく、大雑把にもほどがある依頼内容の情報にそれしか書けなかったという理由が分かった。
幾度となくやってくるそれらに、この化け猫が容赦なく襲い掛かったのだろう。そりゃ敵わない。俺だって無理だ。
なんだかなにもかも面倒臭くなって、剣をその場に放り投げてへたり込む。
「……どうすれば、よかったんだろうな」
「なにが?」
相変わらず喉の下を撫で続けている少女がそう返す。
「全部。一番正しい方法って、なんだったんだろうな。問題にしろ、悩みにしろ、今後にしろ」
「正しい答えなんて存在しないよ。それぞれがそれぞれに折り合いをつけてようやく一区切りじゃない。終わりなんてない」
「……それもそうだな」
はー、と思いっきり息を吐く。見上げると、洗濯物の間から夜空が見えた。そういえば昔、母親の部屋にもこんな感じの絵が飾ってあったような覚えがある。漆黒のキャンバスに、白、黄色、青、赤、紫、ピンクといった色が細かに散りばめられた夜空をモチーフにした幻想的な絵。
もしも、両親が殺されずにあの家で暮らしていたなら、俺は一体どうなっていただろう。
どんな別の人生を送っていたのだろう。
「…なあ、人生ってやりなおせると思うか?」
「スタートラインなんてないよ。物事を始めるのはいつだっていいんだって、昔おばあちゃんがいってた。……なにかしたいの?」
「別の生き方ってもんを、俺は知りたい。殺し以外の生き方を、して、みたい」
「じゃあ、旅に出ようよ。こっから出よう? 私、山とか森とかいろんなものを見てみたいな」
「ふたりたびか……悪くない」
そっと目の前に小さな手が差し出された。言わずもがな、少女の手だ。
ひんやりとしたその柔らかい手を取って立ち上がる。背後に、ぐるるーと喉を鳴らす大きな猫がいる。
焼けつくような熱さは不思議なことに消え去っていた。
よいしょっと、少女が猫の首の毛らしきところを引っ掴みながら背中に上る。
「でもしばらくは逃亡生活かもね」
あはは、と無邪気に笑いながらそう言われて。
「そうだな」
と返した。
その後の話である。
月日が経つのは早いもので、あれから数十年が経った。
俗に炭鉱の町と呼ばれる山間の町にたどり着き、腰を落ち着かせたのが十年前。娘という最愛の子宝に恵まれたのが今から五年前。外見は母親に似ているにも関わらず、俺のマネをして剣を振り回すのが好きという困った育ち方をしてしまったが、まあ、いいだろう。
しばらくは炭鉱業で収入を得ていたのだが、いつだったか魔物の群れが押し寄せてきたときに、つい昔のように剣を片手に大暴れしたところ、ぜひとも若い連中に剣技を教えてやってくれと頼みこまれ丁重に断ったら強引に押し切られてしまい、小さな剣術学校を設立した。その翌年には母親が薬学の講座も開き、そのついでで魔法も教えることになった。
旅に出る時にはまさか自分が教師の真似事をするなんて想像にもしなかったが、なんだかんだで今の生活は悪くない。
「おとーさーん!」
物思いにふける俺の真正面から、大胆不敵にもいきなりどーんと力いっぱい衝突してきた赤い影。
猫のような金色の目に、真っ赤なショートヘアーの幼女。俺の可愛い娘が、天使のような笑顔で抱き着いてくる。
たまらず抱き上げて、やわらかな頬にキスを落とすと、えへへーとさらに可愛い笑顔ですり寄ってきた。周囲に親バカだのなんだのと言われようが構うものか。娘は可愛い。
「あのねあのねー、おかーさんおやつにドドメケーキ焼くから、おとーさんぱしってこいって言ってたからきたー」
「ははは、そうかそうか。じゃあ、一緒に買い物行くか」
「うん!」
もう意識しなくとも剣を腰に付け、小物用ポーチをベルトに下げる。財布はポケットに入らなかったので娘に持たせ、外に出た。
今日はいつになくいい天気だ。洗濯物もよく乾くに違いない。日差しが暖かく、昼寝にもよいのか道端のあちこちで猫が腹を出して寝ていた。
今、幸せかと訊かれたら俺は迷いなくイエスと答えるだろう。
そしてこんな平和で暖かな日々がいつまでも続けばいいと、願う。
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昔ウディタで作成したフリーゲームの短編です。
2011年12月27日 15:46にPixivに投稿したものを再掲。