No.111936

夢芽(ゆめ)

早村友裕さん

 ――初めて自分が狂う夢を見た――
 吉原の花魁、夢芽(ゆめ)は、次期太夫候補と称され華やかな日々を送っていた。
 ところがその実、夢芽の胸内では既に黄泉への憧れが澱んでいたのだった。

2009-12-13 01:26:50 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:905   閲覧ユーザー数:872

 

 生まれて初めて、自分が狂う夢を見た。

 見下ろした両手と襦袢は真っ赤に染まっていて、きっと、血なんだろうと冷静に判断する自分がいる。喉の奥からは出したこともないような甲高い狂喜の叫びが絶えず飛び出し、目が回るのも構わず只管(ひたすら)にくるくるとその場で回転していた。血を吸って重くなった帯に襦袢に絡め捕られ、足は縺(もつ)れ崩れて行く。

 それなのに、心の中はこの上ない程に凪いでいた。喉から嬌声を発しながら、周囲の景色が蕩(とろ)けて行くのをぼんやりと認識しながらも何処か安堵している――此れで総てから逃れることが出来る、と。

 嗚呼、夢と現実とを区別するモノを最初に曖昧にしてしまったのは、いったい誰なんだろう。

 

≪不知我之夢為胡蝶与 胡蝶之夢為我与≫

 

 そんな愉快な事を言い出したのは、いったい誰?

 

 

 

 

 

 いったいどれ程の時を過ごせば、此処から遁(のが)れ得るのか。

 生を受けてから十分に歳を重ねた頃、廓(くるわ)に入った。偽られて売られてきた娘は調査して親元に返すという決まり事があるのだが、果たしてそれが本当に守られているのか上辺の事なのか、興味は無かった。

 美しい姐様(ねえさま)達に迎えられ、足を踏み入れたは公家(くげ)の遊技場。極上の美女が銭と引き換えにあれやこれやと客を持て囃(はや)す、誰が呼んだか極楽浄土。こんな世界で心は要らぬ、必要なのは『感情』でなく『勘定』。学ぶべきは田畑の耕し方ではなく、芸と自国異国の教養。

 そして最も必要なのは、己を殺す覚悟――

 

 

 厳しい稽古と下積みを耐え抜いた小汚い農家の娘は、いつしか美貌と教養とを兼ね備えた、太夫候補の花魁と成った。

 螺鈿細工の鏡を覗き込むと、未だ見慣れない顔が映る。何時まで経っても歳をとった感じがしない。結い上げた濡羽色の髪の評判は上々だが、幼いと言われても仕方のない小さく丸い顔には、不釣り合いな位大きな紫黒の瞳が目立つ。唇はもう少し分厚くても良かったかもしれない。

 世話をしてくれる禿(かむろ)や遣手(やりて)達をしばし部屋から出し、息を付いていると衣擦れの音が部屋に近づいてきた。

 

「夢芽(ゆめ)、少しいいかい?」

 

「高尾太夫様」

 

 襖戸の開く気配に振り向くと、猩猩緋(しょうじょうひ)の花魁衣装を纏った妙齢の女性が微笑んでいた。軽く着崩れして、骨が肌を押し上げる様まで露であるのは、非常に艶(なまめ)かしい。肌の白さと言ったらあたかも雪神が愛でたかのようだし、唇の紅はまるで赤牡丹の化身が宿ったかのような鮮やかさだ。くっきりとした双眸は女性の嫋(たおやか)さだけでなく、何処か凛として意志の強い光輝が灯っていた。

 

「嫌だよ、夢芽(ゆめ)。何時もの様に姐様と呼んでおくれ。それにあたしには紫桜(しおう)という名が有る。夢芽はあたしの名が嫌いか?」

 

「いいえ、大変に美しい御名です、紫桜(しおう)姐様。大変失礼いたしました」

 

 夢芽より3つばかり上の紫桜はその美貌と気取らない気性、それに教養だけでなく自身の深い見識によって、ここ吉原では最高の『高尾太夫』を襲名した。

 さる大名様がご執心で、近いうちこの吉原を出るというのが専らの噂である。

 が、無論、高尾太夫である本人に真意を訊ねる事の出来る遊女はそういない。

 夢芽は数少ない、そんな遊女の一人だった。

 

「ねえ姐様、ここを去ってしまわれるというのは本当なのですか?」

 

 目に入れても痛くないほどに可愛がっている妹分の夢芽から唐突に聞かれ、紫桜は戸惑った。

 

「縫い子の婆が仰いました。お世話をしてくださっている禿(かむろ)達もみな……」

 

 言葉尻がか細くなっていく。

 この吉原に入ってからずっと夢芽に目をかけ、芸事も知識も多くを与えた紫桜。遊女という職の特異性から多く悩む事もあったが、先達である紫桜はそのすべてを受け止め、常に夢芽を導いてくれた。

 彼女は夢芽にとって憧れの姐様であり、尊敬する太夫であり、大切な家族であった。

 

「そうよ、あたしはもうすぐ此処を出る。愛しい方の元へ往(ゆ)くのよ」

 

 そう言って最上の美笑を表した紫桜は、廓へ来てからずっと面倒を見てもらっていた夢芽ですら此れまで見た事もないほどの愛らしさだった。

 姐様は本当にその方を愛していらっしゃるのだ。

 ぼんやりと夢芽はそう思う。

 

「夢芽、貴方は聡(さと)い子だわ。初めて会った時、あたしがちゃあんと目を付けたのよ? それから、沢山の事を貴方に教えてきたわ」

 

 紫桜の枯茶の瞳は、いつも優しい。夢芽の言いたい事も迷いもすべてを見通して、欲しい答えをくれるのだ。

 噂に聞く大名様とやらも、姐様のそんな所に魅かれたに違いない――夢芽は、そう思う。

 

「あたしが居なくなったらきっと、すぐに太夫の名を縦(ほしいまま)にする事でしょう。大丈夫、貴方なら出来るわ。もっと多くの事を学び、この吉原で最も人気のある花魁になるわ。何しろあたしの大切な大切な妹君ですもの……」

 

 紫桜の白く細長い指が、そっと夢芽の頬に触れた。悲しんでしまった妹君を慰めるよう、二度、三度と撫でていく。それに応えるように夢芽の簪(かんざし)に下がった翡翠玉が二度、三度と軽い響きを奏でた。

 ああ、やはり姐様は近いうち、居なくなってしまうのだ。

 夢芽は祝福の言葉も怒拗の言葉も発することのできぬまま、下を向いて押し黙ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 花魁衣装をはぎ取られ、襦袢姿となった夢芽の上に同じく武器を置き、袴を脱いだ痩躯の男が覆い被さった。

 

「夢芽……」

 

 聞き慣れた声がする。夏の日の風鈴の様に、涼しげな響き。蒼燕(そうえん)という名以外は何も知らぬ、武家の者のようだが、この年で頻繁に夢芽を買うのだからかなり高名な家の御子息なのだろうという事は容易に想像がついた。それも眉目の整ったかなりの美丈夫で、名家の子息に有りがちな並はずれた自愛もなく、聡明な人物である事も是までの逢瀬から分かっていた。

 これだけの条件が揃っているなら、外へ使いに出すことも多い禿(かむろ)の少女達に聞けば身元くらいは分かるかもしれない。これほどの男が女性たちの視線を集めないわけがない。

 ふっと大名様に迎えられてここから出ていく姐様を思い、相手の客の名を出した時のはにかむ様な表情を思い出す。

 自分は蒼燕(そうえん)を見た時、そんな表情を出してしまってはいないだろうか?

 

「……夢芽」

 

 それでも、耳元で囁かれたそれが意味を為さないのは、この情事に於いて珍しい事ではない。それなのに悲しいと思ってしまうのは、きっと唯の我儘だ。

 体の隅々まで弄(まさぐ)る手を遍(あまね)く受け入れ、時折甘い声を発する。毎夜毎夜繰り返される郭(くるわ)の日常としてただ受け入れていくだけで――

 

 

 

 

 

 意識の喪失に憧れを抱き始めたのは、いったい何時の事だっただろうか。この煩わしい世界のすべてに興味を失い、目的地を失った流離人のようにただ足を交互に進めるだけ。

 

 視界に溜まるモノ、鼓膜を揺らすモノ、肌を掠めてゆくモノ。

 

 感覚は次第に夢と現の挟間を彷徨う様になり、刻(とき)の体裁を奪っていった。

 いったいどれだけ前に進めば許されるのだろう。いったいどれだけの事を学べば終りが来るのだろう。いったいどれだけ生きていれば、あの世からのお迎えがやって来てくれるのだろう。

 

 

 

 

 いっそ誰かが殺しに来ればいい。そうすれば全てが終わる。

 

 

 

 

 

 

 

 周囲は、特に紫桜は、夢芽に過度な期待を寄せていた。無論、夢芽自身に眠っていた能力を見越しての事だが、その求める物の高さに夢芽は疲弊しきっていた。求るがまま太夫候補にまで上り詰めたが、既にその地位への憧れはなかった。

 大丈夫、貴方なら出来るわ。

 紫桜が口癖のように繰り返す言葉は、罪人を捕える鎖のように、なお夢芽の全身を這っていた。

 それでも大好きな紫桜の為にと懸命に努力してきた。

 

 

 が、その紫桜も今日でこの吉原を出る。

 

「此処をお願いね、夢芽」

 

「……はい、姐様」

 

 紫桜の期待に応えようとする夢芽と、その重荷を全て捨て去りたい夢芽とがまるで胸の内で戦っているかのようだった。純粋で強い紫桜の瞳を見ると、嘔吐しそうな気分に襲われるのだ――キモチワルイ。

 もう無理です。吉原を背負って立つ力なんて、自分にはありません。すみません、姐様。すみません……

 今すぐに泣きついて縋りついて謝りたい。が、夢芽の中にある花魁としての誇りがそれを許さなかった。まだ自分は頑張れると、叱咤激励して此処まで来た。

 もうそれも限界だ。太夫など、自分の肩には重すぎる。

 

「不安そうな顔をしないで。貴方なら出来るわ、夢芽。大丈夫よ」

 

 キモチワルイ

 大好きな紫桜の門出を心から祝福しなくてはいけなかったのに、夢芽にはどうしても出来なかった。紫桜の事よりも、自分のこれからの事を考えると、とても美しい言葉は出なかった。

 口を開けば弱音と呪詛しか出て来ないだろう。

 最後まで見送ることが出来ず、夢芽はくるりと紫桜に背を向けた。

 

 

 

 

 そんな晩でも客はやってくる。花魁の心にも躰にも関係なく、まるで蜜に群がる蟻のように。

 夢芽は大勢の振袖新造や禿(かむろ)達を引き連れて揚屋へと向かう。これは花魁道中と呼ばれている。華やかな行列は行灯の明かりに導かれてゆっくりと歩を進める。夢芽が足を踏み出す度に緋色の花魁衣装はふわりと風に揺れた。金糸で彩った帯は蝶を模って結ばれ、上げた髪は絢爛とした櫛(くし)と簪(かんざし)が飾っている。

 高野太夫であった紫桜が引退した今、実質的な花魁の花形は夢芽であった。その花魁道中ともなれば如何に吉原を歩いているとはいえ、人目を惹く。

 夢芽はそれが一番嫌だった。

 遊女の仕事自体を嫌った事はない。手に職も無かった当時、自分に売れる物はその身一つだったのだから。男と肌を重ねる事も酷く嫌ではない――相手にもよるが。稼ぎもかなりいい。紫桜を始めとした先輩にも恵まれた。

 しかし、多くの人が自分に注目し、何かを期待されるのは夢芽の最も嫌う処だった。

 自分は農民上がりのただの小娘で、何も出来はしない。頼むからもう、何も、求めないで。

 今日の相手もあの武家の美丈夫、蒼燕(そうえん)だった。

 心を無にしよう。

 そう誓った夢芽は、そっと部屋の戸を開いた。

 この胸内を悟られぬよう、この無気力に満ちた諦めに気づかれぬよう――夢芽はいつものように美しい舞を披露し、このところ蒼燕のお気に入りである大陸の文学話に興じていた。

 しかし、蒼燕(そうえん)は非常に聡明な男であった。また人の心に敏感で、優しく諭す能力も十二分に有していた。

 光を通さない漆黒の瞳をほんの少し目を伏せた夢芽に向け、眉を顰(ひそ)めた。

 

「どうした、夢芽。何か心配事か?」

 

 客の前だというのに一瞬呆けていた夢芽ははっとして唇の端を上げる。

 

「何もございませぬ、蒼燕(そうえん)様。さあ、安岐(あき)、舞を……」

 

 夢芽は控えていた妹分の安岐(あき)にそう申し付け、自らも三味線に手をかけた。

 が、くい、と後ろ手に引かれてもう一度席に戻されてしまう。

 

「夢芽、そちが心配なのだ。いったい何があったのだ?」

 

 何も隠さない真直ぐな瞳。奥に熱情を秘めた真摯な眼差しに、夢芽は釘付けになった。

 

 

 

 

 

 少し早いが人払いをし、ただ二人になった座敷は思いがけず広々とした空間だった。

 先程までの宴の薫りが其処彼処(そこかしこ)に残っている。整然とした畳の上には誰の物か、簪(かんざし)飾りの蜻蛉玉が転がっている。蒼燕と夢芽との間にほんのりと漂う酒の香も二人を酔わせるには十分だった。

 言葉のない内に蒼燕は夢芽に寄り添い、そっと肩に手をかけた。

 

「太夫の紫桜が吉原を発ったと聞く。よもや、そちの何かに脅える様と何か関係が」

 

 紫桜――その名を聞いただけで夢芽の胸内を抉る感覚が襲う。

 思わず廓(くるわ)言葉も忘れ、普段姐様達にするような言葉で返していた。

 

「いいえ、大した事では御座いませぬ。姐様が此処を離れて、やはり少々寂しいのです。申し訳御座いません、蒼燕様の御前でそのような私情を悟られるとは……夢芽は、吉原の花魁失格で御座います」

 

 その謝罪をじっと聞いていた蒼燕は、ふいに夢芽の背に手を回し、強く抱いた。

 

「蒼燕様……?」

 

「嘘をつくな、夢芽。そちの恐れはさらに深い処に在る筈だ」

 

 耳元に涼やかな声で囁かれ、背筋にぞくりと何かが這う。甘美な時間を思い出し、下腹部が疼く。

 夢芽は思わず此れまで漏らした事の無かった弱音を零していた。

 

「怖いのです、蒼燕様。私にはこれ以上の物を目指すなど、恐れ多くて出来ないのです」

 

 ほんの一つを零してしまえば、その次々と零していくのは簡単であった。

 

「もう私はずっと頑張ってきました。唄も踊りも教養も、我武者羅(がむしゃら)に稽古をしてきました。ですが、もう限界なのです」

 

 蒼燕の手に力が籠る。

 するとますます夢芽の口からは怖れのみが飛び出してきた。

 

「私はただの農民の娘です。此の様に煌びやかな衣装を纏うて貴方様のように美しく高貴な方のお相手をするなど、とても身に余る生業で御座います。ましてや太夫などと……これほど大きなお店を、街を支えていく事など出来ないのです」

 

 飛び出そうと構えていた感情を抑える術はない。それにもかかわらず、声が震える事も無くどこか冷たい響きを包有していた。不自然なほど自然に滑り出る言葉達。

 既に夢芽の精神は病んでいた。

 唐突に吉原へと入り、何も解らぬまま取り巻きによってその才能を抉じ開けられた。本人も気づかなかったその力は、夢芽を頂点へと誘った。

 が、力というものは本人が自覚して初めて扱える物である。無自覚に使ってきた夢芽は、身に合わぬ地位を与えられ過度な期待を身に負って、無事でいられる筈がなかったのだ。如何に麻痺した心と言えど、傷も付けば血も流れる。

 夢芽はそのことに気づいていなかった。

 ただただ誰にも気づかれず病み、狂気への道を一人歩んでいったのだ。

 

「もう……私は疲れました」

 

 ずたずたに引き裂かれた精神は既に感覚を失っていた。辛いのかどうかすらも判別できなくなっていた。

 そんな夢芽の内情をすべて見透かすかのような漆黒の瞳も誠実に、蒼燕はそっと囁いた。

 

「では、私と共に逃げぬか、夢芽」

 

「えっ……?」

 

 蒼燕から出た言葉に耳を疑った――逃げる、とそう言わなかったか?

 遊女の駆け落ちは見つかれば拷問、無論その相手も無事では済まない。それを識深い蒼燕が知らぬ筈はない。

 

「逃げると言っても海山ではない。それでは何からも遁(のが)れ得ぬ」

 

「では」

 

 夢芽も敏(さと)い遊女、すぐに蒼燕の言わんとする処を悟った。

 

「私と心中せぬか、夢芽」

 

 その言葉に歓喜した夢芽の心は、既に冥界に囚われていた。

 此処から逃げることが出来る。すべての責を捨つる事が出来る。

 夢芽の胸は躍った。

 

「そちなら私を理解してくれるはずだと随分前から確信していた。その美しき眼の奥に枯れ得ぬ情熱と冷めた絶望を同居させている。不思議な女性(ひと)だ。そちのどのような言葉も私を肯定しているようにしか思えぬ。それは先ほど真実であると思うに至った」

 

 夢芽の小さな手を握り締め、目を逸らす事もなく蒼燕は語った。

 

「私は然(さ)る武家の次男だ。お家の後を継ぐことは出来ない。それでも私は剣が好きだった。只、其れだけで此処まで来たのだよ」

 

 それは、初めて聞く蒼燕自身の話だった。

 

「しかし、兄者は病弱……とても、本家を継ぐことはままならぬ。血を吐く病だ、もう冬を越すのは無理であろうと医(くすし)も言った。すると此れまで私を気にも留めなかった御父上が私に教育を施さんとした」

 

 切々と語られる身上に、夢芽は言葉を失っていた。

 ただ彼の腕の中でじっと息を潜めていた。

 

「どうやら私は其れに向いていたらしく、父上も師匠も手放しで喜んでおるのだ。蒼燕なら此の家をさらに盛り上げてくれる、と」

 

 ああ、私と同じだ――夢芽はふと思う。

 突然に才能を見出され、抉じ開けられ、戸惑いながら更なる期待を背負っている。

 

「だが、私ももう疲れてしまったよ。此れまで遊び歩いて好き放題に学び、剣を振ってきた私にいったい何が出来る? あれほど大きな武家を支える事など無理に決まっている」

 

 吉原の花形を押し付けられた夢芽。家督を継げと迫られる蒼燕。

 二人は、魂の奥底で繋がり合い、求め合った。

 

「共に逃げよう、夢芽」

 

 夢芽にもその時、漸(ようや)く分かった。夢芽が蒼燕に魅かれたのはその見目麗しさ故でも優しさ故でも教養の深さ故でもない。無論、羽振りの良さなど関係ない。

 内に秘めしこの狂気――そう、夢芽と同じ諦めに似た絶望を、意識喪失への憧憬を抱いていたのだ。それはきっと当人同士にしか解らぬ仲間意識とも呼べるモノ。

 

「終わりにせぬか?」

 

 もう一度聞かれた時、夢芽は鑑(かんが)みるより先に首を縦に振っていた。

 

 

 

 

 

 

 吉原大門を背に、闇夜に藪を駆け抜ける。

 手を握るは愛しき人。向かうは黄泉。捨つるは浮世(うきよ)の柵(しがらみ)か。

 これ以上何を望むものか。

 藪を抜けた先に待つのは浄閑寺――身寄りのない遊女達が葬られる終わりを司る寺院。

 

 静まり返ったその場所ではきぃきぃと泣く蟲の声と草ずれの音のみで気が狂いそうな空気が支配していた。蒼燕と夢芽の足音と荒い息がその空気を乱す。

 既に夢芽の簪(かんざし)も履物もどこかで失くしてしまっていた。真白だった足も溝を越え藪を駆ったが為に土と草の色に汚れ、着物も小枝で引き裂かれている。

 それでも、夢芽の表情は活き活きと輝いていた。

 寺院の裏手、遊女達の墓が立ち並ぶ場所までやってきた二人はようやく息をついた。

 汚れも構わずしっかと抱き合ってから、蒼燕はすでに殆ど化粧も取れてしまった花魁に笑いかける。

 

「さあ、終わりにしよう」

 

「ええ」

 

 夢芽もゆったりと微笑み返す。まるで産まれたての赤子のような無垢な笑顔に蒼燕の頬も綻(ほころ)んだ。

 二人は純粋だった。純粋であるが故、傍から見れば狂気と映るほどに純粋に壊れていった。誰にも悟られる事なく、其々の己が内々で。

 蒼燕が懐から取り出した脇差しを鞘から抜くと、銀に濡れた刃が月光の祝福を受けて怪しく閃いた。

 

「夢芽」

 

「蒼燕様……」

 

 鈍い音がして、夢芽の胸元から鮮血が噴き出した。

 

 

 

 血飛沫が舞い、襦袢を汚す。それだけでは飽き足らず手も足も視界も、残らず朱(あけ)に染めていく。喉からはこの世の物とは思えぬ狂喜の叫びが迸(ほとばし)った。痛みにも似た快感が全身を貫く。

 蒼燕も返し様、自らの心臓に刃を突き立て、一気に引き抜いた。

 ああ、何時(いつ)か夢に見た光景と一緒だ――ぼんやりとそんな事を考える。

 ただ、手に腹に付いていた血は自分が手に掛けた誰かのものではなく、自分自身から流れ出したものだった。くるくると回転するのは自分ではなく周囲の景色。

 そんな事、今更もう如何(どう)でもいい事だが。

 

「夢芽……」

 

 掠れた声が耳朶の奥に潜む鼓膜を揺らす。その甘美な響きは、胸の内を震わせ、快楽の波の間に突き落とす。

 

「蒼燕……様……」

 

 

 ああ、よかった。これで漸(ようや)く眠ることができそうだ。

 総ての責を忘れ、期待を捨てて。

 もう誰かが何かを求めて来ることもない。

 

 死の恐怖も痛みもない。

 只、総てから解放された安堵のみが二人を包み込んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

≪未来成仏疑いなき 恋の手本となりにけり≫

 

 其は真か偽か――只、残るのは一人の女と一人の男が安住の地を見出したという事実のみ。

 現こそ夢、夢は幻、幻こそ現である。人は夢を見、儚く消えゆく。

 故に『夢か現か幻か』という古(いにしえ)の問いは未だ満たされていない。

 

 

 此れまでも、此れからも。

 永く、永く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ トップイラストは、p/15さまにいただきました。

 

 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
7
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択