進級してひと月半。ようやく校内が落ち着きを取り戻してきたころ、中間試験が来週に迫っていた。
部活動停止期間ということもあり、放課後の校舎はとても静かだ。泉水子は、もう恒例となっている深行との試験対策のため、生徒会室へ向かった。
ホームルームが長引き、少々遅れてしまった。深行に謝ろうと急いでドアを開けた泉水子は、あっと息をのんだ。
(深行くん、眠っている・・・?)
いつも生徒会室をねじろ代わりにしている眼鏡コンビの姿はなく、深行がひとり、机に突っ伏していた。
なるべく音を立てないよう気をつけながら、隣にそっと座る。穏やかな寝顔はすうすうと規則正しい呼吸を繰り返していて、きっと夜遅くまで勉強をしているのだと思うと、起こすのは忍びなかった。
泉水子の面倒を見ながら自分の勉強もしているのだ。負担をかけてしまっている自覚はあった。
自然に起きるまで、先に問題集を進めておくことにする。どうして起こさなかったのかと怒られるかもしれないけれど、それでもいい。この静かな時間を守ってあげたいと、そんな気持ちにかられた。
しばらくノートにシャーペンを走らせていると、深行が「ん・・・」と身じろいだ。そのまま目を開けるかと思われたが、また小さく寝息を立て始めた。
そのまま、なんとなく見つめてしまう。
(そういえば、深行くんの寝顔なんて、あまり見たことがないかも)
あまり、どころか、初めてではないだろうか。一緒に帰省するときも、深行は飛行機や車の中では寝ないし、鈴原の家でももちろんうたた寝などすることはない。
逆に自分は・・・と考え、戸隠でいただいたフルーツカクテルのことを思い出してしまい、必死に頭の隅へ追いやった。あの時どうやって布団に運ばれたかなんて、今でも考えたくない出来事だ。
両手を頬に当てて熱を逃がしながら、黒歴史をどうにか奥へ奥へと封じ込める。ふう、と小さく息をつき、それからあらためて深行を見つめた。
意外と長いまつ毛、すらっとした鼻筋。穏やかな寝顔はいつもより幼く見える。視線が唇まで移動して、急にクラスの女子が言っていた言葉が頭に飛び込んできた。
『今日はキスの日なんだって!』
その時はそんな日があるのかと思っただけだったのだけど。
(キス・・・)
胸がドキッと高鳴った。泉水子にとってキスといえば、あの約束のキスしか思いつかない。けれども――
泉水子は下唇を指でそっとつまんだ。当初はなにもなかったことにして過ごしてきたし(真響には自己暗示とまで言われた)、あれから1年以上経っているので、感触の記憶が薄れてきてしまっている。
(本当に、キスをしたんだよね・・・)
じっと彼を見つめる。自分でもどうしてしまったのかと思う。深行の唇から目が離れない。
気がつけば、顔を近づけていた。
数十センチ・・・数センチ・・・。深行はまったく起きる気配がない。
そしてゼロ距離になったとき、泉水子は軽く唇を押し当て、すぐに離れた。
自分の唇に指で触れる。
「そうだ、こういう感触だった」
小さくつぶやいたところで、ハッと我に返った。
(わ、私・・・今なにをした!?)
顔が沸騰しそうに熱くなり、泉水子は口を押えて立ち上がった。
頭の中がいっぱいいっぱいでぐるぐるする。完全にパニックだ。
このままでは、深行が起きた時に平常心を保てる自信がない。飲み物でも買って頭を冷やそうと、泉水子は物音を立てないよう、迅速にこの場から抜け出した。
「あれ? 鈴原さん、今日は勉強しないの?」
生徒会室に向かう眼鏡コンビに出くわし、泉水子は飛び上がった。
「いえ・・・あのう、ええと・・・。相楽くん、うたた寝してしまっているので、飲み物を買ってこようと」
「へえ、あいつでもそんなことあるんだ」
星野と大河内が笑う。声をかけられたときはギクッとしたが、彼らが来てくれたことで、泉水子は救われた気持ちになった。二人きりだったらどうなっていたことか。
きっと深行は泉水子の様子を訝しんで、問いただそうとするだろう。購買に向かいながら、泉水子はホッと胸をなでおろした。
そのころ、泉水子が出て行った後の生徒会室では。
「・・・心臓に悪すぎるだろ・・・」
耳まで赤くなった深行が、机に突っ伏したままつぶやいていた。
* * * * *
長い髪を洗うのに時間がかかるため、深行の部屋に泊まる時に泉水子は、彼の後に入るようにしている。
しっかりと髪を乾かし、あとは寝るだけなので、三つ編みは少し緩めに編み込んだ。
「深行くん、お風呂のお湯・・・」
お湯を落としたことを告げようとリビングに顔を出すと、深行はラグの上で横になっていた。
片腕を枕にし、スマートフォンを持った手はお腹の上に。ケータイをチェックしながら、そのまま眠ってしまったらしい。
どうしたものかと泉水子は一瞬逡巡した。寝るのならばベッドのほうがいいだろうけど、それにはまだ早い時間である。起こしたことで目が冴えてしまってもいけないので、もう少しこのまま寝かせておいてあげようか。
そう結論づけ、風邪をひかないよう、タオルケットをふわりとかけた。ケータイを手からそっと抜き取り、テーブルの上に置く。
(疲れているのかな)
人脈を広げるためにゼミを掛け持ち、たくさんのレポートにアルバイトにと、深行はいつも忙しそうだ。本人はそれが苦ではないと言っているけれど・・・。
深行が頑張っているのは泉水子のためだと思うと、胸がきゅうっと苦しくなる。いつも平気そうな顔をして、たまには甘えてほしいのに。
彼の少し癖のある髪をなで、泉水子は深行の隣に寝そべった。寄り添うと、あたたかくて心地いい。ボディソープの香りがして、深行の匂いだと思ったら、なんだか触れたくなった。
手を伸ばして、そうっと抱きつく。すると深行はこちらを向いて、泉水子を抱きかかえた。起こしてしまったのかとドキッとしたが、気持ちよさそうに目は閉じたままだ。
穏やかな寝息が額にかかる。眠るときはたいてい抱きかかえられているので、無意識に癖が出ただけなのだとホッとした。
あまり深行の寝顔を見ることがないので、まじまじと見てしまう。そもそも体力が違うからか、ベッドを共にすれば必ず泉水子のほうが先に寝てしまうし、朝は走り込みに行くので、すでに深行の姿はなかったりする。
それが少し悔しいなあと思って見つめていると、深行はまた身じろいだ。
ああ、これは。泉水子がいることで寝にくいのかもしれない。あたたかくて離れがたいけれど、ゆっくり休んでほしいと思っているのだから、本末転倒だ。
くれぐれも起こしてしまわないよう、静かに深行の腕から抜けようとして、
「ん・・・」
むずかるような声とともに、今度は後ろから抱きかかえられた。
お腹に腕が回り、ぎゅっと抱き込まれる。吐息が耳元に触れ、泉水子はぞくりと肩を震わせた。
(どうしよう・・・)
寝ぼけているのか、深行がやわやわと腰やわき腹をなでてくる。
「や・・・ん、ちょっ・・・」
ゆるゆるとまさぐられて、自然と息が乱れてしまう。その緩さが妙にもどかしくて、余計に熱が高まっていく。
もうこれは起こすしかないと意を決したところで、首にちゅっと吸いつかれた。
「やぅ・・・っ」
思いのほか大きな声が漏れ出て、口をぎゅっと押さえた。恐る恐る顔を後ろに向けてみれば、深行と目が合った。
「え・・・」
存外顔つきがしっかりしていて、寝起きとは思えなかった。泉水子はぱちぱちと瞬いた。
その顔がおかしかったのか苦笑している深行に、泉水子はハッとなった。もしかして。
「お、起きていたの?」
「そりゃ、起きるだろ」
「い・・・いつから」
「鈴原が隣に来たときから」
その言葉を聞いた瞬間、泉水子の頭にかーっと血が上った。
「ひ、ひどいよ、寝たふりをするなんて。最低」
あまりの羞恥に、ふんっ、と顔を背け、深行の腕から逃れるべくもがいた。けれども、しっかりと抱き込まれていて、びくともしない。
「寝込みを襲ってくれるのかと期待してたんだが。前科もあることだし」
ひょうひょうとした様子で耳元に囁かれ、泉水子は真っ赤になって振り切るように頭を振った。くやしい、くやしい。
「なにそれ! そんなこと、したことないもん」
「あるよ。高2のとき」
「ええ・・・? 高校のころって、そんな、」
ありえない、と言おうとして、記憶が一気によみがえってきた。
中間考査の勉強。誰もいない生徒会室。机で寝ている深行。長いまつ毛、規則正しい寝息、唇――
「起きてたの!?」
思わず振り向いて目にした深行の顔は、勝ち誇ったように笑っていた。
「怒った?」
けれど、その瞳は優しく愛し気に細められていた。
泉水子は身体を反転させて、深行に向き直った。むうっと睨みつける。
「・・・もう、いい」
恥ずかしさも限界を突破すると不思議なもので。なんだかもう、すべてに開き直った気持ちになり、泉水子は伸び上がって深行にキスをした。
「・・・っ」
寝込みを襲われるのを待っていたと言うのに、深行は顔を赤らめ驚いた。
少しだけ意趣返しできた気分になった泉水子は、反撃を受ける前に深行の腕から抜け出したのだった。
終わり
いつもご訪問・拍手・コメントどうもありがとうございます!!
寝たふりむっつり深行くん(笑)
高3のほうは、実は「ん・・・」と身じろいだ時に目が覚めたのですが、(見つめられてる・・・?)と咄嗟に寝たふりをしてしまい、そしたら泉水子ちゃんが顔を近づけてきて、(え・・・、いや、そんな・・・まさか・・・)――! という感じでした(笑)
そして大学生になってリベンジしようとしたら・・・お約束展開へ☆
ところで原作の、キモチワルクないか → 最低 と言われて深行くんはどう思ったんだろう
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「キスの日」に書いた小話です。
高校3年 → 大学生設定。