何の変哲も無い宇宙にある、何の変哲も無い地球の、何の変哲も無い島国に有る、変哲が無いにも程がある一般家庭の部屋。
だが、その部屋の、とある存在によって、変哲は宙に溶け、辺りを侵蝕していった。眼に見える物理的な変化が無いからと言って、世界に何の変容も無いと断じるのは些か早計であると、リコはこの時、再度実感した。そんな事はこれまでの人生で、近いところで語るならば、夏休みでの出来事やユニコーン現出、また昨日の出来事で身に染みていたはずなのに、しかし、やはり自分は愚かな人間1人なのだと認識した。理解が足りなかった。現実とは何時如何なる場合でも常に変容を遂げ、視野狭窄である普通の人間には、それを捉える事が出来ないだけなのだ。
「あんた…………何者よ」
戦慄してリコは呟いた。それは相手に対する質問というよりも、己のうちに湧き上がった疑問を再確認するための、正に呟きであり、答えは必要としていなかった。むしろ知りたくは無かった。しかし、至近であるために、必然的に質問の体裁を取ってしまう。
「何者…………だと?」
少女はリコの問いかけに対し、眼を細めた。その動作は怒りであるとか、少女から放たれる禍々しき気配とは全く別の感情を表しているように見えた。
「忘れてしまったのか? お前も…………お前程の存在でも、そうだったのでは無いのか…………?」
そう、悲しそうに言った。呆れ、あるいは諦めも混じっているように感じた。随分長い事、それに耐えてきた眼をしていた。
感情を素直に表現されて、リコは戸惑った。と、いうのも、少女を目撃した瞬間から、その少女は感情表現に対して非常にストレートだったが、少女の雰囲気は手を離れたサイコロの眼の様にコロコロと変化していったからだ。一体、どれが少女の本当なのだろうか。
意味が分からなかったが、なんだろうか、そう言われると、少女の禍々しい気配には何処か覚えがあった。
少女は1つ、鼻を鳴らし、
「我が何者であるか…………そんな事は、しかしどうでも良い事だ。元より結果のみを優先する存在。我が世界に対して害を成すことはもうあるまい」
「…………どういう事? 本当に判らないんだけど」
リコの疑問に、しかし少女は空虚な笑みを返し、
「だから、だ。だから、もうどうでも良いのだ。忘れてしまったのなら、どうでも良いのだ」
掠れる様な声の呟きは、しかし妙に耳へ残った。その声の響きはどう考えても、少女が言葉通りの意味を言葉に込めているとは考えられなかったが、しかし、同時に本当にそうであるかの様な諦めも垣間見えた。
そんな少女に対し、リコはかける言葉が見つからず、しかし何か言わなくてはいけない衝動に駆られ、
「ねえ…………」
と言った所でドアが突然物凄い勢いで開いて、少女はドアの直ぐ側に居て…………悲しげな雰囲気を放っていた少女は壁とドアとでサンドイッチにされた。
どごん、という恐ろしく間抜けな音が響いた。少女は壁と高速でキスする事になっただろう。想像するだに痛ましい。
まるで新喜劇で登場人物が増える時に使われる手法の様な、そんな唐突さ加減だったが、そもそもドアに挟まれる様な現象が発生する時点で、もうこれは唐突の極みである。しかし別にドアを開けた人物に見覚えが無かったわけでは無いし、こちらに関しては特別に意外であったと言うわけでも無かった。というか、この世界で一番見覚えがあるのでは無いかと、リコには思われた。
当然、そこに居たのはヤカだった。
手にはコンビニの袋が握られており、袋からは500mlペットボトルジュースのキャップが顔を覗かせている。他にも駄菓子やら何やら色々と。頼んだのはジュースだけだったはずだが、別に拘る必要は無い。そもそもコンビニへ買い物に行ってもらうのは、ヤカを部屋から追い払うための、ただの口実だったわけだし。
「帰ったよぉ」
「そんな勢い良くドア開けたら危ないでしょ。壁に穴が開いたらどうするの」
ドアと壁に挟まれた少女の事は光速で置き去りにして、そんな事を不機嫌そうに述べるリコ。
「やぁやぁ、ごめんなさいよっとぉ」
コトン、とコタツテーブルの上に袋が置かれ、横倒しになった袋から中のペットボトルジュース1本が、半ば露出する。同時にドアが閉められ、サンドイッチになっていた少女の姿が露出した。少女は顔を抑えてうずくまった。かなり痛そうだ。心なしか肩を震わせている。恐らく半泣きだ。声を上げないだけ大したものだ。
「随分と早かったじゃない」
ヤカの居る手前、彼女に視認不可能な少女に対して話しかけるわけにもいかない。可哀想だが放っておく事にした。
「初めは普通に歩いていたのですがぁ」
「ほう」
「何時の間にか全力疾走でした」
「…………さいですか」
何の理由も無く突然全力疾走してしまう高校生女子。それがヤカだった。小学生か! と心中で突っ込む事など、今更の事である。
そんな事は重々承知の上であり、しかし正直、自重してくれ、と思わざるを得ない。せっかく、あの正体不明の少女から色々と有益な話を聞けると思ったのに。少なくとも、あと10分は大丈夫な計算だったのだが。
そんな考えが表情に出ていたのか、ヤカは笑って、
「善は急げと申しますぅ」
と、自分が悪い事をしたかの様に言い訳した。
「う…………いや、なんていうか、ごめん」
コンビニへの往路とコンビニからの復路を急ぐ事、あるいはその行動に内包される諸々の目的に対して、果たして善は含まれるのだろうかと疑問に思う部分は無きにしも非ずだが、取りあえず謝っておいた。個人的な理由でヤカに買い物へ行かせた挙句、上手く行かなかったからと言ってその責を問う様な…………そんな最低な事をしてしまう所だった。
心中で手を合わせて頭を下げておいた。すいません、なんかほんとすいません。
「あうぅ…………顔面が痛かったり痛くなかったりするよ…………」
さっきまで凶悪な気配を放っていた少女も、その雰囲気が最初に感じた通りのそれになり、激痛を堪える様に鼻を押さえている。
「なんで、こんな蚊に触った程度の衝撃で、こんな痛みが奔ったり奔らなかったりするの…………」
扉の慣性に従うままに、壁に顔面を強打すればそれなりに痛いと思うのだが、少女にはそれがとても意外な事の様に感じているらしい。だがまあ、超常の存在である少女に対して、世界の法則がどの様に働いているかなど、理解の及ばない所では有るが。
ヤカに視得ない様に、そして聞こえないように、
「なんていうか…………強く生きなさい」
全く慰めにならない言葉を、リコは呟いたのだった。
コタツテービルの上に広げられた歴史の教科書、そしてポテトチップス。メバチマグロサーモンマヨネーズ味という新発売の商品らしい。製作者の意気込みは感じられるが、何か残念な思いを感じずには要られない。味が普通なだけに尚更だった。
ノートを広げて、教科書を片手に真面目に勉強しているリコとは対照的に、ヤカは絶賛妄想中だった。ヤカはたまに現実世界から精神を分離させて想像の世界にダイブする事がある。つまり勉強から逃避してファンタジックな何かを妄想しているのだった。
「ねぇ、ヤカ。いい加減に勉強しないと、明日ヤバイわよ」
「んぅー…………」
再び後ろに身体を倒して、コタツの足の間をゴロゴロとし始めた。カタンカタンとコタツが揺れて、ノートの字も振動している。凄い視辛い。
「ちょっと、止めなさいよ」
その動きを、リコは自らの足でヤカの足を挟んで無理矢理止める。不自然な体制になってしまったので、背中が辛い。
「あぅ…………」
長い黒髪が物凄い状態で身体に絡まったヤカは(結構ぞんざいな扱いをしているのに、全く痛む様子が見られないあの髪は驚異的だった)、床に唇を付けて、それでもさらに回転を試みていた。しかし、ある一定以上は動けないらしく、なんだか痙攣してる様に視得る。
「あぅぅ……………………」
諦めたのか、力尽きたかのように動きを止めた。その姿は、先ほど顔面を強打してからうつ伏せになっている真白き少女とシンクロしていたが、この2人は互いの存在を認識していない。それが妙な可笑しさを醸し出していて思わず噴出しそうになるが、なんとか堪えた。
「…………ほら、勉強」
右足の指先でヤカの横腹当たりを突付きつつ、左足はその背中に乗せる。豊満ではあるが引き締まったヤカの肢体は、しかし意外に柔らかくて気持ちが良い。
「うひぃ……………………」
「ちょっと、変な声出さないでよ」
「リコが変なところ突っつくからだよぅっとぉ…………」
ヤカは身体を起こして、ポテトチップスに手を伸ばした。パリッと音させて、肘を付いた。
「私さぁ、あんまり歴史の先生好きじゃないんだよねぇ」
「可奈先生? 結構人気高いと思うけど」
凛としていて格好良い。男子にも女子にも、教師の間でも評判の高い美人教師だ。リコも好きな方だ。
「皆はねぇ、そういうかもねぇ。でも、なんかねぇ…………えーと、なんていうかなぁ」
「何よ」
喉元まで出掛かっているのに、しかし出てこない。そんな感じだった。
そして、
「えーと、アレ。そう、ジャネット・ジャクソン」
「シンガーソングライター!?」
恐らく唯我独尊と言いたかったのだろうが。そんな事が判ってしまう辺り、あの先生との印象が一致しているというか…………まあ、詰まりは、さすが幼馴染と言った所なのだろう。
詰まり、その教師とヤカは、なんとなくタイプが似ているという事で、だからヤカの言いたいことも分かるのだった。
「同属嫌悪って言うしね」
「へぇ、なにが?」
そういう事は、本人は往々にして気が付かないもので、首を傾げている。もしかして、教師の方もヤカに苦手意識を持っているのかもしれない。その理由に気が付かないままに。授業中、ヤカはその教師にほとんど問題を当てられる事が無いし、寝ていても注意すらされないからだ。今度、真相を確かめてみるのも良いかもしれない。
「嫌いだからって、勉強しない理由にはならないでしょ。ただ面倒臭いってだけじゃないの?」
「うぅ…………リコが冷たくて厳しいよぅ。北極に住むペンギンが寄り集まるように温めて欲しいよぅ」
意味は分からなかったが、取りあえず北極にペンギンが居ない事を指摘するべきだろうか。
「あ、トイレ行って来る。私トイレ行って来るぅ」
そしてこの発言である。自由奔放な幼馴染である。唯我独尊である歴史の教師と合わないのも、やはりこの性格のせいかもしれない。
立ち上がって、パタパタとドアまで走って行き…………、
「あ…………」
リコは呟いて、うつ伏せに倒れている真白き少女の両腕を思い切り引いた。倒れている位置からして、またドアに挟まれそうな勢いだったからだ。
「がふっぐふぁっふぅぅあぁ」
引っ張ったと同時に、なんだか凄い声を出した少女だった。ごめんなさい。
ドアが閉められて、少女が顔を上げた。
「お前達2人とは究極的に相性が悪い」
曖昧な言葉を好んで使っているらしい少女が、珍しく強く断言した。まあ、これほど散々な眼に遭っていると、そう思うのも仕方が無いかもしれないが。
「いやぁ、なんというかごめんね、ほんとに」
「んむ? 何か勘違いしてたりしてなかったりするのかもしれないけど、本質の問題を提起しているのであって、ドアに挟まれたり床を引きずられたりした事を言ってる訳では無いのだし」
「そ、そう」
そんな事を言われると、本当に気にしているのか気にしていないのか分からなくなってしまうでは無いか。もしかしたら、少女は皮肉を言っているのかもしれないが、さて、その辺りの判断は非常に難しかった。
「で、アンタって結局なんなわけ?」
「だから…………使い魔だって言ったりしてるし」
頬を膨らませて言う様子は、やはり先ほどの件を良く思っていない証明か。
「じゃあさ、誰の使い魔よ」
ヤカの入れ知恵だが…………別に知りたいわけでは無かったが…………使役する存在が居ての使い魔らしい。この少女が使い魔を自称する以上、それを使役する何者かが居るはずなのだ。そして、そいつはリコの事を知っている。送り込んで来たわけだから当然だ。
「ふん…………別にどうでも良いでは無いか」
「まさか、白いおっちゃんじゃ無いでしょうね」
昨日、エリーの家で出合った超常の存在を思い出す。少女が先ほど見せた凶悪な気配。その存在感は昨日出あった穏やかな人物とはかけ離れていたが、根本の所で何か似ている気がしたのだ。
「…………お前が誰の事を言っているかは知らんが、我を使役している存在は、そんな親しみ易そうな人間では無い。むしろ外道だ」
それより、と少女は言った。
「早く契約を結べ。そのために我は来た」
「……………………?」
疑問が一瞬頭を過ぎったが、少女の差し伸べてきた手に遮られる。
この手を握ることが契約とやらに直結するのだろうか。それは不明瞭な領域に侵入する事に等しく、躊躇するには十分な理由だった。
その躊躇を見て取ったか、少女は笑った。
「護ってやるぞ。出来る限りでな」
眼を細めて、凶悪な意思を持って、
「あの、死を運ぶ災厄からな」
それが誰の事を指しているのか瞬時に理解して、リコの心はしかし、まだ迷いの中に居た。
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真白き少女に襲い掛かる不幸。
大統領のスタンド能力ではありません。
かなり更新の時間が空いたのに、話は全く進んでいないっていう感じです。